悪夢


 以前も書きましたけれど、自分はいわゆる『自己申告による評価』をほとんどあてにしていなくて、なんていうか、「自分はこういう人間です」みたいなやつ。他人のそれがそうなのだから況や己をやという感じで、だからなんか、そういうのを避けてるんですよね、普段は、なるべく。こう、自分の性質的な部分にはあまり触れないようにして、そこから得られる情報だけを残すようにしてるっていうか、その、自分がどういう人間であるかというステップを一つ飛ばしにして、その先にある情報だけを記述するっていう。「こう思った」、「こう感じた」、「こういうことを考えている」みたいな、正しいか正しくないかはさておき、いずれにしたって『そうである』だけなら自由なので、仮に自分が読み手側であったとしてもそういう文章なら比較的読みやすいかなって、そういう気持ちがそれなりにあって。だから、自分の身の上話は、もっと言うと性格的な部分というか精神的な部分というか、だから、あれやこれやと普段から書いている諸々を自分に感じさせている根本的な原因? そういうものについてはなるべく隠すようにしているという話で、いや、だから、信じられなくないですか? そういうのって。「自分は善人です」という人間がいれば、自分はその背後にナイフのような刃物を想像してしまうし、「自分は悪人です」という人間がいれば、自分はその裏側に善意のような何かの存在を疑ってしまうし。良いも悪いも、だから信用ならないっていうか、信用してないっていうか、全然。自分にはそういう意識があって、だからこういう場ではそのような話を避けているって話で、だって自分が読み手ならそう思うから。そうとは言っても、まあ、たまにちょくちょく書いてはいるんですが、折をみて。今回もそんな感じのあれになりそうです。

 さっき超絶級の悪夢をみて。数分前。それで飛び起きて、いま。中途半端な睡眠時間で目が覚めて、三時間半くらい。全身がやけに汗まみれで、気持ち悪いし、寝付けないし。しょうがないって言って起きて、でも、できることも特になくて、だって頭は眠たいままだから。とはいえ、たぶん一時間くらい経たないと再入眠できなくて、だったらその間に何をしようって話で、それでいまブログを書いてるんですけど。本当のことを言えばブログでなくともよくて、というか普段だったら多分音楽を聴いて一時間をやり過ごすだろうし、実際いまも音楽はずっと流してるんですけど、でも、なんていうか、そんな気分でもないっていうか。そんな気分でもないってのは違っていて、それじゃ足りないって感覚? なんだろう。吐き出してしまいたいんですよね、要するに、その、悪夢の悪夢たる所以、みたいなものを。一刻も早く自分自身から切り離してしまいたいっていうか、楽になりたくて。なんだろ、Twitter でも書いたんですけど、……というかこのブログでも何度か書いたことがあるような気がしますけれど、その、悪夢から目が覚めた瞬間の行動パターンって人それぞれだと思うんですが、自分の場合、まず自分の居場所を疑うところから始まるんです。別に珍しいことでもないと思うし、同じようなタイプの人は沢山いると思うんですが。「ここは現実? 本当に自室のベッドの上? それともまだあの夢の続き? どっち?」っていう。そういう風に考えている段階で、そこが夢の続きだったことなんていままでの人生で一度としてないんですが、でも毎度毎度ここからのスタートで。まあ有象無象の悪夢ならまだ一人でどうにでもできるんですけど、本当に最大級の悪夢をみたときには自分はよくその事実だけを「悪夢をみた」って風にツイートするんですよね。これ、どういった動機で行動へ移しているのかというと、仮にそのツイートに誰かしらからリアクションが来たとするじゃないですか。いいねでもリプライでも、なんでも。そうやって自分の端末に通知がやってきたら、それは『いまの自分が認識している世界に、少なくともこの誰かは存在している』という情報に等価なわけで、それがだから『いまの世界が現実である』という風に頭で解釈されて、なんていうか、言ってしまえばそういった安心感を求めての行動っていうか。