だからいまは素直でいられる。

 

 どれだけ後悔しても足りないと思うことが、たった一つだけ手元にある。ずっと手放せないままで抱えている鈍い痛みがある。その痛みに苛まれる夜を何度も繰り返して、乗り越えた気になった朝を何度も迎える。いつしかすっかり掠れてしまったように感じた寂しさは、だけどやっぱりすぐ傍に残っていて、振り返らないようにしようと前だけを向いて歩いているつもりでも、いつだってどこかにその影を探している。いまはもう遠く離れた後ろ姿を目で追おうとする自分を自覚する度に、胸の中でさよならを呟いた。誰に届くわけでもない別れを一方的に吐き捨てた。でも、それでも、気がついたときにはまた探していて、出会っていて、そうして拾い上げた痛みをなおも温めようとする。その熱を灯りにして、唄を歌って、文字を綴って、そんなことを繰り返している。ずっと。ずっと。ずっと。

 

 眠れない夜、布団の中でふと考える。いまの自分は間違いなく幸せで、恵まれている。これは傲慢めいた感情じゃなく、もっと単純に、素直にそう思う。

 たとえば、学歴がある。といってもまだ卒業できたわけじゃないからこの表現は些か不適切だけれど、しかし、相当な失敗を犯さない限りは大丈夫だろうという心理的なバックアップがあるだけでかなり楽だ。日本社会は学歴偏重の傾向があるから、最悪、京都大学の名前で殴れば何とかなる。なると思う。なってほしい。

 それに、好きなことができている。音楽を聴いて、好きなだけ歌って、作ったりもする。高校の頃から知りたかった数学を学んで、苦手な分野には頭を抱えて、たまに量子論を齧ったりする。音楽にせよ学問にせよ、それを話せる相手はそんなにはいないけれど、でもちゃんといる。大学とはそういう場所であって、空間であって、いまここにいることを許された自分は間違いなく恵まれている。

 あとは、これが一番大きいけれど、本当に色んな人たちと出会えた。バカ騒ぎをして満足するだけの関係じゃなくて、心の底からどうでもいいことや何よりも大切に思えることを、真正面から話し合える人たちと出会えた。京大に来るまで、そういった人は自分の周りには指で数えられる程度しかいなくて、とても退屈で窮屈だった。でも、ここは違う。みんなそれなりに頭が良い。頭が良いというのは勉強が出来るという意味ではなくて、思考力があるという意味だ。だから、いまはとても楽しい。こんな場所にいられるのに、恵まれていないなんて口が裂けても言えない。

 

 今日にしても、深夜二時半くらいを過ぎるまでずっと話をしていた。主に料理の話だった。僕は食にあまり関心がなければ知識だって当然なくて、まともな返答はほとんど全くと言っていいほどできなかったけれど、それでも向こうはボールを投げ続けてくれた。彼との会話はとても心地いい。それは肌を撫でる夜風とはまた違った類の静寂を孕んでいて、きっとその誠実さが嬉しいのだと思う。

 家まで帰ってきて、馴染んだベッドで横になって、眠れない自分を意識して、そうしてしばらく考えた。自分は恵まれている。そのことは疑いようがない。こんなにも多くのことを話して、語って、満たされて、その他に何を求めるんだろう。明日は昼から予定がある、早く寝よう。そう思って布団を思いきり被ってはみるけれど、やっぱり眠れそうにない。そうしている間にも、思考は意識を置き去りにして身勝手に膨らんでいく。一度考え始めたら、すべてを吐き捨てるまでは止まらない。

 

 

 会いたい。結局のところ、たったそれだけだ。会って、それから話がしたい。その場を埋めるためだけに生まれてくるような、帰り道の途中には綺麗に忘れてしまうような、そんなどうでもいいことだけをずっと話していたい。何でもいいんだ。声が聴きたいわけじゃない。顔が見たいわけでもない。何度考えたって見つかる答えはいつも一つだけで、ただ、話がしたい。それだけ。それ以外にない。

