20200404

 

 二者択一のように思える考え方があったとして、その両方ともが自分の内側にあるなと感じることがよくある。傍からみるとただ矛盾しているだけのようにしか思えないそれを、でも自分は平気で会話中に組み込んでしまうから、話が難しいとたまに言われる。たとえば。たとえば、永遠なんてないよな、と思う。それはそう。まあ、どうだろう。今後、科学技術があり得ないくらいに発展しまくって、何十万年後かにも人類のような知的生命が存続していたとしたら、ひょっとすると発明してしまうかもしれないけれど、永遠を象った何かしらを。とはいえ、いまのところおおよそ永遠と呼んでしまえるものはこの世界のどこにもなく、そのことは歴史が証明している。恐竜だって絶滅したし、離婚の確率はだいたい三割なんだっけ? どうやって算出してるのか知らないし参考にすらしやしないけれど、でもまあゼロでないことは確かなはず。この世界ってその程度のものだし、どんな綺麗な嘘を吐いたって。永遠なんてどこにもないじゃんって、そう思う。そう思うし、そう思うんだけど。でも、だからこそ永遠と呼んでしまっていいと思える瞬間もある。っていう話を書いた、一ヵ月前に。永遠なんてどこにもないから、だからこそそれを永遠だと名付けてしまえるっていうか。なんていうか、これも自分にとっての世界の捉え方の一つなのかもといま思った。目に映るもの全部に自分なりの解釈を与えたがるっていうか、だから、自分にとっての『永遠』という言葉の意味はそれで。どこにもないし、だからこそどこにだってある。どこにだってあるということにしてしまえる、だって本当はどこにもないから。魔法。魔法って言葉もよく使う気がする、主に歌詞やブログで。どこにもないんだよな、魔法とか。小学生の頃にはもう知っていた。炎を纏う大剣はないし、空は箒じゃ飛べないし、お茶会に興じる魔女はいないし。最近だと、雨雲を消し飛ばす魔法なんて誰にも使えない、って話をしたっけ。世界をみれば分かる、魔法なんてどこにもない。ないけど。ないから、だから「ああ、これが魔法なんだ」って思えるものもたくさんある。どこにもないけど。どこにもないけど、誰も知らないけど、だからこそ自分の手にみつけたそれこそが魔法なんだって、そう信じることだってできるはずじゃんか、っていう。そういう気持ち。永遠とか魔法とか、別にそんな抽象的で難しく聞こえるようなものだけじゃなく、もっと日常的なスケールでもこういうのは結構あって。「 X である」という主張と同時に「 X でない」という主張も頭の中に在るみたいな、等質量で。矛盾してるみたいに聞こえるだろうなあ、と思う。自分の中ではそれなりにしっかりと筋の通った考え方なのだけれど、でもまあ、こういう感覚的な話ってそれを持ち合わせない人には一生理解できないだろうし、こればっかりはって思う。これは諦めの「こればっかりは」ではなくて、もっとより肯定的な。だって、説明して理解できる程度のものしかこの世界にないのなら、外的要因とかかわりを持つ必要なんてないわけだし。というか、自分だって自分と違う他人の感覚的な話についてはほとんど理解できない。そんなものだって、この世界は。どうしようもなさすぎるし、だから喧嘩だってなくならない。今日もどこかで誰かが悲しんで、傷ついて、忘れ去られて。たとえ目も手も耳も届かなくたって。幸福と同じ数だけの不幸が生産されて、本当どうしようもないくらいに理想からは程遠くて。目を逸らすことはできなくて、何かを成せるだけの力もなくて、拗らせた理想主義のせいで自分も勝手に傷ついて。そのたびに嫌だなあって思って、そんなことを繰り返して。この先もずっと続くんだって、思う。思うけど。でも、こんな世界でも、って思う。矛盾じゃなく、本心から。思うにこの世界って自分自身を映し出す巨大な鏡で、ありとあらゆるもの、すべて。そんなの人に依るだろうから、あくまで自分はそう思うってだけの話だけど。ミクロとマクロ。区別を排そうとする傾向があるという話、ブログに書いた気がする、去年の夏とかに。恋人と友人とか、自己と他者とか。世界を諦めるって、つまり自分にとってそれは自分自身を諦めることとほとんど同義っていうか。でも嫌じゃん、そんなの。だから結局、たとえどんな最悪でも向き合い続けるしかないよね、っていう。三月。自分の思いに真っすぐに向き合おうとするだとか、そんな風にみられてたんだと思って、それ自体は嬉しかったけれど。鏡。向き合い。自分。翻って世界そのもの。無力だし、特別じゃないし。ヒーローなんていないし、魔法だって使えないし、雨の日に傘を差し出すくらいがせいぜいのこんな世界で、でもそういうの何一つだって否定したくないっていうか。嘘になるから。だから、こんな世界でも、って思う。こんな世界なんて、とも思うけれど、それでも、こんな世界でも、と思う。両方ともある、同じくらいの強度で。むずかし。

 

 

