どこからどこまで?


 今回はちょっと長いです。時間のあるときにどうぞ。

 ポイ捨てってしたことあります? 生まれてこの方一度もしたことないって人、いるのかな。普通にいそうではあるけれど、自分はまあ、あるんですよね、これが。いまでも明確に覚えていてたまに思い出すんですが、中学生の頃、一度ポイ捨てをしてしまって、なんか、家に帰ってからめちゃくちゃに後悔したんですよね、それを。なんでそんなことしたんだろって。以来、ポイ捨ての類はしなくなりました。なのでまあ、自分が覚えている限りで言えば『一度だけしたことがある』ということになるのですけれど、どうなんでしょう。単純にそれ以前の幼い頃のことなんて忘れちゃってるだけなのかもしれません(というか多分そうで、一度だけってことはないと思う)。でもまあ、件の一件以来は一度もしたことがないはずです、恐らく、記憶の限りでは。……なんてことを、何故いきなり話し始めたのかというと、ここ最近に考えていたことへ話題を持っていくための前振りです(と言っても、あまり関係ない)。まあせっかく質問箱(リンク先)も置いてみたことだし、なんか、そういう『不特定多数へ向けて意見を訊いてみる』みたいな記事があってもいいかなーって(いま来ている分はまだ回答を保留して(=考えて)いる)。といっても、返信が来ることにあまり期待はしていなくて、いやだって、好きな作家さんの漫画のアンケートすら書いたことないですし、僕。質問箱を使ったことがなかったって話をどこかでしたように思いますけれど、結局、ああいった類のものを自発的に送ろうという気に自分はあまりならなくて。だから、他人にも同様に期待しないっていう、そういう話です。自分がやりもしないことを他人へ求めるのは良くないですしね。「まあワンチャン来たらいいか」程度のそれです。はい。……冒頭の話へ戻りましょうか。冒頭の話っていうか、そもそも最近の自分が何を考えていたのかというところから話したほうがいいように思うのでそうするのですけれど、いや、別にそんな込み入った話という訳でもなくって、ざっくりと言えば『理性と感情って明確に二分できるものなのか?』というのが最近のテーマです。理性の対義語は感情。感情の対義語は理性。それ自体はまあ良いとして、両者を確と区別することは果たして可能なのかって、そういう。なんていうか、いや、これは苦言を呈したいわけでなければアンチテーゼというわけでもなくって、ただ単に事実としてそうであると述べたいだけなんですが、ありがちじゃないですか? その理性がどうこう感情がどうこうっていう主張。……もっと言えば、『人間は須らく理性的であるべき』という行き過ぎた主張ですけれどね。いや、まあ、それ自体は別にいいんですよ、どうだって。どのような主義思想を持っていようが、それは個々人の自由なので。わざわざ食いついたりしませんし、否定したいとも思いませんし、どうでもいいので。でもまあ、だからと言ってそういった主張を目にして何も思わないわけではなく、それがだから『理性と感情って明確に二分できるものなのか?』という疑問だったりします。感情で動く人間を極端に忌み嫌う人たちがいるじゃないですか(昔の自分も大概そんな感じだった)。それこそ、想起することさえ憚られるような言葉を幾つも並べ立てて。……いやまあ、分からなくはないんです、そういうのも。別に、深淵を覗き込むような悪趣味は持ち合わせていないので、Twitter なんかで流れてきた炎の断片を流し読む程度の接点しかありませんけれど。たとえば、つい最近もありましたよね。某数年に一度の大会で何かしらを担当する作曲家の過去がどうこう、みたいな。そこでまあ『感情的』になって某大会の何かしらへの批判を並べ立てたりする人たちだとか、あるいは似たような名前の作曲家が風評被害を受けているって話もありましたけれど、だからまあそういったことを『感情的』にやってしまう人たちだとか。そういうのをみて「うげー」と思うことは、まあ別にそれほど気を病むようなことでもない、おおよそ健全な反応であると、少なくとも自分はそのように思いますけれど。