output_20190512

 

 ここしばらく考えていたことについて雑多に書こうと思います。

 

 

 人間関係というやつが広がっていくにつれて次第に分かってくることといえば、たとえば自分はこういう人のことが好きなんだな、というのがあります。その対極とは言わないまでもおおよそ逆の位置に存在する嫌いな人間というやつについては、別に人間関係を広げるまでもなく、誰しも今に至るまでの過程において大まかに把握できていることだろうと思います。嫌いなものの話をするのはあまりよくないなと思いつつ、まあわざとやるんですが、僕は綺麗なものを綺麗なままで扱えない人間のことが頗る嫌いです。音楽も、絵も、文章も。何が綺麗で何が綺麗でないのかという境界線が個々人の価値観に依存するということは、哲学なんて大掛かりな道具を引っ張り出してくるまでもなく当たり前のことですけれど、だからこれは結局主観の話でしかなくて、自分にとっての綺麗なものを汚していく連中のことが嫌いだという、それだけの話です。ここまで単純化してしまえば、それはもはや一般論で処理してしまえる主張のような気もしますけれど、そう簡単に割り切れてくれないのが所謂感情というやつで、許せないものはやっぱり許せません。だけど、これはあくまで主観の話であって、ここを履き違えちゃいけないということは自戒も込めて記しておこうと思います。多分、自分も誰かの価値観を踏みにじりながら生きているし、日常に置いてその事実に無自覚的だし、だから、自分にとっての綺麗なものをそうして汚していく誰かのことを一方的に非難するのも何だかおかしな話というか、やってることが動物愛護団体とさして変わらないなという気になります。嫌いなものは嫌いです。許せる許せないで言えば許せないし、認められる認められないで言えば認められないし、認めたくありません。でも、これは主観です。だから、そういう人の存在を否定しようという気はありません。彼らはたしかに存在して、僕はそんな彼らのことがたしかに嫌い。たったそれだけ。それだけです。そしてそのことは声高に叫ぶようなことではないし、こういう場所にぽつりと載せておくのが関の山です。

 

 

 お酒が嫌いなんですよね、と言ったところ、酔っている人が嫌いなだけでは、と指摘されたことがあるんですが、その指摘は概ね正しくて、でもちょっとズレてるなというのが僕の感想です。いや、より素直に言うのであれば、ズレていることにしたい、というのが正しいです。頷きたくないっていうんですかね。感情論。もっと言えば、その言葉を安易に首肯できるような人間でありたくない、という感覚です。伝わりますか? まあ一年前の自分なら頷いていたかもしれませんけれど。たとえばの話、小学生がよく言うじゃないですか、自分は悪くない、〇〇君が悪い、みたいなことを。多分あんな感じです。誰かを嫌いになんてなりたくないじゃないですか、できれば。実際、その指摘は正しいんですよね。別にお酒自体に負のイメージは大してありませんし、一か月に一回飲むか飲まないか程度の頻度とはいえ僕だって飲みますし、だからその指摘は正しくて、だからこそこの話はどこまでいっても感情論なんですけど、この程度の責任転嫁は許してくれないかなあ、という気持ちです。概念を嫌っていた方がずっと楽なんですよ。酔うのが好きな人には本当に申し訳ない話だな、これ。でも、僕は嫌いです。だからって、そのことが好きな人の存在を否定することはしません。しないように気をつけます。否定されるのは誰だって嫌いでしょうし。僕も嫌です。

 

 

 例にもよって星の話をしましょう。先日吉音のほうへ提出した曲の歌詞を知っているのは、いまのところ僕を含めて二人ですが、ちょっとそれに関連した話をします。話だけ聞いてもって感じだろうとは思いますけれど、まあ話半分に読んでください。あ、これはあくまで僕側の主張です。向こうがどんな思いを込めているのか、僕は何も知りません。そういう意味でも、話半分に、です。

 あれを書いたのは二月の中旬、一五日前後でした。当時の自分が何を考えていたのかは、その頃のブログを読んでもらえればわかると思います。自分はほとんど覚えていませんが。京橋から出町柳へ向かう特急電車の中で書きました。頭からバーッと書いたってわけじゃなくて、端末上のメモ帳を行ったり来たり繰り返して、一時間くらい。歌詞を一本書くのにどれだけ時間を使うかって人それぞれだと思うんですけど、あの曲の歌詞をたった一時間で書いたかと言えば別にそういうわけでもなくて、要約するのに掛けたのが一時間だったというだけで、言葉自体はずっとこのブログにぽろぽろと零していたので、だからまあアウトプットが大事だって話ですよね。インプットも同じくらい大事ですけど。言葉を書く練習というよりは、自分の思考を言語化する練習ですよね。作詞ってやっぱりそういう側面が強いと思うので。それもまた人によるのでしょうけれど。

