my dear

 

 愛だの好きだのありがとうだの、口でならどうとだって言えるというのはもうこのブログでは散々に書かれてあることで。本人しか知り得ない本当のところがたとえどんな色形をしていようが、他人に分かる形として出力される言葉は同一なわけで、その点で自分は言葉を信用していない。とはいえ、ちゃんと分かるけど。たとえば他人の書いた文章を読んでみて、あるいは他人の言葉を聞いてみて、その人がどのくらい本心からその言葉を発しているのかとか、そういうの。相手の考え方とか性格とか、鍵になる部分についてきちんと分かっていれば、ある程度なら判断できるから。だから、それを疑っているわけではないのだけれど、とはいえ。それは他人のそれを自分がみているからまだそう思えるという話であって、自分のものを自分でみてみたときにそういう風に思えるかというと、少し難しい。……みたいな話は何度も書いている、実は。自分のことをどうしても疑ってしまう別の自分がいて、感覚的に。愛だの好きだのありがとうだの、そういった類の気持ちを薄らとでも認識するたびに「いや、でもさあ」と思ってしまうというか。その理由はやっぱり先述の通りで、自分がそれを本当に持っているという確証があんまりないというか。「ここでありがとうって言っとけば、相手に好印象を残せるのでは?」的な思考がないではないというか、って書くと勘違いされそう。そういう思考があるのではなくて、そういう思考があるという可能性について考える自分がいるという話。それは日常に起こり得るどのような場面でもだいたいそうで、コンビニでも夜の公園でも、あるいは卒業式でも。自分の中に在るらしい感覚が強ければ強いほど、安易な言葉なんかには頼りたくないというか。だって教えてくれないじゃん、言葉は、その強度について何一つも。そうして削げ落ちた分だけ軽くなる気がするっていうか、薄れていくみたいに思えてしまうっていうか。消費するみたいな。手を繋いで「好きだよ」って、気持ちを言葉にして確かめることについて何も疑問に思わないのならそれでよくて。これは本当にそれでいいと思っていて、見下しているとかではなく。こうやって自分の感覚と違う他者を引き合いに出すときって、なんていうか、ある種の優越感というか上から目線というか、そういうのが透けてみえることがあるけれど、誤解されたくはないので一応。自分は本当にそれはそれでいいと思うし、素敵なことだなとも思う。それは自分にはできないことだし、なんだろう、散歩しながら景色を眺めているのと同じ気分。本質的に決して手の届かない場所にあって、だからこそ綺麗だと思うし、素敵だとも思う。星空を綺麗に感じるのと概ね共通の。ただ結局、ないものねだりをしても仕方がないというか、自分はどうしても疑ってしまうから。そうやって、雑な言葉で括るなら一般に感情と呼ばれる類のそれを、言葉に頼って相手へ届けるという行為の様々を。だから自分なりにできることをやるしかないという、いつもの話に結局は落ち着く。言葉を信じていなくて、それならいったい何を信じているのかって、それも以前の記事でちょくちょく書いているはず。誰かの存在が、あるいはその誰かと過ごした時間が、自分にとってどんなに大きなものだったのかって、それそのものを言葉で表現できるとは到底思えないし、仮にできたとして、その結果に満足できるともあんまり思えなくて。ただ、だから、言語以外のものも巻き込んだ形として出力して「自分はこう思っていました」と言い張るのが自分の性には合っているということを経験則的に知っていて。創作の類を続けている理由って、それがだから自分にとって唯一の意思表明の手段だから、ということなのかもなと思ったりもする。自分はそう信じているから、相手にもそう信じてほしいっていう、……こんな風に言ってしまうとありきたりな話になっちゃうな、やっぱり。伝わらなくてもいいんよな、自分の考えていることとか別に。伝わらなくていいから、ただそれが在ることだけ知っていてほしい。そういうのばっかり、人生とかいうの。

 

 一回生の頃の様子をあんまり思い出せないんだよね。自分は当時二回生だったけれど、なんとか思い出せるのが大例会に遅れてきたことくらい。あとは三月ライブの泊まり込みのときに寮食のソファで包まってるところ。それ以外は本当に思い出せない。なにかあったっけ、と思う。何を話したんだろう。忘れないほうがいいと思うんだけど、こういうのって。方向が同じだったから、帰り道を一緒に歩くことがたまにあったなってのは覚えてる。二人きりって状況はあんまりなかったように思うけど。でも、それにしたって特別な何かを話したって記憶は、それなりに探してみてもやっぱりみつからなくて。夜の御影の横断歩道で小説の話をしたこととか、それくらいの。こんなことならもっと意識的に記憶しておくべきだったかなと思う、今更みたいに。姿勢。姿勢かあ。そんな大層な人間ではないけれど、これは本当に。でも、そんな風に言ってもらえるのは嬉しかったし、割と普通に。何かしらひとつでも、自分の意図しない領域でだって、どこかの誰かにプラスの影響を残せたなら、この数年間にも意味はちゃんとあったんだなと思えるし。そういう意味で自分も、量とか質とかみえるみえないの話じゃない、大切なものを貰っていて、だから当たり前のように感謝だってしている。ありがとう、本当に。自分はだから、なんていうか、上で書いたみたいに言語化に対して面倒な考えを持っている手前、そういう返事をその場でちゃんと伝えるのがマジで苦手で。こればっかりは直せるものなら直したいと思うんだけど。後になってから「あれ、ちゃんと言っておくべきだったよな」ってなることが多すぎて、もう本当にね。だからいまこれを書いてるんだけど、それをするにも一旦音楽を経由するとかいう遠回りをしないといけなく、ちょっと時間がかかった。これまでのことをなんとなく振り返ってみて、話し足りないなって思うこととか、いまの自分にはあんまりない。四年間やりきったなーって感じ。いまになれば勿体ないなって余白ばかりが目について、それこそあっけなく寝過ごしたいつかの夜とか。それでも開き直りじゃなく「そんなもんでしょ」と言ってしまえるくらいには。これから先のずっともどうせ余白ばっかりで、大きめの何かがあったときにはその空欄を惜しんだりもするのだろうけれど、だけどそれさえ最後はハッピーエンドになるんだろうなって予感がある。そう信じたっていいと思えるくらいには多くのものを貰っていて。それはたとえば自分がそっちの考えに気づいていなかったのと同じみたいに、お互い様。……みたいな話、全部。言葉でならどうとだって言えるよね、と思ってしまうんだよな、自分は、どうしても。だって、実際どうとでも言えるし。これまでに書いたこと全部が本心とまるっきりの真逆だったとしたって、それは当の本人である自分自身以外には知る術のないことで。自分で言うのもなんだけれど、本当になんだけれど、これだけの文章を書くアレがあるなら、それと同じくらいの密度で嘘を吐くことだってできるはずで、同様に。でも、そうやって自分の気持ちを疑っていたくはないし、疑ってほしくもないから、だからこそ音楽なんだよな~って話。

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『startrail』、『Tarnished Re;incarnation』、『消えたポラリス』、『星降のパレーシア』。で、駆け込み乗車っぽいけど、最後に『my dear』も。相対した誰かから、こんなにも大切なものを貰っていたっていう、その証明。それだって嘘じゃないと断ずることはできないけれど、それでも嘘じゃないと思いたいよね、みたいな。そんな感じのことを考えてる、ずっと。

