これも結局は趣味の話

 

 無意味だなあ、と思うことがあります。無意味っつうか、無益っつうか、それって何の意味があるんだろう、と感じる場面が多々あります。人はよく価値観のナイフでお互いを傷つけあったりしますけれど、それを価値観だなんて都合のいい言葉で誤魔化してはいけなくて、もっと汚れた感情で、結局、それはただの主観なんですよね。主観。趣味といっても構いません。あれはいいだの、これはだめだの、そんなのはどこまでいっても主観の話で、どうしようもなく趣味の話で、だから、それが絶対的なことだと信じて疑わないのは愚かを通り越して哀れでさえあるなと思います。自分しか守れないちっぽけな刃で誰かを傷つけて、傷つけたことにも気づけないで、そんなにも無意味なことが、救われないことがあるかと思います。

 

 こういうことを言うと多方面から怒られるだろうと思うのですけれど、ブログだから許してほしいのですけれど、音楽において演奏技術って割とどうでもいいことだと思ってるんですよね、自分は。いや、マジで怒らないでください。これはあくまで僕の主観です。どうでもいいというか、いや、どうでもよくはないし上手いに越したことはないんですけど、それにしたって演奏が上手いか下手かなんて素人の自分にはほとんど解らないし、解りたいともあまり思わないし、解ったところで今度は自分から見ても下手に映る人間の価値が認められなくなったりして、きっとロクなことがないに違いないというイメージが小さい頃から胸の奥にあって、僕はその辺りのことをまったく気にしません。ドラムもベースもギターもボーカルも、何ならシンセの音作りでさえ、最低限のボーダーラインは一応あるにせよ、それ以上は別にどうだっていいな、と思っています。自分が心から良いと思えるのなら、全体のクオリティとかはマジでどうでもよくて、自分にとってのそれはもうこの上なく正しいものなのだと考えます。

 でも、実際に楽器に触れた経験のある人なら、僕がいかに馬鹿なことを言ってるかが解ると思うんですよ。自分でも解ってます。そりゃ田舎町の誰とも知らないピアノ講師の演奏よりも世界的に有名なピアニストの公演を聴きに行った方がいいに決まってるじゃないですか。いくら普段はピアノの音を聴かない素人といっても、それでも身に染みて理解できるほどの技術差がそこにあるのだろうと思います。行ったことないんで分かりませんけれど、何となくは解ってます。でも、だから何なんだよ、と思う自分もやっぱりいて、ピアノがそれなりに綺麗な音で鳴ってるんならどっちでも良くね、とついつい考えてしまいます。下手な奴の演奏なんて聴きたくないって人もいるでしょうけど、僕は知り合いが家で弾いてる下手っぴ(失礼)なギター演奏を聴いてる方がよっぽど楽しいです。それは本物に触れたことがないからだ、と言われたらそれまでですけれど、でも、その思考自体がだからどうでもいいって話なんですよね、これは。

 マジで無意味なんですよね。自分が正しいと思っているものが万人にとっても正しいとは限らないわけで、自分の目に映っている虹が他の人の目にも映ってるとは限らないわけで、そもそも他の人にとってはそれが果たして虹であるかさえ不確かなわけで、このベースラインの良さが解らないなんてアイツは可哀想だなあ、とか、あのグループのドラムって別に上手くも何ともないよね、とか、いや、どうでもいいんだって、そんなことは。それは主観で、ただの趣味だ。分かるか。それでもその刃を振りかざさないと気が済まないっていうんなら、いっそ自分の手首でも切ってろよ、と思います。演奏の上手い奴が絶対的な正義という思想を全人類が共有していると思ったら大間違いで、白熱のクライマックスシリーズと同じくらいに地元の草野球でだって盛り上がれる人間もどこかにはいるわけです。

 自分にとっての正しさを少しでも共有したいのであれば、だから歩み寄りの姿勢が何よりも大事だと思うんです。自分にとっての綺麗なものを伝えるために、価値観の刃を握ろうとしてはいけないんですよ。何で分かんねえんだよとか、馬鹿じゃないのとか、そういうことは思っても言葉にしちゃダメなんですよね。もっと他の綺麗なものを探しましょう。何でもいいんです。もっと優しくて、分かりやすくて、シンプルで美しい、たとえば写真を何枚か撮って、自分が見た虹の色を教えてあげたい人のところまで届けてあげればいいじゃないですか。その写真をきちんと見てくれるかどうかは自分次第であり相手次第でもありますけれど、それがつまり歩み寄りということですけれど、しかし歪んだ刃でいきなり切りかかるよりかはずっとまともな話し相手になってくれるだろうと思いますよ。その輝きは虹であると知っているのなら、それはきっと何よりも本物の虹で、自分には見られなかった虹に触れることができたなら、大体の人は大なり小なり喜ぶでしょうから。

 自分の父親がそんな感じの人だったんですよね。こう、あれは駄目であれはいいみたいなのを、聞いてもないのにずっと語り掛けてくる感じの人。自分が好きなものを誰かに否定されたくはないように、他の誰だって好きなものを否定されるのは嫌で、だからこそ触れた人間を誰彼構わず傷つけてしまうような刃は胸の奥に仕舞っておくべきなんです。そのナイフを隠し持っているのは人として自然なことだけれど、不用意にチラつかせるのはよくありません。周りの人間を遠ざけるだけです。

 まあ、これ全部自戒なんですけどね。約10年前のとあるスレ読んでたらちょっと悲しい気持ちになったので、いまそこで思ったことをそのまま書いてみました。大体こんな感じです。

 

 文章も同じなんですよね。あれがいいとか、あれはだめとか、別にまあどうだっていいんですよね、本当は。校正班なんてものを一応仕切ってはいますけれど、ぶっちゃけ書いた本人が正解だと思っていればそれが正解で(これは校正のときには毎回言ってる)、僕らの出る幕はないというか、校正班がやっているのは結局、著者と読者の意思疎通を円滑に行うための手助けというか、たったそれだけのことで、お節介みたいなもんなんですよね。無意味とまでは言いませんけれど、まあ、なんかそんな感じのやつです。伝われ。

 

 自分も未だによくやります。何つうんですか、こう、これはダメだろ、みたいな評価を自分の定規だけで他人に対してつけてしまうことを。こういうのはマジで良くないなあ、と思うし、それをしてしまったことを自覚する度にとてつもない後悔が押し寄せるんですけど、少しずつ意識改革していくしかないんですよね。転んでも立ち上がって、迷惑をかけた人には謝って、どうせまたすぐに転ぶんでしょうけど、少しでも長い間をまっすぐ歩けるようになったのなら、それは成長なんじゃないかなあとも思います。半分開き直ってますけど、そもそも、人間、転ばずに歩いていくことなんて元より出来やしないんだし。ちょっとずつでもお互いに近づくことができたのなら、それは幸せなことなんじゃないですかね。無理矢理に近づこうとして、隠していたはずの刃で切りつけ合う破目に陥るよりは、少なくとも。

 

 

 眠すぎてめちゃくちゃ雑な文章を書いちゃったな。でもまあ所詮ブログなんてこれぐらいの雑さで丁度いいんだろうな。