 

context


 そういえば「どうして彼と呼ぶんだろう」と言われたことがある、彼自身から。その理由自体は、実は昔の記事で一度だけ書いたことがあって、と思いつついま読み返してみたのだけれど、なんかよく分かんないことしか書いてなかった。三年前の自分、適当なこと書きすぎだろ。いやでも、当時の自分が適当なことしか書かないに至った心理は割と容易に想像ができて、というのも、単純に誰にも伝えるつもりがなかったからなんだろうな。そういう文章がこのブログにはたくさんある、特に昔のものになればなるほど。いまだってそう。「何の話をしてるの?」と首を傾げている人はたくさんいるだろうと思いつつ、そんなのは置いてけぼりで文章を続けようとしているし。画面の向こう側を想像しないとこういうことになるという一例だけれど、これは。まあブログだし。ところで話を戻すと、いまの自分ならもう少し正確にこの辺りの理由を説明できると思っていて、とはいえ、おおよそ肝心な部分については三年前の自分もきちんと言及していた。このブログにおいて彼を彼と呼んでいる理由がもしあるとすれば、それは自分たちの間を繋いでいたのがそういった匿名的なコミュニケーションだったから、これに尽きると思う。匿名性。いま思い出しても笑っちゃうな。自分が彼の名前を知ったのは、互いに知りあってから五年目のことだった。たしか、平安神宮前。馬鹿みたいに大きくて赤い、あの鳥居の前だったと思う。スマートフォンをみせてもらって、「なんて名前なの?」って。差し出された画面の上には恐らくは氏名であろうと思われる文字列が表示されていて、だけど、自分の目に映った彼とあんまりにピントがずれていて、思わず笑ってしまった覚えがある。自分が京都大学を志した理由は幾つかあるけれど彼の存在はそのうちの一つで、いや、本当にどうでもいいことばっかり覚えてるな。大学へちゃんと入ったら名前を教えてよ、って言ってたんだ、たしか。自分だけが浪人してたから、それで。無事に大学へ通り、浪人を終えて名前を知って、その末に約束が果たされたという感動めいた感動は、だけどどこにもなかった。ただ笑っただけ。画面上の文字列。それなりに知っているはずの誰かの、全然知らない名前。その名前にはその名前なりの人生があるはずで、物語があるはずで。シンデレラの幼馴染ってどんな気持ちなんだろうって。でも、そんな一切は自分たちにとって何の関係もなかったんだなって知れて、たぶん安心したんだと思う、そのときに。匿名性。いまでこそ互いの家庭事情なんかにも多少は話の及ぶことがあるけれど、でも当時の自分にとっての彼は彼でしかなかったし。画面上の文字列みたいな、互いの実在とか現実とか、そんなの本当は全部どうだってよくて。平安神宮、鳥居前。その証明のための五月だった、あれは、いまにして思えば。欠落。欠け落ちたもの。自分から欠け落ちたものは何だったんだろうと考えて、でも、それだって誰にも進んで話したりはしないけれど、このブログじゃ全然隠していない。その正体は結局のところ、彼という架空そのもの。難しい話。いや、本当は全然難しくなんかなくて、ただありきたりな言葉を使いたくはないという安っぽいプライドから難解にみせているだけ。欠落について語るとき、それは元々あったものがなくなったのか、あるいは最初からあった空洞に今更気がついたのかという二分があるけれど、思うにこの場合は後者だった。なんていうか、何かが埋まっているような気がしていて。でもそれは違ったんだってことに気がついて。空っぽじゃんって。空腹感と同じなんだよな、これ。意識にさえ上ってこなければ相手にしなくて済むのに、一度気がついてしまうと意識せずにはいられないっていうか。孤独? 孤独って言葉、ありきたりだよね。使っちゃった。なんか、まるで当たり前みたいに思ってたんだよな、彼との日常が。当たり前のことなんてこの世界に何一つもないのに、そんな当たり前ひとつさえ知らなかった、当時の自分は。そして知った、彼がいなくなって。厳密にはいなくなったわけではなかったけれど、主観的にはいなくなったも同然の。学部一回生の夏前。なんか、色々考えたな、あの頃は。たとえば言葉って何だろうとか。彼と自分とを結んでいたのは主にテキストデータだけだったから。何の色も形も教えてくれやしない文字を読んで、たったそれだけで何もかも解ったような気になって、何も解ってなんかいなかったし。じゃあ、あれは何だったんだろうって。あるいは、大人になるって何だろうとか。なんていうか、内的世界を棄てることと大人になるという結果が自分の中で結びついていて、当時。いまはそんなことないんだけど。内的世界。それまでの数年間、信じられないくらいに閉じきった空間で話すことが多くて、彼と自分は。二人だけしか知らないような、踏み込めないような。ような、ではなくて実際にその通りの。彼がいなくなって、いなくなったあとの世界に意味が見いだせなくなったというか。お互いに大人になっちゃったんだな、と思ったりして、当時の自分は。みたいな。そんなあれこれをああだこうだって考えて、最終的に行きついたのが、だから平安神宮、鳥居前、その証明のための五月。ただ笑っただけだったはずの五月にそういう意味を与えて。色があって話がない、って言ってたっけ。これは自分の言葉じゃなく、つい最近に耳にしたばかりの、受け売り窃盗付け焼刃のそれだけれど。その表現と照らし合わせるなら、だから話にしたってことなんだと思う。欠け落ちたもの、彼と自分との架空。そういう全部を話にした。……いや、数年ぶりくらいに書いたけれど、こんなこと。でも、彼にまつわる自分のことなら幾らだって話せそうな気がしてしまうな、本当に。青空みたいとか、たしかに、いまでもそう思う。「どうして彼と呼ぶんだろう」って、だって関係なかったじゃんか。名前とか、性別とか、生まれとか、お互いに、あの頃は。本当に欠け落ちたものは何だったんだろうって。実存? たぶん違う。だから、そう。っていう話。っていう話を、急にそういう気持ちになったから書き残しておいた。何の話?