 怖かった。自分の考えを誰かに話すという行為を、昔の自分は酷く恐ろしいことのように思っていた。それは今も変わらない。自分の内側を誰かに見せるのはやっぱり怖い。いつどこからナイフが飛んでくるとも分からない無音の暗闇にひとりで立っているような気持ちになる。だけど、それでも、昔ほどは怖くなくなった。忘れてしまったふりとか、気付かなかったふりとか、そんな逃げ道に頼ることも時々あるけれど、何とか前を向いて歩けるようにはなってきた。何も解り合えないままで終わってしまうことのほうがよっぽど怖いと、いまではそんな風に感じられるから。

 素直。いつかの日に、君がくれた形容詞だ。当時の僕はそれほど自分に相応しくない言葉はないと思ったものだけれど、でも、もしもその言葉がなかったとしたら、いまの自分はここにいなかったんじゃないかと思う。自分みたいなどうしようもない奴に笑いかけてくれる人達の言葉を信じてみようと考えるいまの自分は、きっと生まれてさえいなかった。そう思ってしまうくらいには、あの頃の自分は自分自身のことを捻くれた人間だと思っていて、他の誰よりも歪んだ人間だと信じていて、誰からも嫌われて仕方のない存在だと評価していた。素直という言葉を受け取ったとき、本当に意味が解らなかったけれど、だけど何だか嬉しかった。そんなことを言われたのは生まれて初めてのことだったから。その形容詞が似合うような人間になっていけたらいいと思った。

 話したいことが幾つもある。伝えたい言葉だって、いまにも溢れそうなくらいにある。何年も前からずっと抱えてきて、育ててきて、いつかは言わなきゃいけないことだって解ってたのに、でも一つも言葉には変わらなくて、変えられなくて、そっちから気づいてくれないかなあなんてことも考えたりもして、きっと他の誰よりも多くの言葉を交わしていたのに、それなのにたった一つの言葉も言えないなんて、いまにして思えば何もかもが馬鹿みたいだ。

 いまの自分になら言葉にできると思う。もっと色んなことを、ちゃんと真正面から伝えられると思う。でも、言えない。今更だ。僕はもう僕じゃないし、君はもう君じゃない。君の知らない僕がいて、僕の知らない君がいて、世界はいまも正常に回っていて、たったそれだけのことがどうしようもなくすべてだ。

 だから、そんなことはもうどうでもいい。決して忘れはしないけれど、でも、だからこそ忘れてしまおうと思う。何もかもを忘れて、忘れたふりをして、そうしてどうでもいいことを話していたいんだ。いつか話したような他愛もない笑い話を、大した意味もなさそうな未来の話を、一方が飽きるまでは話して、やがて飽きたら全てを忘れて、そんなことをずっと繰り返していたいと思う。それは土台無理な話で、実際に戻りたいとはほとんど思っていないけれど、あの痛みが沸々と蘇ってくる瞬間だけはそんな架空へ想いを馳せる。いくつのさよならを何度積み重ねたところで、あの空色の夢を忘れることは到底できそうにない。

 

 

 君じゃない誰かと話をするときには、心のどこかでいつも考えている。あの頃は本当の言葉なんて何一つも言えなかったくせに、いまではこんなにも真っすぐに話ができて、自分のことをそれなりに伝えることができて、だから、もしもいまがその時だったなら何かが変わっていたのだろうかと、そんなはずがないと解っていながらも考える。どう転んだところで僕らはきっとこうなっていた。そう思う。それなのに、いや、だからこそ、こんなにも下らない反実仮想を僕はいつまで経っても捨てられない。初めから捨ててなんかいないし、だから拾ってもいない。この痛みはさよならの向こう側にずっと残っている。ずっと。ずっと。ずっと。

 

 隣にいたいわけじゃない。

 隣にいたかったわけでもない。

 そんなことは望んでいない。

 理由だとか目的だとか。

 好きだとか嫌いだとか。

 そんなことは実はどうでもよくて。

 ただ、話がしたい。

 ただ、話がしたかった。

 それだけのことだったんだ。

 

 たったそれだけの言葉なのに、あの日の自分には見つけることができなかった。