夜明けと魔法

 

 夢日記はあまり好ましくない、という旨の言説は頻繁にとは言わずとも、誰もが一度は目にしたことがあるのではというように思うのですけれど、どういった理由でそのような結論が広く知られているのか、よく考えていると全く耳にしたことがないなあという気がします。いえ、正確には聞いたことがあるようなないようなといった具合でして、いやだからまあ結局のところ知らないんですが。どうしてこんな話を始めたかというと、ここしばらく、というのはおよそ一ヶ月ほどですけれど、眠っているときにみる夢の設定が何だか随分と似通っていて、といっても何日か、あるいは何週間かおきくらいにみる程度ですが、それが一言で言ってしまえば『死にゲー』でして、しかもその舞台が自分の地元とプラスアルファという。死にゲーといっても実際に死ぬわけではなく、いや死に至りかねない諸々が夢の世界では跳梁跋扈してはいるものの、場面の切り替わりそのものが訪れるのはいわゆる詰みに差し掛かった瞬間でして、なんだろう、死亡フラグを踏んだ瞬間に「あ、これ終わった」となり、またスタート地点へ戻るといった感じの。その、夢の内容にかかわらず夢から醒めたときには、つまり目が覚めたときには、自分がいま夢の中にいるのか現実にいるのか分からなくなって混乱するといった話を以前書いたような気がするのですけれど、怖い系といいますか、今回の場合は別に怖くはないんですが、ただ同じようなシチュエーションの夢を何度かみているといよいよ極まってくるといいますか、そういった次第なので二度寝を決め込むのも何だか億劫で、そうしていまは睡眠時間が圧倒的に足りていないにもかかわらずとどのつまり時間を持て余しており、やることねえ~と思いつつブログの記事を書いています。夢って、ここでの夢は眠っているときにみる夢ですけれど、自分の中であんまり概念的には定着していなくて、それはつまりどういうことかといえば、たとえば歌詞なんかを書くときに夢という言葉を使って何かを表現しようとはまずならないなという意味でして、逆にいえば空とか青とかは随分と原義から離れたところにカテゴライズされており、なんていうか、そこら辺の違いって何に由来するものなんだろうといまふと思いました。空とか青とか、そういったものに特別な思いを馳せたことがあるかと言われれば、いやまあ勿論無いとは言いませんけれど、外を歩いてるときとか空を見上げますし、しかし夢に比べて目に見えた大差があるかと言われればそれは無く、毎晩とは言わずとも週に一度はみますし。これも結局は好みの話だったりするんでしょうか。だったらその好みというのがどこから形成されているのかということになりますけれど。うーん。

 

『夜明け』という言葉に対してプラスの印象はあまりなくて、だからってマイナスの印象も特にないんですが、どちらかというと若干マイナスに偏ってるかなあという、49:51 くらいで、自分の中で夜明けの類義語を探すのであればそれはタイムリミットということになったりします。タイムリミット。時間切れ? いったい何の時間が切れたのかといえば、なんだろう、かくあるべき時間みたいな……。いま自分は悲しんでいなきゃいけないんだっていうとき、ないですか? 悲しくもないのに無理に悲しんだふりをしているというわけでは決してなくて、実際、わけがわかんないくらいぐっちゃぐちゃになったはずで、それなのに時が経って気がついたときにはいつも通りの毎日に戻っていて、そのことをふと自覚して「こんなのでいいのかな」ってなる、そういうときってないですか? 自分の中での夜明けはつまりそういうことで、タイムリミットで、勝手にやってくる解決といいますか、だからといって感傷の海に沈んだままでいるのが正常だとは到底思えず、そんなわけで若干マイナスに偏った、とはいえほとんど中立の用語という風の認識をしています。一方で『夕焼け』については若干プラスに偏った印象をもっているのですが、それはさておき。これまでの活動時間を総計するとほとんどすべての人類は、いかに不健康な生活を送っていたところで圧倒的に昼型だということになると思うのですが、そこにある種の優劣をつけるというわけでもないんですが、昼の時間に多くの思い出があるのと同じくらい、夜の時間にも大切な思い出がたくさんあって、本当にどちらかといえばという程度の差で自分は夜のほうを好意的にみており、だから夕焼けは若干プラスで夜明けは若干マイナスなのかなあと思ったり思わなかったりしています。どうなんでしょう。

 

『魔法』も自分の中で概念的に定着している言葉の一つです。ステッキを振ったら変身できるみたいな、そういう分かりやすいものではないのですけれど、なんていうか、先ほどみたいに類義語を探すのであれば嘘になるのかなという気はします。嘘。いや、若干違うのかな。嘘っていうか、伝説? この雨は雲の上にいる神様が降らせているのです、みたいな。それもまた嘘と言えばたしかに嘘ですけれど、しかしそれは範囲を広めにとりすぎている故といいますか、まだまだ精密化できるといいますか、だからまあそんな感じです。伝説。魔法が実在するのだと信じていたという時期は、もしかすると幼少期とかにはあったのかもしれませんけれど記憶の限りでは無く、一方でしかしながらどこかにあればいいのにとはいまでも少し思います。ないんですけどね、そんなの、どこにも。でも、魔法がどこにもないことがつまり魔法の一つなんだよなという錯覚が自分の中にあり、かなり感覚的な話ですけれど。空を見上げてふと誰かのことを思い出してしまうのって、それは別に魔法なんかじゃないですし、何度も繰り返すように魔法なんてどこにもないわけですけれど、それを分かった上でそう呼ぶのは、だからとても素敵なことだなと思うことが少なからずあり、自分では思いはしても言いはしないですけど、物語の中だとそういうことをついやってしまいがちです。心臓を取り替えてでも忘れてしまいたかった何かが、いつの間にか手放したくない何かになっていて、それは夜明けのタイムリミットにも通じるところがありますけれど、だからそれを、夜明けを乗り越えた先のお話といいますか、一方的に与えられた解決を自分のものとして受け入れたときの何かを言い表す言葉が、それが自分にとっての魔法なのかなあという気がします。だから、魔法がどこにもないことが、つまり魔法の一つなんだよなっていう、そういう話でした。