 

 大事なことほどふざけて言う癖があるんだけど、マジ卒おめ。03/07 の夜があって本当に良かった。機会があればまた話そう、どうでもいいことでも大切なことでも、なんだって。

 

 

 

2022年3月ライブ初日

 

 これを書いているいま、自分がどこにいるかというとそれは京都大学構内に在る吉田寮食堂で、時刻がいつかというと 2022/03/05 の 6:45。午前の。今日明日にかけて行われるライブイベント(所属サークル主催)のために運び込まれた機材を見張る、いわゆる泊まり込みに来ているという感じで、食堂内に残っていた他の数人の寝息が聞こえてきたりする。あとはすぐそこにあるキッチンの水音と、朝を告げる鳥の鳴き声も。どうせ当日リハなので早起きする必要があり、またどうせ本番前には練習をするので、ということで入った泊まり込みだったけれど、こうして久しぶりにライブ前の空気にあてられたいま、何となく思うところがあるなとなり、そしてこれを書いているという流れ。この記事が公開されるのはライブ初日が終わってからのことになるだろうけれど、本番の熱を吸ってしまう前に残しておかないといけないことが少しあるような気がする。

 ライブ初日。とりあえず本題から書くと、サークルの下回生であるところのなずしろさんの出演枠にベースで参加させてもらうことになった。自分は本来、一日目に出演する予定ではなかったのだけれど、どうしてこうなったかという経緯めいたアレと、それらに付随する諸々を日記的に残しておきたいという話で、そのためには 03/02(水) の昼過ぎまで遡らなくてはいけない。

 その日、つまり 03/02(水)、これとは別の予定でスタジオへ入っていて、その練習が昼過ぎに終わったため、集まったメンバーで遅めの昼食へ行こうという話になった。スタジオから歩いて 30 秒くらいのところにある某チェーン店へと足を運び、そこでなんやかんやをあれやこれやと話した後、店を出ると雨が降っていて。すぐに天気予報を確認して、曰く数時間後には止むらしい。ところで自分は楽器を持っており、自分は傘を持っておらず、それほど激しい雨でもなかったけれど、とはいえ楽器類を濡らすのは賢明ではないという気がして。どうしたものかと考えていた矢先、その場に居合わせたメンバーの一人であるところのソニオルさん(サークルの一つ上の先輩)が声を掛けてくれて、「いまからまたスタジオ入るんだけど、よかったら一緒に来る?」。その提案があまりにも渡りに船すぎたので、邪魔にならないなら、ということで混ぜてもらうことにした。思うに、この日もし雨が降っていなかったとしたら、自分は初日のライブに(出演者として)は参加していなかったはずで。予報外れの雨もたまにはいいことをするらしい。

 なずしろさんとソニオルさんが何らかをやるらしい、という情報はそれよりも前から風の噂でキャッチしていて、ところで何をするのかは想像の域を出ていなかった。とはいえ楽器の準備について話していたのを知っているから、なずしろさんが歌ってソニオルさんがギターを弾くとか、そういうのをやるのかなと思ってはいて、スタジオ内の休憩スペースで話を聞いた限り、どうやらそれは正しかったらしい。『さよならライカ』。去年の秋 M3 で頒布されたソニオル 1stAlbum の表題曲。それを一緒に合わせるための、そのためのスタジオ練習が自分が雨宿りに誘われたそれだったということ。ああ、そういえばなずしろさんはあの曲がめちゃくちゃ好きだと一時期言っていたなと思い出し。なるほど、ソニオルさんを送り出すというのならこれ以上の楽曲は他にない。

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 スタジオ内の休憩スペースで屯している最中に、ソニオルさんへお願いしてコード譜をみせてもらった。せっかくスタジオへ入るのだし、ルート弾きくらいならその場でもすぐにできるかなと思って。実際は、キメありまくり転調ありまくりですぐには覚えられなかったけれど。だから、出演云々というアレは別にその場で即座に思いついたことというわけでもなく、最初は、その日のその時間だけ何となくで混ざれればそれでいいという気持ちだけだった。

 でもまあ、スタジオへ入って実際に音を鳴らしてみて、そしたら変わってくるものもあるよねという話で。全員で音を鳴らして一つの音楽をやるのって、それ自体が本当に滅茶苦茶楽しくて。あとはそもそもの話、めちゃくちゃに良い曲で、『さよならライカ』が。自分は CD で持っているから(たしか)11 月ライブ後くらいにはフルを聴いていたのだけれど、その日スタジオで改めて聴いてみて「やっぱめちゃくちゃ良い曲じゃん!」になって。スタジオで過ごしたのはたったの一時間だったけれど、全部終わって片づけをする頃には「この曲、自分もベースで弾きてえ~~~~」という気持ちがかなり強くなっていた。絶対に楽しくなると思ったから。

 とはいえ現実的な問題もあって、まずもって自分はベース初心者だという話。楽器それ自体は昨年の八月頃には入手していたけれど、ちゃんと触り始めたのは年末に差し掛かってからのことで、だからだいたい三、四ヶ月分くらいの経験値しかなく、その間だって別に毎日練習していたというアレでもない。ところでライブとなればできる限りの完成度を目指したほうがよいという自戒があり、まあ最悪全部ルート弾きでなんとかなるのだけれど、それは本当にどうにもならない場合の話で、いわば苦肉の策的な。だからベースで参加するとして、とすればそれなりの練習量を稼がなくてはならないという見込みがあるのだけれど、加えてこの曲、めちゃくちゃにベースが動くという罠があって。あんいちさんという、本職ベーシストの人が考案し録音したフレーズとのことで、意識して聴かなくても「めっちゃ動く~~~」と気持ちよくなるくらいにはベースが暴れている。というので、それだけでも厳しくね? という気持ちにもなる。そのうえ一番大きかったのがライブ当日までの残り日数で。そのスタジオへ入った日を含めても練習に使えるのは三日くらいしかない。ヤバすぎる、普通に考えて。という諸々を考慮し、言い出すかどうかを迷ったり迷わなかったりしているうちにスタジオを出て。エレベーターを降り、外の雨は止んでいて。自転車置き場の手前くらい、やっぱりソニオルさんが声を掛けてくれた、「ベース弾く?」。返す言葉に迷うはずもなかった。

 帰り道のほうが、考えていたことが記憶に残りがちなのかもしれない。個人練でスタジオへ入った帰り、夜の 11 時くらいに鴨川沿いを歩きながら『さよならライカ』を聴いていて。それくらいのことで泣いたりするわけもないけれど、なんか、思うところはたくさんあって。卒業。卒業だよなあ、みたいな。最後のサビに、フル音源を聴いていない人には伝わらないかもしれないけれど、「ありがとう」ってフレーズの入るタイミングがあって。そこがなんか、色々と。そういうシーズンだから下回生の人たちにも言われたりしたけれど、そう、もう五年も経ったんだよな。びっくりする。一回生のときには一緒に曲を作ったり、三回生のときには一緒のバンドで演奏をして。そして五回生になったいま、その両方を再回収したりもして。これ以上のことなんてないと思っていたけれど、いや、全然だった。できることなんてまだまだ残ってたんだなって気持ちになって、時間はもうそれほど残されていないけれど。みたいな。そういうのが重なって、歌と。完成度を上げることも大事だけれど、楽しんでやるのがやっぱり一番だよなという気持ちを再確認したりした。ソニオルさんを成仏させる、もとい送り出すための時間なんだし。ハッピーエンドで終わらせたいよね、できることなら。