 

https://note.com/kazuha58/n/n2b0a0705ccd7

 

 

 

詩集

 

 周囲の人間に短歌ブームが起こっていて、という件に関連して、そのうち書こうと思っていたものをそういえばと思い出したので、起床してすぐにワードパッドを立ち上げた。文字を主として扱う媒体は様々があり、個々人の性質がみてとれるもの、つまり公的な資料や御伽噺なんかは一旦除外して考えるものとしても、評論、自伝、小説などなど。ところで自身の生活に馴染んでいるものといえば小説と歌詞であり、そんな中、周囲に短歌ブームが起こったので「良い機会かも」と思い、詩集を買って読むなどしてみたのが一週間前。俵万智を買った。サラダ記念日。誰でも、何も知らない自分でさえ知っているやつ。短歌の権威が誰なのか分からず、ところで(これはあくまでただの比喩なので悪く言う意図は全くないのだけれど)日本の漫画文化としてコミケの同人誌をファーストコンタクトにするみたいな、そういう出会い方をすると色々と間違えてしまいそうだな……という気持ちがあって。とりあえず「誰でも知ってるってことは、いわばショートショート界の星新一みたいなもんでしょ」という安直思考に従って、自分はサラダ記念日を手に取った。いやでも、他の人が読んでいるらしい詩集をみせてもらったりして思ったけれど、これはこれで失敗だったかもなと思った。失敗っていうか、半分正解? セーラームーンドラゴンボール現代日本のアニメ文化最先端と勘違いするみたいな、それと同じな気がしてきている。いずれも後世へ名を遺すような素晴らしい作品であることには違いないものの(どっちもアニメ初代は全話観ている、はず)、ところでたとえば作画的な部分を切り取れば、現代日本であのような映像作品を目にすることは稀なわけで。両方を正しく知らないといけないような気がするな、と思った。思ったので、そういう有名若手作家の良い感じの詩集とかあれば教えてください、という私信を残しつつ。俵万智の詩集、というかサラダ記念日はマジで恋の歌が多くて。後書きでも「短歌といえば恋歌」みたいなことが書かれてた(読み返したら、正しくは「歌の本筋は恋歌」だった)んだけど、たしかに、これを読まされたら嫌でも頷かざるを得ないという感じで(嫌ということは全くない)。一方で、これは自分個人の問題だけれど、たぶん、自分がそういった表現法にあんまり適性がないというか。特に恋愛に纏わる事象をあの手この手で表現するみたいな、歌詞でいうと西野カナとか、いや、西野カナの詞は片手で足りる程度しか読んだことのないエアプだからアレなんだけど。『トリセツ』とか。あの歌詞はめちゃくちゃ良いなと思って、ところで主食にするかと言われれば話は別というか。サラダ記念日を読んだ感想も、短歌エアプであるということを断りまくった上で言えば、だいたいそんな感じだった。西野カナもそうだけれど、別に嫌いだとかいけ好かないだとか、そういう話ではなく、単に個人の興味から少し逸れているなというだけ。ところで、興味から逸れている程度のことでしかないので、「これ良いな」と感じたものは幾つもあり(『橋本高校』は特に好きだった)。インターネットで引用されまくっている、かなり有名っぽい短歌群を除いて一つ引用しておくと

買い物に出かけるように「それじゃあ」と母を残してきた福井駅

出典:俵万智『サラダ記念日』河出文庫

とか。そうだよな~~~と思ったし、実家帰ったほうがいいな~~~とも思った。これくらいのスケール感の、難しい言葉や概念があまり飛び交わない日常的な歌を読んでみたいという欲求がかなりあり。あるので、有識者の到来を待っています、本当に。

 

 詩集。詩集か。二、三年くらい前に河原町丸善で手に取ったことがあって、一度だけ。人と一緒に行ったんだけど、そのときは「なんかよくわかんないね」とだけ言って、陳列棚へそのまま戻しちゃったんだよな。二、三年前といえば自分が文章的な創作、有体に言えば小説へも手を伸ばしていた時期で、その頃、あるきっかけから短歌というものへ微妙に興味を持ち、それで書店の該当コーナーまで足を運んだという経緯。それから数年が経ち、まさか今更になって詩集を手に取ることになるとは思ってもおらず、「まさかな~」と思いながらバイト帰りの電車内で読んでいた。言ってもまだ一冊読んだだけなので、「なんかよくわかんないね」はやっぱり「なんかよくわかんないね」のままだけれど、でもなんか、解決してよかったなと思った。その、短歌へ興味を持ったきっかけの部分が。一回生の冬か、あるいは二回生の春か、その辺りの季節の変わり目だったと思うけれど、それくらいの時期に読んだ本のある場面が当時からものすごく印象的で。それが詩集に纏わるものだったから、だから確かめてみたかったっていうだけの、そしてそれが今になって果たされたというだけの話。印象的っていうか、なんだろうな、とても重大な情報が抜け落ちているような気がしてならないけれど、この表現からは。その本、というかそのシリーズ。数えたこともないけれど恐らくは通しで二桁回数読み返していて、特定部分だけでいいなら三桁以上かな、どの巻も。印象的な場面がいたるところに散りばめられていて、それでいて、それらは物語の本筋とあんまり関係がなかったり。小説の、そういうところが自分はすごく好きで、ってのはこれまでのと全く関連しない話だけれど。水族館。水と魚。色んな人がいるはずだよなと思う。泳いでいる魚をみたいという人がいて、魚の泳いでいる水槽がみたいという人もいて。ところで小説は、なんていうか、作品それ自体が一つの巨大な水槽って感じがしていて、自分にとって。その中にはたくさんの魚がいて、登場人物の人間関係とか、物語のメインテーマとか、悪役とかヒロインとか世界事情とか。ところで水槽を水槽として完成させるためには、魚よりもむしろたくさんの水を入れておく必要があって、それがその、情景描写とか何気ない会話とか地の文とか、そういう、言ってしまえばあってもなくてもいいような(嘘で、本当は必要不可欠な)部分に現れているみたいな。小説という媒体のそういう……、在り方? をものすごく好ましく思っている節がある、自分は。全然関係ない話したわ。脱線。無理矢理に話を戻すなら、そういう面でとても気に入っている作品があって、その一部に詩集の登場する場面があって、それを確かめることができてよかったっていう、それだけの話。

「わからないから、読んでみようかと思って。ブックオフで一〇〇円だったし」
「そう。感想は?」
「悪くないかな。でも、詩集ってなんか矛盾してる」
「どこが?」
「詩って集めるものじゃない気がする。一冊の本にまとまってるのが、なんだか不自然。本当はさ、ページを破いて、ばらばらに散らばらせて、なんとなく拾い上げたひとつを読むのがいいんじゃないかな」