基本的に一人でも生きていけるな―って思いながら毎日過ごしてるんですけど、本当にダメになるタイミングがあるにはあって、最上級の悪夢をみたときがその一つです。普通の悪夢だったら別に何ともって感じなんですが、ごく稀にマジでクリティカルな悪夢の降ってくることがあって、そのときだけ本当にダメになるっていうか。なので、僕がそういうことを Twitter で話していたら、「ああ、こいつまたビビってんな」と思いつつでもいいねを押してもらえると僕が救われます。それがないとベッドの上から一切動けないんだよな、本当に。

 証拠を出せと言われたら「このブログを最初から最後まで、全部読んでください」と自分は答えますが、自分の根本にある考え方の一つとして『相対化』というやつがあると、そういう風に自分は自分のことを理解していて。一つとしてっていうか、それだけしかないんですけど。相対化。『友人と恋人とを同じ風に考えている』とか、『ルールは自分だけが守っていればいい』とか、『何か一つが絶対的に正しいだなんて信じたくない』とか、『嫌われたくはないけれど、それほど好かれたくもない』とか。共感性って話もありましたけれど、あれだって、要は自分と他人との間にある境界線をどれだけ曖昧にできるかって話で、だから、なんていうか、そうやって区別を排そうとする傾向? そういう感じの何かが自己の奥底にあるような気がしていて。……冒頭のほうでも言いましたけれど、こんなの全然信用ならないっていうか、自分のことほど客観的に理解できない対象ってなくて。他人を映すときですら僕たちの目にはバイアスがかかってしまうのに、それが自分となれば尚更で。だから、「お前がそう思ってるだけだろ」と思いながら読んでもらって大丈夫です。自分もそのつもりで書いています、いま、これを。ともかく、あくまで自分の理解に沿っただけの解釈を述べることにすれば、自分にはそういった傾向があって、自分はそのことを『相対化』と呼んでいます。たとえば自分の信じる正義があったとして、たとえば誰かの信じる正義があったとして、仮にその二つがどれだけ食い違っていても自分はもう一方のそれを否定したいとは別に思わないし、思えないし。これも多分どこかで書きましたよね。その、「自分のそれが正しいと信じたいから、誰かのそれも正しいのだと信じることにしている」みたいな話。だから要するに、絶対的な真実なんて存在しないと自分は思っていて、信じていて、そういった価値観に従って生きているから、だから他の誰かが何を正義と定義していようがどうだっていいっていうか。『好き』の定義が食い違っているからって、それが何なんだって話もしましたっけ、たしか。これもそうですよね、各々が好き勝手な『好き』を定義すればいいじゃんって思うし。『生きる意味』がどうこうって話も書いたような気がする……。挙げればキリがないですけど、いやだから、そのくらい、このブログのいたるところに『相対化』の考え方が散りばめられていて。この性格に自覚的になったのがいつの頃だったか、そこまでは覚えてないんですけど、なんていうか、こうやって自分の考え方みたいなものをアウトプットする場所を作って、だから自分自身のことについて色々と考えるようになって、それで初めて知ることのできた性質の一つであることには間違いがないんですが。でもまあ、自分が知らなかったというだけで、一度気がついてしまえば昔っからずっとそうだったって、そんな風に思ったり思わなかったりという感じですけれど。なんだろ。これも「お前が勝手に言ってるだけ」で片づけてもらっていいんですが、その、共感性という概念をどう定義しているかということについてさっき少しだけ触れて、そのときは『自分と他人との間にある境界線をどれだけ曖昧にできるか』という能力という風に言いましたけれど。これ、だから要するに、『共感性が高い』って『自分と他人との区別ができない』と同義なんですよね、ほとんど。