死にたいと願うから、いまも生きている。

 

 感情の針って結構振れ幅が大きくて、一分前まではポジティブだったのに突然ネガティブになったり、その逆も当然あったりするわけですけれど、何となく思うことがあってそれは、その状態がきっと何よりも正常なんだよなってことです。正常というか、本来あるべき形というか、少なくとも自分にとってはという話ですけれど、自分の内側からありとあらゆるネガティブを綺麗に取っ払ってしまえたとして、そこに残っているのは多分セミの抜け殻みたいな、あるいは哲学的ゾンビみたいな、中身が何もないがらんどうなんじゃないかと思うんですよね。光があるから影があるのは当たり前であって、逆も然りであって、つまりそれらはどうしても対になっている感情であって、片一方だけを消してしまうことにはほとんど何の意味もないように思えます。そもそも、そんなことが可能だとも思いませんが。

 

 お金がなくて心底困っているという人に向かって、お金がなくても楽しめることはいくらだってあるよ、なんて励ましの声を掛ける人はいないでしょう。楽しめるとか楽しめないとか、その人が求めている答えはそんなところにはなくて、だから要するにまるっきり的外れで、それに気づけない人間は救いようのない馬鹿だと思いますけれど、まあそんな人は多分いません。でも、これが他のフィールドになると結構目にするんですよね。「前だけ向いて生きていればいいことあるよ」とか「悲しみに浸ってても仕方ないじゃん。いまだけを見ろよ」とか「考え方を変えたらこんなにも生きやすくなるよ」とか、そういった文言はディスプレイの向こう側で常套句のように使いまわされ、書店へ行けば本棚一つを優に埋め尽くすほどに溢れかえっていて、Twitter上でさえも判を押したように何千何万とリツイートされて、この世界のほとんど至る所で飽和しきっているように思えます。まあ、分かりやすい希望ですよね。そりゃ未来には良いことの何か一つくらいは転がっているでしょう。だからって、それがいったい何の救いになるんだろう、と思うんですよね。それはあまりにも無責任な希望で、それなのにそれが広く受け入れられている現状を、何だかなあ、という気持ちで眺めることがあります。飢えてるんですよね、世界が、希望に。

 

「前だけを向いて生きろ」という言葉を目にするたびに、ああ、思わず後ろを振り返ってしまいたくなるほどに大切な痛みを、この人は一つも持っていないんだな、と思います。可哀想だ、とも思います。思うだけで言いませんけれど、ほとんど無意識にそう思ってしまいます。自分を責めるような痛みがどこにもないのなら、生き続ける意味って何なんでしょう。楽しい事だけを享受して、悲しいことは遠ざけて、そうやってだらだらと死へ向かって歩くことが、つまり生きるということなんですか。いいですね、そういう享楽的な人生って。憧れます。無理だと思うんですよね、そんな生き方。ああいう無責任な希望に飛びついてしまうような人も、心のどこかでは解っていることだとは思いますけれど。死へと歩き続ける僕らはどうしようもなく踵をすり減らしていて、たまには立ち止まって新しい靴に履き替えて、そしてまたすぐせっつかれたように歩き始める。ずっとそれの繰り返しだと思うんです。それを彼らは「前だけ見てれば踵がすり減ってることになんて気がつかないよ」とか「踵がすり減らない靴を履けばいいじゃん」とか、そういったどうしようもないことを言っているわけで、だからまったくの的外れだなあと思います。誰もがそんな風に生きていけるのなら、この世界に宗教なんてものは生まれなかったでしょう。

 

 痛いなら痛いままでいいと思う。悲しいなら悲しいままでいい。いっそ死にたいと願うことだって何度あってもいい。そのままでいいから、起き上がれそうになったらまた顔を上げてくれればいい。実際、自分自身がその立場にいるときにはそんな風に考えることなんて出来やしなくて、なんでこんなに痛むんだろう、なんでこんなに悲しいんだろう、いっそ死んでしまえたらいいのに、と大なり小なり本気で考えるわけですけれど、いまはそうじゃないから、だから、これはいずれまたネガティブの底に落ちる自分に宛てたメッセージです。ついでに、自分と同じような人へも。

 

 過去を忘れることに意味なんてないと思う。未来ばかりを眺めることにも意味はないと思う。治らない傷がどこかにあってそれが痛むのなら、気が済むまで膝を抱えて泣きじゃくればいいと思う。狭い部屋の中が大洪水になるくらいに、大声で泣き続ければいいと思う。そうしたら、少しくらいは晴れやかな気持ちで扉に向き合うことができると思う。扉を叩いてくれる人はいつまでもやって来ないけれど、その代わりに精一杯溜めた涙の水圧が、扉を開こうとする自分の両手に力をくれるのだと思う。部屋の外には色んなものがある。嘘みたいな青空があって、綿菓子みたいな雲があって、平等に残酷な太陽があって、肌を刺すような冷たさがあって、寄り添うような温もりがあって、ビー玉みたいなドキドキがあって、真夜中みたいな臆病があって、時々は雨も降って、お気に入りの傘を差して、雨が止んだら傘を畳んで、どんな言葉を尽くしても表現しきれないこの世界は、きっとそれくらいの仕掛けでしか回っていない。僕らを乗せて廻る世界はあまりにも強くて、あまりにも頑丈で、あまりにも綺麗で、どうしても心が疲れてしまうから、時々は自分の部屋に閉じこもって、気が済むまで自分だけの世界を作って、それにも飽きたら、空の突き抜けるような青にまた心を打たれたらいい。いつもは嫌なはずの雨空だって、もしかしたら笑うことができるかもしれない。僕らもまた、きっとそれくらいの仕掛けでしか回っていない。