何も変わらない

 

 空が青いという事実を不思議に感じたことはありますか? いや、別にそんな難しい話じゃなくて、比喩的なことでも勿論なくて、単純に青すぎるって話です。意味わからなくないですか。毎日毎日、寸分狂わない色を雲の向こう側に映し出して、何なんですかねあいつら、マジで。たまにこういう気持ちになるんですよね。ふと立ち止まって、空を見上げて、イヤホンの奥から流れてくる音楽を聴きながら、この青空は何なんだろう、みたいな気持ち。なりません? お前、今日くらいはもうちょっと汚れた青色でもいいじゃん、みたいな。でも、あいつらは毎日毎日変わらないんですよね。それが嫌になるってわけじゃないんですけれど、何というか、何というんでしょうね。いや、よく分かりません。話をしてみたいよな、あいつらと、一回くらい。どんな気持ちで毎日毎日あんなにも澄んだ青色を映しているのかとか。じゃあその青色は誰のためなのかとか。そういう話をしてみたいなと思います。

 

 死後の世界は僕らが生きている現世に存在する諸々の呪縛から完全に解放されたものだなんて、いったい誰が最初に言い始めたんでしょうね。何だか馬鹿げていると思いませんか? ここじゃない何処かへ行けたならきっと何かが変わる。そうしてこれまで生きてきて、実際に何かが変わったことなんてほんの一度でもありましたっけ。そりゃあ大なり小なり、どこまでも細分化して考えれば、僕らは日々生まれ変わっているのだろうなと思います。嫌いだった野菜がいつの間にか好きになっていたり、興味のなかった分野に手を出してみようと思ったり、逆に嫌いになるってこともあるでしょうけれど、でも、何て言うんですかね。ベースの部分は何も変わってないんじゃないかな、と思うんです。自分は昔からずっとそんな感じで、周りの奴らが嫌いで嫌いで、ここじゃないもっと良いところへ行けば何かが変わると願いながら、そんなこんなで京都大学まで来たわけですけれど、でも何も変わってませんし。流石にこれ以上どこかへ行きたいとは思っていませんけれど、いまでも周りの奴らは嫌いです。何も変わりません。上っ面だけが体裁よくアップデートされていっている感じですね。つまり最悪です。

 

 最近、死という概念が本当に怖く感じられて、いやまあこの恐怖は至極真っ当で当然の感情ですけれど、何かちょっとおかしくなってきてんなという気がします。その理由はほとんど明確で、というか最近という言葉にはちゃんとした起点があって、それは先日倒れた日の夜なんですけれど、それからずっと寝る前に布団の中でよく考えるんですよね。明日ちゃんと起きられんのかなあ、とか。何年後まで生きていられるんだろう、とか。年間で結構な数の人が亡くなっているのに、自分は大丈夫なんてはずないよなあ、とか。もし三年後に死んでいるとしたら理由は何だろう、たとえば大型トラックとの交通事故とかかな、とか。なんかこれまでにもあったんですけどね、そんな感じのことは。でも、何て言うんですか、これまでに考えていたのは自発的な結末のことばかりで、あの日からずっと考えているのは偶発的あるいは必然的に訪れる死のことです。割とショックだったのかなあ、と自分なりには分析しているんですけど、どうなんでしょうね。まあ分からないんですけど。というか、だからって何かが変わったかといえば何も変わっていないわけで、いや、でも何かしらは変わってんのかな、自分の目じゃどうしても見えないようなところで、分かんないや。

 

 変に同情されるのが心底嫌なんですよね。お前らに俺の気持ちの何が解るんだよ、といった感じで刑事に説得されている途中の復讐者みたいな台詞を叫びたくなります。本当に欲しいものは存在です。もっと言えば理解です。ここで読み違えられるのも嫌なので断っておきますけれど、ここでいう理解とは肯定のことではありません。というか肯定なんていりません、願い下げです。その肯定ってのが、つまり要するに同情なんですよね。辛かったよね、大変だよね、しんどかっただろう、誰だってそうだよ、みんなそう思ってるよ。うるせえよ、って気持ちになりません? そんな言葉で救われるほどに単純なら、こんな苦しみは勝手に乗り越えられるんですよね。乗り越えた気になれるんですよ。でも、そうはなれないから困ってんだよな。言葉なんかいらないんですよね、本当に。話したいことなんて勿論いくらだってありますよ。そういえば電車の中でいくつか考えてました。あの人本当に犬が好きなのかなあ、とか、今度訊いてみるかと思って、まあ訊きませんでしたけど。どうなんですかね。僕は誰かと二人で大したことは何もせずに、それこそカーテンを眺めるくらいのことで時間を潰すのが好きなんですけど、まああまり巻き込むのもよくないよなあ、と思いつつという感じです。ああいう時間に救われてます、僕は。こういうとこが優しいよなあ、と思いながら座ってました。口に出して言えばいいのに、それができるくらいなら多分いまこんなことをやってないんですよね、そもそも論。

