シミュレーテッド


 こんなのは本当に何の意味もない思考実験ですけれど、この世界が作り物じゃないってどうしたら証明できるんでしょう? なんだろ、ざっくりと言ってしまえば、つまり自分たちが生きているよりも高次の空間がこの世には存在して、天国だの地獄だのではなくていわゆる『社会』のような高次元が。自分たちの生きている世界はそれよりも低次元なのだという可能性、とどのつまりシミュレーテッド・リアリティに他ならないのですけれど、それがあり得ないということを説明するのは、たとえば現代技術があとどのくらい発展すれば可能になるんでしょう? ああ、いや、別に真面目に考えてるってわけでもなくて、今日の散歩中にふと考えていただけのことなんですが、でもまあ、ふと考えていた程度のことだとしてもこうして文字へ起こしたくなる程度には関心のあるテーマではあります。『トゥルーマン・ショー』だとか『マトリックス』だとか、実はどちらも観たことがないので一度くらいはちゃんと確かめておきたいなと思ってるんですが、自分たちの世界があれと同一でないということの証明。少なくとも僕が生きているうちには実現されないだろうなと思っており、というよりはむしろ『この世界はシミュレーションされたものである』ということの証明のほうが先に見つかってしまいそうな雰囲気すらありますよね。……みたいなことを昔考えていて、そういう小説を書いてみようかなと話を練っていた時期があったのですが、それはさておき。なんていうか、ああ、これまでの話もここからの話も話半分で聞いてほしいっていうか、というのも本気でそんなことを考えているわけではないので。とはいえ、あながちふざけてるってわけでもないのですけれど。なんだろ、数日前にも書いた『仮想現実との区別がつかなくなってきた』の話にも通じるところがありますけれど、いまや技術の発展はすさまじく、鮮やかなグラフィックとだだっ広いオープンワールド(という用語は正しくないかもしれないけれど、とにかく舞台が広大という意味)を兼ね備えたゲーム作品なんてそれほど珍しくもなくなってきて。人工知能が何なのか自分は全く何一つも知りませんけれど、そっちの分野もここ数年で大きく発展してきているはずで。携帯端末やラップトップだって、どんどん高性能化と薄型化を繰り返してきていて。なんだっけ、技術的な演算性能の上限値を更新するために考案されたのが量子コンピュータなんでしたっけ? いやもう、本当に専門外すぎて適当なことを言っていますけれど、ともかく、なんていうか、自分が小学生だった頃と比べてももはや別物の世界になってしまっているような気がするといいますか。別に昭和だとか大正だとかまで遡らなくたって、一〇年前ですら異世界じゃないですか、いまとなっては。この世には物理法則というものが存在しているので、まあどこかで頭打ちになるんだろうなとは思うのですが、それはそれとしてこの勢いで技術が更新され続けていった場合、自分たちと同じような『人格』が生活をする『仮想空間』をシミュレートすることも、もしかしたらできるようになるんじゃないかなーなんて、そんなことを思ったり思わなかったりします。仮にそうなった場合、ああ、あくまで仮の話です、実現可能であるかはさておきましょう。仮にそうなった場合、この世界で『低次の世界』をシミュレートすることが可能であるということですから、ならば『高次の世界』がこの世界をシミュレートしているという仮説もいよいよ一笑に付すではいられなくなってくるのでは? と思ったりするわけです。『この世界はシミュレーションされたものである』ということの証明のほうが先に見つかってしまいそうな雰囲気すらある、と書いたのはそういった意味で、というのも要するに大枠としては悪魔の証明じゃないですか、これって。『シミュレーションされたものである』という主張の根拠はいくらでも見つけられると思うんですよ。先にも述べたように、人類がそういった技術を手に入れてしまったとしたら、同じような技術を持っている高位の存在を疑ってもいいような気がしますし。一方で『シミュレーションされたものではない』という主張はどのように補強してやればいいのかなって。快感も苦痛も希望も絶望も、いずれにしたってその根拠たりえないような気がしていて、だってゲームのキャラだってダメージを受けたら被ダメボイスを発するじゃないですか、いかにも痛そうだという声で。自分たちもそうやってプログラムされているだけと決めつけられてしまったら、そのことに対して論理的な反論をすることはおよそ不可能のように思えるというか。いや、まあ、前提自体がバグってるので論理も詭弁もないんですけどね、そもそも。とはいえ、やっぱり二つの主張は全く対等でないというか、実際どうなんでしょう。