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 カレンダー曰く今日で五月が終わるらしいんですけど(本当に?)、今月、ブログを全く更新しなかったなあと思いながら(これは本当)、いまキーボードを叩いています。理由は明々白々で曲作ってたからなんですけど、このままいくと六月中も今月と同じような感じになりそうで、それはまあ夏コミの原稿があるからって話なんですが、うーん、どうなんでしょうね。別にブログを更新すること自体に対しては何の意味も価値も見出してませんけれど、こうして文字に起こすことで自分と対話できる貴重な時間を削っているのだなと考えると、もう少し趣味の時間配分を見直した方がいいかもしれないという気になってきます。といっても、自分の性格上、そんなのは土台無理な話なので、まあなるようになるだろ、って気持ちですけれど(本当に?)。

 

 今回は雑記です。最近考えていたことを前後関係無視で書いていきます。

 

 新歓シーズンが一段落して、そろそろ一回生の顔くらいは記憶に馴染んできた頃合いなんですが、とはいえ、名前とかは未だに全く覚えられていません。覚えようって気がないだけ、と言われたらそれまでで、まあ実際そうなんですが、このままじゃよくないよなあと思いながら新入生に話しかけてみたりみなかったり、最近はそんな感じで生きています(述語が大きい)。来週末にあるイベントで多分それなりの数の一回生とは話せると踏んでいるので、いまはそんなに頑張らなくてもいいんじゃないという気持ちがある一方、そのイベントまでに離れられると困るからやらなきゃなあという気持ちもあり、だったら動いた方がいいなと思ったり思わなかったり。いや、時すでに遅しですけどね。もう五月終わるって。そういえば、とある新入生が、服屋みたいに一人でいるときに話しかけられたりしないから楽、といった旨のことを言っていて、なるほど、そういう立場も当然あって然るべきだよな、と再認識したりしました。元来、自分もそっち側の人間だったような気がしますし、そうなると、むやみやたらに話しかけるのもある種一方的なコミュニケーションに当たるのかなあという感じがします(その一回生がそういった意図では発言していないことは勿論そうで、自分がそう感じただけ)。まあ、それだけです。でも、来週末は色んな人と話せたらいいなあ、と思っています。年に数回のイベントだしね。純粋に楽しみ。

 

「死にたいなら一人で死ね」って言葉が大衆の口から飛び出してくるの、本当に終わってるなあと思うんですよね――と書き始めると何か誤解されそうで嫌なんですが、それに纏わるエトセトラがTwitter上で議論されていた故にこんな話を書いているわけではなく、あの事件の朝、それを知ってすぐに感じたことです、これは。他の人たちの意見とかは特に関係ありません。そこは履き違えないでください。

 いや、上の言葉、本当に最悪の限りだと思うんです。思いませんか? 思わないなら多分僕がいま会話をしたいと思っている層ではないので読み飛ばしていただいて構わないんですが、なんでしょう、Twitterで議論をしていた(本当に?)彼らがそうであったように、僕だって殺人行為を肯定するつもりは毛頭ありませんし、それ自体は糾弾されて然るべき非道な行いだと思いますけれど、でもそれはそれとして、言葉に対して非道だなんだという概念をあてがえるのか否かはさておき、その言葉も非道と最悪の限りを尽くしてるよなあと思うわけです。思いませんか?

 この話ももう四、五回書いている気がするのでもういいかなって気持ちもあり、それでも多分何度も繰り返し主張することになるんでしょうけど、だから、ああいうのはどうしようもなく追い詰められた人間が選んでしまう最後の手段だと思うんですよ。その形は飛び込み自殺なり、あるいは公共の場での焼身自殺なり、今回のような通り魔なり(今回の事件は計画的なものであった可能性があるようなので、もしかすると該当しないかもしれませんけれど)、栄誉ある死っていうんですか? 絶対言いませんね。絶対言いませんけど、でも、もしかしたら似たような意味かもしれません。派手にやればやるほど大々的に報道されますから。そういう意味であれらの行為はある種の復讐じゃないのかなと思ったり思わなかったりします。何に対しての、と言われれば、まあ社会じゃないですかね。社会、環境、自分を追い詰めたこれまでのすべて。そいつらに対する復讐劇。無関係な人間を巻き込むなという主張は否定の余地なんてまるでないほどに正しくて、つまり僕が嫌に感じている部分はそこじゃなくて、被害者に感情移入するのであれば加害者にも公平に感情移入すべきで、だから結局、「一人で死ね」って言葉があまりにも無責任かつ無頓着かつ独善的すぎて、それが大衆の口から発せられたという事実が心底嫌だったんです(大衆、まあここでの『大衆』は『日夜Twitterで騒いでいる馬鹿』という意味ですけれど)。