出典:河野裕『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』新潮文庫

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 自分ひとりじゃ絶対に買わなかっただろうから、詩集なんて。特定少数の数人には感謝してる、ひそかにだけど。

 

 

 

 

 

20220324

 

 ここ最近考えていたことについて、時系列無視で色々。

 

 雲と観覧車って似てるなあと思って。自分のバイト先はというと梅田で、梅田って街のド真ん中に真っ赤な観覧車があるんだよね。乗ったことはないんだけど、バイトが終わって駅へ向かう途中、どうしたって目につく場所にあって。この頃、ようやく冬が終わって春が来て、日は徐々に長くなっていって。仄かに橙の滲んだ、それでもまだ青いままの空をバイト終わりの時間でもみられるようになって。だから久しぶりにみたんだけど、その、観覧車と雲のペアを。似てるなあと思った。なんていうか、自分とよく話す人はもしかしたら一度くらい聞いたことがあるかもしれないなと思う話題がいくつかあって、これは少し話が逸れるけれど。たとえば信号機が一斉に赤になる瞬間のこととか、あの話、自分はめちゃくちゃ好きで交差点を通るたびに思い出す。だから、そのとき隣を歩いている誰かへそのことを話したりする。まあそんなの相手に依るし、話さないことのほうがずっと多いけれど。ともかくそういった話題がいくつかあって、これもその中の一つ、雲の速度の話。空に浮かぶ曇の動きってめちゃくちゃにゆっくりで、それでいて数秒目を瞑ったら全然別の形になっていたりするから面白いなと思うのだけれど。あれが本当は、自分たちが歩くよりもずっと速いスピードで動いているって事実が自分はとても好きで。距離が離れている分だけ遅くみえるってだけで、そんなの当たり前のことなんだけど。でもなんか好きで。交差点へ差し掛かるたびに赤信号の話を思い出すのと同じで、雲を、特に青空を背に風と流されている白い雲をみるたびに、そういうことを思い出したりする。それがだから、観覧車だってたぶん同じだよなと思って。観覧車ってほとんど微動だにしないようにみえるけど、でもよくみたらちゃんと一定のスピードで動き続けているし、それはきっと自分が思っているよりはずっと速くて。観覧車、最後に乗ったのがたぶん中学の頃とかだからあんまり覚えてないんだけど。そういうところ。似てるなあと思った、この前のバイト帰り。

 

 新五百円玉ってあるじゃん。あれ。あれがずっと財布の中に入っていて、一枚だけ。去年の、いつだっけ。一二月末の時点では既に持っていたはずで、それよりももう少し前くらいにどこかで偶然手に入れたような記憶があるから、まあ一二月のどこかかな。こういうのって往々にして賛否両論あるのだろうけれど、自分は結構好きなデザインだなと思っていて。好きっていうか、なんか、真ん中にもう一つ円があるのがオシャレでいいなあって、それくらいのざっくりとしたやつだけど。あとは、単純にキラキラしてる。流通し始めたばかりのものだから当たり前なんだけど。ともかくそういうのがあって、ずっと使わないで残してる。短歌ブームが周囲の人間に起こっているらしくて、近頃。自分もノリだけで書いてみてブログへ載せたりしたけれど、あの日は朝から電車に乗ってバイトへ行っていて。改札で切符を買うために財布を開くのだけれど、するとどうしても目に入るんだよね、新五百円玉が、意識しておかないと使っちゃうからそれで。短歌が何なのか自分はよく知らない(某歌集の後書き曰く、短歌といえば恋歌、らしい)けど、日常の些事をその人なりの言葉で表現することに意味があるのかなと思ったりもして、だからその一日は目に映る事象に対して、特に意識的に頭を使っていたのだけれど、そこで新五百円玉。それまでは何となく残しているだけだったのに、改めて考えてみると今更のように疑問に思って、なんでこんなことしてるんだろ? って。なんでも何も、なんとなく、以上の理由なんてありやしないのだけれど、とはいえ。綺麗だからとか珍しいからとか、それが一度始まるとああだこうだとどんどん潜ってしてしまう人間だから、自分は。だから色々考えてたんだけど、その途中でふと思い至って、あれと同じじゃんって。昔、これは本当に昔で小学生とか、あるいはそれよりももっと幼かった頃のことだけれど、石が好きだったんだよね。それくらいの年齢なら珍しいことでもないと思う。両親に連れられていった河辺とかで丸っこくてつるつるの石をいくつか集めて、その全部を持って帰るわけにもいかないから一つだけって。完全にあれと同じだわ、と思って。実家の机の引き出しの上に石が並んでた時期、そういえばあったわ、みたいな。そういうことを思い出したりして、新五百円玉のおかげで。なんか、ちょっと嬉しかった。いやさ、童心に映る世界ばかりが正しいものだとも思わないけれど、ただ、歳を重ねるにつれてそういった、なんていうか、子どもっぽい物の捉え方? みたいなのが出来なくなっていくとしたら、それはかなり嫌なことだなと思っている節が自分にはあって。いつまでも子どもでいるわけにはいかないというのはそれはそうなのだけれど、だからって心の内に飼っている幼さを無下にする必要は必ずしもないわけで。その辺りをうまく両立できるような大人になりたいというのが三、四年くらい前の、「大人になるって何なんだ?」と考え続けていた頃の自分が得た回答のおおよそなのだけれど。ともかく自分はそんな感じの考え方をしているから、だからちょっと嬉しかったっていう、それだけの話なんだけど。なんていうか、いまじゃもう石なんて拾わないし。拾うことならまだあるかもしれないけれど、いや実際にあったけど、つい最近。でも、持ち帰ることは流石にない。そうやって、昔の自分がみていたはずのものを次第に忘れていって、忘れているということにも気がつけないまま。だけど、それってなんだか悲しいじゃんか。だから、そのことを少しでも思い出せて嬉しかったっていう、そういう話。新五百円玉。たぶん、まだしばらくは使わないと思う。なんか、なんとなく、まだ他にも思い出せそうな気がするから。