 

 ブログってなんかオチがないとダメみたいな気持ちになってよくないですね。これ以上は特に何もないです。おやすみなさい。

 

 

 

20200514

 

 自分、勉強中だろうが何だろうがニコ動なり Youtube なり、あるいは iTunes なりで動画やら音楽やらを常に耳に入れつつ作業をする(何もしていないときでも音楽は大抵鳴っている)という生活スタイルを形成しているのですけれど、いまちょうど Abema で『禁書目録』のアニメが無料公開されており、そういう次第で久しぶりに通して観たんですが、昔好きだったものっていまでもやっぱり好きなままなんだなあということを再確認し、現在はバイトが半凍結状態なのでかなり劣悪な経済状況であるものの、その後好転した頃合を見計らって原作を追いかけなおしてみようかなと考えていたりいなかったりします、いま。新約も上里勢力が出てきた辺りまでは読んでいたのですけれど、そういえばどうして読まなくなったんだっけか……。元々熱心に追いかけていたというわけでもなかったので、自分の中で自然にフェードアウトしていったという気がします。まあ当時はアニメの視聴環境とかも身近になかったので。ことライトノベルで言うなら、自分が追いかけていたシリーズって灼眼のシャナ物語シリーズくらいです、多分。しかしまあ、『こと』とつけたところで僕はほとんど全くと言っていいほど文学と縁のない人生を歩んできているので、ライトノベル以外に追いかけていたものなんてないんですけど。もう少し文学の世界に馴染んだ人生を送ってくればよかったみたいなことを思う瞬間は、まあこれも全くと言っていいほどなく、とはいえ身の周りにいる人たちが、たとえば作曲サークルにいる数人なんかがふとした瞬間に自分の好きな作品とか作家とかシリーズとかの話をし始めたときに、「こいつマジか?」という気持ちになることはあります。誉め言葉です。なんていうか、みんな、本とか普通に読むんだなあ、みたいな? 自分があまりに無知すぎるので何も言えないな。

 

 こう、普段から読書めちゃくちゃしますって人に一度訊いてみたいことがあったりなかったりするんですが、なんか、どういったモチベーションで読んでるんだろうっていう。いやまあ好きな作家とかの作品とかなら概ね理解も及ぶのですけれど、好きな作家の本だけは読んでますって人は恐らく読書家とかではなく、それは単に好きな作家の本が好きなだけの人なのではという認識が自分の中には(あくまで自分の中にだけ)少なからずあり、でも、いるじゃないですか、なんていうか、見境なくってわけじゃないですけど、マジで何? ってスピードで積読を消化してる人って(そもそもそんなに積読が溜まる時点で凄い)。単純に自分の中にはそういった指向性みたいなものがほとんどないので、普通に気になるというか、興味深いといいますか。なんだろう、あとは spotify とかもそうなんですけど。いや、というかこっちのほうが本題っぽいのかな。色んなアーティストの色んな楽曲をものすごい勢いで消化する人々って、あれはどういったモチベーションなのだろうという気持ちがやはりあり、自分も音楽はそれなりに聴いているほうだと思うんですが、しかし自分の場合はアーティストや楽曲がほとんど固定されていて、自分はまあそれで充分なんですけど、でもそれってさっきの例じゃあないですけれど、『音楽を聴くのが趣味です』とは到底言えないよなあ、みたいな。他人がそれをそのように称していても別に何とも思いませんが、自分の心持としてはそんな感じで。いや、ここまで来ると別に読書とか音楽とかに限らないような気がしてきますね。具体的にはソシャゲとかアニメとか、そういったものも全部そんな感じという気がしてきています。幅広く触れられるという人、まあ読書は自分から少し遠い場所にあるのでアレですけど、たとえば音楽なんかで言えば自分は割と尊敬(?)していたりして、それは自分じゃ出来ないからなんですけど……。良いものはこの世にもっとたくさんあるはずで、その点、自分は自分の知っている世界の中でしか生きていないなあという気持ちです。だからまあ、外の世界にある素晴らしい何かしらを僕に共有してくれる人のことは大好きです(都合がいい)。最近だと、何だろう。jersey club かな。

 

 雲ができる瞬間ってみたことないな、と先日大学の図書館かどこかへ向かう途中に思いまして。なんだ、ペットボトルかなにかで疑似的に雲を生成するみたいなアレなら、実際として目にしたことがあるかまではその実不明としても、まあみたことがあると言っても差し支えはないかなと思うんですが、いやそうではなく、空に浮かんでる雲です。生成の仕組みとかは理科の教科書で知っているものの、あれが生まれる瞬間ってみたことないなーって。それをいえば、太陽が動いているところもみたことがない。気づいたら東から南の空を経由して西へ沈んでいるけれど、本当に気づいたときにはそうなってるし。むかし、小学生とかの頃、体育の時間で運動場を使うときに、授業の最初と最後とで自分の影の傾きが変わってるのがそこそこ不思議だったということを思い出したり思い出さなかったりし、いやまあ、それだけなんですが。開花の瞬間も映像でしかみたことがないし、流れ星も実は未だかつてみたことがないし、自分、みたことないものばっかりだなという気持ちになったのが数日前の昼下がりのことです。

 

