20210719


 死ぬのが怖くなる瞬間ってありませんか? いやまあ、そんなの考えるだけ無駄だしと言ってしまえばそれで終わってしまう話ではあるし、自分も概ねそのような立場をとっていて、なので普段からそういったことを考えているというわけではないのですけれど。でも、どのくらいかな。一、二ヵ月に一度くらいはそういう気持ちのめちゃくちゃ強くなる瞬間があって。きっかけは些細なことというか、何なら普段から経験しているはずの感覚がその日だけは違った形で認識されてしまって、そこから派生して死に対する思考が湧き上がってくるという流れが大半のような気もします。たとえば、なんだろ。その、考え事が一番捗るのは、自分の場合、お風呂に入っているときと外を歩いているときだって話はどこかで書いたように思うんですけど、特に後者のほうです。それこそ鴨川沿いなんかを歩いていると「そういえば、あの日集まったのってここだっけ」みたいな、昔というには最近のことすぎるものもそうでないものも、いわゆる思い出みたいなやつを文字通りに思い出すってことがあって。別に、誰だってあると思いますけど、そんなこと。鴨川じゃなくても、京阪沿線とか四条の街とか梅田とか地元とか、別にどこでも。数日前でも数ヵ月前でも数年前でも、『以前、ここで誰かと何かをしたことがあるな』という記憶そのもの? そういった場所を通りかかったりするたびに、それらの記憶に対する、なんだ、名状しがたい感覚に襲われたり襲われなかったりして。なんだろうな。別に、過去を振り返りたいわけでなければ、過去へ戻りたいってわけでもなくて。だから、その、アルバムを捲る感覚とはまた違っていると自分では判断しているのですけれど、でも、どうなんだろ。本質的には同じなのかもなと思ったり思わなかったり。自分の中でそれなりにしっくりきている比喩としては、なんていうか、手が届かないという感覚? 触れたいわけでも、ましてや掴みたいわけでもないのに、それでも「ああ、届かないや」と思ってしまうときの、その感覚に近いっていうか。雲とか空とか星とか、ああいうのと同じような。普段は、だからそういった感覚とも上手に付き合っていて、というより、そういう風に思える瞬間を自分は割と好ましく思っていて。有体に言ってしまえば、それはつまり自分が大切にしたいと思える記憶がまた一つ増えたということなので、悪いことでは全くないっていうか、むしろ良いこと。……なんですけど。なんていうか、だからこそたまに怖くなる瞬間があるという話で。なんだろ。その、「届かないな」って感覚が自分の中にある閾値のような何かを飛び越えていく瞬間があるような気がしていて。一昨日の話ですけれど、諸事情で実家のほうへ帰っていて。「せっかくだし」と思って深夜に散歩へ出掛けたんですよ。まあ、散歩自体は何度かしたことがあって、だから、いまの地元がどういった風に変わっていっているのかということを断片的には知っているのですが。その日はまあ、普段の散歩じゃ絶対に歩かないようなルートを選んだんです。中高時代によく遊んだ相手の住んでいる家へ向かうルートだったんですが、なんせ遠いし暗いし、なにより眺めがあんまり面白くなくて。積極的に歩きたい道ではおおよそないなって感じの、車一台通るのがやっとの細くて長い道。歩きながら考えていたのは「どこで曲がればそいつの家へ行けるんだっけ?」ということで。曲がり角の目印は覚えていたものの、その曲がり角自体が大体どの辺りにあるのかということをほとんど思い出せなくて。……と、そうこう考えているうちに「死ぬの怖」って気持ちになったんですよね。何故? 思考の跳躍がめちゃくちゃにあるな。いや、たしかにその瞬間、あいつの家へ行くための曲がり角がどこにあるのかを考えていたことは覚えていて、でもその後に何を考えたのかを全く覚えていないっていうか。色んなことを考えたような気がするんですけど、いやでも、その後に出てきた「死ぬの怖いなー」って結論が強すぎて、それから家へ帰るまではずっとそのことばっかり考えていたので、だから忘れてしまったのかもしれない、分かんないですけど。そいつの家へ向かうための細くて長い道を抜けた後はぐるっと回って帰る予定だったんですが、その途中にも色々あって。なんだっけ。自分が物心ついたころからある錆びた看板の印刷所とか。あるいは、生まれてから一度も訪れたことのないファミレス……の跡地にいつの間にかできていたうどん屋とか。あとは、あれか。一番大きかったのはなんか、めちゃくちゃでかいマンションが建築されていて、いつの間にやら。たしか、そこって駐車場だったんですよ、以前は。以前と言っても、それが駐車場として機能していたのは、もしかするともう五年以上前のことかもしれませんけれど(ここで『かもしれない』を使わないといけない程度には、記憶が定かでない)。それで、その駐車場は隣にあった施設のものだったんですよね。元は駐車場だった場所が現在そうなっているということは、まあ施設のほうも同じような状況になっているというわけで、こっちは工事現場のアレが邪魔してよく見えなかったんですけど、廃墟になっているか、あるいは解体されたかのいずれかっぽくて。「ふーん」と思ったり思わなかったり。その施設はまあ、昔、家族の車で来たことが何度もあって、だから駐車場を使ったことももちろんあり、立体駐車場だったんですけど、小さい頃はあれが結構好きで。だからいまでもその断片を覚えていたりするんですけど、それ以上に、その施設は自分にとっては結構大きな場所で。なんか多分、そこがなければ音ゲーはしてないし、だから作曲もしてないし、Twitterもしてないし、京大にも来てないし、みたいな。誇張ではなく、本当にそれくらいの、いまの自分が持っているものの半分くらいが始まった場所で。それがまあ廃墟になっていたり、あるいは解体されていたり、それ自体はどうだっていいんですよ、別に。仕方のないことだし。でも、そういう何かがそこにあったんだってことを覚えている人間までがいなくなってしまったら嫌だなと思って。それもまた必然ですけれど、だけど自分はそっちのほうがずっと嫌で。だから死ぬのが怖いんですよね、多分。最初の『以前、ここで誰かと何かをしたことがあるな』も同じですけれど、自分が死んでしまったらその事実を知っている人ってもうどこにもいなくなってしまうわけじゃないですか。いや、事実として記憶している人間はもしかしたらまだ存命かもしれませんけれど、『自分がそれを大切にしていた』ということを知っている人間は自分以外にはいないわけで、だから、自分が死んでしまったら終わりだよなって、そういう。……昔書いたことなんですけど、曲がり角の先って死角になってるじゃないですか、だいたいの場合。だから、その先で何が起こっていようと僕らはその事実を観測できないんですよね。たとえばそこに猫がいても、魔女がいても、あるいは何もいなくても、それを知る術はないっていうか。逆に、自分はだから曲がり角って結構好きで。その向こう側に何があってもいいという余白みたいな。空想の余地っていうのかな、そういう何かがあるように思えるので。でも、それってどこまで行っても空想でしかないっていうか。架空の産物? 宇宙人でも未来人でも、曲がり角の先であればその存在が認められるという理由は、結局のところ、その曲がり角の先を誰も観測できないからということで。誰にもみえないから空想は実在できるというとロマンチックですけれど、誰にもみえないことこそが空想の定義なんだよなと思うこともままあって。だから『大切にしていた』という事実だって、それを知っている人間が、つまり自分がこの世界からいなくなってしまったら、その瞬間にまるで事実ではなくなってしまうみたいな、そういう、なんだろ。強迫観念ではないですけれど、でも、それと同じような意識が頭の中にあって。そんなことないって思うんですけど。だけど、たまにそういう風に思ってしまうときがあるって話です。一、二ヵ月に一度くらいのペースで。……なんだろうな。これは昨日の夜に彼と話していたことですけれど、自分の死が自分と接点のあった全員へ知れ渡ってほしいみたいな欲求は別になくて。時が経って、いい感じに忘れられて、別にそれでいいんじゃないのって。いまはそういう風に考えているんですが、だから、死への恐怖って自分の場合、自分が忘れられることよりも自分が忘れてしまうことのほうがずっと強くて。……でも、どうなんだろ。それは結局『自分を形作っているものの存在を失いたくない』ってことだから、自分が忘れられることへの恐怖と同義でもある? いや、そうではないような気もしていて。別に、他人の中にいる自分がどうなろうと知ったことではないという気持ちは確かにあって。だから、そうですね。自分の中にいる自分を失くしたくないのか。そんな気がします。……なんか、何の気なしに始めたらめちゃくちゃだらだらと書き連ねてしまったな。いやなんか、つい最近、そういうことを考える機会が一気に降ってきて。全部が全部ただの偶然ですけれど。散歩もそうだし、彼との話もそうだし。なんか、なんだろ。生きる死ぬの話って普段全然しないし、当たり前ですけど。というか、別にしたいとも思いませんし。でも、ちゃんと考えなきゃいけないことではあるよなって気持ちはかなりあって。その、自分のことだけじゃなくて、大切な誰かのこととかも含めて、全部。ちゃんとしなきゃいけない。そんなこと、分かってるはずなんだよな。

