20200514

 

 自分、勉強中だろうが何だろうがニコ動なり Youtube なり、あるいは iTunes なりで動画やら音楽やらを常に耳に入れつつ作業をする(何もしていないときでも音楽は大抵鳴っている)という生活スタイルを形成しているのですけれど、いまちょうど Abema で『禁書目録』のアニメが無料公開されており、そういう次第で久しぶりに通して観たんですが、昔好きだったものっていまでもやっぱり好きなままなんだなあということを再確認し、現在はバイトが半凍結状態なのでかなり劣悪な経済状況であるものの、その後好転した頃合を見計らって原作を追いかけなおしてみようかなと考えていたりいなかったりします、いま。新約も上里勢力が出てきた辺りまでは読んでいたのですけれど、そういえばどうして読まなくなったんだっけか……。元々熱心に追いかけていたというわけでもなかったので、自分の中で自然にフェードアウトしていったという気がします。まあ当時はアニメの視聴環境とかも身近になかったので。ことライトノベルで言うなら、自分が追いかけていたシリーズって灼眼のシャナ物語シリーズくらいです、多分。しかしまあ、『こと』とつけたところで僕はほとんど全くと言っていいほど文学と縁のない人生を歩んできているので、ライトノベル以外に追いかけていたものなんてないんですけど。もう少し文学の世界に馴染んだ人生を送ってくればよかったみたいなことを思う瞬間は、まあこれも全くと言っていいほどなく、とはいえ身の周りにいる人たちが、たとえば作曲サークルにいる数人なんかがふとした瞬間に自分の好きな作品とか作家とかシリーズとかの話をし始めたときに、「こいつマジか?」という気持ちになることはあります。誉め言葉です。なんていうか、みんな、本とか普通に読むんだなあ、みたいな? 自分があまりに無知すぎるので何も言えないな。

 

 こう、普段から読書めちゃくちゃしますって人に一度訊いてみたいことがあったりなかったりするんですが、なんか、どういったモチベーションで読んでるんだろうっていう。いやまあ好きな作家とかの作品とかなら概ね理解も及ぶのですけれど、好きな作家の本だけは読んでますって人は恐らく読書家とかではなく、それは単に好きな作家の本が好きなだけの人なのではという認識が自分の中には(あくまで自分の中にだけ)少なからずあり、でも、いるじゃないですか、なんていうか、見境なくってわけじゃないですけど、マジで何? ってスピードで積読を消化してる人って(そもそもそんなに積読が溜まる時点で凄い)。単純に自分の中にはそういった指向性みたいなものがほとんどないので、普通に気になるというか、興味深いといいますか。なんだろう、あとは spotify とかもそうなんですけど。いや、というかこっちのほうが本題っぽいのかな。色んなアーティストの色んな楽曲をものすごい勢いで消化する人々って、あれはどういったモチベーションなのだろうという気持ちがやはりあり、自分も音楽はそれなりに聴いているほうだと思うんですが、しかし自分の場合はアーティストや楽曲がほとんど固定されていて、自分はまあそれで充分なんですけど、でもそれってさっきの例じゃあないですけれど、『音楽を聴くのが趣味です』とは到底言えないよなあ、みたいな。他人がそれをそのように称していても別に何とも思いませんが、自分の心持としてはそんな感じで。いや、ここまで来ると別に読書とか音楽とかに限らないような気がしてきますね。具体的にはソシャゲとかアニメとか、そういったものも全部そんな感じという気がしてきています。幅広く触れられるという人、まあ読書は自分から少し遠い場所にあるのでアレですけど、たとえば音楽なんかで言えば自分は割と尊敬(?)していたりして、それは自分じゃ出来ないからなんですけど……。良いものはこの世にもっとたくさんあるはずで、その点、自分は自分の知っている世界の中でしか生きていないなあという気持ちです。だからまあ、外の世界にある素晴らしい何かしらを僕に共有してくれる人のことは大好きです(都合がいい)。最近だと、何だろう。jersey club かな。

 