 

「一葉さんってよく他人の話を覚えてますよね」みたいなことを言われた気がする、三月ライブのタイミングで。そうかなあと思って、そうかもなとも思った。いやでもそれは、単に記憶のリソースをそういう方向へ割きがちというだけの話で、記憶力が人一倍あるとかそういう話ではないだろうと思うけど。忘れていることのほうがずっと多いだろうとは思うけれど、でもたしかに、他人に纏わる諸々を比較的よく覚えているほうなのかもしれないと思うことはある。「前にこういうこと言ってたよね」という風に話を振ってみて「そんなことあったっけ?」と返されることは割とあるし、いやでもそれって自分とは別の誰かが経験している回数と比較することは絶対にできないから。あれだな、性格診断の結果をみて「そうかもしれない」と思うのと同じだわ。同じだな。同じということを踏まえた上で、でもまあたしかにそうかもなとは思う。関心値の低いものは記憶に残らないがちで、どうしても。たとえば誕生日とか。こればっかりは本当に覚えられない。自分に近い人と、あとは特徴的な数字の並びをしている人くらい、これはもう諦めてる。ただ、なんだろ、そういう他人の人となり的な部分に自分はそこそこの興味があって。たとえば単に好きな食べ物という情報だけでは記憶できないのだけれど、それに付随してどういったところが好きなのかとか、あるいは好きになったきっかけとか、その料理に纏わるエピソードとか、そういった個人の性質を表現しうる情報が付加されていると途端に覚えやすくなるというのはあるかもしれない。いや、誰だってそうなのかもしれないけど、少なくとも自分はそうという話。なんていうか、これたぶん去年の七月くらいにも書いたと思うんだけど、こういうことを書いたなって記憶があるから。なんだけど、その、なんて書いたっけな。中学時代の友人の家へ行く最短経路を忘れたとか、その頃よく遊びに行っていた施設が廃墟になっていたとか、なんかそういうことを書いたと思うけど。その、心肺が停止するという物理的な死に対応するものが概念的な領域にも存在するとしたら、それって忘却なんじゃないかと思う、自分は。あの夜が怖かったのも、というかあの夜に「死ぬの怖いな~」って気持ちになったのも、だから結局はそれが原因で。どんな大切な一瞬がいつかのどこかにあったって、その瞬間に立ち会った全員が忘れてしまったとしたら、それはそもそも初めからなかったのと同じじゃんかって気持ちがめちゃくちゃ強いっていうか……。なんかさあ、悲しすぎる、いくらなんでもそれは。みたいなアレがかなりあるから、誰かと何かをしたとか、あるいはこういうことを話したとか、そういうのを意識的なり無意識的なりに記憶しようとしているのはあるのかもな、と考えている、割と何年も前から。そうはいっても色んなことを忘れていくし、どうしたって。だからたまに思い出したくなって、外へ出掛けたりする。あの夜もそうだったし。いつも通りなら絶対に歩かないようなルートをわざわざ選んで、ここではこんなことがあった、あんなことを話した、って思い出しながら。色々ある。地元の公園、小学校の非常階段、商店街、市役所。鴨川沿いだってそうだし、それこそ京都の街には山ほどある、思い出の断片みたいなのが。そういうの、忘れたくないんだよな。忘れたら、最初からなかったのと同じになっちゃうから。みたいな。大学に来る前からこんな考え方をしていたわけじゃないけれど、大学へ来て、色んな人と知り合って、そういう気持ちが強くなって、だから余計に他人のことを記憶するようになったってのはあるかも。二回生の三月ライブ。深夜の泊まり込み、それなりに寒い寮食でストーブを囲みながら。細かな言い回しは流石に思い出せないけれど、「せっかく出会えたんだからちゃんと知りたい」みたいな。本当に言ってたっけ、そんなこと。捏造してるかも。でもたしかに言っていたと思う、それに類することを。あの一言が本当に刺さっていて、いまでも。それがなくたって元からそうだったんだろうけど、自分の性質はどちらかといえば。だからそれがきっかけで世界の見え方が 180°変わっただなんてこともないのだけれど、それでも。より意識的になれたという話、他人のことについて。蛇足。以上の話とは全く何の関係もないけれど、彼もいよいよ卒業かーと思う。三月末の死ぬほど忙しそうな時期にわざわざ時間を作って会ってくれて、それはそれで嬉しかったのだけれど、最後の最後に紙パックの野菜ジュースを三本渡されて面食らった。ちょうどいまそれを飲んでるんだけど。こう……、なに? なんていうか、マジでもう今後滅多なことでは会えないだろうっていう最後の最後、たぶん一生忘れないだろうなって場面で伝えられるのが自分の健康面に対する心配なんだなと思って、かなり反省した、流石に。なので 2022 年度の目標へ「健康に生きる」を追加。大丈夫。昨夜、自炊マスターに健康的な食生活について色々と教えてもらったから。これを書き終わったらその調達に出掛けるつもり。いや、なんか、本当にね。他人事みたいに言うけれど、あまりにも色んな人に心配をかけすぎているなとは思っていて、特に 2021 年度になってから。今月だけでも 10 人近くから言及されたと思う、食生活について。そういう心配っていうかなんていうか、ある種の負担的なものを他者から向けられる現状を喜ぶような悪趣味も別にないから、いい加減に改めなきゃいけないなって気持ちはこれまでもずっとあったんだけど。っていう言い訳。いやでも、そうだよな。なんか、自分のことが一番どうでもいいっていうか、自分にとっての優先順位で。この世界から自分がいなくなったとしてもまあ別に、みたいな考えが割とずっとあって、たぶん昔から。でもなんか、最近はそうとも言ってられないなって気持ちになってきた、流石に。自分のことを特別だなんて、そんな風には思っていないけれど、別に。でも、自分に何か大きめのアレがあったらきっと悲しい思いをするんだろうなって人にまるで心当たりがないだとか、そんなことは絶対にないから、絶対に。だから少しずつでも変えていけたらいいなって。一昨日の夜の帰り道はそんな感じのことを考えてた。