 

 

 

20210716


 先日ベースを買いまして、という近況報告から始めるの、そこそこ久しぶりのことのような気がしますね。そうでもない? なんか、なんだろ。「自分は普段こんなことを考えています」系の記事が最近は多かったから、ブログであんまり日常の話をしていなかったがちというか、いやまあ、自分の日常になんてどこの誰が興味あるんだって話ではあるし(それを言い出したら、このブログそのものがそうだけど……)、そもそも Twitter をみてもらえば僕の生活のすべてがそこにあるわけですが……(これは嘘で、すべてはない)。まあ、はい、ベースを買いました。これです。

 と言っても別に激高のそれをローンで購入みたいな、それはもうガチのベーシストがやることじゃんかみたいなことをしたわけでもなく、『ちょっと興味ある人が手を出す用』くらいの価格で売られていたそれを入手したのですけれど。いや、どうなんだろう。まだ判断しかねるところがありますけれど、いまのところめっちゃくちゃに楽しくて。エフェクタとかもほしい~~~って気持ちが若干芽生えつつあり、さらに言えば、この感覚があと半年か一年くらい持続するのであれば、もう少し値の張るやつに手を出してみてもいいのかも、と思ってもいます。いや、もう、そのくらい楽しい。自分、ギターも一応持ってはいるんですが、そっちだとこういう感覚にあまりならなかったというか(それはそれとして、ギターも超楽しい)。なんだろ。ベースに関しては明確な憧れの対象がいるから(自分の音楽的な側面を知っている人は多分知っている、あの人)、自分の音をそっちへ持っていきたいって考えも生まれてきたりするのかなあと思いつつ。実際のところ、どういう理由かは分かんないんですけど。でも、あれだな。編曲とかをしていて一番楽しく感じるのがベースラインを考えているときなので、卵と鶏っぽいですけれど、そう思うとこっちのほうによりハマるのは別に変なことでもないような。いや、どうしてもっと早く買わなかったんだろう、本当に(ギターを買ったときにも思った)。

 

 今回はこれ以上もう何も書くことないんですけど、一応のアレとして、あれです。質問箱を設置してみました。なぜ今更? と自分でも思っていますけれど、いや、前々から興味はあったんですよね、多少。でも、なんていうか、謎の抵抗感があって触れてこなかったという感じで。……まあ、Twitter のタイムライン上で「始めました!」と宣言するようなつもりも更々なく、このブログでしか言わないことにしておきますけれど。いや、真面目な話、自分が一度も質問箱を利用したことがなくて(他人へ質問を送るという用途でも)、だからなんか、存在意義がよく分かっていなかったというか。でもまあ、置いておくだけならタダだし、作るだけ作っとくか、という程度のモチベーションで今回に至りました。

 あと、ブログを書く前段階で「何か話のタネないかな~」と思うことがままあって、これまでは誰かと話したり、あるいはどこかへ出掛けたりという辺りから、その動機を見つけたり見つけなかったりという感じだったのですが、まあ、最近はもうずっとこんな情勢ですし、人と会うのも簡単じゃないなあって。だからって、こう、難しいじゃないですか。インターネット上のコミュニケーションって。Twitter とかって、基本的にメモ帳みたいなものだと自分は思っていて、だから必要以上に他人へ絡みに行ったりはしないし、リプライも飛ばさないし。会話のような何かの発生が期待される環境でもないよなって、個人的には思っていて。んー。ムズい。

peing.net

 というわけで、何かあれば上のところから適当に質問(メッセージ?)を飛ばしてもらえたらと思います。本垢(@1TSU8)を使うのがちょっと嫌だった( Twitter の FF と質問箱の FF をリンクさせる機能があるらしく、それが嫌だった)ので、描いた絵をアップロードしたりしなかったりするほうのアカウント(@1k88P)で登録しましたが、まあこれも僕のアカウントです。ブログの内容に関することでも大丈夫です、別に。実際に来るかはさておき、来ればどうせブログ内で消化するので。

 

 

 

悪夢


 以前も書きましたけれど、自分はいわゆる『自己申告による評価』をほとんどあてにしていなくて、なんていうか、「自分はこういう人間です」みたいなやつ。他人のそれがそうなのだから況や己をやという感じで、だからなんか、そういうのを避けてるんですよね、普段は、なるべく。こう、自分の性質的な部分にはあまり触れないようにして、そこから得られる情報だけを残すようにしてるっていうか、その、自分がどういう人間であるかというステップを一つ飛ばしにして、その先にある情報だけを記述するっていう。「こう思った」、「こう感じた」、「こういうことを考えている」みたいな、正しいか正しくないかはさておき、いずれにしたって『そうである』だけなら自由なので、仮に自分が読み手側であったとしてもそういう文章なら比較的読みやすいかなって、そういう気持ちがそれなりにあって。だから、自分の身の上話は、もっと言うと性格的な部分というか精神的な部分というか、だから、あれやこれやと普段から書いている諸々を自分に感じさせている根本的な原因? そういうものについてはなるべく隠すようにしているという話で、いや、だから、信じられなくないですか? そういうのって。「自分は善人です」という人間がいれば、自分はその背後にナイフのような刃物を想像してしまうし、「自分は悪人です」という人間がいれば、自分はその裏側に善意のような何かの存在を疑ってしまうし。良いも悪いも、だから信用ならないっていうか、信用してないっていうか、全然。自分にはそういう意識があって、だからこういう場ではそのような話を避けているって話で、だって自分が読み手ならそう思うから。そうとは言っても、まあ、たまにちょくちょく書いてはいるんですが、折をみて。今回もそんな感じのあれになりそうです。