 昨日、これは本当に昨日でライブ準備が終わった後、ソニオルさんに誘われて最後の練習へ行った。22:00 から一時間だけ。『さよならライカ』のオケを流しつつ、二人で音を合わせてみて。不思議な気分だった。五年も一緒のサークルにいて、その間には何もなかったのに、まさか卒業間際にもなって二人でスタジオへ入って音楽をするなんてことが起こるんだなって。割と頻繁に弾き間違えるし、それにフレーズがたまに頭から抜けたりもして、完璧とは程遠い(もともと無理なのは分かってたけど)それでもただただ楽しくて。もっと早くこれをやっていればよかったと、少しだけ思った。ほんの少しだけ。

 ここまでライブ前に書いた内容。残りはライブが終わってから書く。最後まで頑張ります。

youtu.be

 ライブが終わり、自分がどこにいるかというとそれは京都大学構内に在る吉田寮食堂で、時刻がいつかというと 2022/03/06 の 7:41。午前の。ライブ自体は今日も、つまり二日目も行われるのだけれど、上に書いたような一連のそれは昨日のステージで一段落ということになった。無事に終わってよかった。いや、途中であり得ないノイズが乗ってベースフレーズが頭から消し飛んだんだけど、二番サビのところ。でも、ここ数日の練習の成果はちゃんと出せた気がするし、それになにより本当に心の底から楽しかった。たったの四分ちょっとだけど、そういうの、なんていうか、まるで永遠みたいに錯覚する。どこにだってあるような、小さな永遠。これはまだ世界には公開されていない曲だけれど、つい最近そういう歌詞を書いていたというのがあって。それはたとえば昨日のような、あの数分間が正しくそう。できればいつまでも終わらないでいてほしいけれど、でも、ちゃんとした終わりが来るからこそ、だからその一瞬を永遠と呼んでしまえるんだよな、と思ったり思わなかったり。いや、マジで楽しかったな。これはライブが終わってから人と話していたことだけれど、あの日に雨が降っていて本当に良かったと思う。雨が降って、それ自体に「良かった」と思ったことなんてこれまでの人生で一度もなかったけれど。24 年目にして見つけた、ちゃんと。

 

 昨日も本番だったけど今日も本番で。感傷に浸るのはまだちょっと早いよねって感じがする。今日のステージも頑張ります、ベースと歌。

 

 

 

20220224

 

 具体的に何年前の出来事だったかまでは思い出せなくて、ただ、その日が 2 月 25 日ということだけは覚えていた。ブログか、あるいは Twitter かにたしか書き残したはずと思って、まずはブログを当たってみたのだけれど該当物は見当たらず。次いで遡った 2019 年の Twitter にそれがあった。

なんていうか、猛烈な違和感があった、その瞬間に。この情勢下になって以降はめっきり足が遠のいてしまったけれど、当時の自分はよく北部食堂へ通っていて、2019 年の 2 月 25 日の昼過ぎもそうだった。混雑のピークを叩く正午を優に過ぎた午後 2 時半、春休みということも相まって食堂内は閑散としていた。北部食堂へ足を運んだことのある人は分かると思うけれど、一階のフロアではあちこちにディスプレイが掛けられていて。時期が時期なので就活の話とか、スーツのフェアとか、あとは平常通りにどこかの出版社の書籍が何%オフになっているだとか、そういったことを知らせるスライドが数十秒おきに切り替わる。要するにいつも通り。普段と何ら変わらない日常がそこにあって、当時の自分もまたその一部分としてそこにいた。何がきっかけだったんだろうな。そこまでは思い出せないけれど、なんか、普通に食堂にいる最中だったと思う。「まさにいま、誰かの人生が決定されようとしているんだな」という気持ちに突然なって、それが当時の自分にとっては、言葉ではとても言い表せないくらいに不思議な感覚だった。当然ながら自分だって入試を経ていま大学生の身分をやっているわけで、数年前には同じように教室で試験を受けていて、だから 2 月 25 日という一日の意味もある程度は分かっているわけで。ここからそう離れてもいない場所で、自分とは何の関係もない人たちの人生が決定されようとしていて。実際に自分とは何の関係もないから、だから当時の自分は暢気に食堂で昼御飯を食べていて。それがなんていうか、どの言葉を選ぶのが正しいのかも分からないからとりあえず思いついた言葉を並べておくけれど、気持ち悪かった。いや、どうなんだろう。当時は「なんか変な気持ちだな」くらいの感覚だったような気がする。だけど、「ああ、そういえばあの日もそんな気持ちだったんだ」って、いまでも真っ先に思い出すくらいには強く記憶に残っている一瞬で。時が経てば経つほど、なのかもしれない、こういうのって。今日が 2 月 24 日で、だから明日は 2 月 25 日。でも、今回はそれが理由で思い出したというわけでもなく。朝起きて、なんかもう、マジで無理だった。意味わかんないわ、全部。なんか、気がついたら戦争みたいなのが始まってて。そのことに怒っている人がいれば笑っている人もいて。正義とか義憤とか悪意とか冷笑とか。主観も客観も、いろんな感情がごちゃ混ぜの。檻で守られている身分なんだから何とだって言える。そうかと思えば某 V の人が契約を解除されて、こっちもこっちでいたるところから言葉の列が。悲しんでいる人、それをただ面白がっている人。当たり前。やっと。できることはあったはず。これも全部あいつらのせい。わけがわからない、本当に。なんでそんなことになるわけ? 見ず知らずの他人を蹴落としていないと呼吸すらままならないのかよ、と思う。思っちゃうよね、どんな嫌でもさ。そういう風に思わせてくる世界が嫌いだし、そういう風に思ってしまう自分も嫌いだし。どこかの誰かが悲しんで、どこかの誰かが石を投げて、そのたびに頭を掴まれて自分の奥底を無理に凝視させられるみたいな。お前だってそう思うことがあるだろ、って耳元で。ある。あるに決まってるでしょ、そのくらい、人間なんだから。分かってるよ。でもさ、そういう黒い部分と何とかして折り合いをつけていくのが知性ってものなんじゃないの。違うのかな。そうでないなら知性って、人間って何なんだ。何のために生きてんの。憎み合って争い合って、弱者を虐げることでしか自分の価値を確かめられない? そうでないと思いたいからこうやって必死に生きてるのに。だって、だとしたら人生なんてあまりに無意味すぎる。何のために生きてんの、マジで。世界がどんな理不尽で滅茶苦茶に荒らされようが、あるいは一人の人間がどんな酷い言葉に傷ついていようが、観測範囲の日常は相も変わらずに平常運転で。それが当たり前ですって顔をして、否定してほしいのに。普段ゲーセンへ行っている人はいつも通りにゲーセンへ行っているし、日夜 Twitter で思想をバトらせている誰かは今日もまた自身と相いれない思想を扱き下ろして。たとえば明日、どこかの国で何億人もの人が亡くなったとして、それでも自分は普通にバイトへ行くんだろうなって気がするし。バイトの休憩時間にスマホをみて、「ああ、こんなにたくさんの人が死んだんだ」って知って、それでまたバイトへ戻って。それをさ、平気な顔でこなす人もいると思うんだよな、しかも大勢。できる、できるはずだろ。だってインターネットが証明してくれてるじゃんか、今朝からもうずっと。泣いている人へ向かって平気で石を投げられる人間がいて。死という絶対的な最期を前にしてなお、その事象を面白がる人間がいて。マジで自殺したらどうすんのとか、ドラマですら聞きたくないような言葉だって。「これこそが人間の本質です」とでも言いたげに。なんかさあ、なんか。本当に分かんなくなってきた。自分こそが正しくて、自分こそが勝者で、自分ひとりがよければそれでよくて。自分の正義に反するものは全部間違っていて、自分に歯向かう誰かは敗者でないと気が済まなくて、自分よりも先に他人が満たされるのはどんなことよりも許せなくて。誰かの不幸でしか自分の幸福を確かめられない。そんなものが真理なんだとしたら、何のために生きてるんだろうな、本当に。