 自分は曲がりなりにも数学科の人間なので普段は数式なんかをぶん回して色々とやったり逆にやられたりしてるんですが、なんていうか、知識ってつまんないなと思うことが結構あって、というと結構な語弊がある気がしますね。学問って、少なくとも理学について言えば、未だ説明のつかない既存の現象に関する十分な理解を得ようとする営みだと思うんですけど、それ自体は相当に価値のある行為だと自分は思っていて、そうでなかったら理学部という名の集積所へは来てないんですが、それはそれとして、なんだろうな、答えなんて知らないのにまるで知っているみたいな気にさせられるのが何か気持ち悪くて。数学とかだとよくあるんですけど、事実としては知っているけど証明は知らない、みたいな。じゃあ証明読めよって話ですけど前提知識が多すぎたり、あるいは文献が古すぎてどこを探しても見つからなかったり、でもどうやら正しいらしいという情報だけは持っていて、それがなんていうか気持ち悪い。これが数学なら一応自分の専攻領域ではあるのでまだしも、物理とか生物とか化学とかになってくると、当たり前の話ですけれど最早手が及ばないといった感じで。なんかこう、特に生物とかの話題は世間でもなされがちじゃないですか、遺伝子がどうこうとかって。でも遺伝子とか、少なくとも自分は「そういうものがあるらしい」という程度の雑な認識で、その実何物であるのかを全くもって把握していないのにも関わらず、知識の上ではあたかも既知の単語であるかのように記述されているというのが変な感じで、他の人はそんな気持ちになることってないのかなあとたまに考えたりします。こんな話、普通に面と向かってすることはほとんど、というか全くないので、ここでの「他の人は」は単純に訊いたことがないだけです。

 

 未知が既知になる瞬間って少なくとも自分にとってはまあまあ楽しいそれで、勉強はやればやるほど面白くなるし、一方でやればやるほど地獄をみるので一長一短ですけれど、一度知ってしまったら後戻りできないからつまらない、なんてことは全くなくて、だから知識がつまらないっていうのはそういう意味ではなくて、まあ結局、よく知らないものを知った風になっている状態が気持ち悪いっていう話で。なんだろう、逆にそれが一般的には外れた理解であったとしても、『これはそういうものなんだ』と自分なりの理解を伴って受け入れられているのであれば、それはそれでいいんじゃないかなって思ったり思わなかったりするんです。ちょっと話変わりますけど。だからまあ、たとえば、これは世間だとそういう類のものらしいからそのように認識しておこう、みたいなそういう、与えられた答えというか、そんな感じの。与えられた答えが駄目だって主張ではないんですが、そこに自己が伴っているか否かみたいな。そこら辺の境界線をどう判断するかは皆目見当もつきませんけど、たとえば、自分が本当に受け入れているものって多分誰に押し付けなくても構わないものなんじゃないかと自分は少し思っていて、なんだろう、分かりやすいところでいえば誰かの死とか? あとは諦めたものとかかな。なんていうか、そんな感じがしません? 僕はするんですけど。間違っていたとしてもちゃんと受け止めている人はその理解を他の誰かには求めないし、だって自分が分かってるから、「どうせ」なんて言う道理がどこにもないよなあ、っていう。なんていうかまあ結局、そこのギャップを感じる瞬間がそこはかとなく気持ち悪いという話でした。雲ができる原理を知っていることが、イコールで雲ができるということを理解していることになるのかっていう話、ではなかった気がしますね、多分。

 

 

 

アイ

 

 楽曲『アイ』を投稿しました。

 

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【歌詞】

言えない 想いを閉じ込めた

心の奥を 覗いては

知らない 貴方の言の葉を

宙になぞっているだけ

 

届かない ざわめいた群青

テールランプを 追いかけて

右手に濡れた傘

あの耳鳴りがまだ 響いている

 

ずっと遠い景色をみたくて

ひとりで踏み出した 広すぎる空の下で

貴方の声 みつけてくれたこと

雨が止んで 聞こえなくなっても 忘れないよ

 

解らない 何かを閉じ込めた

心の奥に 残っている

名前もない声は

雨音に紛れた 涙だった

 

ずっと遠い景色をみたくて

ふたりで踏み出した 広すぎる空の下に

貴方の声 聞こえなくなっても

いまもずっと どこかに探している

 

いつか全部が青に解けるなら

寂しい痛みも恋と呼べるなら

魔法のない世界の空の色も

私はきっと愛せるよ

 

いつか全部が日々に呑まれても

優しい痛みが教えてくれるから

魔法のない世界を染め上げていく

朝陽の空を今日も繰り返して

私は歩いていくよ

 

ねえ。

まだ、

ざわめきの中から、

声は聞こえる?

 

 

 【コード】

BPM=75

Key: A major

|| Dadd9 --- | Dadd9 --- | F#m7 --- | F#m7 --- |

|| Dadd9 --- | Dadd9 --- | F#m7 --- | F#m7 --- |

 

|| Dadd9 --- | Dadd9 --- | F#m7 --- | F#m7 --- |

|| Dadd9 --- | Dadd9 --- | F#m7 --- | F#m7 --- |

 

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

 

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

 

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

 

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

 

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

 

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

 

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

|| Dadd9 --- | Dadd9 - Dadd9(omit3)/E - | F#m7(11) --- | F#m7(9) -- F#m7/E |

 

|| Dadd9 - Esus4 - | C#m7 - F#m7 - | Dadd9 - Esus4 - | C#m7 - F#m7 - |

|| Dadd9 - Esus4 - | C#m7 - Em7 - | D --- | E - Fdim - |

 

|| Dadd9(omit3) - Esus4 - | C#m7 - F#m7 - | Dadd9(omit3) - Esus4 - | C#m7 - F#m7 - |

|| Dadd9(omit3) - Esus4 - | C#m7 - Em7 - | D --- | E --- |

|| F#m -- F# ---- |

|| D - E - | A --- |

 

|| Dadd9 --- | Dadd9 --- | F#m7 --- | F#m7 --- |

|| Dadd9 --- | Dadd9 --- | F#m7 --- | F#m7 --- |

 