 

 現在の自分と多少なりとも接点のある人で、自分の過去についてもある程度知っているという属性をも兼ね備えているという人は、まあ想像するにほとんど皆無なはずで。それはそう。何故なら、自分は自分の話を滅多にしないから。というのは半分嘘で、このブログにおいては断片的に記されているのだけれど、とはいえ、高校時代の具体的なエピソードなんかを載せたことはほとんどないように思うし。「そういえば昔はこんなことを考えていた」とか「あの頃よく通っていた場所へ行った」とか、そういうのばっかりで。なんだろうな。誰にでも話しているレベルのことって、中高は帰宅部で、音ゲーにハマっていて、兄弟は姉が一人いて、とかそのくらい? いや、たぶん本当にそのくらいしか話していないような気がする。コロナ禍以前は高校時代の友人と年末に集まって年越しをしていた、という情報を記憶している人がこの前いたけれど、よく知ってるなと驚いたくらいには。余談だけれど、中高帰宅部というのは一割嘘で、本当は中一の三ヶ月間だけ科学部なるものに属していたという裏設定がある。その間に法に触れたり触れなかったりし、その後、幽霊部員を経由して帰宅部という運びになった。閑話休題。ともかく、ほとんどの人が知らないんだよな、昔の自分のことを。それはそれとして、自分も自分で昔のことを多かれ少なかれ切り離して考えるような癖があって、というのも名前? 名前がばらばらなんだよね、その、中学までと、高校と、あとは大学へ来てからとで、呼ばれていた名前が。中学までは本名をもじった綽名、誰もが通る道。大学へ来てからはずっと『一葉(いつは)』。ところで高校時代の自分は『まよい』と呼ばれていて、何でだよって感じだけど。みたいな風に、名前が違うこともあって自分の中で分かりやすく切り替わってしまうっていうか。この名前で呼ばれていた頃の自分、みたいな。記憶の引き出しを開けてみて、人に依っては小学校の思い出とか中学校の思い出とかがその中でごちゃ混ぜになっていたりするのかなと思うけれど、自分の場合は呼ばれていた名前でラベリングされて整理されている感じというか。そんな感じのアレなので、ということが本当に関係しているかどうかは不明だけれど、大学へ来てから知りあった相手に自分の過去編について話すことに若干の違和感があったりなかったり。ブログへ書く分には、引き出しを開けて箱から取り出すだけだから支障ないんだけど。ところで現在の自分の生活の中心は大学にあるわけで、だから高校以前のことを知っている人が極端に少ないという話へ戻るのだけれど、昨夜、そういう特例的な領域にいる相手と話をしていて。向こうの部屋が寒いって話になって、暖房つけてるのに。半袖だから。そりゃ寒いでしょって。ところで自分は相手の服装に対して半袖のイメージが全くなかったから、半袖を着てるところなんてみたことないなって、ダウト。そんなことはないらしい。五年前、浪人時代、上本町、エスカレーター。訊けば思い出すかと思ったけど、全然そんなこともなく。当時の自分が何かを言ったらしくて、相手の服装に関して。それが印象的だったから覚えていて、そのときに着ていたのが半袖だったからそっちもみているはずと。本当に思い出せなかったから答えを聞いて、曰く「よくみたら可愛い服着てるじゃん」らしい。いや、誰? マジで誰だよ、と思った、心の底から。あまりにも知らない自分すぎて一頻り笑ったけれど、いや、だからそのときに思ったんだよな。上の方でも書いたけれど、自分は割と色んなことを覚えているほうなのかもしれないなと思いながらしばらくの間を生きてきて。でも昨夜、自分が忘れてしまっている自分以外の誰かは今でも覚えているという過去を突き付けられて、「あー、たぶん他の人たちってこんな気持ちなんだな」みたいな。「そんなことあったっけ?」って。そう言われるたびに「いや、あったよ」と思うんだけど、自分はいつも。でも、本当に忘れてしまっていることに対して思うことって「そんなことあったっけ?」でしかないんだなって。自分が気づいていないというだけで、他にもたくさんあるんだろうなあこういうこと、という気持ちになり。一方で、自分が忘れてしまっていても他の誰かが覚えていてくれれば嬉しいという気持ちもあって。自分がその、忘れている側に立つことがあんまりなかったから、ものすごく新鮮だった、それが。人間関係。生きる意味って何だろうなって思うんだけど、よく。どうせ何もできやしないのにって。でも、こうやって自分以外の誰かの生きた痕跡を記憶に刻んだり、あるいは自分の生きた痕跡を誰かの記憶へ留めてもらったり。自分にとってのそれって、だからこれなんだろうなって気がしてる、四年くらい前から。「感情墓地って名前、いいですよね」といった旨のことを言われたのを覚えていて、数日前に。どうしてこんな名前なのかとか、理由は本当にない。記憶がたしかなら、五秒くらいで適当に決めた名称のはずだから。でもまあ、だから、このブログだって結局はそういうものっていうか。自分の考え方について発信して、誰かが受け取ってくれたらいいなって思いながら。このブログを立ち上げて、かなり最初期のほうに書いてるはずだし、そういう存在意義について。生きる意味。抽象的な死とはつまり忘却。そんな深いことを考えているわけでもない。でも、さっきの年越しの話みたいに、どこかの誰かが勝手に拾っていって、そのことを覚えていてくれたら嬉しいよなって思う。その分だけ寿命が延びるじゃん。どうせなら長生きしたいし。だからこうやって、書こうが書くまいがどうだっていい文章を、今日も今日とて生成してるんだよなって話。

