繰り返し

 

 ところで、僕は自分の話をするのが頗る苦手です。こう書くと、僕の身近にいる大多数の人は「え、お前、誰よりも自分の話してるやん(主にブログで)」と考えることでしょうけれど、まあもう少しだけ僕のことを知っている人は納得してくれるだろうと思っています。自分の話をするのが苦手なんですよね。昔話にせよ何にせよ。苦手というか、嫌なんですよ。僕がブログでそういったことを発信できているのは、対面に誰も座っていないからです。この場所を「感情墓地」と銘打っているように、ここは基本的に、行き場のない想いを安らかに眠らせておくための場所なんですよね。別に誰かに語りかけたいわけではなくて、現にこうして語りかけてはいますけれど、しかし僕の話を理解してほしいわけでは決してなくて、ただ静かに眠らせておきたいだけなんですよね。それをわざわざ書き起こして公開していることにはやっぱり多少の意味があるわけですけれど、だからって、ここに書いてあることを誰かに読んでほしいわけでも知ってほしいわけでもないんです。分かりますか?

 自分の話をするのが苦手というよりは、むしろ嫌だという感情の方が大きいです。嫌。字面的には凄まじいまでの否定を印象として受けるかもしれませんけれど、実際にそうで、他の誰かに対して自分の話をすることに僕はかなり否定的です。それは自分語りをするなとかそういうことじゃなくて、ましてや僕に対して自分の話を展開する人を攻撃しているわけでもなくて、そんな無意味なことがしたいわけではなくて、この否定は僕自身が僕自身へ向ける感情としてだけのものです。自分の話をするのが嫌です。嫌い。本当に嫌だ。だからいまは、昨晩のことを思い返して昨日の自分に爪を立てています。何で話しちゃったんだろうな。今更のように後悔してます。でも、もう遅いんだよな。

 

 

 昔話をします。まだ小学生低学年くらいの頃だったと思います。少なくとも中学生ではなかった。誕生日か何かだったかな、もしかすると何てことない気まぐれだったかもしれませんけれど、両親がプレゼントを買ってくれました。最近流行りのポケカです。たしかデオキシスレックウザのやつでした。ティッシュケースを二つ分積んだくらいの大きさをした金属製のケースに、構築済みのデッキが入っていました。もしかするとパックも入っていたかもしれないけれど、流石にそこまでは覚えてません。それをまあ当時の僕は喜んだわけですよ。この話は全然したことないと思いますけれど、僕はデオキシスがかなり好きなんですよね。一番描いたポケモンは何かと訊かれれば、デオキシス、と答えます。そんな大好きなポケモンのカードを、しかし当時の自分は何を思ったのか、まったく別のカードと交換してしまいました。同じマンションに住んでいた一つ下の子と。その瞬間はめちゃくちゃ喜んだんですよね。そりゃ、別に欲しくもないカードをわざわざ交換したりはしませんから、よっぽどそれを手に入れたかったんでしょうね、当時の僕は。それが果たして何だったのかは全く覚えてませんけど。ともかくそれを手に入れて、家へ帰って、その日の夜、寝る前の布団の中で、酷く後悔したことを覚えています。両親がそれを買ってくれた時、僕も一緒にその場に居たんですよね。地元にあるイトーヨーカドーの二階か三階だったと思います。わざわざ一緒に買いに行って、そこで両親が僕のために買ってくれたものを、しかもその中で一番いいカードを全く別のカードと交換して、そんなことにいったい何の意味があるんだと考えました。いや、考えなかったかもしれない。もっとシンプルに、両親の想いを裏切ってしまった、と思っていました。僕がそれを自ら手放したと知ったら、きっと悲しむだろうな。あるいは怒るだろうか。少なくとも良い気分ではないと思う。傷つくに違いない。泣かせてしまってもおかしくはない。それだけのことを自分はしてしまった。そんなことばかりがぐるぐると頭を巡って、気がついたら眠っていました。次の日の朝、僕の住んでいたマンションでは小学校がすぐ近くにあることもあって、そこに住む小学生はある程度集団で登校することになっていたのですけれど、そこでカードの交換相手と会いました。布団の中で呑みこんだ涙がずっとつかえていました。やっぱり返してほしい、と言おうと思っていました。でも、いざ目の前にしてみるとそんなことを言えるわけもなくて、何事もなかったかのようにマンションを出ました。小学校へ向かう途中の道で、やっぱり耐えられなくなって、走って家まで帰りました。インターホンで父親を呼び出して、その場で泣きながら謝ったことを今でも覚えています。そのとき、父親が何と言っていたかは覚えていません。少なくとも僕を責めるような言葉はどこにもありませんでした。普段は厳しいことを言うくせに、その日だけはやたらと優しかった。機械を介していてもなお解るほどには優しい声でした。最後の一言だけは何故かはっきりと記憶に残っています。とりあえず早く学校に行け。ぽん、と背中を押してくれたような気がしました。錯覚ですけどね。