 

 【コード(degree)】

BPM=75

Key: A major

|| IVadd9 --- | IVadd9 --- | VIm7 --- | VIm7 --- |

|| IVadd9 --- | IVadd9 --- | VIm7 --- | VIm7 --- |

 

|| IVadd9 --- | IVadd9 --- | VIm7 --- | VIm7 --- |

|| IVadd9 --- | IVadd9 --- | VIm7 --- | VIm7 --- |

 

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

 

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

 

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

 

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

 

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

 

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

 

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

|| IVadd9 --- | IVadd9 - IVadd9(omit3)/V - | VIm7(11) --- | VIm7(9) -- VIm7/V |

 

|| IVadd9 - Vsus4 - | IIIm7 - VIm7 - | IVadd9 - Vsus4 - | IIIm7 - VIm7 - |

|| IVadd9 - Vsus4 - | IIIm7 - Vm7 - | IV --- | V - #Vdim - |

 

|| IVadd9(omit3) - Vsus4 - | IIIm7 - VIm7 - | IVadd9(omit3) - Vsus4 - | IIIm7 - VIm7 - |

|| IVadd9(omit3) - Vsus4 - | IIIm7 - Vm7 - | IV --- | V --- |

|| VIm -- VI ---- |

|| IV - V - | I --- |

 

|| IVadd9 --- | IVadd9 --- | VIm7 --- | VIm7 --- |

|| IVadd9 --- | IVadd9 --- | VIm7 --- | VIm7 --- |

 

 

 【コメント】

 この曲は、曲中でずっと鳴っているギターのリフが最初にあり、唄ってみて、詞を書いて、それからピアノを乗せて、リズムを組んで……という風に組み立てていきました。そういう経緯で生まれた曲なので、コード進行が(自分の曲の中では)そこそこ異質っぽい感じがします(でも最後は結局4536になる)(IVadd9)(Vsus4)。

 ギター弾きました。絵も描きました。曲、歌詞、イラスト、動画中の文章、その全部で『アイ』という一つの世界を表現したつもりです。まだまだ拙いそれですけれど、これからもこつこつとやっていけたらと思います。

 

 

 以上です。よろしくお願いします。

 

 

 

20200507

 

 本来であれば今頃新曲を投稿してぐっすりと眠りについているはずなのですが、諸々があったので投稿は明日に延期されました。準備不足~。今日の昼頃に一式を整える予定だったんですが、急激な体調の悪化などがあり、午後の予定を一切合切放り出して睡眠をしていました。自分の身には度々起こることなのでもう半分くらい受け入れているのですが、気がついたら気を失っていたという現象が稀にあり、寝落ちとかじゃなくって重力に従って床に頭から倒れ伏すみたいな、気づいたらそうなっていましたという。思えばこいつとは長く中学からの付き合いで、人前で発現することは相当に珍しいんですが、大学へ来てから一度それをやってしまい、当時は相当な迷惑をかけたなあと思いつつ、それもまた一年ほど前の話なのですっかり忘れていた今日この頃、地元へ帰ってきてふと旧友に会いにいくみたいな感覚で唐突に訪ねてきたこいつに無事ノックダウンされ、そんなこんなで何もかもが最悪になりました。いまはもう平気ですけれど。

 それをまたどうして文章に起こしているのかというと、なんていうか、これまでの中で最も死を意識したからという理由でして、このことを忘れなければ事態を防げるというわけでも全くないんですが、貴重な体験だったという意味でも書き記しておこうかなあ、と。失神そのものは先述の通り何度か経験があり、でもだいたいはすぐに立ち直れるというか、覚醒から数分はかかりますけれど、逆に言えばかかっても数分程度で元通りになり、それが今回の場合、正確な時間は(倒れていたので)わからないもののスマートフォン曰くおおよそ三十分ほど動くことができていなかったらしく、喉元過ぎて熱さを忘れた自分が思うに、回数を重ねるたびに症状が深刻になっていっているような気が若干し(これが歳というもの?)、次にこいつが来たらいよいよどうなるか分からないなという気持ちです。普段の体感百倍に強まった重力にしてやられていた最中の自分はといえば、割と本気で「今回ばっかりはマジで死ぬんじゃないか」みたいなことを考えており、というのも嫌な汗がとめどなく全身を伝い、あんなに暑かったはずなのに寒気がおさまらず、なにより全身に力が全く入らなくて、これまでのとはあからさまに症状の重さが違うと感じつつ、「どう考えても助けが呼べない」となり、だからまあ死ぬんじゃないかと思ったという話なんですが。あったじゃないですか、某ウイルスに感染したものの症状が軽いからという理由(というよりは重症の患者を優先して受け入れなくてはならないというもっともな理由)で自宅療養になっていた独身の男性が亡くなったという話が。男性は前日に症状の悪化を訴えていたようですけれど、それはそれとして、なんていうか、その人も最期はこんな感じの気持ちだったのかなあみたいなことを思いつつ、数歩あるけばスマホはあるし、その向こうには頼れる相手もたくさんいるんだけど、そもそも立ち上がれないっていう。自分は現在をボーナスステージみたいなものだと考えているという話は何度かしたように思いますが、早く死ぬのは勿体ないしできることなら長生きはしたいものの、まあでも死そのものは避けられないしどうしようもないし仕方がないのかも、みたいな感じの考え方を自分はしていて、でもなんていうか、センチメントな夜にあてられた死の意識なんかよりもずっとリアルな、全身に訴えかけてくるようなヤバさを前にすると「いや、こんなところで死んでたまるか」という気持ちにしかならず、だってまだ曲公開してないし、せめてそれくらいのことはやり切らせてくれと考えつつ、とはいえアニメの世界ではないので根気だけで立ち上がれるというわけもなく、結局はいつも通りに症状が落ち着くのを「本当に落ち着くのか、これ」と思いながら待っていたというのが現実です。時間は要したもののいつも通りに鎮まってくれたので一先ずは安心しつつ、寝て休んだ方が絶対的によいと考え、万が一ぶり返したときのために親へ伏線を張っておき、眠り、いまこうしてこれを書いているということからも分かるようにそれ自体は全くの杞憂でしたが、後遺症として足を少し捻ったらしく、歩くたび微妙な痛みが足元から伝ってくるという以外はおおよそ健康体です。めでたしめでたし。生活習慣がどうこうとかいう症状でもないみたいので手の打ちようとかは特にないんですが、どうしたものかな。