 

 

 

20220223

 

 最近考えていたこと。自分たちには権利がある、ありとあらゆる場面で。たとえば街を歩いていたとして、そして居酒屋でも何でもいいけれどキャッチの人に声を掛けられたとして、その人の話を聞かない権利が自分にはある。同じように、その人の話を聞く権利も自分は持っている、当然ながら。いや、当たり前のことだよな、と思う。義務なんてない、別に。キャッチに声を掛けられた時点で従う義務が発生するとしたら、この世界は人海戦術をやったもん勝ちという話になるし。あるいは従わない義務が発生するとしたら、そもそもキャッチという行為の意味がなくなる(宣伝くらいにはなるかもしれないけれど)。だから義務じゃない。キャッチの人の言葉に従うも従わないも義務ではなくて、ただそこに在るのは従う権利と従わない権利。どちらを行使するかの選択権がキャッチを掛けられた側にはあって、その結果としてキャッチの人は嬉しくなったり嬉しくなれなかったりする、それだけの話。ティッシュ配りとかもそうで、目の前に差し出されたそれを必ずしも受け取らなくていいわけで。だって、差し出されたティッシュを必ず受け取る義務なんてないから、自分たちには。受け取ってもいいし、受け取らなくてもいい。誰だって、そのどちらの権利も持っているはずと思う。

 言わない権利があるよな、と思う。相手が誰であれ、誰かと話をするときに自分が気をつけていることとして、「この相手には、都合の悪いことに口を塞ぐ権利がある」という意識をちゃんと持っておく、ということがある。『都合の悪い』という言い回しには様々な意味合いが考えられるけれど、たとえば恥ずかしいからとか、以前の発言と矛盾するからとか、単に言いづらいからとか、あるいは機密事項だからとか。何にせよ、都合の悪いこと全般。そういったものを隠す権利を、全員が持っている。自分も、相手も、誰でも。これはただ自分がそうというだけの話だけれど、自分は割と相手の事情に深くは突っ込まないというか。なんとなく裏で何が起こっているのかの察しがおおよそついたとしても、その答え合わせがしたいとはあんまり思わない。だって、相手はそのことを隠したがっているのかもしれないから。考えてみてほしい。「この事件の真相はこうですか?」と自分が尋ねたとして、そのことを隠したがっている相手はなんて答えればいい? 「はい、その通りです」とは言えない、そのことを隠しておきたいのなら。だからといって「答えません」という回答、あるいは沈黙を返したとして、すると「何かしら裏があるから答えないことを選んだのだ」という風に受け取られるかもしれない。沈黙は肯定という言葉もあるし、そういう受け取られ方をする可能性もある。だから、これも良い手だとは言えない。とすれば、もう「いいえ、違います」と嘘を吐く他ないけれど、しかしこれもこれで困ることがあって、後々になって何らかの形で事実が露呈した場合、「あのときは違うって言ったじゃないか」と詰められる可能性がある。嘘を吐くという行為に伴う一定のリスクを背負わなくてはならなくなる。……という風に考えてみればすぐに分かるだろうと思うけれど、訊かれた時点でその相手は詰む。相手が隠したがっていることを敢えて尋ねるという行為は、そういった負担を相手に強いることと同義だと、自分は割とそんな風に考えていて、だから相手の事情へは深く突っ込まない。家庭環境とか、人間関係とか、そういうの。相手が勝手に話してくれる分には聞くけれど、それ以上のことへは踏み込まない。何かしらの察しがついたとしたって、別に確かめたりはしない。最悪の場合、それで相手が詰むから。……ただまあ、状況によっては訊くこともあって、その、もしかしたら隠したがっているのかもしれないという見当のついていることを。そういったときには「あれなら答えなくて構わないけれど」と必ず前置きをするようにしている。『もし貴方が答えないことを選んでも、その選択に対して私は何とも思いません』というせめてもの意思表示として。最近やった、それを、一週間くらい前。この意思表示は本当になけなしの予防線でしかなくて、というのも自分がその問いをぶつけた時点で、それに答えるか否かの選択を相手へ強いることになり、それ自体が(人に依っては)負担となり得るから。だから、あんまりやらない方がいいな、と思っている、そうするたびに。前回のときもやっぱり思った。そうせずに済むならそちらのほうがいいと思う、絶対に。相手には都合の悪いことを隠す権利がある。そして、その秘密を暴く権利は自分にはない。……こんなのはただの理想論だけれど、たとえば世界中の全人類がこれっぽっちの前提をちゃんと共有することができたなら、この世界はもう少しくらい生きやすくなるんだろうか、と思ったりする。誰にだって、隠しておきたいことがある。誰にだって、言いたくないことがある。誰にだって、話さないことを選ぶ権利がある。その自由を侵すことは、少なくとも自分には許されていない。たったそれだけのことで、世界はもっと機能的になるはずと思うのにな。