 さっき超絶級の悪夢をみて。数分前。それで飛び起きて、いま。中途半端な睡眠時間で目が覚めて、三時間半くらい。全身がやけに汗まみれで、気持ち悪いし、寝付けないし。しょうがないって言って起きて、でも、できることも特になくて、だって頭は眠たいままだから。とはいえ、たぶん一時間くらい経たないと再入眠できなくて、だったらその間に何をしようって話で、それでいまブログを書いてるんですけど。本当のことを言えばブログでなくともよくて、というか普段だったら多分音楽を聴いて一時間をやり過ごすだろうし、実際いまも音楽はずっと流してるんですけど、でも、なんていうか、そんな気分でもないっていうか。そんな気分でもないってのは違っていて、それじゃ足りないって感覚? なんだろう。吐き出してしまいたいんですよね、要するに、その、悪夢の悪夢たる所以、みたいなものを。一刻も早く自分自身から切り離してしまいたいっていうか、楽になりたくて。なんだろ、Twitter でも書いたんですけど、……というかこのブログでも何度か書いたことがあるような気がしますけれど、その、悪夢から目が覚めた瞬間の行動パターンって人それぞれだと思うんですが、自分の場合、まず自分の居場所を疑うところから始まるんです。別に珍しいことでもないと思うし、同じようなタイプの人は沢山いると思うんですが。「ここは現実? 本当に自室のベッドの上? それともまだあの夢の続き? どっち?」っていう。そういう風に考えている段階で、そこが夢の続きだったことなんていままでの人生で一度としてないんですが、でも毎度毎度ここからのスタートで。まあ有象無象の悪夢ならまだ一人でどうにでもできるんですけど、本当に最大級の悪夢をみたときには自分はよくその事実だけを「悪夢をみた」って風にツイートするんですよね。これ、どういった動機で行動へ移しているのかというと、仮にそのツイートに誰かしらからリアクションが来たとするじゃないですか。いいねでもリプライでも、なんでも。そうやって自分の端末に通知がやってきたら、それは『いまの自分が認識している世界に、少なくともこの誰かは存在している』という情報に等価なわけで、それがだから『いまの世界が現実である』という風に頭で解釈されて、なんていうか、言ってしまえばそういった安心感を求めての行動っていうか。基本的に一人でも生きていけるな―って思いながら毎日過ごしてるんですけど、本当にダメになるタイミングがあるにはあって、最上級の悪夢をみたときがその一つです。普通の悪夢だったら別に何ともって感じなんですが、ごく稀にマジでクリティカルな悪夢の降ってくることがあって、そのときだけ本当にダメになるっていうか。なので、僕がそういうことを Twitter で話していたら、「ああ、こいつまたビビってんな」と思いつつでもいいねを押してもらえると僕が救われます。それがないとベッドの上から一切動けないんだよな、本当に。

 証拠を出せと言われたら「このブログを最初から最後まで、全部読んでください」と自分は答えますが、自分の根本にある考え方の一つとして『相対化』というやつがあると、そういう風に自分は自分のことを理解していて。一つとしてっていうか、それだけしかないんですけど。相対化。『友人と恋人とを同じ風に考えている』とか、『ルールは自分だけが守っていればいい』とか、『何か一つが絶対的に正しいだなんて信じたくない』とか、『嫌われたくはないけれど、それほど好かれたくもない』とか。共感性って話もありましたけれど、あれだって、要は自分と他人との間にある境界線をどれだけ曖昧にできるかって話で、だから、なんていうか、そうやって区別を排そうとする傾向? そういう感じの何かが自己の奥底にあるような気がしていて。……冒頭のほうでも言いましたけれど、こんなの全然信用ならないっていうか、自分のことほど客観的に理解できない対象ってなくて。他人を映すときですら僕たちの目にはバイアスがかかってしまうのに、それが自分となれば尚更で。だから、「お前がそう思ってるだけだろ」と思いながら読んでもらって大丈夫です。自分もそのつもりで書いています、いま、これを。ともかく、あくまで自分の理解に沿っただけの解釈を述べることにすれば、自分にはそういった傾向があって、自分はそのことを『相対化』と呼んでいます。たとえば自分の信じる正義があったとして、たとえば誰かの信じる正義があったとして、仮にその二つがどれだけ食い違っていても自分はもう一方のそれを否定したいとは別に思わないし、思えないし。これも多分どこかで書きましたよね。その、「自分のそれが正しいと信じたいから、誰かのそれも正しいのだと信じることにしている」みたいな話。だから要するに、絶対的な真実なんて存在しないと自分は思っていて、信じていて、そういった価値観に従って生きているから、だから他の誰かが何を正義と定義していようがどうだっていいっていうか。『好き』の定義が食い違っているからって、それが何なんだって話もしましたっけ、たしか。これもそうですよね、各々が好き勝手な『好き』を定義すればいいじゃんって思うし。『生きる意味』がどうこうって話も書いたような気がする……。挙げればキリがないですけど、いやだから、そのくらい、このブログのいたるところに『相対化』の考え方が散りばめられていて。この性格に自覚的になったのがいつの頃だったか、そこまでは覚えてないんですけど、なんていうか、こうやって自分の考え方みたいなものをアウトプットする場所を作って、だから自分自身のことについて色々と考えるようになって、それで初めて知ることのできた性質の一つであることには間違いがないんですが。でもまあ、自分が知らなかったというだけで、一度気がついてしまえば昔っからずっとそうだったって、そんな風に思ったり思わなかったりという感じですけれど。なんだろ。これも「お前が勝手に言ってるだけ」で片づけてもらっていいんですが、その、共感性という概念をどう定義しているかということについてさっき少しだけ触れて、そのときは『自分と他人との間にある境界線をどれだけ曖昧にできるか』という能力という風に言いましたけれど。これ、だから要するに、『共感性が高い』って『自分と他人との区別ができない』と同義なんですよね、ほとんど。ああいや、もちろん、この定義を採用するとするならば、という前提の上での話ですけれど。自分は恐らく感情移入がそれなりに得意なほうで、……というのはそれが他人と比較することのできないものである以上、だからどれだけ事実そうであったって「お前が勝手に言ってるだけ」の域を出ることはないんですが。鬱陶しいくらいの注釈をつけて文章を書いていますけれど、でも、これくらい添えておかないとどうしたって誤解されてしまいそうだなって思うので許してください、その辺りは。誤解だけは絶対にされたくないし。……話を戻すと、自分は恐らく感情移入がそれなりに得意なほうで。架空の人物相手でも、現実の人物相手でも。何なら非生物が相手でも。道ですれ違った人の心情を推し量るということをほとんど無意識で常にやっている、って話を以前何処かで書いたじゃないですか。あれ、人物相手のときほど過剰ではないもののポスターや信号機、店舗裏のダクトやゴミ箱にだって適用される性質で、その場合は感情を察するというより、その対象を通じて物事の流れだったり、周囲の様子だったり、あるいは現在の自分の思考を透視するっていうか、そういう溶媒チックな使い方がなされるんですけど。自分の場合それが常で、外を歩いているときはもうずっとそうで。自分は外を歩くとき大概イヤホンを付けるようにしてるんですが、これが何故かというと、音楽で意識を満たしておけばそういった余計な情報が介入してこないからっていう、音楽が好きというよりはそちらの理由のが大きくて。これはまあ、高校生くらいの頃に気がついた対処療法なんですけど、それはいいや、別に。話が膨らみすぎないうちに適当にまとめておくと、自分の思考の根底には『相対化』というやつがあるっていう、それだけの話です。なんだろう。なんていうか、想像力を正しく使いこなせてないって感覚がめちゃくちゃあって。想像力という言葉を僕が知ったのは、たしか大学へ入って二年目のことだったと思うんですけど。お互いに所属も何も違う複数人から「想像力がある」と評されたことがあって、だから自分は自分のことを「ああ、そうなんだ」と理解しているというのが現状で。いや、本当かどうかは知りませんけど、全然。まあでも、他人による評価を大切にしたいと思ってもいるって話をどこかで書いたと思うんですけど、たしか。だからまあ、事実がどうであるかはさておき、忘れない程度に留めてあって。その、なんだ、想像力と呼ばれる何か? それと『相対化』の考え方とどちらが先なのかは流石に判断できませんけど、なんか、両者の間に妙な相互作用が働いてしまっているような気がしていて。想像力だとか『相対化』だとか、いまの自分はこうやってそれぞれの性質に名前を付けて、それがどういった機能を持っているのかということを経験則的にある程度知っているから、だから問題なく動けていますけれど、高校生時代まではこれがめっちゃくちゃなストレスになっていたって話もたしかどこかに書いたはずで、それがだから『正しく使いこなせていない』という話なんですけど。暴走してる感じ、常に。なんていうか、起動するスイッチみたいなのがあればいいのにって思うんですよね。その、「ここは想像力を働かせなきゃいけない場面だからちょっと頑張ろう」とか、「いまは気を抜いてても別に問題ないかな」とか、そうやってオンオフを選ばせてほしいっていうか。任意じゃなくて強制なんだよな、基本的に。自分の意思で切り替えられるのなら、だから今日みたいなことがあってもやり過ごせるんだろうなって思うんですけど。……ああいや、もうなんか、色んなことを書きすぎてもう今更書かなくていいかなって気になりつつあるというか、そろそろ眠れそうなくらいに気がまぎれたかなって感じで。だからまあ別にここで止めてもいいんですけど、どうしよ。