 

 死んでもいいやと思える瞬間って、想像するに、決してやってこないんだろうなあというのが今回の感想で、今日は未公開の曲がまだ残っているというのがそれでしたけれど、ここまでを全部こなせばクリアという明確なゴールが用意されていない以上、何をどこまでやり切ったところで「じゃあそれで全部おしまいです」と言われたら「いや、まだ足りないんだ」と思うのだろうし、実際に思ったし、最期、本当に全部がおしまいになってしまうときもきっとそうなんだろうなあ、っていう。悔いの残らない一生を遂げた人って人類史上、たったの一人でもいたんでしょうか? いや、知りませんけど。

 

 

 気を取り直して、新曲は明日どこかにアップロードします。聴いてね。

  これは新曲のイラスト。いい感じに表現できたお気に入り。

 

 

 

selen

 

 曲ができたので今週の木曜日(5/7)の20時くらいに投稿します。よろしくお願いします(告知)。

 

 まあ、たったこれだけのためにブログを動かすというのも何だかなあという感は否めないので、曲を作っている間に考えていたことなんかをつらつらと書いていったりいかなかったりします。

 

 

 作曲を始めたのが自分の場合は、厳密に言えば中学三年の頃、大雑把に言えば高校二年の頃なんですが、厳密に言ったほうの頃のモチベーションがどこにあったかといえば「歌モノ(有体に言えばボカロ曲)を作りたい」だったんですよね。と言っても、当時の自分には楽器経験だなんて高尚な装備は皆目あらず、知識がなければ才能もなかったので、かくして然るべきという次第で挫折しました。いや、挫折っていうか、挫折する段階にもいけなかったっていうか、入り口にも立ってなかった感じですね。いまにして思えば当時の自分って多分音楽を全くと言っていいほど聴いていなくて、正しく言えばいまくらいの解像度で聴くことはしていなくて、リズムという概念を持っていたかも怪しいという気がしており、そりゃあ曲なんて作れる道理がないわという感じです、いまにして思えば。

 高校二年の頃に様々な転機があり、という話は何度か書いたので割愛しますけれど、それからは色々とやり、いま聴くと本当に稚拙が極まっているのでアレなんですが30あまりの曲を作り、高二高三の頃にはそんな感じだったので志望大学へ無事に進学できたら絶対に作曲サークルに入るぞと決め、そして入り、そこでも様々があり、という話も何度か書いたので割愛しますけれど、そんなこんなで歌モノは次ので七つめくらいです。早いですね。

 大学に入ってから文章を書く機会が増え、という話も何度か書いたので割愛しますけれど、特に何の制約もなしに書いた最初の文章が『創作』というやつでして、この話はまだしていなかったと思うのでここで少しします。リンクは貼りません(恥ずかしいので)(別に恥ずかしくはない)(面倒なので)(本音)。

 

 高校生当時を振り返って思い出される人物、あるいは関係というものはそれなりの数があるわけですが、創作の面で自分の近くにいた一人にとある一個下がおり、とりあえず三人称の代名詞として彼女と呼ぶことにしますけれど、そんな誰かと自分とで作ったキャラクターが二人いて、名前はセレンとカレンっていうんですが、その、先に述べた『創作』という文章で書いていたのはそのことでした。

 ともすれば黒歴史感の強いエピソードみたいですけれど、当時の自分はそのキャラクターが相当に気に入っており、というかいまでも好きで、これを読んでいる人に自分の音雲アカウントを知っている人がいれば、あのアカウントのアイコンがまさしく彼女が描いたセレンそのものなんですが、それはさておき、キャラクターを作って何をやっていたかといえば、そのキャラクター周辺の絵やら曲やらを作っていました。自分が曲を作るときの名義の一つに『SELEN』というのがあるんですが(吉音民(きちおとたみ)でこの名義を記憶している人がいて軽く驚いた)(じつは『KAREN』もある)、これはそのセレンというキャラクターを表現したいときに使う名義で、これまでに六回ほど使っていたりいなかったりします。

 ともあれそういったものがあり、彼女がどうだったのかは知りませんけれど、先述の通りに自分は相当に気に入っていたわけですが、でも大学に入ってから気づいたのがそうじゃなくなった自分自身で、そうじゃなくなったというのは好きでなくなったという意味ではなくてあまり考えなくなったという意味ですが、というのも自分は浪人しており、浪人中は絵をほとんど描かなくなり、曲も作らなくなり、Twitterやらも(ある時期以降)触れずという具合で、考える時間が無くなったというか。言い訳ですけれど。そんなこんなで、自由に文章を書いてみようとなったときにようやく気づいたのがそのことで、だから『創作』を書いて、一回生のうちに『SELEN』名義の曲を一曲書こうと決め、まあ書いたんですが。以来もセレン周りのことは自己満足でいくつかやっていて、『ここにいるよ。』とかも実は部分的にそうだったりそうじゃなかったり、Twitter(1tsu8)のアイコンも実はそうだったり。自分の場合は、高校生の頃が最も創作の土台になっているなという感じがあり、セレンとカレンは、もちろん彼女もそれらの一つであって、他にもたくさんあるけれどその一つであって、だからいまもそのことを唄っていたりいなかったり、描いていたりいなかったりするのだなあと思います。