 聞かない権利もある、相手の話を。聞こえないふりをしたっていいと思う、別に。自分たちはカウンセラーでなければ教師でもないのだし、他人の持ち寄った話に一から十まで付き合う義務なんて持ち合わせていない。礼儀ならあるかもしれないけれど、でも、逆に言えば礼儀しかない。その程度のものだと思う。ずっと生きていて、そしたら悩み事の一つや二つ、誰にだってあるだろという話。まあ、例外的に「マジで悩みなんて何もないです」と言っている人が稀にいることはいるけれど、それは本当に例外中の例外だし、というかそれだって本当のことかどうかなんてその人以外には分からないし。自分が抱えている悩みと同じような何かを、街を歩いて目に映った彼や彼女も当然のように抱えているという話。一人分でも結構重い。自分は、どうだろ。それなりの部分をそれなりに処理してしまったとはいえ、いまでも落ち込むことは普通にあるし。二日前の夜とか、マジでメンタルが終わりそうになってた(対処法を知っているので緑ゲージで耐えた)けど、いや、だから一人分だってそのくらい重いものなんだよな。「友達は作らない。人間強度が下がるから」と言っていたのはかつての阿良々木暦だけれど、その台詞を引用するまでもなく、人間関係を突き詰めると往々にして人生の共有ということになりがちだよなと思う。人生の共有。幸福と不幸の共有。幸福であればいくらだって共有すればいいと思うけれど、他人の不幸なんて進んで知りたいとは思えない。知れば知った分だけ生きづらくなるから。そうじゃない人もたくさんいるんだろうな、って思った、この数日のインターネットをみてて。いや、これは完全に話が脱線しているけれど、某 Vtuber の話。V 界隈にあまり縁のない自分のタイムラインにまで流れてきて、攻撃的な言葉だったり野次馬めいた言葉だったりが。他人の痛みにここまで無頓着な人たちが、むしろ他人の痛みを喜んでさえいるような人たちがこの世界にはいるんだなって、なんか、なんかさあ。他人の不幸。我儘かもしれないけど、せめて選ばせてくれって思う。でないと責任が負えない、その不幸に対して。凄惨な過去を告白されて、それを受け取った自分はどうすればいい? どうすることが求められている? いや無理だって、そんなの。求めすぎ。相手を椅子に縛りつけて、積もり積もった不幸を語って聞かせて、それが礼儀だからってどういうこと? 聞き手の気持ちを考えることは礼儀に含まれないという話? サンドバックや奴隷じゃないんだよな、他人はさ。不幸を語る権利を全員が持っていて、それに耳を貸さない権利だってやっぱり全員が持っている。それだけの話じゃん。誰の不幸を背負うかくらい、選ばせてほしい、本当に。自分で選んだ分くらいはちゃんと責任を持つし、というか、本来、そのくらいの覚悟とセットなんじゃないのと思う、不幸の共有って。だって、軽く扱えないじゃんか。それがどんなに重たいものかなんて、自分ひとりのそれで十分すぎるくらいに知っているから。だからこそ、他人のそれはより重大なものとして扱う必要があって、そのための覚悟が選ぶという結果。他人でも、知人でも、友人でも、恋人でも、家族でも、別に誰が相手だって。大学へ入って色んな人と知り合って、色んな人の話を聞いた。「昔こんなことがあって」、「いまこんなことで悩んでて」。他人事だからって忘れられるわけがないし、いや、忘れられる人もいるのだろうけれど、自分はそうじゃないから。なんか、どのくらい本気で苦しんでいるのかなんて当人でない自分にはこれっぽっちも分からないけれど、それでも話に聞くだけでも伝わってくるものがあったりして。そういうの全部、忘れられるわけがないじゃんって話で。背負っていくんだって、だから、自分の荷物と一緒にその人の分も、最後まで。この人の分くらいなら運んだっていいと思えるから、だから選んで、そうして分けてもらった全部を呪いみたいに記憶し続けて。それが人間関係を突き詰めた先にあるものだと自分は思っていて。全員分の不幸を背負っていくことなんて土台無理な話だから、だからせめて選ばせてほしいという話で。それを許してくれるのが『聞かない権利』だと思う。だから、これを奪われると自分みたいな人間は本当にしんどい。しんどいっていうか、なんていうか、普通に詰む。さっきの「この事件の真相はこうですか?」と尋ねられた人と同じ。……みたいな感じで、会話における詰みって本当にたくさんあるんだよな、と思ってる、この半年くらいずっと。そのくせ、詰み状況を回避する手段ってたったの一つしかなくて、それはそもそも会話を開始しないこと。つまりは人間関係の放棄。最悪。

 

 

 

サイコロを振ってみる

 バイト中に暇な時間がちょくちょくあって,入試問題を色々探してみたり解いてみたりするのですが,今日みつけて考えていた問題がちょっと面白かったので何となく記事に起こします.問題は以下の通り.

1979年度 京都大学 文理共通 2 人の人が 1 つのサイコロを 1 回ずつふり,大きい目を出した方を勝ちとすることにした.ただし,このサイコロは必ずしも正しいものではなく,k の目の出る確率は p_k \left(k=1,2,3,4,5,6\right)である.このとき,

\left(1\right) 引き分けになる確率 P を求めよ.

\left(2\right) \displaystyle P\geq \frac{1}{6} であることを示せ.また,\displaystyle P= \frac{1}{6} ならば \displaystyle p_k= \frac{1}{6} \left(k=1,2,3,4,5,6\right) であることを示せ.

 \left(1\right) は同じ目が連続で出ればよいので P=p_1^2+\cdots+p_6^2 が答えで,本題は \left(2\right) です.たとえば細長い直方体の角材をそのままサイコロにしたとして,それを投げて直立することなんてほとんどあり得ないことを思えば、計 6 つある面のうちの 4 つしか実質的に出ないという風に思えて、すると二回連続で同じ目が出る確率はだいたい \displaystyle 4\times\left(\frac{1}{4}\right)^2=\frac{1}{4} くらいになり,普通のサイコロで同様に考えた場合の \displaystyle \frac{1}{6} よりも大きくできるよねっていう.ところで,こんな風に変なサイコロを色々と作ってみて,その確率を \displaystyle \frac{1}{6} よりも小さくすることができるだろうか? という問題も考えられますが,それはできないと言っているのが \left(2\right) です.

 とはいえ大学入試の問題なのでそれほど難しくありません.k の目が出る確率 p_k がすべて \displaystyle \frac{1}{6} であれば,つまり自分たちの普段馴染んでいるサイコロであれば \displaystyle P=\frac{1}{6} になることは知っているわけなので,各 p_k がそれからどのくらいズレているかを考えればよさそう……という方針で示せます.

 というわけで証明.\displaystyle p_k=\frac{1}{6}+\varepsilon_k とおきます.確率の総和は 1 になるはずなので p_1+\cdots+p_6=1,つまり \varepsilon_1+\cdots+\varepsilon_6=0 です.このとき

\displaystyle P=\sum_{k=1}^6\left(\frac{1}{6}+\varepsilon_k\right)^2=\sum_{k=1}^6\left(\frac{1}{36}+\frac{1}{3}\varepsilon_k+\varepsilon_k^2\right)

なので,\varepsilon_1+\cdots+\varepsilon_6=0 に注意すれば

\displaystyle P-\frac{1}{6}=\sum_{k=1}^6\left(\frac{1}{3}\varepsilon_k+\varepsilon_k^2\right)=\sum_{k=1}^6 \varepsilon_k^2\geq 0

となり,これで証明終わりです.等号成立はすべての k\displaystyle \varepsilon_k=0 が成り立つときなので,公正なサイコロのときにのみ \displaystyle P=\frac{1}{6} となることもこれで分かりました.

 

 とまあこんな感じの問題なんですが,この出題文をみていると気になってくることがありますよね.というわけで次のような問題を考えてみます.

問題A k の目の出る確率が p_k \left(k=1,2,3,4,5,6\right)であるようなサイコロを 3 回投げる.このとき,連続して同じ目が出る確率は \displaystyle \frac{1}{36} 以上になるだろうか?

 公正なサイコロであれば,そのような確率はちょうど \displaystyle \frac{1}{36} になります.不公平なサイコロならどうなるか,という話ですね.