 

 多分言葉だけじゃ伝わらないだろうと思って実体験を添えてみましたけれど、正しくそんな感じなんですよね。僕が自分の話をすることを極端に嫌う理由です。小さい頃の想い出、人間関係、得意だったもの、本当に好きだった何か。何年か前に死んでしまったペットのこと、嫌いだったクラスメイトとやりあった喧嘩のこと、いっそ忘れてしまおうとした昔のこと、それでも忘れたくない昔のこと。宝石箱のイメージです。好きなものも嫌いなものも、とりあえず全部その中に仕舞っておいて、そしてそれがどうしても必要になった時が来たら取り出す。そんな感覚なんです。上に書いた話を文字に起こしたのはこれが初めてですし、口でさえ誰かに伝えたことはありません。自分の胸の内にだけあればいい。自分にとって、この出来事は本当に大切な宝石だけれど、でも、だからこそ不用意に他の誰かに触れさせるべきじゃない。そう思います。これまでにも何度か話してることです。

 あのカードを手放してしまった瞬間に感じたことが、そのまま今の自分にまで繋がっています。あのカードを手放した夜、何よりも怖くて恐ろしくて、泣き叫んでまで両親に謝りたかったのは、両親がそれに与えてくれた価値を他ならぬ僕自身が綺麗に消してしまったことでした。交換相手からすれば、そのカードはただ光っているだけの紙切れでしかなくて、だから、僕が持っていたからこそ意味のあるものだったんです。あんなの、たった数千円の出費ですよ。それでも両親が僕のために買い与えてくれたものには変わりがなくて、だけどそれは僕が手放したことで消えてしまって、そのことが本当に哀しくて、嫌でした。

 だから、僕は自分の話をあまりしません。少なくとも、誰かと面向かって会話するときには決して持ち出しません。それは、その想い出の価値をなかったことにしてしまいたくはないからです。僕に宝石を与えてくれたのは僕ではない他の誰かであるわけで、それをなかったことにするということは、つまりその誰かへの裏切りだ。そんな声が自分の中でずっと響いているのです。

 

 

 彼の話です。本来なら他の誰にも伝えるつもりはありませんでした。ブログではちょくちょく書いてきましたけれど、対面で誰かに話すことはきっとないだろうと思っていました。あるいは、彼のような誰かに出会うことができたら、その時には話してみてもいいかもしれないとも考えていました。このことは以前の記事にも書いています。そして、そういう相手に出会えたということも。どこまでが本気かなんてことは分かりませんけれど、それでも僕の言葉を正面から受け取ってくれる人に僕は幸運にも出会うことができて、だから、僕と彼の話を知っているのは多分その人だけだったんですよね。その人であればきっと粗雑に扱うことはないだろうと考えて、あるいは信じて、僕は僕自身の話として彼のことを話しました。出来る限り詳細に、そのせいで一割にも満たない程度しか話せませんでしたが、でも、話すことに意味があったのでそれでよかったんです。

 僕が彼の存在にどれほど救われたのかとか、彼のことがどれほど好きだったのかとか、あるいは、彼がそこにいたから僕がいまここにいることとか、もし彼がそこにいなかったらきっと僕はいまここにいないこととか、そんなことは僕以外の大多数にとっては至極どうでもいい話なんですよね。無価値。その辺に転がってる無数のゴシップ速報とほとんど同レベルの情報。そんなことは十何年も前から解ってるんですよ。だからこそ、僕はそんな彼との出来事をぞんざいに扱ってはいけなくて、つまり不用意に口にしてはならない。

 

 昨日の夜。

 本当に後悔してる。

 言った相手がどうこうとかじゃなくて、ほとんど何の考えもなしに、それに手を伸ばした自分が情けなくて、許せない。