しかし、まずもってそれらを『感情的』と断じてしまってよいのかという疑問は当然あり(だから、わざわざ二重括弧をつけてある)、それはそれとして、そういった人たちへ向けて「『理性的』であれ」と声高に主張する(思うことは自由。でも、それを原因に他者を一方的に否定したら同じ穴の狢じゃない?)人たちの『理性的』が意味するところは一体何なのだろうっていう。いちいち訊いたりしませんけど、そんなこと。面倒ですし。だからまあ、こうやってブログなんかへ適当に放流してそれで満足するんですけど。……ああ、というか完全に忘れていましたが、冒頭の話へ戻りますね。その、ポイ捨ての話ですけれど、ちょっと前に早朝の鴨川デルタへ散歩へ行ったんですよ。深夜帯にあの辺りへ散歩へ行ったことのある人なら分かるだろうと思いますけれど、結構な夜遅くでも人(おそらくは大学生)が集まって騒いでるんですよね、デルタって。いやまあ、それ自体はどうでもいいんですが、そういった集団のすべてが十全なマナーとモラルを兼ね備えていると期待するのはちょっと夢をみすぎっていうか。もちろん、そういう人たちだっていると思いますけれど、でもまあ、全部が全部そうではないっていうか。早い話、早朝のデルタってめっちゃくちゃにゴミが散乱してるんですよ。当然、日にも依りますけれど。飲みかけの缶ビールとか、空のペットボトルとか、煙草の吸殻とか、花火の残骸とか。稀にライターなんかも落ちていますけれど、そういう、人工的な廃棄物? 要はポイ捨て。そういうのがあちこちにあって。そして、その、早朝に散歩へ出た日もそうでした。入ってすぐ手前にあるベンチの脇に缶ビールの残骸があって、いつも座っているベンチの足元には空のペットボトルと煙草の吸殻。だからってまあ、それらを拾おうとしなかった自分も同罪みたいなものなので、だからポイ捨てをする人たちを非難できる立場に自分はありませんし、そもそもそんなことをするつもりも、したいとさえ思っていませんが。デルタへ入って、いくつかのゴミを視認して、「まあ、こんなもんよな」と思って、それでおしまい。別に何もしない。そうやっていつものベンチまで歩いて、座って、しばらくの間は朝日を眺めて、そうしているうちに一人の女性がデルタへ入ってきて。軍手にゴミ袋を携えて。そのとき初めて「ああ、この場所も掃除する人がいるんだ」と思って。いや、普通に考えたら当たり前のことで、実際、日中にデルタへ行っても早朝ほどのゴミを視認することはあまりなく、自然の浄化作用にも限度があるでしょうから、ということは誰かが片づけをしているということで。自分はその日が初めての遭遇でした。デルタって上の公園と下の石床ゾーンと先端とで三つの領域に分けられるじゃないですか。その女性は先端のほうから清掃を開始するっぽくて、自分は何となくその背中をぼけーっと眺めていて。なんていうか、なんだろ。何であの人が片づけなきゃいけないんだろうな、と思って。その、ポイ捨てされたゴミ群を。いや、昔めっちゃくちゃ嫌だったことがあるんですけど、あの、小学校とかでよくやらされる地域ボランティアみたいな。要はゴミ拾いなんですけど。公園とかへ行って、そこに落ちているゴミを拾うっていう。あれ、意味わかんなくないですか? いや、そう、そういえば当時からめちゃくちゃポイ捨て嫌いだった気がしますね、自分(その割に、中学のころに一度やってしまっているんですが……)(他人のことを言えない)。「なんで、顔も名前も知らない人間(しかもマナーがなっていない)の尻拭いを自分たちがしなきゃいけないの?」って。いや、尻拭いだなんて語彙は持っていませんでしたけれど、当然ながら。でもなんか、そういった理不尽に対するある種の怒りをめちゃくちゃに感じていたなあと、その女性の背中を眺めながらふと思い出して。……小学生のボランティアだったら労ってもらえるじゃないですか。担任の先生だか校長先生だか町内会の人だか知りませんけれど、誰かしらには、恐らく。でも、じゃあその早朝に現れた女性を労ってあげる人って誰かいるのかなあと思って。そこへゴミを捨てた当人たちからの感謝が来るわけでは当然なく、というか、後片付けをする人間の存在を察知できる想像力があればポイ捨てなんかそもそもしないはずだし、まあそんなもんでしょって感じで。同じだなあと思って、小学生の頃の自分と。