今週読んだ本についての話2+a

 

 

 これは割と切迫した問題なのですけれど、只今僕の下宿に設置されているエアコンを操作するためのコントローラが絶賛不調中でして、ここ数日間ほど暖房がつけっぱなしになっているんですよね。消せないんですよ、エアコンを。しかも昨日まで僕は大阪の実家にいたので、本当に何の意味もなしにつけっぱなしだったんですよね。無人の空間を三日間も暖めてくれていたエアコンのことを想うと非常に申し訳ない気持ちになってきます。ごめん。換気したいなあと思ってもエアコンを消せない故に窓を開けるのが何だか勿体ないように思えて、そのせいか何だか部屋全体が息苦しいです。明日にでも管理会社の方へ連絡するつもりです。覚えていれば。

 

 今週は『サクラダリセット1 猫と幽霊と日曜日の革命 / 河野裕』を読みました。

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 以前、階段島シリーズをまだ手元に置いていなかった頃、それらの作品が気になっているという旨のツイートをした際にとある方から「作者はサクラダリセットの方ですよ」と教えていただいて、それからずっと気になっていたんですよね。サクラダリセット。名前だけは知っている。たしかアニメだったと思う。世界をやり直す、的なあらすじだった気がする。当時の僕はその程度の情報しか持っていませんでした。気になってはいるけれど、そこまで積極的に読もうともしていなかった僕は、しかし先週紹介した風牙を購入したのと同じ日に、大きめの本棚に陳列されたサクラダリセットを偶然目にしてしまい、そして特に躊躇うこともなしにレジへと向かったのでした。こうして積読は重なってゆくのです。

 

 内容についての話も少しだけ。

 全体的に「はい、河野裕~~~~~」って感じでした。比喩と情景描写と回想と謎がドバドバ流れてきて、気がついたら最後の頁まで辿りついてしまっていた、って感覚は相変わらずだなあと思います。物語の終わらせ方もよかったです。何もかもが幸せに終わる終幕よりも、幾らかのどうしようもない不幸が残る結末の方がキャラクターに誠実であると僕は思います。ハッピーエンドもそれなりに好きですけれどね、勿論。

 

 木曜日から今日の朝までにかけて馬鹿みたいな量の文章を書いていたので、文字を書こうという気力がいま全くありません。サクラダリセットの話がしたいのに。俺はゴミだよ。それに、もうあと一冊くらいなら余裕で読めたと思うのですけれど、しかしそれのおかげで全然でした。むーん。

 

 

 +aの話をします。アドカレに書いたことの補足です。

 絶好の聞き手でありたいというのが僕の主張でしたが、より本心に近いことを言うのであれば、誰かの理解者でありたいと願っています。理解者。なんとも胡散臭い言葉ですね。「趣味:人間観察」と同レベルには信用なりません。大体、理解者って何なんでしょうね。「あいつは俺のことを分かってくれているはず」みたいなアレですか。いや、そんなのありえないですって。人間が如何ほどに自分のことしか考えていないかということは、これまでの人類史が雄弁に物語ってくれているじゃないですか。誰かが他の誰かを理解するなんて土台無理な話で、まあ何かしらの技術特異点が訪れてそれこそSFの世界みたいな感じにでもなれば話は別なのでしょうけれど、そんなことはほとんどあり得ないわけで、車は空を飛ばないし、秒針は同じ向きにしか回らないし、他人を理解することも当然できないわけですよ。だから、理解者っていうのはそういうのじゃないんです。僕が『理解者』という言葉に与える定義は、分かり合えるはずのない他人を理解しようとできる人、です。そんな人間になれればいいと思います。

 なれればいい、と言っているということはつまり僕はまだまだその域へ達せていないということです。何もかもを理解したいわけではないので外野のことはどうでもいいのですけれど、身の回りの誰かにしたって、自分には理解できないからと言って一方的に嫌うことがそれなりにあります。本当に駄目な奴だと思います。周りの人たちを見ている限りでは、どうにもその思考はあまり一般的ではないようで、だから、それは僕の弱さなんです。強くなりたい、と考えたことはないですけれど、あまり弱いままでもいたくないな、と最近は思います。まあ僕は愚かなので、しばらくしたらまた同じことを繰り返すのでしょうけれど。

 僕が誰かの理解者でありたいと願うその動機は、他ならぬ僕が理解者に助けられた経験を持っている故です。彼の話です。言葉の意味を教えてくれたのも、遠い世界の話を聞かせてくれたのも、自分に名前を与えてくれたのも、彼が何もかもの始まりだったと僕は本心から考えています。彼と僕はまったくの真逆で、意見が合うことなんてほとんどなくて、それでも彼は僕と話すことを選んでくれて、たったそれだけのことに僕は救われていたわけです。こんなことを幾ら書き捨てたところでもう手遅れなんですけど。彼が僕の理解者であろうとしてくれていたことに気づくのがいくら何でも遅すぎたと後悔しています。いまにして思えば、なんてことはいくらでもあります。だから僕は理解者でありたいと願うわけです。あの記事にはそういったメッセージを込めています。

 半年以上前にも似たような話をしているんですよね、実は*1。でも、あのときよりは少しだけ成長できているような気がします。少しだけ、ですけれど。