透明

 

 よく分からない何かに背中を強く押されて、ほとんど弾けるように家から飛び出した。家の中が酷く窮屈に思えてしまって、あるいは自分がいてもいい場所ではないように思えてしまって、行きたい場所なんてどこにもないくせに、それでも行きたい場所を探しに外へ出た。京都造形芸術大学がすぐ近所にあるということ自体は以前から知っていた。横幅も高さもやたらと大きめに設計された階段が歩道に面していて、その近くを歩いていれば嫌でも目につくのだ。赤信号一つだけを挟んだ向こう側に立ってそれを眺めてみると、それはまさしく空想上のアカデミアを切り抜いてきて現実に貼りつけたようだった。その瞬間、僕はなんだかその階段を上ってみたくなったのだ。きっと理由なんて特にない。自分の行為に動機をあえて当てはめるのであれば、そこに一度も上ったことがなかったから、ということになるのだろうけれど、だから上ってみようだなんてそんなことを今日に限って思ったのは、多分ただの偶然だ。

 これは遥か昔の話だけれど、芸大のような空間に憧れていた時代が僕にはある。中学生の頃だ。いや、高校生の頃でもまだ考えていたのかもしれない。はっきりとは覚えていないけれど、でもそういう憧憬を持っていたことだけはちゃんと覚えている。今日が日曜日だからか、階段の先に造られた構内に人は少なく、全体的にがらんとしていた。どんどんと先へ進んでいくと、色々な道具の置かれている部屋が見えてくる。卒業制作とかで使用されるのだろうか、なんて意味のないことを考えた。ノコギリがあるし、マネキンがあるし、画用紙のようなものや布の切れ端が落ちていたりもした。それを見て、なるほど、と思った。なるほど。芸術っていうのは何も音楽や絵に限った話じゃない。

 もしかしたら芸大へ進学していたような未来もあったのだろうか? いやあ、あまり想像がつかないからこればかりは無いだろうな。あったとしても、多分もう終わっている。これは想像に難くない。その世界線での僕はきっと早々に見切りをつけて自殺しているに違いないのだ。実際に部屋の中へは入らなかったけれど、あちこちを歩き回って色々な部屋を覗いた僕はそう思った。これはとてもじゃないけれど、僕が生きていける環境ではない。何というか、次元が違う。そう感じる理由は割とはっきりしている。僕は芸術がやりたいというわけでも、芸術の道に進みたいというわけでも別にない。だから、この場所にいるべきではないのだ。相応しくないから。

 この場所にいるべきでないというのなら、では僕はどこにいるべきなのだろう? 大したことなんて何も出来やしない僕は、いったいどこにいればいいのだろう。いったいどこであれば、存在を許してもらえるのだろう? 京都造形芸術大学構内を適当に歩き回っていると、広場とすら呼べないようなちっぽけな空間へ出た。腰の高さほどの柵がぐるりと設けられていて、小さな階段が二ヵ所にある。階段と階段との間は、控えめに見積もっても十五歩程度で事足りそうだった。二人座りがやっとの横に長いベンチが四つ、未だ点灯していない街灯の下で肌寒そうに身を寄せ合っていた。ベンチの向かいでは吉田松陰銅像がどこか遠くを見据えていた。ふと気になって、その目線の先を僕も追ってみる。何か見えるのだろうかと期待したけれど、すぐ近くに生えていた幹の細い木の枝葉が邪魔で何も見えやしなかった。それがどこか可笑しくて、少しだけ笑った。

 この世の全てとの関わりを失う代わりに自分が飽きるまで生きていられるか、あるいはこのまま人間らしく寿命を全うして生を終えるか、どちらか好きな方を選ばせてやろうと言われれば、僕は間違いなく前者を手にとる。これまでの不遇を詫びるつもりなのか、大学に入ってからの自分は嫌に恵まれていて、色んな人たちに出会って、色んなことを話す機会があった。炎の話、水の話、言葉の話、想像の話、お互いの話。思い出せないくらいには多くのことを話したと思う。まだまだ話足りないと思うし、もっと多くのことを話したいと思っている。それは本当のことで、つまり僕の本心なのだけれど、それでも、僕は幽霊になることを選ぶのだと思う。好きな人も、嫌いな人も、尊敬できる人も、心底軽蔑する人も、こっちへ来てからはたくさんの人と知り合ったものだけれど、でも、そんな奴らのことは全部どうだっていいと吐き捨てる自分が心のどこかに棲んでいて、どうしようもなく意思の弱い僕は、だからこそ前者にこそ手を伸ばすに違いなかった。それは他人を見下そうとする傲慢さゆえの決断では決してなくて、もっと惨めでみっともない感情ゆえの諦めだ。

 特にすることもなかったから、適当に写真を数枚撮って黄昏終えたら階段を降りた。帰り道の途中で夕暮れの空を見上げた。珍しく彼のことを頭の片隅で考えていた。行きたい場所なんてない。そんなことは家を出るよりも前から分かっていた。生きていたいともあまり思わない。それは死にたいという意味ではない。どっちでもいい。生きていようが死んでいようが、きっとこれ以上はもう何も変わらない。どうでもいい。僕がいて、彼がいて、自然があって、人工があって、それ以外の人間がいて、それが僕の認識下にある世界で、彼の存在によって僕という存在は十分に満たされたから、生きることに対してあまり未練がない。一方で死ぬことへの恐怖は存分にあるから、だから今日も僕は死なない。いつも通りに息を吸い込んで、そうして言葉を吐いている。

 家を飛び出したのは行きたい場所が欲しかったからじゃない。ただ居場所が欲しかったからだ。彼の隣に立っているのは僕じゃない。それはそれで構わない。だから、他のどこか、遠く離れた世界へまで歩いてゆこうと思っていた。そこに広がる空の色を僕は未だ知らないけれど、辿りついたその場所でこの世界が創り出す全てをただ不思議そうに眺めていたかった。そうは言っても性根はやっぱり人間で、孤独はどうしようもなく嫌で、誰かと話がしたくて、なのに誰とも話せなくて、やっぱり自分の居場所なんてものはどこにもないのだと不貞腐れている。誰も見つけてくれないというのならいっそのこと空気にでもなって、あるいは幽霊にでもなって、そうやって誰にも見えないような存在でいられたらいいのになんて、最近はそんなことをよく考える。過ぎたことを願う自分さえも殺して、透明な概念のままでこの空を漂っていられたらいい。誰もいないどこかに立って、頭上に薄く広がった橙を眺めながら、そんな夢をぼんやりと宙に描いた。