白紙の数十秒

 

 ふとした瞬間に考えることとして、意味があります。意味。価値。理由。存在。あてがう言葉は、まあ何だっていいのですけれど、自分にとっては意味という表現が何よりも適切だという気がしているので、僕はそれを意味と呼んでいます。しかし本当のことを言えば、どれもどこかしらで食い違っているような感覚もあって、つまり、その空想には意味という枠をはみ出した意味があるようにも思います。そうであってほしいだけかもしれませんけれど、ともかく、意味という名前以上の名前を思いつくことが僕にはできないので、僕はそれを意味と呼びます。

 

 中古屋で売られているCD。一面に陳列された夥しい数の書籍。高々百円程度のイヤホン。もう聴かなくなったアイドルソング。忽然と姿を消した立て看板。街の呼吸に埋もれた選挙ポスター。投げ捨てるように停められた大量の自転車。部屋の隅に忘れられたペットボトル。結局一度も行っていないラーメン屋。どこかの誰かが持っていった黒い傘。いつでも繋がっていられる携帯端末。視界を一直線に横切った五線譜みたいな電線。誰も知らない真夜中の赤信号。光を捻じ曲げて生まれた空の透明。光さえ届かない深くに沈んだ海の幽霊。仄暗い雲に隠された白金色の恒星。白金色が抱えているたった一つの嘘。差した傘を激しく打ちつける雨の悲鳴。触れたら消えてしまった雪の温度。曲がり角の向こう側に転がっている無数の未来。自分のすぐ後ろを影みたく追いかけてくる無数の過去。両親から与えられた記号としての自分。自身で定義した架空存在としての自分。そういったすべてを悲しく思ったり、何とも思わなかったり、そんなことを繰り返す毎日。

 

 そこには意味があってほしい。そこには価値があってほしい。そこには理由があってほしい。いつからか、そんな風に願いながら生きるようになったような気がします。埃を被るというのは必ずしも悪いことじゃないんだろうと思います。時の流れというやつはいつもどこでも普遍的で、形あるものはすべて滅んでゆくわけで、そんなことはわざわざ言われなくとも誰だって知っているわけで、僕の知っている曲に埃と誇りとを引っかけたものがありますが、だから埃を被るというのは、それはそれでいいことなんだろうと思うのです。お役御免というか任期満了というか、寿退社みたいな、そういう終わり方であってくれたらいい。そうであってほしい。本屋へ行くといつも思うこととして、誰にも読まれない作品だってきっとあるのだろうな、というものがあります。横幅数十メートルで五段くらいを備えた本棚が、一つのフロアに一五個設置されているとして、八階建てなら一二〇個。その一つひとつにびっしりと本が詰められているわけで、そう考えると何だか悲しくなってきませんか。別に共感してもらわなくてもいいんですけど、何というか、だから、その本棚に並んでいるだけの意味が、価値が、理由があってくれたらいいなと思うわけです。埃を被っているのならそれはそれでいいのですけれど、そうならもう誰の手も触れないでいてほしい。本棚なんて場所じゃなくて、もっと静かな場所で眠っていてほしい。本屋へ行くと、いつもそういうことを考えます。空も、恒星も、雪も、他も全部同じような感じです。誰かが同じ空を見上げていてほしいけれど、それが叶わないのなら空なんて一生曇っていて構わない。誰かがあの恒星を見つけてくれていたなら嬉しいけれど、誰も気がつかないのなら街はもっと明るいままでいい。誰かが雪の突き刺すような白と純粋な冷たさとを愛していればいいけれど、歩道を傘が埋めるのならそれはアスファルトだけが知っていればいい。そんな気持ちになります。空の話も、星の話も、何なら雪の話だって、このブログでは幾度となく取り上げてきましたけれど、僕はずっとこういったことを考えながら書いていたりします。誰の手も届かないほど遠くに在ればいい。あの言葉はこういう意味です。あんなにも綺麗な透明を誰も見つけられないのなら、永遠に見つからないでいてほしい。曲がり角の先の魔女と同じです。彼らにだって、僕らと同じように理想がある。

 

 どうせ誰にも伝わらないんだろうな、と思いながらいまもこうして文章を書いています。それは誰かに何かを伝えたいからです。意味なんてない、なんてことは言えませんし、言うつもりもありません。意味はあります。解ってほしいわけじゃない。知っていてほしい。忘れてしまっても構わないから、それでも覚えていてほしい。解ったような気になってくれたらいい。たとえば、道端に停められた自転車を見て、そういやあいつが何か言ってたなって、その程度でいいんですよね。たったそれだけのことを夢に見ながら、まあそんなこんなで一年近くブログを続けてきました。多分これからも続けていくと思います。

 

 僕はそれを夢だとは思っていないし、奇跡だとも思っていないし、いつかはそうなるんじゃないかなと期待しながら生きています。嘘でもいいから、綺麗な嘘ばかりが飽和した世界になればいいと願って、それだけを期待しながら生きています。この話だって、これまでに何度だって書いてきましたけれど、だけどまあ、もうそろそろ解ってきた頃合いというか、なんなら一年続けるまでもありませんでしたよね。去年の夏には薄々解っていたし、冬にはいよいよ目を逸らせなくなって、それでもまだ続けています。どうすれば楽になれるかなんて知っていて、だけどそんなことに意味はなくて、だから今もこうして呼吸が続いているし、続けてもいるし、そうして僕は真夜中の赤信号に立ち止まるわけです。たとえ誰が見ていなくたって、それで世界が一人分でも透明に近づくのなら、白紙の数十秒でさえ僕は嬉しく思います。たとえ誰の理想を踏みにじったって、どこまでも直線的な青空の理想を僕は愛しているし、赤信号の理想だって同じように愛せるし、だから自分の理想を強く信じて生きています。案外変わりませんね。僕も。周りの人たちも。