 ……他の人が自分の弱点のようなものに対してどれだけ自覚的なのかなってことが少し気になっていて。たとえば、その、食べ物とかだったら分かりやすいじゃないですか。アレルギーなんかはさておき、一度食べてみて口に合わなかったらそれは苦手だってことだし。次からは多分その素材が使われた料理は避けて、それで解決っていうか、そんな感じですけれど。でも、精神的な面での弱点ってどうなんだろうって。どのくらい正しく理解できているんでしょう? 自分たちは、自分たちの弱点を。表面的に捉えたらそう、という領域ではなくて、もっと深くの、致命的な部分まで正確に。『それを持ち出されると、自分は明確に傷つく』と言える何か? 自己憐憫だとか被害妄想だとか、そういうんじゃなくて。他人にされて傷つくってことじゃなくて、いや、事実としてはそうなんですが、そうじゃなくて、なんだろ。自分で自分を精神的に殺す方法? みたいな。だから、精神的な自害の手段っていうか。『他人にされて嫌なこと』じゃなくて『自分でも他人でも、誰にされても嫌なこと』。本当の意味での弱点って多分そういうもので、なんていうか、他人に易々と打ち明けられるようなものでもないと自分は思っていて。他人に教えられるような領域のものって、だからそれは恐らく前者の領域に留まっているようなもので、弱点であるのは変わりないものの自分が口にする分には平気っていう、ただ他人に言われるのは嫌ってだけのこと。そういうのはまあ、人間関係をやっていれば色々と見聞きしますけれど、だから、本当の意味での弱点って誰のそれも知りやしないなって。知りたくもないですけど、その誰かを精神的に殺す方法なんて。いやだから、その、他の人たちがそういった致命的な部分にどれだけ自覚的なのかって、それもまた同様に知らなくて。どうなんでしょう。どうですか? 自分は、自分のそういう致命的な弱点を一つだけ知っていて。知っているっていうか、これもまた「お前が勝手にそう思っているだけ」に過ぎない、ただの自己分析ですけれど。でも、「こればっかりは自分でやっても多分死にたくなるな」っていう、そういうのが一つだけあって。……どうだっけな。明言してはいないだけで、このブログに散りばめられまくっている言葉を繋げていけば辿り着けそうな気もしていて。だって、もう結構な数の記事を書いていますし。そういう話をした記憶もあるにはあるので、だから多分載ってます、どこかには。それはさておき。ともかく、まあ、自分はそういう、なんだ。メンタル的にマジでヤバいウィークポイント? みたいなものを一つだけ理解していて、理解しているつもりになっていて。で、ここで最初の話に戻るんですけど、たまーにみるんですよね、その手の悪夢を。その、絶対に訪れてほしくない一瞬を的確に再現してくる、そういう夢をみるんですよ、ごく稀に。いや、もう、それが本当にヤバすぎて。最初のほうで悪夢をみた後のことについて書いたとき、「いや、ビビりすぎでしょw」と思った人がもしかしたらいるかもしれませんけれど、いや、もうマジでヤバいんですって、本当に。夢ってなまじ現実感があるじゃないですか。現実に存在しうるという意味ではなくて、『夢をみている最中にそれが夢だと自覚することはできない』という意味で(明晰夢はみたことがなくて。みてみたい気持ちはかなりあります)。だからもう、ベッドの上で目が覚めた瞬間の絶望感って半端なくて。「自分、さっきまで何してた?」って。いや、だから確かめたくもなるじゃないですか。その、いまの自分が認識している世界は本当に現実なのかどうかって。現実世界ではその悪夢のようなことは絶対に起きていないんだって、そういう確信がほしくなるっていうか。そこで頼るのが Twitter というのはどうなんだと自分でも思いますけど、まあ手っ取り早く他人からのリアクションが得られるツールですし……、そこはまあ、はい。……いま良い感じに眠くなってきたので、このまま寝ることにします。いやー、もう、マジで勘弁してほしい。虫が大量に出てくる夢とか、全然可愛いほうですよ、本当に。昨夜もなんだかホラゲチックな夢をみたんですが、たしか。それもまあ悪夢って感じではなかったし。でも、いや、だから人がマジで精神的に死にかねないような夢をみせるのだけはやめろよなって、神様みたいな人がもしいるんだとしたら、ちょっとした恨み言を言いたくもなりますね。

 

 

 