だからまあ、結局、自分はその女性の手伝いをしたんですけど、その朝。というのも、どこかの誰かの不手際をその女性一人だけが背負う理由はどこにもないはずで、だったらそこに居合わせた自分が『それを手伝ったほうがよい』のは明確だし、それはそれとして、以上で述べたような理由から『それを手伝いたい』と思ったこともまた事実で。……とまで振り返ったところで生じる疑問として、これは『理性』に基づいた行動なのか、あるいは『感情』に基づいた行動なのか、果たしてどちらなんでしょう? 『自分も手伝うべき』という理性? 『自分が手伝いたい』という感情? そのどちらでも構いませんけれど、いずれか一方のみに基づいた行動であると、本当にそう断言することができるのかなって。『人間は須らく理性的であるべき』と過激な主張を行う人々(『過激な』という修飾語は必要)をみて、だから自分がよく思うのは「人間の行動は『理性』と『感情』の両者に依存しているものが殆どじゃない?」ということだったりします。それがだから「理性と感情って明確に二分できるものなのか?」という疑問の正体で。まあ絶対に表じゃ言いませんけれど、面倒なので。……その、たとえば「感情的にしか動けない人間は愚か」という主張を行う人がいたとして、そういう人って恐らくは『自分は理性的に動いている人間だ』という自負があるのだろうなと思うんですよ。でないと、そんなことを声高に唱えるはずも(それによって他者を不必要に攻撃するはずも)ないじゃないですか。でも、少し前の記事でも書いてましたけれど、その、『自己申告による評価を自分は信用していない』みたいな話。それと同じような話で、だからまあ有体に言ってしまえば、『自分は理性的に動いている人間だ』という自己評価が『感情』に基づいていないという根拠はどこにあるのだろうって。自分はまあ、そんな風に思ったり思わなかったりします。絶対に言いませんけど。面倒だし、どうでもいいので。……みたいなことを今日のバイトへ行く途中に考えていて、一つ思ったこととしては、恐らく自分とそういった人たちとで『理性』と『感情』の定義が異なるのだろうなあって。自分の傾向として、これは以前の記事で書きましたけれど、その、物事の境界線を排していくというものがあるような気がしていて、だから『理性』と『感情』の境界もまた曖昧になっているのかもと思ったり。つまり、『理性』と『感情』の所在を明確に二分するような定義があるのかもという期待があって。所在っていうか、個人が起こす行動との因果関係かな。「これは『理性』によるものだ」、「これは『感情』によるものだ」って、ゴミを袋に分別するときみたいに、機械的に区別できるような定義があるのかもしれないっていう、そういう。……どうなんでしょうね。ちなみに、上のようなことを書きましたが、正直に言えば自分はちょっと懐疑的です。自分の考えが絶対的に正しいという沼には陥りたくないので、修正パッチ用の隙間はちゃんと残しているつもりで、だから色んな人の意見を聞いてみたいなと思ってもいる(冒頭の質問箱はそういう意図)(ただし、自分からは絶対に切り出さない)のですけれど、とはいえ、そんなものはどこにも無いんじゃないかって気持ちがやっぱり強くて。……なんだろうな。社会という存在の解釈は様々があるだろうと思いますが、自分は『感情の集合体』という風に捉えている節が若干あって。それはつまり、人間が究極的には感情的にしか動けないから、というバイアスが自分には備わっているせいだろうと思いますけれど。そして、人間という生命体がそんなだから、規則だとか法だとかの『機械的な理性』の制定が一般には求められるんじゃないのかなって、そんな風に思っていて(もっとも、その制定も運用も人間のなすところですけれど)。いや、真面目な話、誰だって一人くらいなら殺せるんじゃないですか? 二人以上はまあメンタルの問題なんかもあるのであれでしょうけれど、時と場合が整えば一人くらいはやってしまいそうな気がします。人間という生命体に対してそう考えているということは、もちろん自分自身もまたそのような存在であると評価しているわけで。たとえばの話、自分ともう一人がどこかの誰かに拉致されて、どちらかだけを助けてやると言われたとしたら、自分は間違いなく自分を助けようとします。