 雲ができる瞬間ってみたことないな、と先日大学の図書館かどこかへ向かう途中に思いまして。なんだ、ペットボトルかなにかで疑似的に雲を生成するみたいなアレなら、実際として目にしたことがあるかまではその実不明としても、まあみたことがあると言っても差し支えはないかなと思うんですが、いやそうではなく、空に浮かんでる雲です。生成の仕組みとかは理科の教科書で知っているものの、あれが生まれる瞬間ってみたことないなーって。それをいえば、太陽が動いているところもみたことがない。気づいたら東から南の空を経由して西へ沈んでいるけれど、本当に気づいたときにはそうなってるし。むかし、小学生とかの頃、体育の時間で運動場を使うときに、授業の最初と最後とで自分の影の傾きが変わってるのがそこそこ不思議だったということを思い出したり思い出さなかったりし、いやまあ、それだけなんですが。開花の瞬間も映像でしかみたことがないし、流れ星も実は未だかつてみたことがないし、自分、みたことないものばっかりだなという気持ちになったのが数日前の昼下がりのことです。

 

 自分は曲がりなりにも数学科の人間なので普段は数式なんかをぶん回して色々とやったり逆にやられたりしてるんですが、なんていうか、知識ってつまんないなと思うことが結構あって、というと結構な語弊がある気がしますね。学問って、少なくとも理学について言えば、未だ説明のつかない既存の現象に関する十分な理解を得ようとする営みだと思うんですけど、それ自体は相当に価値のある行為だと自分は思っていて、そうでなかったら理学部という名の集積所へは来てないんですが、それはそれとして、なんだろうな、答えなんて知らないのにまるで知っているみたいな気にさせられるのが何か気持ち悪くて。数学とかだとよくあるんですけど、事実としては知っているけど証明は知らない、みたいな。じゃあ証明読めよって話ですけど前提知識が多すぎたり、あるいは文献が古すぎてどこを探しても見つからなかったり、でもどうやら正しいらしいという情報だけは持っていて、それがなんていうか気持ち悪い。これが数学なら一応自分の専攻領域ではあるのでまだしも、物理とか生物とか化学とかになってくると、当たり前の話ですけれど最早手が及ばないといった感じで。なんかこう、特に生物とかの話題は世間でもなされがちじゃないですか、遺伝子がどうこうとかって。でも遺伝子とか、少なくとも自分は「そういうものがあるらしい」という程度の雑な認識で、その実何物であるのかを全くもって把握していないのにも関わらず、知識の上ではあたかも既知の単語であるかのように記述されているというのが変な感じで、他の人はそんな気持ちになることってないのかなあとたまに考えたりします。こんな話、普通に面と向かってすることはほとんど、というか全くないので、ここでの「他の人は」は単純に訊いたことがないだけです。

 

 未知が既知になる瞬間って少なくとも自分にとってはまあまあ楽しいそれで、勉強はやればやるほど面白くなるし、一方でやればやるほど地獄をみるので一長一短ですけれど、一度知ってしまったら後戻りできないからつまらない、なんてことは全くなくて、だから知識がつまらないっていうのはそういう意味ではなくて、まあ結局、よく知らないものを知った風になっている状態が気持ち悪いっていう話で。なんだろう、逆にそれが一般的には外れた理解であったとしても、『これはそういうものなんだ』と自分なりの理解を伴って受け入れられているのであれば、それはそれでいいんじゃないかなって思ったり思わなかったりするんです。ちょっと話変わりますけど。だからまあ、たとえば、これは世間だとそういう類のものらしいからそのように認識しておこう、みたいなそういう、与えられた答えというか、そんな感じの。与えられた答えが駄目だって主張ではないんですが、そこに自己が伴っているか否かみたいな。そこら辺の境界線をどう判断するかは皆目見当もつきませんけど、たとえば、自分が本当に受け入れているものって多分誰に押し付けなくても構わないものなんじゃないかと自分は少し思っていて、なんだろう、分かりやすいところでいえば誰かの死とか? あとは諦めたものとかかな。なんていうか、そんな感じがしません? 僕はするんですけど。間違っていたとしてもちゃんと受け止めている人はその理解を他の誰かには求めないし、だって自分が分かってるから、「どうせ」なんて言う道理がどこにもないよなあ、っていう。なんていうかまあ結局、そこのギャップを感じる瞬間がそこはかとなく気持ち悪いという話でした。雲ができる原理を知っていることが、イコールで雲ができるということを理解していることになるのかっていう話、ではなかった気がしますね、多分。