 夜が明けると星は見えなくなる、というと使い古された常套句のように思われるかもしれませんけれど、この言葉は自分にとってそれなりの質量を持って存在しているものでもあります。だから、まあ理解してくれとは言わないまでも、軽んじないでほしいなとは思います。さておき。夜は詩的だと思います。何ていうんですかね。夜は日中に比べて世界の強度が増しているような感覚があります。温度感とか、聴こえてくる音も、見えるものも、見えないものも、言葉も、色も、何もかも。日中は息を潜めていた諸々が、日が沈んだ途端、一斉に飛び込んでくるような、そんな感じ。孤独感とか不安とか、そういうものも勿論ですけれど、だから、夜には見えていたものが朝になると見えなくなるという感覚が自分にはあって、それが夜明けに消える星の一つなんですけれど、でも別にそれって見えなくなっただけで消えたわけじゃなくて、空のどこかにはあるんだよなあって、そう思ったり思わなかったり。僕らはずっと星を追いかけていて、それは人それぞれ大きさも色も距離も違うけれど、ともかく綺麗な星を追いかけていて、人によっては届いたりあるいは届かなかったり、指先が届いた誰かは幸せになるのかもしれませんけれど、一方で遠く届かなかった誰かは嫌になってそれっきりで空を見上げなくなるのかなあとか思います。

 それは、きっととても悲しいことですよね。これもまた人によりますか? 僕は人によらないと思いますけれど、どうでしょう。このことは、我慢の対義語が諦めなのか、我慢の同義語が諦めなのか、という例の話に通じるところがあるような気がします。どちらが自分の正義に近しいですか? 僕はどちらも正しくて、つまりどちらも間違っていないと思います。矛盾ですかね? 世界に満ち溢れているそれらに比べれば、こんなものは別に矛盾というほどのものでもないでしょう。綺麗な対立です。どっちが正しいとかじゃない。これはまあ僕の信念です。それはさておき、青空を見上げられない人がいるというだけで何だか悲しくなることがあって、あの曲の歌詞を書いた頃、僕のすぐ身近にそういった誰かが立っていて、その誰かはもしかして今頃泣いているのかなとか考えて、案外ヘラヘラしてるかもなとも考えて、だけど、いずれにせよそれは悲しいなと思って、誰かの幸福を自分が勝手に定義するのは褒められたことではないでしょうけれど、だからその誰かが悲しいんじゃなくて、他の誰でもない自分が悲しいんだって話なんですけど、これは。

 初めて見つけた星を覚えてますか? 色、温度、輝き、何でもいいです。誰だってきっとこれまでにそういった何かを一つ二つは見つけていて、その嘘みたいな輝きを馬鹿正直に追いかけてた時期があると思うんです。ないかもしれません。でも、誰にでもあると僕は信じています。そうやって追いかけ続けた星のほとんどは、自分が今立っている場所から遠く離れた彼方に息衝いていて、だから全然届かなくて、そうして目を閉じることが我慢なのか諦めなのかという話ですけれど、大人になるにつれて、みんなそういう温度のことを忘れていくのかなあ、と考えています。いつから、と言えば、一昨年からです。大人になるということの意味をずっと探していて、見つけたような気になったり、でもやっぱり違うなって気になったり、そんなことを何年か繰り返して、僕は未だにその正体を知りませんけれど、でも、こうして考え始めた頃から一貫している前提の一つとして、雪の白だったり空の青だったり星の光だったりがあります。子供と大人の対比というか、僕は基本的に大人という概念を善としては捉えていない節があるのですけれど、だから、何て言うんですかね、見えなくなるということを悪い意味での成長と結びつけてしまう癖があって、癖というか、それは最早僕の価値観の一部そのものなんですけれど、あれだけ必死に追いかけてたのに馬鹿みたいだよなって、そうやって仕方なく笑うのが大人なのかなあ、みたいな。だけど、僕はそれを大人だなんて定義するつもりは更々なくて、だからそれは大人でも子供でもない何かとしか言えないんですが、僕にとっての大人というのは、いまのところ、見えなくなった星を背負っていくことのできる存在のことを示します。必死に追いかけたけど届かなかった、じゃなくて、届かなかったけど必死に追いかけた。いつかの自分を振り返ったときに胸を張ってそう思えるような誰かが、それが大人なんじゃないかなあ、という。たとえ嘘だったとしても、いつかの自分を突き動かした星があったはずで、この世界にいる誰もができることならそれを忘れないでいてほしい、という思いがあります。誰にも届きませんけどね、こんな言葉。でも、誰も忘れないでいたらいいな。そんな世界はきっと綺麗だろうなと思う。何ていうんでしょうね。自分はそんな風に綺麗で透明な存在に対して共感するようです。