 先ほどと同様に \displaystyle p_k=\frac{1}{6}+\varepsilon_k とおきます.求める確率を P とすると

\displaystyle P=\sum_{k=1}^6\left(\frac{1}{6}+\varepsilon_k\right)^3=\sum_{k=1}^6\left(\frac{1}{6^3}+\frac{3}{6^2}\varepsilon_k+\frac{3}{6}\varepsilon_k^2+\varepsilon_k^3\right)

なので,\varepsilon_1+\cdots+\varepsilon_6=0 に注意すれば

\displaystyle P-\frac{1}{36}=\sum_{k=1}^6\left(\frac{3}{6^2}\varepsilon_k+\frac{3}{6}\varepsilon_k^2+\varepsilon_k^3\right)=\sum_{k=1}^6 \varepsilon_k^2\left(\frac{1}{2}+\varepsilon_k\right)

になります.ところで明らかに 0\lt p_k \lt 1 だから \displaystyle -\frac{1}{6}\lt \varepsilon_k \lt \frac{5}{6} であり,よって,最後の等式から \displaystyle P-\frac{1}{36}\geq 0 です.すべての k\varepsilon_k=0 のときに等号成立なので,やっぱり公正なサイコロのときに最小値をとるみたいです.

 

 続けて「じゃあ 4 回投げたら? 5 回投げたら?」と考えていきたいところですが,まあぶっちゃけ面倒というか,どうせ公正なサイコロのときに最小値をとるのだろうという予感があるにはあるので,一気に示してみたいという気持ちになります.そこで次のような問題を考えます.

問題B m,n2 以上の整数とする.n 個の実数 p_1,\cdots,p_n は以下の条件を満たす.

\left(1\right) 0\lt p_k \lt 1

\left(2\right) \displaystyle \sum_{k=1}^n p_k=1

 このとき,\displaystyle \sum_{k=1}^np_k^m\geq \frac{1}{n^{m-1}} を示せ.

 n=6 とすれば,これまでに考えていた必ずしも公正でないサイコロを m 回投げたときに連続で同じ目が出る確率になります.以下,証明.

 \displaystyle p_k=\frac{1}{n}+\varepsilon_k とおく.条件より \displaystyle -\frac{1}{n} \lt \varepsilon_k \lt 1-\frac{1}{n}\displaystyle \sum_{k=1}^n \varepsilon_k=0.このとき,二つ目の条件から

\displaystyle \sum_{k=1}^n p_k^m-\frac{1}{n^{m-1}}=\sum_{k=1}^n\left\{\left(\frac{1}{n}+\varepsilon_k\right)^m-\frac{1}{n^m}-\frac{m}{n^{m-1}}\varepsilon_k\right\}

と変形できることに注意.ここで \displaystyle f_m\left(x\right)=\left(\frac{1}{n}+x\right)^m-\frac{1}{n^m}-\frac{m}{n^{m-1}}x とおく.ただし \displaystyle -\frac{1}{n}\lt x \lt 1-\frac{1}{n}.すると

\displaystyle \sum_{k=1}^n p_k^m-\frac{1}{n^{m-1}}=\sum_{k=1}^nf_m\left(\varepsilon_k\right)

と表せる.

\displaystyle f_m^\prime\left(x\right)=m\left(\frac{1}{n}+x\right)^{m-1}-\frac{m}{n^{m-1}}

だが,\displaystyle -\frac{1}{n}\lt x \lt 1-\frac{1}{n} で考えているので  f^\prime\left(x\right)=0 となるのは x=0 のみ.\displaystyle -\frac{1}{n}\lt x \lt 0f_m^\prime\left(x\right)\lt 0\displaystyle 0\lt x \lt 1-\frac{1}{n}f_m^\prime\left(x\right)\gt 0 なので

\displaystyle f_m\left(x\right)\geq f_m\left(0\right)=0

となり,

\displaystyle \sum_{k=1}^n p_k^m-\frac{1}{n^{m-1}}=\sum_{k=1}^nf_m\left(\varepsilon_k\right)\geq 0

が分かる.等号成立はすべての kf_m\left(\varepsilon_k\right)=0,つまり \varepsilon_k=0 となるとき.

 

 真面目に示すならこんな感じかなと思いますが別証もあり,凸不等式を使います.

 m\geq 2 より f_m\left(x\right)=x^mx\gt 0 で凸関数なので,任意の \lambda_k \geq 0(ただし \displaystyle \sum_{k=1}^n \lambda_k=1 )について

\displaystyle \sum_{k=1}^n \lambda_k f_m\left(p_k\right)\geq f_m\left(\sum_{k=1}^n \lambda_k p_k\right)

が成り立つ.\displaystyle \lambda_1=\cdots=\lambda_n=\frac{1}{n} ととれば,左辺は \displaystyle \frac{1}{n}\sum_{k=1}^n p_k^m,右辺は \displaystyle \frac{1}{n^m} となるので,両辺に n \gt 0 を掛ければよい.

 

 こんな感じでした.マジでバイト中暇すぎてこんなどうでもいいことばっかり考えてます.

 

 

 

 

20220221

 

 なんだか微妙に気分が悪い。メンタル的なそれじゃなくて、フィジカル的に。体調が優れないというわけでもないけれど、快調って感じは全くしない。理由は割と明確で、恐らくは昨日の徹夜。そういえば、徹夜という表現は夜通しで作業をするという意味だから、何をするでもなしに夜を明かした場合に用いるのは不適切という指摘を、大学へ入ってから何回か受けたことがある。そういうことを、この言葉を引っ張り出すたびに思い出しはするのだけれど、他の言葉を探すのが面倒なので毎回知らないふりをしている。徹夜。翌日への影響が年々大きくなっていることは間違いがないと思う。なんていうか、そう、それがだから『気分が悪い』という曖昧な表現に頼らざるを得ない現状そのものなのだけれど。具体的に「ここがこう」と指で示すことはできないのに、身体のどこかが漠然と、それでもたしかに不調という感覚。活動に支障をきたすほどでもない、なんかいつもと違うなあってくらいの些細な違和感。こういうときの解決法は何となくで知っていて、というのも、もう一度ちゃんと眠れば目が覚めたときにはだいたい全部が解決している。徹夜明けの不調とは、つまりは単に睡眠が足りていないという話であって、だからベッドの上で大人しく布団に包まっているのが最適解という話でもあるのだけれど。だとすれば自分はいまどうしてブログを書こうとしているのかということにもなるけれど、これもまた簡単な話で、何を隠そう八時間睡眠の直後でまったく眠れる気配がないからだ。自分は割と寝つきの良いほうで、のび太君ほどとは言わないまでも、「寝るぞ!」という気持ちにさえなれば早くて数分、五分以内には意識が落ちる。なので入眠で困ることはほとんどなく、だから逆に、ベッドに入って一〇分あまりが経過しても意識が落ちないという場合には、「ああ、これはすぐには眠れないやつだな」と諦めて部屋の明かりを点けるようにしている。そのほとんどが今回のように、徹夜明けの長時間睡眠にプラスを稼ごうとして失敗するというパターンだけれど、ごく稀に大きめのイベントの前日にこうなったりもする。ちなみに明日は何もないので、今日は普通に前者。眠れないときに部屋の明かりを点ける理由は大きく二つあって、一つは、眠れないのにベッドの上でゴロゴロするのは時間の無駄というように思えるから。時間の無駄っていうか、だったら他にやれることは色々あるな、みたいな。自分の部屋は入口前のスイッチでしか照明のオンオフができないシステムなので、差し当たっては『部屋の明かりを点ける』という目標ひとつでベッドから脱出することができる。効率的で良い。残りの一つは、こちらのほうが主だけれど、暗い部屋の中、眠れない状況下で布団に包まって目を閉じているとロクなことにならないから。というかそもそもの話、自分がこういう状況へ陥るのは、先述の通り、徹夜明けの微妙に不調なタイミングがほとんどで。「なんとなく不調な気がする」というテンションのままベッドへ入って、身体を動かさずにじっとしたまま。眠れもしない頭の中、さて何が始まるかというと、それは思考。経験のある人も多いんじゃないかと思うけれど、考えたって仕方のないことをあれやこれやと考え始めるようになる。これが本当に良くなくて、というのもフィジカル面に留まっていた不調が精神的な領域にまで侵食し始める。一度こうなってしまうと独力で抜け出すことはそれなりに困難で、だからそうなる前に手を打ったほうがよいという話になり、そういう意味で部屋の明かりを点ける。勘違いされたくはないから断っておくけれど、「考えたって仕方のないことは考えないほうがいい」ということを言いたいわけでは全くなく。むしろ逆で、そういったものにはきちんと向き合ったほうがいいと、どちらかといえば自分はそちらの立場をとっていて。たとえば明日死ぬかもしれないとか、そうでなくとも自分だっていつかは死ぬんだしとか。将来とか過去とか希死念慮とか、そういう全部。できることなら向き合ったほうがいいと思う、真正面から。ただ、だから思うこととして、暗い部屋のなか毛布に包まって、眠れない頭と漠然とした違和感の二つに苛まれながら思考するという状態は、あるいは姿勢は、あんまり正しくない向き合い方なんじゃないのかなということで。正しくないっていうか、それで正しい答えが出せるとはあんまり思えないっていうか。これもまた人に依るだろうけれど、少なくとも自分はそうというだけの話。明かりを点けたら、とりあえず何かしらへ手をつけるようにしている。いまこうしてブログを書いているのはその一環だし、実は同時に音楽も聴いているのだけれど、他には外へ出るとか楽器を弾くとか。何でもいいから、何かをする。そうしてしばらく間を置いて、落ち着いてから考えてみる。文字を書きながらだったり、鴨川を眺めながらだったり、状況を少し変えた上で「さっきベッドの上で考えてたのって、本当に本当のことだったかな?」みたいに。自分はそういう付き合い方をしている、考えたって仕方のないことたちと。