誰も知らない


 ちょっと前の記事で「昔は夜が怖かった」みたいな話を書いたように思うんですけど、でも、その話を書いたときからずっと思っていたことがあって、それが何かって「夜が好きな日もあったな」ということで。数日ほど前に真夜中の三条へ繰り出す機会があって、別に誰かと遊んだとかではなく、単に深夜散歩の延長で三条まで歩いただけですけれど、鴨川沿いを。そのときに「ああ、そういえば」って思い出して、そのうちブログにでも書こうかなと思うなどしました。どこだっけ。たぶん三条通りって名前でいいと思うんですけど、あの、駅があって橋があって商店街があって、みたいな場所。そこも少しだけ歩いたんですが、その通りから一つぶん北を東西に走る通りがあって、いま調べたら御池通って名前らしいんですけど、そっちのほうが自分の印象には残っていて(そういえば、散歩中にみた看板に『おいけおおはし』と書かれていたことをここで思い出した)。めちゃくちゃに広い車道と、灯りの消えたビル群と、誰もいない歩道と、街路樹と、あとは辺りをオレンジに染める街灯とがあって。たったそれだけなんですけど、でもなんか、数日前の自分はその光景にめちゃくちゃ感動したというか、いや、感動というとあまりにも大袈裟ですけれど、でも、似たような気分にはなって。感傷が近いのかな、分かんないけど。その理由は多分いくつかあって、自覚的なものもそうでないものも、色々と。その中の一つが、その、「夜が好きな日もあったな」に通じたりするのかなって話なんですけど。どこから話そうかな。別にそんな特別な話ってわけでもなくて、たぶんどこにでもありふれている、誰でも知っていそうな感覚の一つだと思うんですけど。僕の実家、というか家庭? 姉が高校生になった辺りからは全然だったんですが、昔はよく旅行へ行っていたんですよ。旅行……。旅行っていうか、まあ、そんなスケールの大きい話でもないんですけど。父親の車で家を出て、高速道路を走って何処かへ行く、みたいな、そういうごく普通の旅行があったんですよね、昔は。いま思うと父親は大変だったろうなと思うんですが、その、目的地に着いた瞬間から行動が開始するので、目的地へはなるべく早く着いておきたいわけですよ。それこそ朝とか、遅くとも午前中には。となると、実家を出る時間はかなり早くに設定しなくてはならないわけで、それこそ深夜二時とか三時とか。……ってあたりまで書けばだいたいどういう話の流れになるのか、察しのつく人もいるだろうなと思うのですけれど、だからまあ、そういったときに繰り出す夜の町はとても好きだったんですよね、自分。なんていうか、それこそ中高生の頃の初詣とか。まだ小さかった頃って、そういった深夜帯へ外を歩くこと自体が新鮮っていうか、だって普通しないし、する目的もないし。だから、そういった一日の特別感がより強固なものになるっていうか、そういった感覚は多分誰しもが知っているのではないかなって思うんですけれど。それと、まあ言ってしまえば同じものというか。なんだろうな。その、昔の自分(=他人)がどう思っていたのかみたいなものを雑に括ってしまうのって、そんなに良いことじゃないなと自分は思っていて。どうしてかというと、言語化をするとその枠組みに切り取られてしまうから、全部が。だからまあ、そう思っているとだけ触れたうえでざっくりとまとめはするんですが、なんていうか、『誰も知らないものを知っている』という優越感の一種だと思うんですよ、ああいうのって。こう、普段は人で溢れている町も通りも眠りについて。民家もスーパーも小学校も、みんなすっかり明かりが消えてしまって。他の誰も観測していない風景を、つまり誰も知らない世界を、そういう場所を自分はいま歩いているんだっていう、なんだろう、特別感というか何というか、そういうの。なんか、そういう風に言ってしまうと別に夜が好きだったわけではないような気もしてきますし、まあ実際そうだったと思うんですけど。でもまあ、ああいう日に母親だか姉だかに手を引かれて歩く夜の町はめちゃくちゃ好きだったなあって。そういうことを、三条まで歩いた数日前にふと思い出してっていう、それだけの話です、今回は。

 

 

 

相対


 そろそろ寝ようかなと思ってベッドへ入った後、なんだか胸が苦しくなるってことが割と頻繁にあって。物理的に、じゃなくて、感覚的にそうっていうか。苦しいというより、締め付けられるような? そんな感じの、ほんの一瞬のことなのですけれど。これについては自分でもあまりよく分かってはいなくて、というのも、その現象自体はそこそこの頻度でやってくるものの、「あ、まただ」と認識した瞬間に意識から抜け落ちてしまうっていうか。「いまの、何だったんだろう?」って。なんだろ。曖昧な記憶を頼りに物を語るとすると、こう、風景画のようなものが頭のなか一面に広がっていく、そういう一瞬。高速道路とか、都会の街並みとか、夕暮れの海辺とか、広大な草原とか。絶対に経験したことのないような、たとえば南極のような、そういったものも中にはあったと思うんですが。たぶん、僕が忘れてしまっているだけでもっとたくさんの光景が、こう、眠ろうと目を閉じた瞬間にふっと湧き上がってくることが稀にあって。そのたびになんだか苦しくなって、「あ、まただ」と思って、そうして忘れてしまうっていう、その繰り返し。ついさっき二時間ほどの仮眠をとったんですけど、そのときにもこれがあって、「ああ、またこれだ」と思ったなーと、目を覚ました後になってふと思い出して。なんだろう。なんか、本当によく分かってないんですけど、その一瞬にやってくる苦しさって、あえて近しいものを探すのだとしたら『寂しさ』がそれに該当するような気がしていて。気がするだけですけれど。その、自分じゃ絶対に手の届かない光景に対して抱く寂寥感っていうか。このブログのどこかに多分転がっていると思うんですけど、自分の実家は山の麓にあって、山と言っても大したものではありませんけれど、だから実家へ帰ると早朝にそこへ登ったりするんです。午前五時とか、そのくらいに。まだ覚醒しきっていない空と町を高くから見下ろして、その瞬間に湧き上がってくる感覚と同じだなって、自分はそんな風に思っていて。それもまた寂しさに似ているだけの、色も形もよく分かっていない何かという感じで。何なんでしょうね、これ、本当に。自分が散歩をよくしている理由はいくつかあるんですが、……という文章を書こうと思ったところで気がついたことがあって、そういえば、そうやって眠る前に込み上げてくる景色に人間がいたことってない気がするなーって。だったら、僕が早朝や深夜の散歩をよくやっている理由と、その寂しさのような何かって案外似ていたりするのかも。しないのかも。……自分でもよく分かっていないことをよく分かっていないままに書いたので、めっちゃくちゃ感覚的な文章になっちゃってますね。たぶん、自分以外の他人がこれを読んでも、何について書いてあるのか全然分かんないよなって、自分でもそう思うんですけど。まあ、今日の本題はこれについての話ではないので許してください。

 

 改行。空模様 - 感情墓地と同じ話をします。上の記事を読み返していて「そういえば」と思い出したんですが、例の作品は他のいくつかと一緒に文庫本のような感じになっていたという経緯があって、だからまああとがきのようなものがあったんですよ、当時。今更それを読み返すのはアレかなと思ってしていませんが、でも何を書いたのかは大体覚えていて。たしか『死生観も恋愛観も自分にとっては同じ』みたいなことを書いたなって。いまでもそんな風に思っている自分はいて、何ならひと月前の記事でも『友人と恋人』で同じようなことを言っていましたし。あの頃からずっとそうなんだなあと、別に懐かしむでもなく、ただ何となく思い返すなどしました。

 上の記事だとぼかしていましたけれど(恥ずかしいので)、でもまあもう二年前の作品になるらしいし(二年前……?)、結局、あの中で自分の書きたかったことは何だったのかという話をしてもいいのかなと思って、あれな人は適当にブラウザバックなどしてもらうとよいかと思うのですが。書きたかったことは勿論たった一つに定まってしまうようなものでもなくて、だから本当に一から十まで説明をするのであれば、より多くの時間をかけてより正確な言葉を探すべきなのだろうなと思いつつ、それでもざっくりと言ってしまうとすれば、『どれだけ違って見えても全部同じ』という意識が中心にはあったように思います。あとがきでそういう話を書いたって、さっき言ったばかりでしたけれど、だからまあ、別に隠していたわけじゃなかったし、このことについては作中でも色んなところで言及しまくったつもりでしたが。上の記事の最後で「どこの誰に向けたメッセージとかではなく、強いて言えば自分に宛てたそれ」と書いていますけれど、そういったことを他の誰でもない、昔の自分に教えてやりたかったっていう、あれはそういう作品です。

