ところで、飛行船って見たことないな。

 

 雨が降ったら何もできなくなることってないですか? 具体的には外出とか外出とか外出とか。雨音って眠りにつく前は本当に心地よくて好きなんですが、寝起きに聞くとテンションがマントル辺りまで急降下するからヤバイですよね。主観によって物事の捉え方は変わります。哲学~。そういった次第で初日から幾何学Iの講義をサボって、ベッドでぐっすり眠っていました。流石にマズいと思い同講義に出席していた人からTwitter伝に本日の演習問題を送ってもらったのですが、何一つとして解らなくて履修科目欄からの消去を検討し始めています。おはようございます。いい夕方ですね。かの太陽様が仕事を休んでいるのだから、僕も休んでよくないですか?

 

 先日、久しぶりに例会へ行きました。アイマス研の。名ばかりとはいえ一応代表なのに、サークルの集まりに参加しないのはどうなのかなあ、とか思いつつ、いやまあ別に俺がいてもいなくても同じだしな、みたいな気持ちでこれまでは自己防衛してたんですけど(自分の生活習慣が太陽の輝きを未だ知らない地底人のそれなので、春休み期間中の例会へ行けていなかったのはそれも一因です)、新歓は流石に行った方がいいよなあ、と改心して昨日はちゃんと行きました。嘘です。本当のことを言うとそんなことは全く考えていなくて、僕が昨日の新歓へ参加したのは、ある特定の人物がやってきたときに全力で囲うためです。まあ来ないだろうなとは思ってますけど、もしかすると来るかもしれないので。彼は何となく僕よりの気質という感じがしていて、だからまあ来ても仕方ないみたいとこあるんですけど、いまの新歓の形だと間違いなくアレがアレになるので、ナトリウムみたいなやつが要るんですよね。ナトリウムっつうか放射性同位体ですけど、どうやら去年はそれで逃してしまったらしいので、それが本当に悔しかったんですよね。というわけで、今後の新歓も多分参加すると思います。万全を期して唄は側に。

 

 最近分かってきたんですけど、どうやら自分は大人数でいることを相当な負担として認識するらしくて、いやまあ誰だって大なり小なりそうだとは思うんですけど、僕の場合、五人とかでもう既に苦しいんですよね。四人でもそこそこに厳しい。こう、大人数集まったときの騒がしさみたいなのがどうにも苦手で、何て言うんですかね、手の付けられなさ? 違うな。周囲が見えていない感じが嫌いなんですかね。こう書いてしまうと「俺はいたって冷静な思考で俯瞰的に物事を捉えているぜ」といった主張に取れられるかもしれませんけれど、僕ほど周りのことを見るのが下手な奴もそうそういないだろうと思います。そのうえで、にしてもなあ、と思うことがあったりなかったりします。多分一割も正確に伝わっていないと思うので、上の文章は忘れてください。ところで、どうひっくり返っても好意的にしか捉えられない相手(身近だと二人いる)とかはその上限値までにカウントされていないっぽいんですが、何なんでしょうね、この判断基準は。めちゃくちゃ失礼じゃないですか? 人を一方的に取捨選択してるわけですよね。最悪。俺だったらこんな奴と絶対に付き合いたくない。お前の事なんて知らねえよ、つって突き放されても全然おかしくないよなあ、と思うんですよね。それくらいのことをやってしまっているような自覚があるんですけど、なんか、みんな優しいですよね。なんで俺がここにいるんだろうな?

 

 例の一件以来、会う人会う人に体調の心配をされるようになってしまって、流石にちょっと申し訳なくなってきたな、という感じがしています。いや、心配してくださるのは本当にありがたいことだしそれなりに嬉しいんですけど、ああ、これは千石撫子と同じ気持ちですね。心配されるのが嬉しいってやつ。これは囮物語での話ですけれど、白い蛇に襲われた千石撫子が主人公であるところの阿良々木暦に助けを求めるんですよね、公衆電話で。で、一度会って顔を合わせて詳細を聞こうとなって、二人で会う約束をとりつけて、そこで撫子が「楽しみにしてるね」みたいなことを言うんですよ。その言葉を聞いた阿良々木君は混乱した様子で、襲われている状況下でその言葉が出てくるのは相当にヤバイ精神状態なんじゃないか、みたいなことを電話越しに言うわけです。撫子はそれで咄嗟に謝って一方的に電話を切ってしまうわけですけれど、でも、なんか分かる気がするんですよね、彼女の気持ち。多少は履き違えていると思いますけれど、それなりには。みんなきっとそれなりに何かを考えて、でもそれなりでしか考えなかったりして、そうやって僕に声をかけてくれてるんだろうなと頭の片隅で考えながら会話をしているわけですけれど、当の本人がこんな感じで考えてるんで申し訳ないなと思っています。嬉しいって何なんだよな、マジでな。でも、心の奥の方にあるんですよね、そういう感情が。本当にごめんなさい。それと、ありがとうございます。こんなどうしようもないやつを心配してくれて。

 