 

 周りからどういう人間として思われてるんだろうな、と思うことがたまにある。わざわざ訊いて確かめるようなことでもないから、答えは出ないまま、その疑問だけが頭の中にぼんやりと浮かんでいる感じ。なんだっけ、正確な文言は忘れちゃったけど以前こんな感じのことを言われたことがあって、曰く『落ち込み方が想像できない』。その内容自体に思うところは何もなく、本当に何もなくて、後になって謝られて「ああ、そういえばそんなこと言われた気がする」と思い出すまでは、意識の末端にすら引っかかっていなかったような。謝られるようなことでもないなと思いつつ、とはいえそういったやりとりがあった以上はどうしても記憶に残ってしまって、だからそれ以来たまに思い出すようになった。……みたいなことは他にもあって、『一葉さんでもこんなに考えてるんだから』とか。これもまた内容に対してどうこう思っているとかでは決してなく、単にそのフレーズが頭に引っ掛かっているというだけのそれだけれど。でも、という助詞を用いていることからも、その言葉の前提には向こうからみた山上一葉があるはずで、それっていったいどんなのなんだろうなと思ったり。『お前は放っておいても彼女なんか作らないでしょ』と言われたこともあって、これには自分も頷いた、その通りだと思う。そういう風に思われていたことが意外というわけでもなく、むしろ「よく分かってるじゃん」くらいの気持ちだったけれど、とはいえ他人からみた自分というものに触れる機会はそれほど多くもなく、それだけの理由で覚えている一言。あとは、就活とかいうイベントが本格的に迫ってくるよりもずっと前、『一葉にはオフィスでデスクワークとかしててほしくない』と言われたり、『昼の鴨川で弾き語りとかしてるほうがずっと似合う』と言われたり。このときばかりは流石に笑ってしまった、滅茶苦茶すぎて。遠回しに「真っ当には生きるな」って言われてるみたいな、いや、当人たちにそのような意図は微塵もないだろうし、その言葉に悪意を見出しているというわけでも全くないけれど。同系統なら『一葉さんには地獄へ落ちてほしい』も最近よく言われる言葉で、これには自分の言動も多少は噛んでいるなと思う。ここでいう地獄とは一般人のレールから外れた先という意味で、要するに普通の大人になるなということ。他にも昨夜は『一葉さんが就職してるところなんて、自分のそれ以上にみたくない』と言われたし。思い返せば、もはや一年に一度くらいしか会わなくなった地元の中学同期たちにも『お前が就職しているイメージが湧かない』と言われたことがあったし。特定のコミュニティの、特定少数の相手からそういう風に思われるだけならよくある話で流してしまえるのだけれど、交わりようもない複数のコミュニティからそういった評価が下されている以上、気に留めないわけにもいかないというか、否が応でもセンサーに引っ掛かってしまうというか。ここ一、二年、というか周囲の人間が社会へ出始めたタイミングくらいからそういうことを言われる機会が(何故か)急に増え、それに伴って相手からみた自分という不明に対する意識が芽生え始めたような。『落ち込み方が想像できない』とか、『一葉さんでもこんなに考えてるんだから』とか、『お前は放っておいても彼女なんか作らないでしょ』とか。数年前の自分であれば寝て起きた後にはもう忘れていそうな言葉を、それ以外の理由もあるような気はするけれど、とにかく直近一年くらいの自分は曖昧ながらも記憶していて、そのたびに考える。「この相手にとっての山上一葉って何なんだ?」みたいなの。関係なくはない話。日常的に使うアイテムの一つに財布があって、自分は中学のころ親に買ってもらったそれを未だに使っている(壊れも困りもしないから)のだけれど、数日ほど前からその中に一切れのプリクラが入っていて。自分が映っているわけでもないのに何故か持っているそれを、コンビニだとかスーパーだとか駅とかで財布を取り出すたびに視界にみつけて、そのたびになんだか嬉しくなる、少しだけ。嫌味みたくなっても嫌だから有体に言うと、他人から慕われて嬉しくないなんてことはない、少なくとも自分の場合は。事実がどうであるかとかはさておいて。最近、自分よりも下の世代の人たちと話す機会が多くて、という言い回しはあんまり正しくない。大学生および大学院生によって形成されるコミュニティにおいて、次年度から修士二回になるという自分はといえば老も老の存在で、だから下の世代の人たちと話す機会が多いのは当たり前のこと。だって、自分よりも上の人のほうが少ないから。という前提を踏まえると、「最近、人と話す機会が多くて」のほうがより正確な表現ということになるのだけれど、ともかくそういうことがあって。周囲の人たちとの交流を進めるなかで、それなりに好意的にみてもらえているのかな、というくらいのざっくりとした認識が自分には芽生えていて、なんていうか、そういう風に言ってもらえることがあるから。ところでそれはそれとして、たとえばそのうちの誰かから『良い先輩』と言ってもらえたとして、自分の感覚の八割あまりを嬉しさが占めるとすれば、残りの二割を疑問符が埋め尽くしているみたいな。嬉しいものは嬉しくて、でも「どのへんが?」という気持ちもあり。……みたいな話、だいぶ前にも書いた気がする、全く別の文脈で。まあそれはいいか。話を戻して、ただ、これは真面目な話としてこれまでの自分がずっと考えてきたことは、あくまでも自分ひとりの話でしかないようなことばかりだったというか。ずっと、というのは大学へ入ってからの数年間、あるいは高校時代から地続きのそれを指しての言葉だけれど、要するにこのブログの 2018-2020 に書かれているようなもののこと。高校三年間プラスアルファの全部をいったん分解してそれから再構築して、そんな風にして自分の中に在る考え方だとか価値観だとか、そういった言葉の外に在る一切を言語の枠組みへ落とし込むことで自身を理解しようとする試みというか、なんかそんな感じの。だから、「自分からみた何か」についてはそれなりの精度で言語化できていると思う。そういうことをずっとやっていたから、この場所で。ところで、いやだからこそ問題が発生していて、この一年くらい。というのも、だから自分は「他人からみた自分」という視点から自分自身を捉えようとしたことがあんまり、というかほとんどなかったという話で。去年の四月、自分は修士一回生になり、サークルでは明らかな上回生という位置づけになり、なのでそういった立場から下回生と接点を持つことが明確に増え。そんなこんなをあれやこれやと続けているうちに、それなりの評価めいた何かが周囲から返ってくるようになり。一方で先述の動機により「この相手にとっての山上一葉って何なんだ?」みたいなことを考えるようになった自分はといえば、その評価を無意識的に処理することができないというか。要するに意識してしまう、相手からの言葉を。これは本当にそう思っていることだけれど、以前の自分であれば『良い先輩』と言われたら嬉しさ一〇割で済ませていただろうなという気がしていて、いや本当に。でもいまはそれだけじゃ終わらせられないっていうか、なんていうか。ちゃんと自分の中で消化したい、みたいなことを思ったり思わなかったり。いつチルとかいう言葉に向き合う必要がある、と言っていたのはつまりはこういうことで、その背景事情を一言で言い表したのが、だから「この相手にとっての山上一葉って何なんだ?」だったりする。何なんだろうな、本当。この二ヶ月くらい、割と最優先で気になっている、訊かないけど。