 

 その全部の始まりにあったのが『SELEN』という曲で、Twitterのログを漁ってみたところ2014年4月2日(高二の頃)にインターネッツに放たれたらしいですが、自分はよく昔に作った曲を聴いたり聴かなかったりしていて、それで思うことといえば「昔はもっと好きにやっていた気がする」ということでして。なんていうか、いまの自分は大学生なのでバイトやらで何やらで貯めたお金で機材をある程度整えることができますし、音楽理論もコード進行についてだけは僅かながら勉強したのである程度組み立てられますし、だからできること自体は格段に増えていて、でも、できることが増えすぎたせいで却って何もできなくなっているという感じがあって、行き詰っているわけではないんですが、何だろう、白紙の地図に細かく描きこみすぎて逆にどこへ行けばいいか分かんなくなった、みたいな。曲を作るときは毎回新しいことをやろうというモチベーションがあり、別にそのことに疲れたというわけでは全くないものの、なんか、未踏の地に向いている興味ばかりに気を取られて、本質っぽい何かを見失ってないかなあ、みたいな? 本質っていうか、それこそ高校の頃の自分がやっていたような音楽、あるいはそれをやり切るだけの無茶。それはいわゆる無知というやつだと思うんですが、それでも、たまにはそういうのがあってもいいんじゃないかなって気持ちがあって、なので次の曲はというところで話が戻ってくるんですが、なので次の曲は、高校生の頃の自分が作った曲を下地にして、それをいまの自分なりに再構築してみたという風な感じになっています。そうなりました。結果的に『自分の好きな曲』をかなりの解像度で形にできたなあという気がしており、これがまた今後何かを作る上での指標の一つになってくれたならいいなあ、という感じです、いまは。

 リンク貼っとこ。

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「歌モノを作りたい」と言っていた当時の自分はこの曲に歌詞を当てたりもしていて、しかしほとんど誰の目にもみせないまま、半年くらい前に偶然見つけたそれをTwitterに放流したのが初だったくらいなんですが、「自分の曲に歌詞を当てる」という行為の本当の始まりはたしかこの曲だったなあということを思い出しつつ、ここ数日は曲を作っていました。

 

 

 早く公開してえ~~~~~。こういうことを自分で言うのはかなりアレですけれど、めちゃくちゃ良い曲になったので公開されたら是非聴いてください。よろしくお願いします(告知)。あと、実は別にもう一曲作ってあるので、そちらも公開された際には是非ともよろしくお願いします(告知)。

 

 

 

近況_20200318

 

 近況とはいきなり全くの関係がないんですが、目が覚めて、具体的には睡眠状態から意識が覚醒して、世界とのチャンネルがうまく合わせられないというような違和感に数分間襲われることが時たまあり(多分誰でもある)、夢の内容が幸福まさしくそのものであろうが(幸福そのものみたいな夢って、長らく見ていないような気がするけれど)、あるいは在りもしない恐怖感情を煽るようなものであろうが、その辺りに区別めいた境界線は大してなく、夢の世界に分け隔てなく引き摺られるというか、いまの自分がどういった日常の中に置かれているのかということを確認するところから行動を始めなくてはならない、みたいな状況がちょくちょく起こります。だから何だという話でもなく、今日、昼寝をしていたらそういう夢をみてそういう事態に陥ったというだけのことなのですが……。でもなんていうか、ああやって頭の中で複数の記憶(記憶?)が混線しているような奇妙な感覚が、自分は割と好きだったりもするんですよね。ついさっきまで入り組んだ美術館みたいな場所にいたはずで、そこで目測四十代ほどの大柄な男と何かしら切実な会話をして、たしか自分はその人にもう一度会わなくてはならないのではなかったっけ……、みたいな。こういうときはだいたい理性が勝つので、理性というよりは常識が勝つので、ああさっきまでのは夢だったのか、と文字通り無事に、事も無げに片づけてしまえるわけですけれど、そのために「どうして自分はベッドの上に?」という疑問を整理する時間が三分ほどあるというだけの話でした。どうなんでしょう。たとえば自分がもっと歳をとるとか、あるいは仮想と現実の境界がより曖昧になるとか、そういった場合、この「どうして」がもう少し重たくなったりもするんですかね。いや、知りませんけれど。

 

 いまの自分の立場とか、環境とか、大雑把にまとめると日々の生活のことを、自分はある種のボーナスステージみたいに捉えている節があって、だからというとたとえば彼なんかには申し訳ないとは思うのですけれど、今後の人生で成し遂げたいことの明確なビジョンみたいなものがおおよそなくてですね。こういう風に書くと曖昧なそれであれば多少はあるという読み方ができてしまいますけれど、残念ながらそれもなく。ただ何となくで前へ上へ後ろへ下へと進んでいたら、どうにもなんなくなってしまったというのが正直なところで。