 何か、自分で書いた歌詞でも言ってたはずなんですよね。「僕らは他人同士」みたいなことを。それは救いだというようなことも以前ブログに書いたような気がしますけれど、書いてなかったかもしれませんけれど、こんなにも直線的な言葉をマイナスとして捉えちゃいけないんだと思います。あの詞はそういう意味だったはずなんですが。マイナスに捉えるってのは、どうせお前らには俺の気持ちなんてわかんねえよ、他人だろ? みたいな感じです。とはいえ、僕はずっとそう思ってますけどね。自分のことなので、何なら今後も一生ずっと、それこそ死んでしまう最期の瞬間までそう思っているのだろうなと思いますけれど、嫌なことばかりを瞼に張り付けながら、こうやって助けてくれようとする人たちのことを「他人」と切り捨てるのはマジの最悪だなという気持ちになっています。米津玄師も言ってましたしね。失くしたものに目を向けるのなら、誰かがくれたものにも同じくらいに目を向けてやれ、みたいなことを。忘れちゃだめですよね、こういう当たり前を。当たり前じゃない優しさを。寝て起きて、いまはそんな気持ちです。多分すぐに忘れてしまうのだろうと思いますけれど、そのたびに思い出していけたらいいのかなと思います。

 

 好きな言葉の話って、僕はあまり大っぴらにはしないんですけど、何て言うんですかね、その言葉の重さが僕のせいで少しでも軽くなっちゃうような気がして。何でもそうなんですけど、思い出も言葉も歌も感動も、痛みも苦しみも悲しみも、すべて自分の内側にしかなくて、だから誰かと分け合うなんて土台無理な話なんですよ。林檎を食べたことのない人に林檎の味を教えることなんてできないわけです。林檎みたいに実際に食べてもらえるのなら救いがありますけれど、感動の類はそういうわけにもいきませんよね。それは僕ら一人一人しか持ちえないような代物なので。だから、どれだけ言葉を尽くしたところで僕の気持ちなんて分かってもらえないだろうし、分からないで済まされたのならきっとまだ良い方で、大方は勘違いされるんですよね。好きな言葉について話すのも同じような感じで、単なる文字の羅列にしか見えないという人がいて当然だと思うんです。それはきっと悲しいことなのだろうなと思うことがあって、僕がじゃなくて言葉が、何て言うんですかね、彼らはもっとこう、誰にも触れられないところでひっそりと眠っておくべきで、要するに不用意に曝すようなものでもないというか、努力とかと同じ感覚なんですかね、言いふらすようなものじゃないっていうのは。どれだけ陳腐な感動でも自分の内側に留まっているうちは本物という感覚があって、あるいは逆で、現実になった瞬間に嘘みたくなるというのが正しいのかもしれませんけれど、どうなんでしょうね。

 

 ところで、「透明飛行船」という曲のことをご存知でしょうか? このブログでも何度かそれについて書いていますけれど、BUMP OF CHICKENの『COSMONAUT』というアルバムに収録されている楽曲です。自分の話なんですけれど、初めて聴いた時は何だか身に馴染まなくて、それは曲調がとかじゃなくて、というか曲自体はかなり好きな部類だったんですが、そうじゃなくて、この曲が言わんとしていることは何なのだろうという疑問を自分の中で上手く氷解できなくて。いつ頃だったんでしょうね、もう覚えてませんけど、ある日突然分かったような気になった瞬間があって、それは初めて聴いてから半年後とか、あるいはもう少し経ってからのことだったと思いますけれど、それ以来、この曲を自分と切り離せなくなったような感覚があって、というと何だか間違えて木工用ボンドで取り付けてしまって外せなくなったみたいな感じですけれど、そんなアレじゃなくて、もっと特別な、それこそ心臓みたいな、替えが利かなくて、何よりも大事といったような。だけど、この比喩も完璧には正しくはなくて、生きてるんですよね、この曲は。熱があるというか、寄り添ってくれているようなイメージ。心臓は内側から切り離せませんけれど、この曲はきっと切り離そうと思えばいつだって切り離せるのだろうと思います。いつだって切り離せるのに、だけど切り離せないような、何かありますかね、そういうものを端的に表せるような比喩。僕はちょっと思いつけませんでしたけど、思いついた人はこっそりと僕に教えてください。

 

 上二つの段落、およそ1,300字を前置きとして消費したので、僕がこれからどういった心情でそれをやっているのかということは、分からずとも推し量っていただけるだろうと思います。

 

 好きなんですよね、透明飛行船のあの一節が。好きというか、何て言うんでしょうね、納得でもないし反感でもないし、受け入れたわけでも受け入れようとしたわけでもなくて、そんな当たり前は最初から知っていて、当たり前すぎてずっと忘れていたというような。小学生の頃とか、そうじゃないですか? 楽しいのが当たり前で、飽和しきっていて、だから嫌だったことばかりを思い出すんですよね。嬉しかったことなんてそれ以上に、それこそ手で掬おうとしたら零れ落ちてしまうくらいには持っているはずなのに、なんで忘れちゃうんでしょうね。当たり前が当たり前じゃないなんて、それこそ口を衝いたように吐き出してしまうフレーズを、まだ自分でも上手く飲み込めていないんですかね。いや、前置き長いよな。いくらなんでもな。

 

 

  誰も気にしない様な事 分かち合えやしない他人事

  優しさの真似事は優しさ 出会えたら 迷わないように

  出会っている 無くさないように

 

 

 僕の好きな言葉です。