 

 言葉って最強の毒なんですよね、本当に。一度でも身体に受け入れてしまったら最後で、それからはなかなか消えてくれないんですよ。そういう感覚があります。これもさっきの同情嫌いと似た感情なんですけど、典型的な理解に自分を当てはめられることが心底嫌で、「ああ、はいはい。そんなことだったのね。そんなの、これくらいの時期にはよくあることじゃん」みたいな? 何て言うんですかね。その個人にとっては本当に大きな問題かもしれないのに、それを一般的な枠組みに填め込んで捉えようとするところに、もう既に会話の意思が感じられませんよね。会話の意思っつうか、端的に言って頭が悪いのかなと思います。想像力の欠如? 人間性の問題? そういう人ってきっと誰とも会話してこなかったんだろうな、と思ったりします。いや知りませんし、知りたくもありませんけど。よくある例だと、親と子供ですね。子供にとっては本当にシリアスな悩みを、肝心の親が軽視して接するパターン。これがマジの最悪です。自分がこのことを嫌っている理由って、多分昔にこれを嫌というほど受けたからなんだろうなあ、と思ったり思わなかったりします。

 

 ところで文頭を「~なんですよね」という風に書き始め、段落中で適所に「~ですけど」で終わらせた文章を混ぜていくと僕の書いたそれっぽくなるという研究結果があります。知っていましたか? 手癖で書くとこうなるんですよね、いや本当に。

 

 自分なんかいなくてもいい、という言葉が消えてくれないんですよね。去年の十一月くらいからずっと。いや、だって別に自分がいなくても世界は十分に機能しているし、他のみんなもそれなりに楽しそうだし、たしかに自分はここにいてもいいのかもしれないけれど、でも別にいなくてもいいんだよな、という思いがあります。だからって必要にされたいわけでもないというのは以前にも書きましたけれど、何て言うんですかね、近づきすぎなんですかね。近づきすぎると何も見えなくなるというか、逆にどんどん嫌な部分が見えてくるものじゃないですか? 恋人が破局する理由って大体それだと思うんですけど、こう、最初は勿論多幸感に満ち満ちた夢うつつって感じなんですけど、日を経るにつれて次第に目が覚めてきて、というか冷めてきて、些細なことが何だか許せなかったり、どうでもいいことで傷つけあったり、そうやっていままで自分が見てきたものがすべて夢だったことに気がつくんですよね、どっかしらのタイミングで。多分、そんな感じなんだろうなあ、と思います。実際どうでもいいですもんね、本当に。自分でも思いますもん。なんでそんなことで悩んでんの? どっちでもいいじゃん、みたいな。なんか、それが近くにあるのが許せないんですかね。あるいは逆で、遠すぎるのが寂しいんですかね。独占欲みたいな。知りませんけど。

 

 人一人の死って軽いなあ、と先日思いました。青空の話はここにつながるんですけど、その日の空がなんか馬鹿の一つ覚えみたいに晴れ渡っていて、虚しいってわけでもなくて、何というか、ああ、こんなもんなんだ、という気持ちになったんです。機械的ですよね、どこまでも。ギリギリまで延命して、どこかで事切れて、そうしたら無駄に豪勢な葬式がセッティングされて、送られてくるメッセージはAIの自動生成みたいな定型文ばかりで、すべてが仕組まれたプログラム通りに進行して、火葬されるとこまで、何もかもが全部機械仕掛けって感じで、僕らの命ってこの程度の価値なのか、と思ったりしました。話してくれた相手がこのことを覚えているかは分かりませんが、曰く、葬式へはご飯を食べに行く。当時の僕はその言葉をかなり履き違えていたようで、実際に経験してみて思ったことといえば、狂ってんなあ、というのが正直なところでした。こんなにも死に近い場所で、よくもまあ呑気に酒飲んで飯食って大声上げて笑って、この異常な空間はいったい何なんだろうか。別に大雨を降らせる曇天みたく沈んだ空気を期待してたわけじゃないですよ、勿論。そうであってほしいというわけでもないです。でも、こう、もうちょっとなんかあっただろ、という気がしたんですよね。僕らなんて明日にはきっと今日のことを忘れてしまうのに、いまこの瞬間に心を痛めなくてどうするんだ、みたいな。そんなのは視点の問題なのかもしれませんけれど、そういうことも含めて、機械的だなあ、と思いました。あの時間は本当に冷たかった。

 

 ここに至るまでずっと、まったく同じことについて話しているつもりでした。いったい何の話だと思います?