 どうしてこんなことを急に言い始めたのかというと、遡ること一か月ほど前、自分はこのまま平穏無事に過ぎれば一年で卒業する身なので、今年は世間に所謂ったところの†卒論†があるんです。いや、ないんですけど。自分の所属する学科では卒論の代わりに課題研究があり、まああるんですよ、それが。自分はほとんど何も考えずに整数論分野を志望し、第一志望に据えるならより高度な内容を扱う教授のほうがいいのかなあ、くらいの気持ちで用紙を提出し、で何故か第一志望に通ってしまい。同じ教授のところに落ちたという連絡を知り合いから聞いていたので、正直通るとは露ほども思っておらず、何なら第三志望に回されるまで読んでいたので割と喜び、来期は頑張ろうという気持ちではあったのですけれど、今日、その教授と研究メンバーとの打ち合わせみたいなのがあり、そこでまあ、実際には吐いてないんですが、気分的にはそれはもう胃潰瘍かよってレベルの血反吐を撒き散らすほどのそれで。別に、何一つも成し遂げないままで学部四回生まで来てしまったとは全く思っておらず、だからといってやっていたことは何かといえば自分の場合、それは音楽ということになるのですが……。勉強面でいえば、自分は学科配属のためのボーダーを決定する試験に引っかかっていたり、一回生配当の線形微積の単位すら落としていたりと(再試験に救われた)、学科の落ちこぼれという自覚はそれなりに強くあったんですが、三回生の春におよそ初めて大学数学を楽しいと思い始め、だからもうそもそもの話スタートを切ったのが致命的に遅かったというのはあり、それもまた認識しつつ、後れを取り戻すではないですけれど去年度はそこそこに学問を頑張り、結果、卒研の第一志望に受け入れてもらえたところまではよかったんですが。

 今日の打ち合わせのときに教授から「大学院へ進学するまでには自分の研究したい分野を考えておいてください」という至極真っ当な論を直球ストレートのデッドボールみたく脳に食らい(『MAJOR』なら死んでた)、加えて同卒研の同期たちが割と研究者志望っぽいということを肌で感じ、別に研究者志望というわけでもなく、強いて挙げるなら楽しいからというだけの理由でここまで学問をやってきた自分としては、ぐえ~、みたいな気持ちになったわけです。卒研についても院試についても、なんなら大学受験でも、まあ上に行けるんならそうしたほうが後々いいんじゃない?(行けなくてもそれはそれでいいし)程度の認識だったので(冒頭の『ボーナスステージ』はそういう意味でもそう)、しかし学部四回ともなればいよいよその程度の意識ではいけないのだなあと痛感し、しかし痛感しただけで何かを変えることが出来るのなら苦労はなく、というわけで学部四回を無事に終えられるのかという不安に苛まれています、いま。

 これが近況です。三回後期も結局は何とかなったので、今回もまあ何とかはなるだろうという超楽観視をとりあえずはしているのですが……。

 

 卒研がそんな感じで早くもハードな様相を呈しており、さらに来期は避けに避けてきた幾何学などを討伐せねばならず、その上で院試もあり(なんと半年を切っている)、それはそれとして音楽は続けたいので、さてどうなるかなという感じです。いっそ他人事みたいに。まあ最悪、ここに遺書を掲載することにさえならなければそれでいいかなと思っています、いまのところ。

 

 あと、これは完全にただの報告ですが sasakure.uk の新譜『エルゴスム』がとてもよかったです。曲は言わずもがな、アルバム全体のデザインが(外装や歌詞カードも含めて)がめちゃくちゃによかった……。 

 

 

 

また明日

 

 それをいったいどのようにして定義するかということにも依存しそうですが、一先ず普遍的な定義を採用した上で考えてみたところ、いわゆるハッピーエンドみたいなものを自分はあまり信じられなくて。だからといってバッドエンド至上主義というわけでは全くないのですけれど、なんていうか、現実にありふれている終わり方って基本的に良いも悪いもないものばかりだよな、みたいな、そういった思いがありまして。これは、物語は悉く現実に即しているべき、という意味ではなく、というかもとより物語の結末について論じたいわけではなくて、だからこれは現実世界における話です。主人公であるところの阿良々木暦を前にして『俺もお前も大した人間でないし、劇的ではない』みたいなことを平然と言ってのけたのは貝木泥舟、もとい西尾維新ですが、この台詞について特別な思い入れがあるというわけではなく、しかしそれはそれとして共鳴はしておりですね。少なくとも自分は自分自身のことを、世界を認識し解釈するための唯一のデバイス的な意味で、たとえばライトノベルなんかで周囲の現象を淡々と記述する一人称をそう呼ぶみたいに、主人公と呼んで差し支えないと思っているのですが、しかしそれは、だからあくまで機能的な意味合いでしかなく。自己を経由することでしか物事を認識できないために些細なことでも劇的なそれに映ってしまったりするわけで、どんなに嬉しいことも、どんなに悲しいことも、七十何億か分の一でしかないんだよなという。いやまあ、その前提に立ったところで嬉しいものは嬉しいし悲しいものは悲しいので、こんなのはただの思考実験みたいなものですけれど。冒頭の話に戻るとすれば、結局、自分はいわゆるハッピーエンドみたいな経験をした覚えが大してなく、むしろバッドエンドとまでは言わないまでも少なくともハッピーエンドではないという結末のほうが強く思い出され、そういう次第でうまく呑み込めないのかもという風に考えてみたりもします。友情努力勝利みたいな学生生活とは程よく無縁だったので。

 

『「じゃあね、また明日」』を作った当時のことはあまり覚えておらず、なにせ一年以上も前の曲(自分で書いていて驚いている)なので。あの曲はサビのメロディが最初にあり、それ自体は保存してあるファイルの名前から2018/11/29時点でこの世に存在していたことが分かるのですが、本格的な制作に取り掛かったのは(これも保存してあるファイルデータから)翌年に入ってからのことで、なんていうか、そのインターバルが長すぎて本当に何も覚えておらずです。何を考えて作ったのかとか。多分、大したことは何も考えてなかったと思うんですが。唯一覚えていることといえば、自分は歌詞を書くとなったときにメロディラインをなぞりつつ思い浮かんだ単語なり一文なりを取っ掛かりにすることが多く、それでいえばあの曲はサビの歌詞で曲名にもなっている『「じゃあね、また明日」』という部分がその取っ掛かりでした、たしか。その段階では言葉を探すことさえしないので、とりあえず馴染むフレーズが降ってくるのを待つ、みたいな。まあ最初は『じゃあね またいつか』って言い回しだったんですけど、他の詞を考え始めた辺りで『明日』のがいいなってなって。曲名にしようとまでは考えていませんでしたが……。

