携帯端末

 

 たった数ミリしかない薄い氷の、その上をずっと歩いているのだという事実にはっとさせられる瞬間がある。赤の循環が始まったあの日から今日に至るまで、僕は幾度となくそれを踏み抜いて、その度に冷たい世界に曝されて、寒さに震えながらいつかの自分を呪って、それでも立ち止まることなんて出来なくて、次は失敗しないようにと仕方なく歩き始めて、そんなことを繰り返している。どうやら僕の頭はそれほど良くないらしく、つまり僕自身は相当に救いようのない人間で、愚鈍な僕は歩き続けているうちに水の冷たさをすっかりと忘れてしまう。そして、また同じように氷を踏み抜いて、自分の歩いていた場所が如何に脆いかということを再び思い出すのだった。

 午前二時の公園まで歩いてみた。そこに誰かが座っていればいいと思った。でも誰もいなかった。ベンチの傍の樹の幹に描かれた影模様が、少しだけ人の形に見えた。それ以外は何もなかった。滑り台も、ブランコも、ただそこにあるだけで、それだけでしかなかった。人の気配がない真夜中の公園は、真冬の水なんかよりもずっと冷たくて、ひどく寂しかった。こんな夜遅くに誰もいるはずなんてない。当たり前だ。そう思いはしたけれど、それでも歩いた。其処に誰かがいてほしかった。それだけでよかったんだ。

 携帯端末というのは便利なもので、たとえ道に迷っていたとしても一瞬のうちに正解を教えてくれる。誰かに会いたければ電話をかければいい。話がしたいだけならメッセージアプリでもSNSでも適当に起動すればいい。一人で退屈を潰すためのアプリだっていくらでもある。分からない問題でも数分調べれば大体の答えが分かる。現代を生きている人間のほとんどがコイツに頼り切っている。そんな僕らはきっとコイツだけに生かされていて、だからこれまでよりもずっと死んでいる。

 あの日の僕のポケットにだって、当然アイツはいた。文明を司っている奴は、僕が泣きながら助けを乞う瞬間を、両の眼をギラギラとさせながらいまかいまかと待っているに違いなかった。だから、絶対に頼りたくはなかった。でも、だけど、僕は弱かった。無人の公園の温度が触れた瞬間に、自分の無力さをこれでもかというほどに痛感した。何も知らない。何も出来ない。何も分からない。最も確実な手段を棄てて自分から探しに出かけたのは、つまりそういう驕りが心のどこかにあったからで、それなのに、結局僕は其処で立ち尽くす以外に何も為す術がなかった。まあそんなもんだよな、なんて言葉を呟いた。

 ポケットの中にはアイツがいる。歩き出した瞬間からずっと右手で握っていたそれを、ゆっくりと取り出して起動させる。真冬の空気の中で、ソイツは温かくも何ともない無機的な光を恩着せがましく放っていた。たったの十文字。それだけで答えが分かる。それだけでコイツは答えを教えてくれる。何もかもを正しい方向へと導いてくれる。それが堪らなく嫌で、情けなくて、だけど無力な僕はそうするしかなかった。

 数分もしないうちに望んでいた回答が映し出された。真っ白な液晶に浮かんだ黒の文字列を目で追った。読み終えて、そして笑った。最初から最後まで一部始終、何もかもがどうしようもないほどにすれ違っていた。そんなことまでも教えてくれる、携帯端末ってやつは便利で、有用で、簡便で、途轍もなく不愉快だ。

 きっと今もすれ違ったままで、だけど、僕は夜の公園から出られないままでいる。