 男性が女性を好きになることがあって、女性が男性を好きになることがあるんだとしたら、男性が男性を好きになることがあっても、あるいは女性が女性を好きになることがあっても、別に良いと思うんですよね。何が違うんだろう? って。そりゃまあ、生物学的にどうこうって話を議論の場へ持ち出すことは可能ですけれど、でも生物学的にどうこうって視点で恋愛をする人がマジョリティだってわけでもないでしょう。人類の繁栄を願っての結婚が規範とされる社会であれば、まあ、間違っているのは僕のほうになるのかもしれませんけれど。でも、少なくとも自分は、恋愛ってそういうものじゃないんじゃないのと思っていて。だから、別に各々が何でも好きにしたらいいっていうか、『好き』という言葉の定義が自分と他人とで食い違っていたとして、それがなんだっていうんだという気持ちがかなりあって。異性が異性へ抱く好意が正常であるとして、同性間のそれが異常なのだとして、その主張を受け入れた上でも自分は「正常か異常かどうかが、そんなに大切?」という気持ちになってしまうっていうか。仮に自分が異常な側にいるとして、周りの人間が全員正常だとして、その感情を疑う必要が本当にあるのかなって。なんていうか、そういった固定観念のような何かが、まるで酸素みたいにこの社会の中には満ちていたとして、それが架空の敵であるとしてもそう認識してしまいかねない状況があったとして、その程度のことでどこかの誰かが自分の感情に名前を付けることを躊躇ってしまうのだとしたら、それは悲しいことだなーって。そんな感じのことを、もうずっと前から思っています。僕は同性愛者ではありませんけれど、でも、だからたとえばの仮定の話、僕がどこかの異性に好意を抱いたとして、その誰かに向ける感情と、たとえば友人へ向ける感情とを比べてみて、その二つに違いなんてきっとないって、そういう思いがかなり強くあったという話で。それがだから先月の記事で書いたことだって話でもあります。

 愛とか依存とか。これもこれで分かりやすくそうっていうか。なんだろ。これについても以前の自分はかなり考えたような気がして、というのも、最もクリティカルな問題だったから、自分にとって。作中でも書いていたと思うんですが、「どちらも同じくらいに綺麗で、同じくらいに歪んでいる」みたいな文章を。この問題に対する自分の答えは一先ずこれで、だから結局、区別なんてする必要はなかったんだって、そういう結論に落ち着くのですけれど。誰かや何かのことを好きになるのって本来はとても綺麗な感情なんだって、自分はそう信じていて。それは別に恋愛的な意味でなくたって、友情だとか尊敬だとか、あるいは憧憬でも畏怖でも何でも。でも、なんだろうな。その、見え方が少し変わってしまったというただそれだけのことで、なんだか全く別物のように思えてしまうっていうか。依存。依存が良いことだって話ではないんですよ、もちろん。悪いって話をしたいわけでもありませんけれど、でも、だからそうじゃなくて、良いとか悪いとかじゃなくて。なんていうか、本質的な部分はそこじゃないっていうか。表面的な要素ばかりを見すぎてしまっていたような気がして、当時の自分が。だからまあ、これについては昔の自分に向かって説教したいことでもあるんですけど、依存を歪みと定義するのなら恋愛もまた十分に歪んでみえるはずだっていう。両者の違いをわざわざ探して、その一つ一つにああだこうだって苦しむ必要も別にないんじゃないのって、そういう。とはいえ、そういった時間がもしなかったなら、こんなことを言うような人間にもなってはいなかったのだろうなって、そう思いますけれど。

 空。気の持ちようで空の見え方ってかなり変わるような気がしていて。自分はもうずっと、この作品を書く少し前くらいからそういったブレみたいなものは少なくなっていて、だいたいどんな感じの天気でも同じ風にみえるんですけど。でもまあ、そういった時期もあったことにはあって、それこそ、自分がとても大切にしていた何かを失くしてしまった日とか、それからしばらくずっととか。でも、なんだろう。そうじゃなくなってから振り返ってみて思うこととして、当時の自分がみていた空といまの自分がみている空って別に何にも変わんないよなって。比喩的な意味じゃなく、当たり前の事実として。空は空で、どこかの誰かが喜んだって悲しんだって怒ったって笑ったって、それに応じて色合いを変化させるわけではないんだし。いや、これもまた、だから昔の自分へのメッセージでしかなくって。「お前がそうやって忌み嫌っている空だって、数年後の自分は十分に愛せてるよ」って。曇り空も雨空も、青空や夕焼けと同じくらいに好きになれるって、そういう日がいつか来るからっていう、過去宛てのメッセージ。昔の自分といまの自分とで変わったことなんてほとんど何もなくって、大学へ入って歳を重ねた程度のことしかなくて。それでも全部同じだって思えるようになる、そのうち。

 何者かになる必要なんかあるのかなって。書き出しがこれであることからも分かるように、これ自体が当時の自分の中心にあった問題意識だったのですけれど、これがだからこれまでの話を一斉に抽象化した問いになっていて。『特別な何か』になる必要が、あるいはそういう『特別な何か』を特別視する必要が、本当にあるのだろうかって、そういう。社会にとっての特別でも、誰かにとっての特別でも、何であっても。その問いに対する自分の答えは、まあ作中で書いた通りですけれど。青空を愛せるなら曇り空だって愛せるし、失くしてしまったあとの今だってきっとそうで。なんていうか、その空白を埋めるための『特別な何か』なんて本当は必要がなくて、空白のままだって十分に生きていけるし、実際、自分はいまもまだ生きているし。空白は空白のままだけど、それでも動けるし、全然。その空っぽをむしろ大切にしていたいとさえ思えるようになっていって、……みたいな話を昔の自分にしたらきっと怪訝な顔をされるのだろうなって、そんな感じのことを考えながら書いていたような気がします、この作品を。

 

 今日、正しくは昨日のことですけれど、なんかそういう気分だったからあの作品を久しぶりに読み返してみて、「そういえばそうだったな」と思い出したり思い出せなかったり。当時の自分が当時の自分なりに色々と考えて頑張って書いたんだろうなーと思ったり思わなかったり。二年も経つともうほとんど他人の文章みたいに思っちゃうこともあるんですけど、でもやっぱり自分の言葉だなって感じはあって。あの中には自分の考え方のほとんど全部が詰まっているような、だけどいまの自分のそれとはやっぱり少し違っているような、そんな感じでした。……この作品について書けることはまだまだたくさんあるはずで、でもやっぱ書きすぎるのもアレかなって気持ちがあるにはあるので、とりあえずこの辺りで。

 

 

 