実際、そのような状況に陥った際にそういった判断をするかはその瞬間の自分に依りますし、本当にそのような状況が実現したら様々な葛藤があったりなかったりするのでしょうけれど、でも、何ら一つの危険も身に迫らない思考実験の上でなら、自分は間違いなく『自分を助ける』という風に答えます。だって、自分の知っている自分ならそうしないはずがないから。……まあ、別にそんな究極的な状況を仮定しなくたって、人間なんて基本は感情に支配された生き物じゃんって認識が個人的にはあって。程度の差はあるでしょうけれど、些細なことで喜んだり悲しんだり、怒ったり笑ったり、そういったことをできるのが人間なんじゃないのという気持ちがあって。もちろん自分は、それらにばかり囚われて不必要に他人を攻撃するだとか何だとか、そういった行為を許容する立場を取っているというわけではなくて。そういったものに対して、強い言葉で書いてしまえばある種の嫌悪感を抱くような人間ではあります、自分もまた。でも、だから、その矛先を『感情の否定』に向ける理由が分からないって話で。だって、その矢って全部自分に返ってくるじゃないですか。「感情的にモノを語る人間は愚かだ」。その主張は「感情的にモノを語る人間は不愉快だ」という感情に基づいたものではない? 「事実を述べたまでだ」。それは「『感情的にモノを語る人間は愚か』という一意見を事実ということにしてしまいたい」という感情に基づいたものではない? 堂々巡りですよ、こんなの。……いやまあ、どこかで堂々巡りになると分かっているから、こういうことを表じゃ絶対言わないようにしてるんですけどね。別に喧嘩したいわけじゃないし、というか、何度も言ってますけど、どこの個人がどれだけ過激な主張をしていようがまあどうだっていいんで……。その人の人生ですし、博愛主義というわけでもないので、自分は。いやでも、まあ、それはそれとして考えはするわけですよ。だから、「そういった人たちは自己の『理性』と『感情』とを、どのようにラベリングしているのだろう」って。手の内にある『理性』と『感情』とのそれぞれに、どのくらい深い理解を宿しているのかなって。だから一度そういうことを訊いてみたいって好奇心は正直かなりあるんですけど、でもしないんですよね、面倒なので。いやまあ自分は他人と話をするのが、というか他人の話を聞くのが結構好きで、どうでもいい話でも大切な話でも、何でも。相手が普段どういったことを考えて生きているのかを知るということが、自分にとってはかなり重要なテーマになっていて。だから、いくらだって話に付き合いたいと思うんですけど、でもまあ、この世の多くの人はそうでもないんだろうなあって理解もちゃんとあって。もちろん、大概面倒な自分に話して聞かせてくれる人たちはちゃんといて、幸いなことに。だから、自分の周りの人間をみてそういうことを言ってるんじゃないよって弁明をしたかっただけなんですが、だから単純に生まれてから二〇と数年生きてきて感じたこととして、深いところでの話し合いを好まない人も当然いるよなって。というか、自分と異なる考え方の人間と会話することを避ける人も当然いて、それが悪いってことでは全くないんですが、そういった人たちと自分みたいな人間との相性って体感かなり悪くて。こっちがどれだけ話に付き合うつもりでも、向こうにその気がなければ意味がないって話で。無理に付き合わせるようなものでもないですし。だからまあ、街頭アンケートばりに知人であれば誰彼構わずといった具合でこれまでに書きまくったような話をするのかといえば、まあしないんですね。だから、不特定多数へ向けて公開するブログに色々と書き殴ってみて、そうして自分と同じような人間(こういったどうでもいいことを延々と考えてしまう人間、という意味)を探し出そうと、そういう側面はあります、割と。なんか、最後のほう、関係ない話しちゃったな。洗濯機を回し終えるまでの繋ぎとしてちょっと書こうと思って書き始めたんですが、もう 1 時ですよ。洗濯機を回したのは 20 時前。どうして? ……バイトへ行く途中に考えていたことは他にももっとたくさんあったんですが、とりあえず今日はここまでにしておきます。普通に書きすぎた。