ああいや、もちろん、この定義を採用するとするならば、という前提の上での話ですけれど。自分は恐らく感情移入がそれなりに得意なほうで、……というのはそれが他人と比較することのできないものである以上、だからどれだけ事実そうであったって「お前が勝手に言ってるだけ」の域を出ることはないんですが。鬱陶しいくらいの注釈をつけて文章を書いていますけれど、でも、これくらい添えておかないとどうしたって誤解されてしまいそうだなって思うので許してください、その辺りは。誤解だけは絶対にされたくないし。……話を戻すと、自分は恐らく感情移入がそれなりに得意なほうで。架空の人物相手でも、現実の人物相手でも。何なら非生物が相手でも。道ですれ違った人の心情を推し量るということをほとんど無意識で常にやっている、って話を以前何処かで書いたじゃないですか。あれ、人物相手のときほど過剰ではないもののポスターや信号機、店舗裏のダクトやゴミ箱にだって適用される性質で、その場合は感情を察するというより、その対象を通じて物事の流れだったり、周囲の様子だったり、あるいは現在の自分の思考を透視するっていうか、そういう溶媒チックな使い方がなされるんですけど。自分の場合それが常で、外を歩いているときはもうずっとそうで。自分は外を歩くとき大概イヤホンを付けるようにしてるんですが、これが何故かというと、音楽で意識を満たしておけばそういった余計な情報が介入してこないからっていう、音楽が好きというよりはそちらの理由のが大きくて。これはまあ、高校生くらいの頃に気がついた対処療法なんですけど、それはいいや、別に。話が膨らみすぎないうちに適当にまとめておくと、自分の思考の根底には『相対化』というやつがあるっていう、それだけの話です。なんだろう。なんていうか、想像力を正しく使いこなせてないって感覚がめちゃくちゃあって。想像力という言葉を僕が知ったのは、たしか大学へ入って二年目のことだったと思うんですけど。お互いに所属も何も違う複数人から「想像力がある」と評されたことがあって、だから自分は自分のことを「ああ、そうなんだ」と理解しているというのが現状で。いや、本当かどうかは知りませんけど、全然。まあでも、他人による評価を大切にしたいと思ってもいるって話をどこかで書いたと思うんですけど、たしか。だからまあ、事実がどうであるかはさておき、忘れない程度に留めてあって。その、なんだ、想像力と呼ばれる何か? それと『相対化』の考え方とどちらが先なのかは流石に判断できませんけど、なんか、両者の間に妙な相互作用が働いてしまっているような気がしていて。想像力だとか『相対化』だとか、いまの自分はこうやってそれぞれの性質に名前を付けて、それがどういった機能を持っているのかということを経験則的にある程度知っているから、だから問題なく動けていますけれど、高校生時代まではこれがめっちゃくちゃなストレスになっていたって話もたしかどこかに書いたはずで、それがだから『正しく使いこなせていない』という話なんですけど。暴走してる感じ、常に。なんていうか、起動するスイッチみたいなのがあればいいのにって思うんですよね。その、「ここは想像力を働かせなきゃいけない場面だからちょっと頑張ろう」とか、「いまは気を抜いてても別に問題ないかな」とか、そうやってオンオフを選ばせてほしいっていうか。任意じゃなくて強制なんだよな、基本的に。自分の意思で切り替えられるのなら、だから今日みたいなことがあってもやり過ごせるんだろうなって思うんですけど。……ああいや、もうなんか、色んなことを書きすぎてもう今更書かなくていいかなって気になりつつあるというか、そろそろ眠れそうなくらいに気がまぎれたかなって感じで。だからまあ別にここで止めてもいいんですけど、どうしよ。