評価


 自分は他人による評価をあてにならないと思うと同時に大切だとも思っていて、その一方で、自分自身による評価は大切だと思うと同時にあてにならないとも思っていて。この二つは同じようでいて全く別の感情だという気もすれば、でもやっぱり同じようなものなんじゃないかって気もしていて。なんだかよく分かんない書き出しに始まっちゃいましたけれど、今回はそんな感じのことについて書こうと思います。どっちから話そうかなって感じですけれど、いやまあどっちだっていいんですが、なんとなく後者から先に。自分は自分自身による評価をそれなりに大切にしていて、創作物であっても僕個人のことであっても、何であってもそれはそうで。なんていうか、まあ、こんなことを言ってしまうのは身も蓋もない話ですけれど、自身にまつわるありとあらゆる事象については、他の誰でもない自分自身が最大の理解者だっていうか。それはまあ、当たり前といえば当たり前のことですよね。別に内面的な話に限らなくたって、どういった日常生活を送っているかだとか、どういった境遇で育ってきたかだとか、その過程でどのような思考が生まれたのかだとか、そんなの自分以外の他人は誰一人として知る由のないことで。でも、いまここに生きている自分を形作っているのはそういった全てなわけで。そうなると自分自身こそが自分の最大の理解者だっていうのは、それほど大袈裟な話でもないって感じですけれど。でも、その、初めに述べたように『あてにならない』とも思うんですよね、自分は、かなり。あえてなぞらえるなら最大の誤解者にもなり得るという印象があって、自分が、自分自身の。その、「自分はこういった人間だ」という理解が手の内にあったとし。なんだろうな、それが背中をふっと押し出すような追い風だとか何だとかになることもまあ当然あるのですけれど、一方で足枷や手錠みたいになっちゃうことも結構あるような気がしていて。……というのは、完全に僕の経験談ですけれど。なんていうか、むかしの自分はよく自分のことを『捻くれている』だとか、有体に言えば『性格が悪い』だとか、そういったことを自称していたんですよね、たしか、記憶通りなら。でもなんか、いまにして思えば、そういうことを本心から思っていたかといえばあんまりそんなことはなくて、だけど、それがなんか口癖みたいになっちゃってて、いつの間にか。「性格の悪い人間」という定義を自分に課していたというか、何の意味もなく。これもまあ、ルーツをたどれば幼少期の諸々が原因だったりするんですが、それはさておき。だから要するに、事実がどうであるかなんてさておいて、「自分はこういった人間だ」と一度思い込んでしまったら、その呪いを解除するのってそれほど簡単なことではないんですよね、きっと。それこそ『自分自身こそが自分の最大の理解者』という、あながち嘘だとも言い切れない感覚が備わっているくらいですし。そういう意味で、僕は自分自身による評価を『あてにならない』と思っています。でも、どちらかといえば僕は自分自身による評価を大切にしていたい側の人間なので、だから冒頭のような言い回しになっているというわけです。……『あてにならない』自己評価の判断法って結構分かりやすいとも思っていますけれど、自分は。なんていうか、これ、自分がそうだったからというだけかもしれませんけれど、しかし周囲の人間をみていても感じることとして、『聞いてもいないのに出てくる自己診断』ってだいたい『あてにならない』のほうに分類できるような気がしていて、というのは話ついでの雑談ですけれど。それこそ、かつての自分が自分のことを事あるごとに『性格が悪い』と称していたのと同じように。不特定多数の人間に向かって「自分は優しい人間です」と喧伝する人がいたとして、その相手を信じることができるのかみたいな話でもありますけれど。『優しい』をどのように定義するのかということはさておき、本当にそうであるならそもそもそれを誇張する必要もないっていうか。だから、なんていうかそれが思い込みというか、ペルソナ? 「自分はこういった人間だ」という意識、あるいはそれに類似した「他者の目に映る自分はこうであってほしい」という欲求? そういった何かしらの顕れなんじゃないかなと、自分はどうしてもそのように勘ぐってしまう節があって。いやまあ、昔の自分がそうだったからなんですけど。……話が逸れすぎた。ともかく、自分自身による評価は大切であると同時にあてにならないと、自分はそう思っているという話です。一方の前者。他者による評価ですけれど、こっちはやっぱり『あてにならない』という気持ちのほうがずっと強くて。それは何故かというと「自分自身こそが自分の最大の理解者」だという意識がどうしたって優勢だからという話でもあるのですけれど。めちゃくちゃな数の言葉を交わしたはずの相手が自分のことを全然分かっていなかったりだとか、そんなのはあるあるで。いや、これは別にその相手が悪いという話では決してなく、それは普通のことっていうか、というか、そもそも自分だってその相手のことを何も分かってなんかいないし、だからまあお互い様なんですけど。なんていうか、……どうなんだろう。この主張がどれほどの共感を集めるか分からないんですけど、人間って基本的に寝て起きたら次の日にはもう別人になっているものだと自分は考えていて。地続きじゃないっていうか、表面上ではどれほどそうみえていたって、水面下じゃ全然違う別の誰かになってしまっているというか。もっとわかりやすく言うと、昨日と今日とで考え方が 180°変わってしまっていたりだとか。それはまあ極端な話かもしれませんけれど、でも数分狂わず同じだってほうがずっと気持ちが悪いように自分は感じてしまうというか。0 に近似してしまえるほどの微小な変化だとしても、その個人の中で何かが変わったという事実には変わりがなくって、でも僕らはお互いにその小さな変化を見逃し続けていて。だって、常に思考を共有していられるわけではないんだし。そんなのは当たり前。だから『目の前にいる誰か』と『頭の中にある誰かの像』が次第に食い違ってくるというのはいたって普通のことで、だけど僕らはどちらかといえば後者を、すなわち主観的な印象を以てして他者を評価しようとしてしまうので、どうしても。だから『あてにならない』って、そういう話です。……ちょっと前だかだいぶ前だかに優しい人だと言われたことがあって、面と向かってではありませんでしたけれど。なんだろ、少なくとも自分は自分のことをそういう風には評価していなくって。そもそもこの話を書こうと思ったのが、その辺りの食い違いが少し前に何度かあって、もやもやではありませんけれど、なんだか心の奥のほうにぼんやりと留まり続けていたからだという裏話がありますが、それはさておき。それはまあ『優しい』をどういう風に定義するかって話でもあって、だからその相手と自分とで定義が食い違っていたというだけの話なのかもしれませんけれど、ともかく自分は自分のことをそうだとはおおよそ考えていなくて。どちらかといえば厳しいほうというか、冷たいほうのような気がしていて。なんだろう。たとえばの話ですけれど、恋人と別れてしまった人に対して「きっとまた良い人に出会えるよ」と声を掛けることが優しさなのかどうかっていう、それくらいの話。僕はそれを『優しさ』の一つだと思っていて、信じていて、でも自分はそのようなことを絶対に口にはしないので、何があろうとも。そういう意味で、自分の思い描く『優しい』には程遠い人間のような気がする、というのが自己評価で。……むしろ自分はその傷口を抉るような真似をしかねないというか。いやだって、その「きっとまた」で救われることってたぶんないじゃないですか。怪我をしたときにとりあえず持ってくる氷水みたいな、ただの応急処置でしかない一言っていうか、間違ったピースを無理やり嵌めてパズルを作るみたいな、なんだかそんな感覚が強くって。だったら傷口に正面から向き合うしかないじゃんかって、自分はどうしてもそういう風に思ってしまうというか。だから、意味のない慰めは絶対にしないんですけど。ただ、これが正しいとは全然思っていなくて、つゆほども。というか逆で。そういったときにたとえ本心でなくたって「きっとまた」と言える人のほうがずっと優しいに違いないって、そういう気持ちが自分の中にはたしかにあって。んー、だからまあ、自分と他人とじゃやっぱり色々と評価が食い違っているんだなって、そう思ったってだけの話なんですけど。……でも、それはそれとして、他人からの評価は大切すべきだとも自分は考えていて、良いも悪いも平等に。これについては確か以前にも書いたような気がしますけれど、自分じゃない誰かの言葉って呪いを解くに至るほとんど唯一の方法なんですよ、きっと。少なくとも自分はそんな風に考えていて。上のほうで、昔の自分はよく自身のことを『性格が悪い』と称していた、みたいな話をしましたけれど、当時の自分を前にして「素直」と言ってのけた人間が一人いて、たったそれだけ。そもそもの話、自分が幼少期にそんな感じのことを言われ続けて育ったからなんですよ、これのルーツが。親族との相性が悪かったみたいな話をどこかで書いた気がしますが、まあその一環で。いや、『性格が悪い』と直接的に言われたかどうかは覚えていませんが、『捻くれている』は間違いなく数回どころでない数言われたはずで、それがいつしか自分の内側で転じて『性格が悪い』ということになったのでしょうけれど。なんだろ。いやまあ、その程度のものなんですよ、呪いって。だけど、それゆえに強固でもあって。そういう、なんだ、檻? ……眼前の鉄格子にも気づかないんじゃ楽園のようなものかもしれませんけれど、まあ出口のない迷路でも天井に描かれた青空でも、なんだっていいです、別に。そういった閉鎖空間から自分を連れ出してくれるのって、時間でも奇跡でもない、もっとそこら中にありふれているものなんだろうなと自分は思っていて、いや、それが『他人の言葉』だって話ですけれど。直接的な表現をするとすれば、要はフィードバックですよね。『自分の定義する自分』と『他人のみている自分』は往々にして食い違っているものですけれど、前者を勘違ってしまったとしたら、それを正すことができるのは後者なんじゃないかって。そんなことを思ったり思わなかったり。『評価』というものに対して思うところがあるとするなら、一先ずはこの辺りかなという感じです。

