夜明けなんてどこにもない

 

 果たしていつからそうだったのかと自問自答を重ねてみたところで、まあ皆目見当はつかないわけだけれど、自分の中ではっきりと触れられる感情として、あるいは誰かと見比べて見たときにどうしようもなく浮き彫りになる感情として、綺麗なものだけを信じていたい、ということがあるように思う。いや、本当のことをいえば、信じていたい、とさえも考えてはいなくて、いかなる状況であってもそうあることが自然だという、そういった絶対的なフィルタが自分の意識にはあるようだった。捨てるとか捨てられないとか、信じているとか疑っているとか、持っているとか持っていないとか、持っていたいとか持っていたくないとか、そんな感情めいた感情とは全く隔離された場所にその感情はある。別にそれを願ったことも、それに憧れたことも、覚えている限りでは一度としてないのに、気がついたらこうなっていて、だから今更どうしようもないことだ。

 誰だって胸の奥には綺麗なものの一つや二つ持っているものだと思う。それと同時に、実際にはそんなことはあり得ないということも解っている。綺麗なものを平気で汚していく人のことが自分は苦手で、汚れてしまったそれをずっと見ているのも何だか嫌で、大体の場合はその場から逃げ出すことで場当たり的な解決を試みるわけだけれど、逃げられない場面というのも必然的にあって、その度に行き場のない何かを抱えざるを得なくなるわけで、思えばそんなことをずっと繰り返している。覚えている限りでは高一の春頃から、ずっと。

 

 喧嘩なんて何度だってすればいい。その後に仲直りをすればいいだけだ。仲直りをするために多くの言葉はいらない。どれだけ言葉を重ねたところで何も伝わるはずがないし、だからこそたった一言ですべてが伝わることもあるだろう。きっとその一言だけが、どんな暗闇でも消えることのない灯りになるのだと思う。解りあえなくても、解りあおうとすることはできる。そんな安っぽい奇跡を信じている。信じていたい。それくらいの幸福はどこにでも転がっていてほしい。ありふれていて、珍しくもなくて、嫌になるくらいには飽和していてほしい。

 色んなものを拾ってきたけれど、同じように色んなものを捨ててもきた。汚れたものを沢山、それと同じくらいの綺麗なものを。何一つも選んでなんかいないはずなのに、気がつけばいまに立っていて、気がつけば何かを選んでいる。その選択がたとえどんな結果を齎そうと後戻りなんて出来なくて、そんな当たり前に感謝する朝があれば八つ当たりする夜もある。それでもいいから、だから傘を畳んでほしい。空を見上げてほしい。真っ白な雪の色に気づいてほしい。これまでにどれだけ多くの自分を殺してきたところで、振りそそぐ雪の色は相も変わらず白いままで、たったそれだけのことを言いたかった。

 夜明けなんて別に好きじゃない。夜明けなんかよりも日没の方がずっと慣れ親しんでいる。日が沈んだ後の空は冷たくて孤独だと思う。だけど、夜明けよりは優しいと思う。だって、夜明けなんてどこにもない。何時間かすればまた夜になる。全部嘘で、全部偽物だ。消えない痛みがあって、越えられない夜があって、どうしても失くせない自分がいて、そんな全部をまとめて投げ出してしまいたい自分もいて、そういったどうにもできない全部を背負っていく決意こそが本当の夜明けで、そんな綺麗な何かがどこかにあればいいと思う。きっと一生かけても見つかることはないのだろうけれど、でも、それでも、どこかにあればいい。だから、夜明け色の空を探している。

 

 誰にだって、綺麗なものが一つくらいあればいいと思う。時には疑って、時には傷つけて、時には捨ててしまいたくなるような、それでいて、いつだってビー玉のようにキラキラと輝き続ける何かがあればいいと思う。それだけで世界は今よりもっと正しくなると思う。それは万人にとっての正しさではなくて、自分にとっての正しさだと解ってはいるけれど、そっちの方がきっと今よりは楽しい。なら、それがいい。

 以前、訊かれたことがある。生活には困らないような直方体の部屋に死ぬまで幽閉されると仮定して、外部からその中へ何か一つだけ持ち込めるとしたら、いったい何を持って行くだろうか。思考実験だ。それを初めて問われたときは、たしか適当に笑って誤魔化したと思う。でも、本当のことを言えば、答えは十秒足らずで一つに決まっていた。気恥ずかしくて言えなかっただけだ。二回目に訊かれたときには少なくとも最初よりは誠実に、話し相手、と答えたと思う。それは嘘じゃないけれど、でも本当でもない。

 妄信だろう、と言っていたと思う。その通りだと思う。思考実験だと割り切ってしまうことは簡単だけれど、しかし実際のところ、これ一つだけあれば生きていけるなんてことはまずあり得なくて、だから、この問いに即答できる人間は疑いようもなく盲目的だ。そんなことは言われなくても解っていて、それでももっともらしい答えはたった一つしか見つからない。だから、それが答えだ。

 一番綺麗なものを思い浮かべた。自分にとっては他の何物よりも絶対的な、突き抜けた青空みたいに暴力的で美しい色をした何か。ちょっとばかり考えてみて、だけど、そんなものは一つしかないに決まっていたことに気がついた。妄信だろうが勘違いだろうが、自分の中にある綺麗なものはそれ一つだけだ。どれだけ自分の足跡を疑っても、どれだけ自分の想いを殺しても、何度でも出会って、何度でも夜を越えて、その一言だけが、いつかの夜明けを迎えるための目印になる、たった一つの灯りだ。