 彼らは、多分考えないんでしょうね。周りにももしかしたら同じように苦しんでいる人がいるかもしれないとか、もしそんな人がいるなら自分には何ができるだろうかとか、あるいは自分が追い詰められる側に陥ってしまうかもしれないとか、そうなったら自分の手を引っ張ってくれる人は誰かいるだろうかとか。考えないでしょうし、考えられないんでしょうね、きっと。それはあくまでデジタルの向こう側で起こっているイベントだとしか思っていないでしょうし、あるいはそんなことさえ思いもせずに、そのくせ「一人で死ね」なんて言葉を平気で発信して、お前らみたいな人間のせいで追い詰められる人がいるんだってことも解んねえのかな、と思ったり思わなかったり。無関係に巻き込まれ亡くなった方々には掛けられる言葉なんてありませんし、僕はそんな立場にないし、あったとしても何も言いませんし言えませんけれど、それと同じくらい、加害者の側にだって掛けられる言葉なんてありません。そうするしかなかった加害者側のことを思えば、という意味です。倫理的にどうだとか、社会的にどうだとか、そんなのは論ずるまでもなく分かりきっているでしょう。被害者は被害者で、加害者は加害者です。それは紛うことなき事実で、だから語る余地があるとすれば、それは感情論だけです。みんな、被害者のほうにばかり感情移入しますよね。それって何だか不公平じゃないですか? 誰も加害者のことなんて考えなくて、誰もとは言いませんけれど、少なくとも声が大きいのは考えない側の人間ばかりで、そういった想像力の欠如が見知らぬ誰かを袋小路へと追い詰めていくんじゃないんですかね。と言ったところで、この程度のことも考えられない人は死ぬまで一生考えられないままでしょうから、別に期待なんてしませんけど、でも、悲しいですよね、それは何というか。あれだけのことをやって、それでもなお誰に振り向かれることもなくて、じゃあ、加害者にとっての救いってやつは一体どこにあったんでしょうね。分かりません。

 

 入学したての男子高校生みたいなことを言いますけれど、恋愛感情というやつの正体を未だに理解できていなくて、いや、あれはいったい何物なんでしょうね? 誰か知ってたりしませんか? そんなのは理屈で語るものじゃない、とか言われると、いやまあそうだけどさあ、と閉口する以外にないわけですが、それでも言語として落とし込みたくなるのが僕みたいなやつじゃないですか。ああ、いや、それはちょっと違っていて、別に言語として理解したいわけじゃないんですが、こう、手の中に在るものとして捉えてみたいというか、何かそんな感じの、欲しいって意味じゃなくて、どこか遠くにある名前も知らない一等星みたいな現状はちょっと物足りないから図書館へ行って調べてみようか的な、そんな感じのサムシングです。いまので伝わりました?

 人の恋愛経験とかはその実死ぬほどどうでもよくて、いやマジで心底どうでもよくて、というのもそれは僕の経験として消化できるものではないし、参考にはなるかもしれませんけれど、結局は参考止まりでしかないわけで、そういう意味でどうでもいいです。恋愛感情って何ですか。「あいつとはずっと一緒にいたい」みたいなそれですか? じゃあ、ずっと一緒じゃなくてもいい相手って誰なんだ、って話になりますよね。誰とだって、ある程度の関係があるのであれば、できることならずっと一緒にいたくないですか? 恋人とそれ以外とを区別する境界線がその程度のものでいいんですかね。いいかもしれませんけど、どうなんでしょう。なんか、分からないですよね。彼氏彼女元カレ元カノ、そういった関係性に名前を与えるという行為そのものが。いや、こんなことを言っているからいつまで経ってもここから動けないわけですけれど、それにしたって、名前のないものは存在できないなんていうのは偽の命題って感じがしませんか? 本当のことを言うと、自分の場合、周りの人たちのことを『友達』と表現するのも何だか嫌で、だからまあ『周りにいる人』とか、よくてもせいぜい『知人』くらいの言葉でしか表現しないんですが、それは「お前のことなんて別に友達とは思ってねえよ」みたいなアレでは決してなく、『友達』と表現してしまったが最後みたいな感覚が自分の中にあるせいだったりします。最後というか、いやまあ最後ですね。その言葉がいずれ呪いになるんじゃないかって恐怖がありませんか? ないですか。僕はあります。だから、誰かと自分の関係を言葉に直すことがあれば、いつだって慎重に言葉を探しています。自分への呪いになるのは当然嫌ですけれど、相手への呪いになることもまた本意ではないので。それでも気兼ねなく『友人』と呼べる相手なんて、多分二人くらいじゃないですかね。地元に一人と、もう一人は彼。それくらい。だからってわけじゃないですけれど、分かんないですよね、恋愛感情とかいうやつが。その、自分が相手に向けている感情を、これは恋愛感情だ、と同定してしまえるほどの何かがそこにあるんですかね。恋愛なんて理屈でするもんじゃないというのなら、恋愛と呼べない関係があってもいいだろうと思いますし、何でもかんでも『恋愛』と形容するほうがなんだか理屈っぽく感じられもします。そんな感じです、ずっと前から。

 

・追記 

『路地裏猫の正体 / TOKOTOKO(西沢さんP)』という曲があるんですが、全体的に歌詞がめちゃくちゃよかった(曲もめちゃくちゃよかった)ので暇な全人類は今すぐに読んでください(あわよくば聴いてください)。

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