 

 

 

疑うということ


『お互いを疑わずに済む関係』と言うと聞こえはいいですけれど、それってめちゃくちゃに気持ちが悪くないですか? ……という問題提起から今回は始まりますけれど、いきなり何なんだというと、無条件の信頼と責任の放棄ってほとんど同義だよなあって、そのようなことをつい最近考えていたので、それについて書こうと思っただけです。いや、なんていうか、これまでに生きてきた二〇とちょっとの人生を振り返ってみて思うことといえば、疑うという行為はかなり重要なものだったんじゃないか、みたいなことで。三日前の記事でも書きましたけれど、……昨日一昨日と更新ができていないのは様々な様々が重なった故のことなのですが、それはさておき。相対している対象の感情を推し量ろうとする行為は、見方によっては相手の言葉や表情を疑うということでもあるわけで、そう思えば、いまの自分を形作っているものって結局はそういった考え方だったりもするのかなって。なんだろう。その、なんていうか、別にそれがダメだってわけじゃないと思うんですけど、でも、たとえば目の前にいる誰かの言葉や表情を一から十まで徹頭徹尾なにひとつを疑うこともせずに受け入れてしまうのって、だけどそれは単に責任から逃れているだけだって、僕はそんな風にも思ってしまうというか。「だって、貴方がそう言ったじゃないですか」って、思考の放棄みたいな。いやまあ、意識的にそんなことをやっているとまでは流石に思っていないので、きっと無意識なのでしょうけれど。でも、そんな無意識があったりもするのかなって、そういう気持ちになるということは確かで。……まあ、疑い続けるのってしんどいじゃないですか、普通に。いや、全人類がそうなのかは知りませんけれど、少なくとも自分はまあちょっとしんどいかなというくらいで。だから、線引きをするわけですよね、だいたいの場合。それがたとえば商品なのであれば、一定以上の信頼を置いてもよい企業、いわゆるブランドというやつなのかもしれませんけれど、そういったものを基準に購入したりだとか。人間関係であれば、誰と話をするのかによって「これは大丈夫、これはダメ」と話題をあらかじめ選んでおくだとか。要するに、なるべく疑わなくて済むようにしておくっていうか、そうやって負担を軽減しているというか。破格に安いけれど動くかどうかも怪しい機械を、だからわざわざ買ったりしないし。顔と名前を知っているからって、たったそれだけのことで家に泊めたりしないし。いや、だからまあ、そのレベルの話です。『ここから先は信用してもいい』というラインは何を問題にしているかによってまちまちで、それこそたとえば商品の場合は、それが有名どころのものであれば、たとえばマイクロソフトだとかアップルだとかであれば、自分は基本的に信用していますし。一方で人間関係であれば、全面的に信頼している人間というのは、……まあいませんが。「こいつになら騙されてもいいかな」と思っている相手なら数人いますけれど、でもだからって、その誰かの話や意見を一から十まで真に受けるわけでもありませんし。ああ、いや、話が複雑になってしまうので、以降は人間関係に限って話を進めますね。実際、どうなんでしょう。冒頭でも書きましたけれど、『お互いを疑わずに済む関係』になれたらいいって、皆さんはそう思いますか? それとも自分と同じように、そんなのはちょっと気持ちが悪いって、そう感じるのでしょうか。と問いかけたところで実際に会話をしているわけではないので何が返ってくるでもないですけれど、まあよければ一度考えてみてくださいよ、自分がどっちの側なのか。ここから最後まで、僕はその関係性のどういった部分を気持ち悪いと思っているのかについて話をすることになると思うので、そういった余計な情報を抜いた状態で自分の考えを整理しておくと良いと思われます、色々と。とだけ言っておいて、早速話を進めていくのですけれど、やっぱり一番大きい要素としては、これも初めのほうで書きましたけれど、自分はそれを『責任の放棄』という風に解釈してしまうことがあります。なんていうか、ここら辺の考え方は人それぞれだと思うので、別に「そんなことないんじゃね?」って人がいてもおかしくないと思うというか、むしろいないほうがおかしいと思っているのですけれど、相手のことを何を疑わないのって、つまり相手のことをどうでもいいと感じているってことなんじゃないかって、そういう風に思うんですよ。「君の言葉なら全部信じるよ」って、裏を返せばそれは「君の言葉なんてどうだっていいよ」と言ってるのと同じじゃないですか? というように自分は感じてしまうんですよね、どうしても。無条件に信頼するということは、『君』が何と言おうがそのことについて何かを思考することは絶対にないということで、それはつまりその聞き手の世界に『君』は存在していないということじゃないですか? いや、もちろんのことですけれど、存在してはいると思いますよ。『君』が傷ついていたら慰めるだろうし、悲しんでいたら寄り添うだろうし、そこで『君』を無視することはきっとないだろうし、だから『世界に存在していない』というのはそういう意味ではないんですよ。……僕のブログを読んでくれている方なら、「こいつ、多分、誰かと話すのが好きなんだろうな」というくらいは察しているかもしれませんけれど、まあ実際そうで。自分は会話、もとい他者とのコミュニケーションというものにかなりの価値を見出していて、それこそ最上級のそれを。だからこういう風に考えてしまうのだろうなと自分でも思うのですけれど、『無条件の信頼』って、だから結局は関係性の全否定なんじゃないかって思うんですよ、僕は。「たとえ世界中が君の敵になっても、僕だけは君の味方だ」って、それ自体は格好いいセリフですけれど、でも僕はそういうのをみると「いや、お前が本当に『君の味方』なんだったら、きちんと『君』に向き合えよ」って、そう思ってしまうっていうか、だからそれが『責任の放棄』だって話ですけれど。目を逸らしてるっていうか、そもそも見えてすらいないんじゃないかって感じで、そういう意味で『世界に存在していない』と思いもするわけです。いてもいなくても変わんないんじゃんっていう。「だって、私が何を言ったところで、どうせ貴方はそれを信じるんでしょう?」みたいな。これがたとえば宗教であればお告げを下さるのは上位の存在なわけで、その存在・非存在はさておくとして、少なくとも目に見える存在でないことは確かなので不都合は起きないのでしょうけれど。でも、それが人間関係となると別の話で、だって僕らは生きているんですよ、お互いに。息を吸って、吐いて、言葉を話して、飲み込んで、そういう生き物じゃないですか、人間って。だからなんていうか、「貴方の言葉なら全部信じます」だなんて言われると、自分はめちゃくちゃ悲しい気分になるっていうか、有体に言えば空しくなるんですよ。「自分が何を言ったって、この人の心へは何一つも届きはしないんだな」って。というか、「この人、自分の話なんて一切聞いてないんだな」って、そういう風にしか思わないというか、思えないというか。詐欺師であれば望むところでしょうけれど、でもそうではないわけで。だからというわけでもないですけれど、僕は相手の言葉を疑わないのはむしろ失礼とさえ思っていて、親しい間柄か否かなんて関係なしに、というより親しい仲であれば尚のこと。……途中でも触れましたけれど、僕はこの考え方が絶対的に正しいだなんて思っていなくて、色々な捉え方があって然るべきだし、自分とは真逆の考え方をする人がいてもいいと思っています。というか、こんな考え方で世界が染まってほしくはないし。あまりに窮屈すぎるので。なので同様に、このような他人へ強要するつもりだって全くありませんけれど、あくまで自分はこのように考えていて、誰かと接触するときは常にそういったモチベーションで動いているって、そういうことが書きたかっただけです。