 

 

 何でそれが最後なんだと自分でも思いつつ、二月、めちゃくちゃ嫌なことがあったって話を書いて筆を置こうと思うんですけど、先に断っておくとするならば、それ自体はもう僕の中でとっくに完結したことであって、まあ全くもって最悪の形で完結したんですが、ともかくすっかりきっぱり終わった遠い過去の出来事で、では何故このタイミングでそれを蒸し返すのかといえば、それについて書きたかったことがあったからということもあるのですけれど、それ以上に思い出させられたからということがあります。ネガティブなきっかけってわけでもないんですけど、いや、ネガティブなのかな。別に自分がどうこうされたわけじゃなくて、誰かがどうこうしたわけじゃなくて、単にちょっと思い出したってだけなんですが、でもまあネガティブなんだろうと思います。少なくともポジティブではない。

 もしかしたらこれを読む人の中には、以前に僕の口から聞いたことあるなって人がいるかもしれませんけれど、まあ適当に書きます。

 境界線、の話ですよね、つまり。壁? 分かりにくかったら壁でいいです。あの、何て言うんですかね、壁は壁でも見える壁と見えない壁との二種類がこの世界にはあって、その二つのどちらがより残酷かって話です。どっちでしょうね。僕は前者だと思います。見えない壁って具体的に何をどうしたら越えられるのかが分からないじゃないですか。それは、だからある種救いでもあると思っていて、諦められるというか、心理的な距離感とかがこれに類するんですが、何か壁があるのは分かるけどどうしようもないな、みたいな。その壁が向こう側にあるのかこちら側にあるのかは分からないけれど、ともかく何かしらの透明な仕切りがあって、この先へは進めないらしい、みたいな。それは救いだと思うんです。だって、そもそもそんな壁があることに気づきませんから。仮にですけれど、僕の下宿から真っ直ぐに西へ下る道の途中に、明日の朝にでも半透明な壁が作られていたとして、でも僕は多分一ヶ月くらい気づかないでしょうね。わざわざ細い道なんて通らずに、御影に出るので。そこに壁があると知ったら、不自由だなあ、なんて思うのかもしれませんけれど、まず気づきませんし、そして気づかないうちに撤去されてたりするものです、そういうのって。だけど、見える壁だとそうはいかないというか、見たくなくても見えるので、それは本当に残酷なことです。相手にそれを突き付けているということすら当の本人たちは無自覚的なんでしょうけれど、それはさておいたとして、見える壁は見えている側に希望を与えてしまうのがよくない。もう少し大きな槌があれば壊せるのかな、とか、梯子を組み立てれば越えられるかもしれない、とか、そういった類の希望を。無理だったら無理って言えよな、最初から。そう思いません?

 あの日のあの一瞬が本当に最悪で、心底不快で、当時の自分はめちゃくちゃ嫌な顔をしていたと思うんですけれど、自分はあの一瞬ですべてを諦めたというか、別にもう嫌いになってもいいんじゃないかなという気になりました。これも一つの最悪ですよね。書くだけ書いて具体的に何がどうとかは言及しないやつ。わかる。でも、何を書いても攻撃的になりそうなんですよね。何ていうか、上手く伝えられる気がしない。だからまあ、極論どうでもいいんですよね。どうでもいいんですよ、そんなの。別に変わってほしいわけじゃないし、というか変化なんて期待していないし、それに自分がどうこうされたわけでもないので。でも、何て言うんでしょうね。泣いている人がすぐ近くにいたら悲しくなるじゃないですか。みんな笑ってる方がいいでしょう。そういう話なんだと思います。だから、僕はあの日片っ端から関係を切ったわけです。悲しかったから。分かりますか? 分かりませんよね。いいんじゃないですか、それで。

 

(追記)

 ところでこのブログ、開設から一年が経過したらしいです。めでたい。こんなに続くとは思っていなかった、ということはないですね。長々と続けるつもりは確かにありませんでしたけれど、でもどこかで止めるというビジョンも同じようになかったので。もちろん、いまは見えていないというだけで、まあいつかは必然的に終わりを迎えるのでしょうけれど、いまのところ、それはまだ当分先のつもりです。

 当記事も含めて全部で九五もの記事があるらしいです。そんなに書いてたんですね。そんなに書いてもまだ言い足りないと感じる自分がいるというのは、何だかちょっぴり面白いです。