 

 

 

20220213

 

 あと二十日くらいか、と思う。自分はといえば、なんというか、いわゆる先輩後輩といった上下関係から離れた場所で育ってきた感があって。自分の通っていた中学校にも部活動と呼ばれているものがあって、いまでも覚えている。公立中で、その校区に住む小学生はだいたいそのままリフトするから、小学六年生のとき、中学校で実際の部活動を見学するという行事があった。その前後辺りから、教室の中では専ら部活動に関する話題ばかりが飛び交うようになった。ただ、これは当時から不思議に思っていたこととして、クラスメイトの大半は先輩・後輩という関係性に何かしらの憧れを持っているらしく、一方の自分にはそういった感覚がほとんど全くなくて。だから、「部活動なんて面倒そうだな」としか思わなかったというのもあり、結局、中学では終礼と同時に帰路へつく、いわゆる帰宅部を三年間務めることになった。そしてそれは高校でも同じことだったけれど、しかしまあ、高校は部活動なんてあってないようなものだったから、校内をみても特に珍しいことじゃなかった。いずれにせよ、とかく自分はそういった上下関係に縁のない場所で過ごしてきた人間で、だから、自分の辞書に『先輩』という言葉が登録されたのは大学へ入ってからのこと。そういうわけで考えている、あと二十日。たしかに、これまでにもあった。なんていうか、いわゆる先輩方の卒業という類のもの。少なくとも二人、自分にとってかなり大きな人が卒業していて、そのときだってまるで穴が空いたみたいな、そんな感覚に苛まれたり何だったり。あれやこれやがしばらく続いたような続かなかったような。それぞれ三年前と四年前の出来事だし、あまり鮮明には思い出せないけれど。その二人は、自分がサークルに参加した段階で既に M1、M2 だったということもあり、だから一方とは一年、もう一方とは二年しか接点がなかったわけだけれど、それにしたってまあ結構な衝撃で。そこそこ。卒業イベントが終わって、新学期が始まって、いつも通りに例会の教室へ行って。これまでと同じ光景の中に、だけどあの人だけが来ていない、みたいな。知りあった瞬間からさよならが始まっているって、そんなのは当たり前のことだけれど。でもさあ、って。そんな簡単に割り切れるはずがないし、何にも失くしてなんかいないのに、まるで何かを失くしたみたいな。数字で測ることができるものでも、仮にできたとして、そうしていいものではないだろうけれど、三年、あるいは五年が経ったらしい、知りあってから。だから、流石に想像がうまくいかない。なんていうか、たとえば、次の四月の何気ない休日がどんな風に過ぎていくのか、みたいなこととか。五年って、いやだって、人生の五分の一くらいじゃんか。たしかに、その五分の一の全部にその誰かがいたかと言われればそんなことは決してないけれど、でも、そういう問題じゃないし。いや別に、ネガティブになってるとかでもなくて、なっていないわけでもないけれど、でも必要以上にそうなっているということはなくて。なんだろうな、……準備? 水の中へ急に飛び込むと危険だから、まずはシャワーで身体を慣らしておきましょう、みたいな、ああいうの。そういう時期に入ってきてるなと思うことが増えた、二月になってからというもの。一昨日、正確には昨日だけれど、大学内では一二を争うくらいに仲の良かった(と少なくとも自分は思っている)相手が京都の家を引き払って、つまり京都を離れて。最後のときには立ち会えなくて、なんなら最後に会ったのは一二月なんじゃないかという気がする。昨日の朝、目を覚ましてから「無理をしてでも会いに行けばよかったな」と思いつつメッセージを飛ばした。また会おうって、現実味なんか望めなくたって約束が一つあればいいと思う。昼。逆に、本来ならこの時期の京都にいるはずのない相手と会った。大文字山へ登って、山頂ではないけれど見晴らしのいい場所で、特に何を話すこともなしに一時間ほど座り込んで。お別れを言いに来たと言っていた、たしか。自分にじゃなくて、自分の知らない誰かに。朝の、あるいは前日のことを思い出して、自分は言えなかったから。ただこれまで通りではなくなるというだけで、二度と会えないわけじゃない。わけじゃないけれど、でも。夜、鴨川沿いに座りながら。数人が揃って席を外して、残された四人のうち自分以外の三人が何やら話し始めて。それとか、あとは川の流れる音とか、そういう全部を頭の隅で聞き流しながら、自分はといえば対岸を整備する信号機をぼけーっと眺めていて。横断歩道の赤。幹線道路の青。街灯の白。イタリアの色だなーと思いつつ、こうやって川沿いに座りながら「イタリアの色だなー」と思いながら信号機を眺めるの、何年か前にもやったなあと思い出して。でも、こんな夜ももうじき終わるんだよな、と思って。具体的には、あと二十日くらいで。みんないなくなっちゃうんだな。なんていうか、そんな風に思わずにはいられない一日だった、昨日、2022 年 2 月 12 日。