 ……他の人が自分の弱点のようなものに対してどれだけ自覚的なのかなってことが少し気になっていて。たとえば、その、食べ物とかだったら分かりやすいじゃないですか。アレルギーなんかはさておき、一度食べてみて口に合わなかったらそれは苦手だってことだし。次からは多分その素材が使われた料理は避けて、それで解決っていうか、そんな感じですけれど。でも、精神的な面での弱点ってどうなんだろうって。どのくらい正しく理解できているんでしょう? 自分たちは、自分たちの弱点を。表面的に捉えたらそう、という領域ではなくて、もっと深くの、致命的な部分まで正確に。『それを持ち出されると、自分は明確に傷つく』と言える何か? 自己憐憫だとか被害妄想だとか、そういうんじゃなくて。他人にされて傷つくってことじゃなくて、いや、事実としてはそうなんですが、そうじゃなくて、なんだろ。自分で自分を精神的に殺す方法? みたいな。だから、精神的な自害の手段っていうか。『他人にされて嫌なこと』じゃなくて『自分でも他人でも、誰にされても嫌なこと』。本当の意味での弱点って多分そういうもので、なんていうか、他人に易々と打ち明けられるようなものでもないと自分は思っていて。他人に教えられるような領域のものって、だからそれは恐らく前者の領域に留まっているようなもので、弱点であるのは変わりないものの自分が口にする分には平気っていう、ただ他人に言われるのは嫌ってだけのこと。そういうのはまあ、人間関係をやっていれば色々と見聞きしますけれど、だから、本当の意味での弱点って誰のそれも知りやしないなって。知りたくもないですけど、その誰かを精神的に殺す方法なんて。いやだから、その、他の人たちがそういった致命的な部分にどれだけ自覚的なのかって、それもまた同様に知らなくて。どうなんでしょう。どうですか? 自分は、自分のそういう致命的な弱点を一つだけ知っていて。知っているっていうか、これもまた「お前が勝手にそう思っているだけ」に過ぎない、ただの自己分析ですけれど。でも、「こればっかりは自分でやっても多分死にたくなるな」っていう、そういうのが一つだけあって。……どうだっけな。明言してはいないだけで、このブログに散りばめられまくっている言葉を繋げていけば辿り着けそうな気もしていて。だって、もう結構な数の記事を書いていますし。そういう話をした記憶もあるにはあるので、だから多分載ってます、どこかには。それはさておき。ともかく、まあ、自分はそういう、なんだ。メンタル的にマジでヤバいウィークポイント? みたいなものを一つだけ理解していて、理解しているつもりになっていて。で、ここで最初の話に戻るんですけど、たまーにみるんですよね、その手の悪夢を。その、絶対に訪れてほしくない一瞬を的確に再現してくる、そういう夢をみるんですよ、ごく稀に。いや、もう、それが本当にヤバすぎて。最初のほうで悪夢をみた後のことについて書いたとき、「いや、ビビりすぎでしょw」と思った人がもしかしたらいるかもしれませんけれど、いや、もうマジでヤバいんですって、本当に。夢ってなまじ現実感があるじゃないですか。現実に存在しうるという意味ではなくて、『夢をみている最中にそれが夢だと自覚することはできない』という意味で(明晰夢はみたことがなくて。みてみたい気持ちはかなりあります)。だからもう、ベッドの上で目が覚めた瞬間の絶望感って半端なくて。「自分、さっきまで何してた?」って。いや、だから確かめたくもなるじゃないですか。その、いまの自分が認識している世界は本当に現実なのかどうかって。現実世界ではその悪夢のようなことは絶対に起きていないんだって、そういう確信がほしくなるっていうか。そこで頼るのが Twitter というのはどうなんだと自分でも思いますけど、まあ手っ取り早く他人からのリアクションが得られるツールですし……、そこはまあ、はい。……いま良い感じに眠くなってきたので、このまま寝ることにします。いやー、もう、マジで勘弁してほしい。虫が大量に出てくる夢とか、全然可愛いほうですよ、本当に。昨夜もなんだかホラゲチックな夢をみたんですが、たしか。それもまあ悪夢って感じではなかったし。でも、いや、だから人がマジで精神的に死にかねないような夢をみせるのだけはやめろよなって、神様みたいな人がもしいるんだとしたら、ちょっとした恨み言を言いたくもなりますね。