20200906

 

 最近考えていた諸々について書きます。

 

 そういえばちょっと前に絵を描いたんですが、割と上手くやれた気がするので貼ってもいいですか? いいよ。ありがとう。

 自画自賛ポイントは中央左端のポールと水面。

 ネタばらしをすると、これは自分で撮影した写真を下に敷いての半トレスなので、0 から 1 を生み出したというわけではないです。以前にも一度こういう感じの何かを描いたことがあって、その際の反省点を活かせたかな~という感じの出来にはなりました(具体的には、線で輪郭を決めるのではなく、陰で輪郭を想像させるということ)(線を引きすぎると画面がごちゃごちゃするので)(階段の辺りや中央左端が顕著)。といっても、その反省点を思い出したのが橋の欄干を描き終えた辺りだったので、その周辺には反映しきれていない感が否めませんが……。

www.amazon.co.jp

 なんていうか、上の CD みたいな感じのイラストがそもそも自分は好きで、今回のはその辺りを露骨に意識しつつ寄せてみました、という裏話があります(他にも、アニメーションだと原画が好き)。現実の光景に数分違わず同じとはいかずとも、あの日の自分たちが見た景色を他の誰かに少しでも追体験させられたらいいなあというモチベーションで描いていたんですが、それはそれとして、無から有を生み出すのもいつかはやってみたいという気持ちです、いま(できるのか?)。善処。

 

 月を凝視したことってありますか。いや、自分も凝視というレベルでじっくり眺めたことは一度としてなく、望遠鏡で覗いてみたりということもまたかくのごとしではあるんですが、散歩してるときなんかに偶然にも月が綺麗にみえていたらその方角を見上げて歩く、みたいなことはします。誰でもやりそう。そのレベルの話です。そのレベルの話なんですが、月の模様ってどうやっても『ウサギが餅つきをしている図』には見えなくないですか? 人によっては見える? 見えますか? 自分はそのようには見えず、考えることといえば精々「なんか明るくなってるところと暗くなってるところがあるな」程度のものです。月を眺めるたびに「今日こそウサギに見えるだろうか?」と考え、「いや、どうやってもウサギにはならんだろ」と首を傾げるまでがいまやテンプレです。いや、本当に。

 月の模様についてなんて取りたてて話したことも未だかつてないので、もしかしたら自分のすぐ近くに「いやいや、あれはどう見たってウサギだろうがよ」という人がいるのかもしれませんけれど、実在・非実在はさておき、そのように見ることのできる人の眼を自分は割と羨ましく思っています。眼っていうか、頭……比喩的な眼? 心って言うんですか、こういうの? 自分にはそうは見えないので。参考文献 Wikipedia 曰く、遅くとも飛鳥時代にはそういった風習がみられたとのことですが、それが真であると仮定すれば、自分の眼と飛鳥時代の人たちの眼は随分と異なってしまっているのだなあ、という気持ちにもなります。そんなのは至極当然のことなんですが、でもやっぱり、ちょっとだけ寂しいですね。

 

『正しいものをみたい』。それ自体が自分の根本的な欲求であることは恐らく間違っていません(ここでの『みたい』は『見たい』ではない)。なのですが、自分と同じ『正しいものをみたい』という思想を共有しているらしい第三者の言葉に違和感を覚える、という事態がつい最近に発生して、それは一体どうしてだろう、みたいなことを考えていたりしました。補足しておくと、自分はその第三者のことをかなり好意的に捉えており、具体的な人物像などはほとんど知らないものの、文字通りの意味で何のステータスも知らない誰か、というわけではありません。なので、というと変な感じがしますけれど、なのでその相手に食い違いを覚えたというのが自分としては割と不可解な事態で、不可解というか、まあ言葉のチョイスが下手なのは今に始まったことではないので見逃してください。

 それでまあ、考えました。現時点で明確な答えを持っているわけではないので、踏み込んだことは何一つも言えないのですけれど、何となく抱いている結論めいたものとしては「多分、『正しい』の意味が違う」です。『正しい』という言葉には様々な意味があるかと思うのですが、たとえば自分が「ルールは常に正しくあるべき」と言ったときの『正しい』は『正当』という意味です。『正義』でもよいです(正義が正しいとは云々という話はさておいて)。「ルールは常に正しくあるべきで、正当であるべきで、正義であるべき」。これは自分の主張したいことに相反していません。一方で「正しいものをみたい」と言ったときの『正しい』は、自分の場合だと『正体』という意味であるような気がします。いや、『正体』という言葉は実はあんまり良くなくて、これだと多大な誤解を生みそうですが、より正確を期すのであれば『本質』という言葉があるような気が一瞬だけしました。が、嘘です。これもやっぱり少し違います。この『正しい』を言い換える平易な用語を、いまの自分はどうやら持ち合わせていないらしい、というのが一先ずの結論で、それでも言えるのは、少なくとも『正当』とはかけ離れた意味であるということです。自分が本当に見たいものは、別に間違っていても良いものなので。そして、先述の第三者は恐らくこの『正しい』を『正当』の意味で用いており、そこで食い違いがあったのかなという推理がいま手元にある全部です。

 

 サークル(910)を抜けました(卒業とか何とか、良い感じの日本語に読み替えてほしい。ここにマイナスの意味はない)。Twitter でも言及したんですが、人間関係にまつわるアレコレでなし崩し的な策を講じるのは誠実でない感じ(強い言葉を使えば、卑怯な感じ)がするので、現代表に一応話を通してからの今朝でした(通したと言っても、寝耳に水を注ぎ込んだ感じだけど)。かまってちゃんがしたいわけでは決してないので、この件について深く言及したいとはそれほど思わないものの、何も語らずに消失した末に憶測が憶測を呼んでも全く本当に露ほども面白くないので、理由はある程度書いておこうと思います。

 そもそも去年の春先、つまり三回生に上がった頃から『遅くとも四回生の11月までにはやめる』ということ自体は、本当に実行へ移すかどうかはさておき大体決めていて、その決断がようやく下されたのが今年の九月だった、というのが事実の半分です。なので今日になってそれが実行に移された理由は、サークルに嫌気がさした、とかではなく、一年以上前から決めていた、が正しいです。夏コミだったり NF だったりゼミだったり院試だったりと様々があり、色々と考えていた割には随分と先延ばしにしてしまいましたけれど、後期が始まるとまたも先延ばしにしてしまいそうだったので、タイミング的にもここがちょうどよかったというわけです。現状のサークルそのものに嫌気がさしたというような理由ではないということは、いま一度断っておきます。ここが何よりも誤解されたくない部分なので。

 追伸ですが、今後、校正的なそれで人手が足りないといったことがあれば、声を掛けてもらえれば喜んでお手伝いします(スケジュール次第だけど)。……ということを現校正班代表に宛てて書き留めておきます。