『自由の校風』

 

 実際のところ、『自由の校風』って何なんでしょう? 僕はその言葉の指し示す意味が、あるいは状況が、具体的にはどういったものなのかよく分かってないんですが、それを振りかざしている人たちはちゃんと理解しているんでしょうか? いや、知りませんけど、でも、そういうのって結構ありがちな構図じゃないですか。憲法改正反対と叫ぶ人間のうち何割が憲法について(一般教養科目程度のレベルででも)学んだことがあるのか、またはそのつもりがあるのかと考えてみれば、そのような存在はまあ稀有で、全体の一割もいないんじゃないかなって気がしてきますし、実際、歴史的な事実だったり国際的な事情だったり政治的な推移だったりの様々を踏まえてそう唱えている人も大勢いらっしゃるのでしょうし、その可能性は全く否定しませんけれど、恐らく大多数の人間は多分感覚で動いていて、何となくで動いていて、結局その程度のものだよなあと思います。たとえばフェミニズムなんかもそうで、声が大きい人類に限って平等と公平の意味を履き違えていたり、そのくせ自己の正当性を信じて疑わなかったり、思想そのものの在り方に対して思うことも語ることも、あるいはその資格も僕は持ち合わせていませんけれど、しかし客観的な事実としてそうで、そうである傾向が高くて(声の大きい人間が目立つのは当たり前。これはバイアス)、だからこう、反思想というかなんというか、現状に異を唱えんとする人たちをみるといつも考えるんですよね。自分が何のために戦ってるのか、ちゃんと分かってんのかなあ、みたいなこと。

 

 話し合いで解決するようなことはこの世界のどこにも、小学校という狭い空間にさえ存在しないと僕は思ってるんですけど、それと同時に、話し合うことなしに解決するようなこともまた、この世界のどこにも存在しないと思うんですよね。正しくは、話し合おうとする姿勢、ですかね。どっちでもいいんですが、要するに、解決に向かってゆっくりでも歩いていければいい、というある種の妥協みたいなもの。というか、そもそもの話、自分が願った通りの大団円なんてものに到達できるわけは元よりなく、その時点で履き違えている人間が大多数というイメージを勝手に持っていますが、何かと何かが正面から対立している以上、存在しうるのは全員が等しく不幸になるバッドエンドだけで、誰も彼も笑顔で幕を下ろすハッピーエンドなんてご都合主義が現実にあるわけないんですよ。だって、全員を等しく不自由にして、そうして生まれた状態を僕らは自由と呼ぶわけじゃないですか。だから、何をどうしたところで手に入る変化は必ずどこかが間違っているものでしかないし、それでも構わないからいまを変えていこう、という姿勢こそが『現状に異を唱える』のあるべき姿なんじゃないかなあ、と思うんですよね。権力の前で駄々をこねるだけなら幼稚園児にだってできますし。

 

 この手の話題で毎度思い出すのが、あれです。いつかに聞いたたとえ話なんですが、とある街に腕利きの名医がいて、彼はまあ、結論から言えば飲酒運転で捕まるんですよ。しかしそれにも理由があってですね、彼はそもそも飲酒運転をするつもりなんて全くなく、普通にいつも通りの生活を送っていたわけです。勤務が終わって、家に帰ってきて、ちょっとお酒飲んで、みたいな。そこで運の悪いことに、急患の連絡がやってくるわけです。それも、近くの病院ではその医者でしか担当できないような病を抱えた患者が。そこで悩むわけですよね、医者は。ありとあらゆる方法を検討し、何度も繰り返し考えて、結局、自分が運転していく以外に術はないという結論に至るわけです。それで運転し、(たしか)事故を起こし、警察に捕まった。だから、結果だけみるならば、お酒を飲んだ医者が飲酒運転で捕まった、ということになります。彼は法によって正しく裁かれ、まあその先どうなったのかは知りませんが、ここで問題となるのは、この医者の行動は果たして正しかったのかどうか、です。どうですか?

 

 正しいか正しくないかでいえば正しくないのですが、しかし実際問題として、医者が車を運転しなかった場合、その時点で救急の患者は命を落とすことが確定してしまうわけで、そういう意味で、医者は医者として正しいことをしたとも考えられます。たしかそのときはそんな感じの回答をし、しかし完全には答えられず、後日、改めて自分なりに色々と考えて結論を出しました。当時、このブログにも書いたように思いますが、結論は、医者の行動は間違っていた、です。

 

 自分が抱えているある種の哲学の一つとして、ルールは絶対的で例外なんてない、というものがあります。頭が固い奴だとか思われそうですが、しかし、それがどんな決まり事であれ、決まっている以上は可能な限り準ぜられるべきと自分は考えます。医者の例の場合、たしかに医者が車を運転しなかった場合、救急で運ばれた患者が救われる可能性は潰えてしまうわけですけれど、それが即ち飲酒運転をしても構わないという理由には決してならないし、してはいけないと思うんですよね。ルールに例外はないので。普通に飲酒運転で捕まっている人はアウトだが、この医者は特例的にセーフとしよう、なんて曖昧な感情論を許すわけにはいかないんですよ。ルールは論理的であるべきなので。だから、僕の立場からみれば、医者の行動は間違っていました。正の余地なんてまるでなく、絶対的に、十対〇で。

 