 

 

 

20220323

 

 自分なら誰かのことを助けられるだとか、そんな風には思っていない、別に。というかむしろ逆で、誰のことも助けられやしないなと思う。もっと広く一般に、この世界を生きる誰だって自分以外の他人を助けられたりはしないと思っていて、自身もまたその例外でないという話。身近な誰かのことを助けたいと思うことは多々あっても、それが達せられたと思えた瞬間はたぶん一度もなかったし。なんていうか、難しいな、この辺りの感覚について説明するの。助けるって言葉の定義をちゃんとしたほうがいいのだろうけれど、それよりも自分の中に在る問題意識について説明したほうが早いような気がする。なのでそうすることにすると、だから、意識的な救済に対してある種の諦めがあるんよな、自分は。意識的? 能動的かもしれない。分かりやすく言えば、その人のことを本当の意味で助けられるのってその人自身しかいないよなーって、そういう。外野がどんな強くそれを願ったって何も変わらないっていうか、変えられないっていうか。これはなんていうか、本当にそうだと思っている、少なくとも自分は。これまでの全部がそうだったし、これからもずっとそうなんだろうなって。たとえば「友達がほしい」と言っている人がいたとして、「じゃあ友達になりましょう」と提案したとする。そういった想像をすることは日常的にあって、でも、どうしたってハッピーエンドめいた結末を思いつくことが自分にはできない。考えられるのは、たとえば依存。プライバシーだとかキャパシティだとか、自分と相手とのそれをごちゃ混ぜにしてみたり。あるいは拒絶。自分の言葉や感情を受け入れてもらえなくて、それで「あいつは友達なんかじゃない」とか言ってみたり。そういうバッドエンドしか想像できないんよな、どうしても。そして、その予想が大きく外れているという風にも思えない、自分には。これってだから、また別の比喩を持ち出すとしたら、雨に打たれて困っている人へ傘を差し出す行為と同じで。すぐに止む雨ならそれで十分だと思う。でも、一個人の身に振りかかり得る問題の様々ってそうでないケースも往々にしてあるというか。夕立みたいに突然降ってくるくせに、台風ばりの勢力で数日も数ヵ月も数年も。そういうのってたくさんあるはず、誰にだって。傘を差し出す行為って、だからめちゃくちゃ悪く言うとその場しのぎでしかないように思えるというか。一時的にはそれで救われるかもしれないけれど、その誰かは。でも、暴風雨の中でずっと傘を差していたら、それがいずれ機能しなくなるって未来は誰にだって想像できるくらい現実的なもののはずで。「じゃあ友達になりましょう」という提案は、どちらかというとそういった、大雨に対する傘と同じ類のものとして映るというか、あくまで自分の目にはという話だけれど。その誰かは傘がないから困っている? 雨宿りのできる場所があればそれでいい? 一緒に雨に打たれてくれる誰かがいたら? なんか、どれも違う気がする。だけど自分たちが、あるいは自分が、自分以外の他人に対してできることって、でも結局のところそれくらいのことでしかないんだよなと思っていて。意識的な救済。諦めなんかではなく、事実として。その誰かを困らせている根本的な原因は傘がないことでも、雨宿りのできる場所がないことでも、隣に誰もいないことでもなくて、いままさに降り続けている雨そのものであるはずなのに。雨雲を綺麗に吹き飛ばす魔法とか、そんなの持ってないし、誰だって。なんかなあ、って思う。「友達がほしい」なら解決すべきはそれが実現しない理由のほうというか、コミュニケーション能力とか過去のトラウマとか、雨の正体は人と場合に依るだろうけれど。でも、だけど、だからそれって周りの人間にとっては手助けのしようがない領域というか。魔法なんてないから。それを終わらせることのできる何かがどこかにあるとするなら、それはその人自身の意思だけなんじゃないのかなと思う、自分は。意思っていうか、認識? 三年前の小説もどきでも同じようなこと書いてた気がするな、たしか。傘は要らない。隣に誰かがいたって何も変わらない。雨が止むことって、たぶん一生なくて。その雨が過去の体験に根ざしたものなら尚更、だって過去をやり直すことはできないから。……自分の話。自分は救済された側の人間だと思う。だけど、これだって色んなところで書いているような気がするけれど、このブログでも小説もどきでも、だけど雨がすっかり消えてなくなったなんて風に思ったことはない。劇的な解決なんてなかったし、エンドロールも。ただ、晴れた青空と同じように、塞ぎ込んだ曇り空だってきっと好きになれそうと思えるようになったというだけで。相も変わらず天気予報は当てにならないし、晴れの日があれば雨の日もあるし。一週間ちょっと前にだってあった、超ド級の雨が。そんなものだと思う、人生とかいうの。そのときだって思った。こんなの、自分以外の誰にだってどうにかできるようなものじゃない。だからほとんど誰にも相談しなかったけど、それはまあいいや。話を戻して、そうやって止まずに降り続けている雨をなんとかできるのは、結局のところその人自身だけという気持ちがとても強くあって自分は。誰かを助けたいと思うことはある。誰かを助けようと思って動くこともある。あるけど、その人自身が向き合わない限り何の意味もないんだよなって諦念もまた同時にあって。自分なら誰かのことを助けられるだとか、そんな風には思っていない。これはつまりそういうこと。なんか、虚しいなって思う、こういうの。困っていたら助けてくれる人はたくさんいる、本当に。この世はそんなに悪いところじゃないっていうか、それくらいの善性は疑わなくたっていいと思う。たくさんいるんだよ、本当に。ただ、不幸なすれ違いがあるだけで。雨雲を消し飛ばす魔法は誰ひとりとして持っていないけれど、雨に寄り添うくらいの優しさと勇気はきっと多くの人が持っていて。でも、雨に打たれた誰かが本当に求めているものはその、どこにもありはしない嘘みたいな魔法で、だからどうしたって救われないっていう、それだけの話。たったそれだけの。四年くらい前の自分を思い出すんだよな。この前、河沿いに座って話し込んでいたときもそうだった。自分も通ってきた道だからって、別の誰かの苦しみを同じ型に嵌め込んで理解しようとするのは最低だけれど、でも、どうしても思ってしまう。自分がそうだったから。いまと四年前とを比較して、周囲の環境が何か変わったかなと思う。もちろん新しく知りあった人がいれば遠くの地へ就職して離れた人もいて、そういった意味では絶えず変化しているけれど、でも思うに大局的には何も変わっていない。いま身近にいる誰かはきっと、四年前のいつかからずっと優しいままでいるはずで。それを勝手に選別して、あれは違うこれは違うって、他者の内面を一方的に切り捨てていたのは他でもない自分。誰も助けてくれやしないだとか嘯いて。蔑ろにしていたのは自分なのに。この世界を生きる誰だって自分以外の他人を助けられたりはしない。冒頭のこれは本当のことだと思うけれど、でもそれと同時に、この世界を生きる誰もが自分以外の他人にとっての救済になりえるんだよなとも思っている。同じくらいに強く。誰もがその可能性を持っていて、秘めていて、それくらいの希望はありふれていると思う、この世界に。だけど、だから、希望だけがあるんだよな、この街のいたるところに。いつかの自分がそうだったから思うこととして、そのことに気がつくのってめちゃくちゃ難しいんだよ。いまでこそみえている多くのものだって、大雨のなかじゃ目を凝らしたって見つけられやしない。ほとんど偶然が連れてくる以外にないような、そういう希望だけがあって、星の数ほど。なんか、虚しいなあって。困っている誰かを助けようと動ける人はたくさんいるし、他人の悩みに向き合おうとしている人だってたくさんいる。昨夜みたいな、誰も知らないようなところで。どうしたらいいんだろうね、こういうとき。誰も悪くないんだよ。ほんと、誰も悪くないのにな。