こんな話、別に誰にだってしようとは思わないので誰に訊いたこともないんですが、『シミュレーションされたものである』と『シミュレーションされたものではない』の二択で「いずれか一方が将来的に証明されると仮定したら、どちらがより相応しいと思うか」と尋ねられたら、他の人たちはいったいどちらを選ぶのだろうかということには多少の興味があるようなないような。マジでいまめちゃくちゃへらへらしながらこの文章を書いているので、不愛想な文字列から真剣な表情を想像してしまった人々には申し訳ないんですが、あの、どうか真に受けないでくださいね。「宇宙人っていると思う?」くらいの話題なので、こんなのは。ただまあ、流石の自分でも宇宙人の有無を話題にあげるような真似はしないものの、シミュレーテッド・リアリティについては、日頃からよく意味のない会話している相手になら一度くらい訊いてみてもいいかもなと思います。思いました。思ったので、いまそのうちの一人に LINE を飛ばしました。善は急げと言いますし、まあ、今更意味の分からないメッセージの一つや二つ届いたところで、「またか」以上のことは思いやしないでしょう。意味のない会話を交わせる数人は、そういう点でかなり信頼しています。それはさておき。とはいえ、じゃあ仮に『この世界は高次の存在によってシミュレーションされたものである』ということが証明される世界線がどこかにあったとして、それで何かが変わるのかといわれたら、大局的には何も変わらないんじゃないかって気はしてるんですけど……。いや、どうなんでしょうね。仮にその高次存在がこちら側にアプローチをかけてきたとして、「貴方がたは実は全員プログラムされた存在だったんです」と疑いようもない証拠と同時に突き付けてきたとして、「だから……?」以上の気持ちにならなさそうっていうか。正しくは『なれなさそう』ですけれど。スケールがあまりに大きすぎて、感情と理解の両方ともがついていけないような気がします。いやでも、それはそれでちょっと面白そうな世界ですよね。なんだろ。なんていうか、いまだって死ぬときにはどうせ全部なくなるんだから、人生でどれだけ成功しても無意味みたいな風潮があるじゃないですか。……本当にありますか? あるいは、『死ぬ間際になって、それらが何の意味もなかったんだと気づかされる』みたいな表現のほうが適切でしょうか? なんでもいいんですけど。いやでも、とはいえ僕たちはこうして現に生きているわけで、地位だの名誉だの学歴だの年収だの所属だの個性だの、そういったものに縛られてしまうのはもう仕方がないことだっていうか、そういったしがらみに囚われたままでいることの大義名分としての『人生』というものもあるような気が個人的にはしていて。だったらその前提、つまり自分たちが全員『生きている』のだという常識が『シミュレーション』によって覆ってしまったら、そのあとはいったいどんな世界になってしまうんでしょう? って考えたらめちゃくちゃに面白そうじゃないですか? 何も変わらないんじゃないかと思いましたけれど、でもなんか、いまの僕らじゃとても手の届かないような主義や思想、価値観なんかが、それはもう地球でさえも持て余すほどに溢れかえってるんじゃないかって、そんな可能性もあるわけで。だとしたらそれはとても面白いことだし、でも、やっぱりというか何というか、もしかすると思いのほか『人間』の定義はブレなかったりするのかもと思うと、それはそれでまた一興というか一驚というか。自分たちが当たり前のように抱えている喜びとか痛みとか、僕らを僕らたらしめているそういった感情のすべてが、どのレベルの前提までなら覆しても成立するのかなって、そういうことにちょっと興味があるのかもしれません。たとえば過去をやり直せるような世界になったとして、じゃあこれまでに犯したたくさんの『過ち』を正す、もといそもそも無かったことにしてしまうような行動を起こすのかどうか、とかも大体同じような話ですけれど。……と、ここまで書いたところでおよそ一時間が経過してしまったので、今日はここまでにします。まだもう少し書きたかったんですけど。六月に入ってからブログが毎日動いているということに気づいている人が、もしかしたらどこかの世界にはいるのかもしれませんが、ここ半年くらいあまりにも動かしていなさすぎたので、考え事をアウトプットすることのリハビリも兼ねて、その日適当に思いついた内容を約一時間で書けるだけ書いてみる、というのをやっています、実は。六月中はとりあえず全日更新できたらいいなーと思ってるんですが、どこまで続くのかは正直かなり怪しいです、気分屋なので。来週の水曜頃には飽きているかもしれませんし、まあ、その程度のあれです。深い意味はありません。