 それはそれとして、という話がこの後に続くのですが、今度は別の状況を考えてみます。どういうことかというと、先述の医者と全く同じ状況下に自分が置かれたとしましょう。救急の患者という例がそぐわないのであれば、家族でも友人でも恋人でも、何でも構いません。さて、そうなった場合、果たして自分は医者と同じ行動を起こすだろうか? 最初に聞いたとき、この問いが二問目として設けられていました。自分が即答できなかったのは、先ほどの問いではなくこちらの問いです。

 

 当然ながらこちらも結論は既に出ていて、同じ行動をする、です。みたいなことを言うと、お前はさっきその行為を間違っていたと断定したじゃないか、と返されそうなんですが、だから、それはそれとして、なんですって。実際に一度目は即答できなかった自分が言うのもなんですけど、でも、こんなの迷う余地なんてほとんど皆無ですよね。その状況を正しく客観的に想像してみれば、少なくとも自分はその医者と全く同じ行動をとると思います。だって、そうしないわけがない。こんなのは正しいとか正しくないとかではなく、論理云々ではなく、もっと原理的な、それこそ感情論のように、どうしたいかだけで動かないと仕方がない場面。そう思うんですよね。

 

 飲酒運転は絶対的に悪だと思うんですよ。それ自体に例外はなく、ごみのポイ捨ても、信号無視も、速度超過も、全部悪です。反論の余地はない。黒寄りの黒。でも、それはそれとして、そうせざるを得ない状況みたいなものもあって然るべきで、というかあって、だから、そういうときはもう仕方ないじゃないって話で。それは開き直れという意味ではなく、自分はこれから法を犯すのだという事実をきちんと受け入れろという話であって、悪であることの覚悟をしろという話であって、だから、もし罰せられることになったならば素直に裁かれろという意味です。往生際の悪い犯人が出てくるミステリーって三流だと思うんですよ、そんなに出会いませんけど。悪であることが露呈したならばきっぱりと退く。それが出来ないなら法に逆らおうだなんて考えを起こすな、と自分は思います。

 

 やっと戻ってきた。『自由の校風』でしたっけ。あれ、自分は全くもって当事者ではなく、そのくせ彼らはやたら京大生を巻き込みたがるので単語自体はごく稀に耳にするのですが、懐古の類とはいったい何が違うのだろう、と思うことが結構な数あります。それは懐古が悪いという意味では勿論なく、そう思うという事実以上の意味は何一つもないのですけれど、実際、ほとんど傍観者みたいな自分からすればそうみえているという話で、だからといって躍起になっている人たちに対して思うことも感じることも特にありませんが、なんというか、そういった諸々全部が馬鹿げてるなあ、と思ったりもします。大学側の措置が一から十まで全部正しいとは露ほども思いませんが、しかし、少なくとも構内に何かしらの物体を設置し、それを大学側が迷惑だと判断した上の処分ということであれば、反論の余地なんてどこにもないだろうというのが正直なところです(ただし処分内容に関してはまた別の問題)。近年、京都大学の一部では大学 vs 学生という構図が生じており(自分の観測範囲ではそういったことは、ないとは言わないが多くはなく、真の意味で一部)、そういうわけで何かにつけて大学云々学生云々という論が生じ、Twitterやなんやという空間で語られるのですが、案の定というか何というか、今回も例に漏れずに出てきたのが『自由の校風』という言葉でした。

 

 自由のために戦うという行為そのものが悪だとは思わないですよ、別に。でも、何て言うんだろう、陳腐だなあ、と思う場面は少なくなくて、そうして語られ持ち上げられる『自由』は如何ほどのものなのだろう、という話です。先に話した医者の話を思い出すのはこのせいで、『自由』を取り返すために逆らいました、俺たちは自由のために戦っているんです、といった類の主張がどうにも受け入れられなくて、お前らが戦ってるのは学生の為でも大学の為でもなく自分の為だろ、と思っちゃうんですよね。つまんねえなあと思うし、幼稚だなあと思うし、なに勝手に正義の味方面してんだよと思う。マジで。自分が悪であることの理由を『自由』だなんて架空に押し付けるなって話。自分のために何かを成し遂げようとするって、それ自体は素晴らしいことだと自分は思います。ボランティアとか? ああいうのはよく偽善だって言われますけど(偽善という言葉の定義は汲んでほしい)、別にそれが社会的な損得勘定によるものだったとしても、結果的にいい方向へ動いているのならそれでよくないですか? 誰にも嫌われたくないから、誰にだって優しいとか。親切にするのは相手の為じゃなくて、自分の地位の為とか。エゴっていうんですかね。自己愛、みたいな。別にいいじゃんそれで、って気持ちです。自分が良いと思っているからいまのままでいい。自分が嫌だと思っているから現状を変えたい。理由なんてそれだけで構わないと思うし、逆にそれ以外の理由なんてほとんど信じられない。社会のためとか、世界のためとか、そんな綺麗事を鋳たような動機で自分本位の人類が行動を起こせるわけがなく、結局は自分がどう思ってるかだけで、それは間違ったことでも恥ずかしいことでもないと思うんですよ。なんというか、無駄に声が大きい人たちって、これは社会(あるいは概念的に大きな対象)のための戦いである、といった態度をとりがちなイメージがありますけれど、でもそうじゃないだろって。まあ、自分は少なくともそういう風に考えているというだけですが。

 

 まあ所詮は他人事なのでどうでもよく、彼らに言いたいことなんかも特になく、勝手にやってろ、って感じです。