 

 

 

20220320

 

 先日の話。インターネットで様々について調べている最中、とある匿名ブログにぶち当たって。何となしに開いてみて、該当記事をとりあえず一通り読んで、それからブログトップへ飛んだ、いつもの癖で。トップページって、この記事を読んでいる人なら分かると思うけれど、そのブログの最新記事が同時に表示されるんだよね。だからその、行き当たった初めの偶然とはもはや何の関係もない、ただ同じ人が書いた最新の文章というだけのそれが自分の目に留まることになって。最終更新は二年半前。死にたいんだってさ。なんか、めちゃくちゃな気持ちになってそれで、阪急電車、梅田駅へ向かう途中。すごく嫌だなと思って、その通りになっていたとしたら。辿れるところまで辿ってみようと思って、そしたら今度は別のブログに行き当たって。同じ人の、最終更新は一年半前だった。とりあえず一年間は生きていてくれたらしい。よかったと思う。でも今度は、死ぬことに決めた、って。なんか、なんかさあ。めちゃくちゃ嫌なんだよな、こういうの、自分、本当に。本当に嫌。ここでいう嫌は、マジで自分勝手なそれ。相手に向かって言っているのではなくて、もっと漠然とした何かに対して。いや、分かってるんだよ、分かってはいる。単に自分が知らないってだけで、この国だけでも年間自殺者なんてどれだけいるんだって話だし、分かってるんだって、それくらいのことは。それはそれとして、じゃん。知らないから、目に映らないから。そうやって片づけることのできる人とできない人がいて、別にどっちがどうとかではなく、大きく分けてその二パターンがあって。何ができるわけでもない、いまの自分がそれを知ったって。遠くの戦争がどうにもできないのと同じで。なのに、どうにもできないのに、どうにかできればよかったのにと思わせられるのが嫌というか。嫌。どちらかというと虚しいが近いかも。なんか、なんかね。誰も不幸になってほしくないんだよな、身近な全員は勿論、観測範囲の外でだって。全部がうまくいけばいいのにって、本当にそう思ってて。そう思い続けるのは、それが叶わないことを知っているから。知ってるけど、知ってるけど。交通整備、飛び降りたゲーム制作者。どうにもならない、だって赤の他人だし、縁も所縁もない。どうにもできない。たった一度の偶然で行き当たってしまうくらいには、どうにもできないってことの証明で溢れかえっている、この世界は。同じ中学の先輩とか、ずっと一緒だった友達とか。身近にいる人ですらどうにもできないし。いや、自身のことを過信しているわけではないけれど。どうにもできない。どうにもできないや。商店街の交番の、年間死亡者数を知らせる数字。もう何年もみていない、通らなくなったから。あれだって同じ。自分以外の全部が、自分にとってはどうにもならないということの証明の一つ。

 

 

 

未来予知

 

硝子張り気怠く見遣る営みを攫う轟音いつもぶつける

 

目を閉じて海底列車の一人旅今朝は運休雲があるから

 

それはそれとして短歌って何なんだ 雰囲気エアプ怒らないでね

 

「久しぶり」飾られた木はまだこごえ春一番をだから待ってる

 

ひと月前送るはずだったメッセージ消えないペンで未来予知とか

 

二百二十余りの宛名に諭される君も僕も七十八億の

 

足並みを揃わせまいと摩擦力整列のは等間隔に

 

もし明日世界がと笑う少女など素知らぬ顔で電車は駅を

 

交差点三色並ぶイタリアにイエロー三秒さあ、ここはどこ

 

どうしてか南北双子の駐輪場片割れだけがいつも寂しげ