 『「じゃあね、また明日」』は受けを狙って作った曲ではなくて、というか顧客のニーズに応えるではないですけれど、望んだ通り、望まれた通りの音楽を生み出せるほどの技量は残念ながら備わっておらず、あの曲にしても、いまみると結構無茶なコードの回し方をしていたりして、いまならもう少しうまく作れるなあって気になるんですが、だからなんていうか、当時も「意外性はあるかな」くらいの気持ちで作り、発表し、したんですが。所属のサークルのほうで約二年おきにベスト盤を作るみたいな伝統があり、その十六作目にこの曲が選ばれたという話はまあ以前にも書いた通りですけれど。自分の曲はそれと別に二曲ほど選ばれていて、どちらも合作だったんですが。こう言うとアレですけど、その二曲についてはまあ少なくともどちらか片方は入るだろうなって正直思っていて、というのも投票が始まる前くらいからそういった旨の発言を耳にしたりしなかったりしていたので、だからまあ収録される曲が発表されるというイベントの際にも、両方とも入っていたことにはそれなりに驚き、嬉しかったのは当然のこととしても、それとは別に予定調和みたいな思いが正直どこかにあって。収録曲の発表は獲得票数の低いものから行われる形式だったんですが、要するにその二曲が出た時点で自分はもう観客側だったというか、だから、その二曲よりも上位(たしか全体で三位)に『「じゃあね、また明日」』が出てきたとき、素で驚いてしまって。え、なんで? って。とはいえ、そのことを素直に喜べないほどひねてはいないので、心の底から嬉しかったことは紛れもない事実なんですが。

  その日、収録曲発表の行われた日の夜、自分より一学年だけ下の、最も平易な言葉で表現するとすれば後輩であるところの彼と、朝の五時とかそのくらいまでずっと話をしていて。そのときの衝撃っていうか、衝撃って表現は些か不適切かもしれませんけれど、どうしてこうなった感みたいなものははっきりと覚えていて、というのも、自分は彼と話すのはその瞬間がほとんど初めてみたいなもので。時系列的には三月のことで、一応出会ってから一年ほどが経過しようとしているというタイミングではあったのですが、それほど精力的に活動しているサークルでもないということと、より大きな要因としてはそもそも自分があまり例会へ参加しなかった(できなかった)ということがあり、だから彼に限らず、その時点での後輩との交流度はほとんど無と言ってよいレベルで、そういう意味でのどうしてこうなった感があり、完全な初対面ではないにせよ、ほとんど初の会話という場で取り上げるような内容ではおおよそない諸々を話していたような気もするので、まあ自分は誰かの話を聞くのがかなり好きなほうなので楽しかったのですが。いまになって思い返してみれば、という盛大な前振りをするほどのことでもないのですけれど、後にも先にも、彼と正面から話をしたのはあのときが最初で最後だったような気がするなという気がしており、その数時間のおかげで自分は彼のことを大切に思えるようになったのだと一年経ったいまでは思うので、あの偶然がなければと思うと少し怖くもあります。

 

 去年、一年がもうじき終わるというときに彼と会う機会があり、曰く、一月からは簡単には会えなくなる、という要約すればそういった感じの話を聞き、そのことで想像以上にダメージを負っている自分に気がついたのが帰宅後のベッドの上でのことで、なんていうか、いや、会おうと思えば会えるんです、多分、知りませんけど。自分も彼も同じ大学だし、下宿しているし、歩いて十数分かかるかどうかくらいだろうと思うし、というか会いたいなら空いている日がないかを尋ねればいいだけだし。でも、自分はそうしないのだろうなってのは薄々解っていて、それはなんか、それこそ『「じゃあね、また明日」』で歌っていたことでもあって、話したいことがどれだけあったところで、なかったとしても、でもそこに扉が一枚あればそこで終わってしまいうるんだよなっていう(そういえばNFのとき、ここの歌詞だけ少し変えたのだけれど、そのことに気づいていたのは彼だけだと思う)。彼と自分とは先述の通り、サークルの中ですらそれほど会わなかったくらいなので、況やをやという感じで。でも、何にもしないのは嫌だなと思いつつ、次の日の朝、適当にギターを弾いていたら曲がワンコーラスだけできて、歌詞も部分的に。じゃあこれでもいいかなと思って。それは別に彼に宛てたものとかではなく、というか自分の曲はほとんどいずれも明確な個人との関係をベースに作っていて、でもだからってそれはただの自己満足というか、こっちからみた向こう側というだけの話で、向こうからみたこっち側がどうかなんて知らないし、だからまあ、今回も結局はすべて自己満足ということで曲を作り、詞を書いて、一先ず完成したのが二月の七日。ワンコーラスができたといったのが一二月の二三日のことなので、まあそれなりという感じでした。

  先述のこともあって、この曲は三月のライブで披露したいという気持ちがあり(所属サークルでは毎年三月にライブをしている)、実際その通りに一昨日のステージで演奏したのですが、前に立っていると客席を見る余裕が本当になくて、というか暗いし、だから実際どうなのかは分からないんですが、彼はいなくて。まあ来てほしいとは言っていないし、言うつもりがもとよりなく、そもそも十中八九来ない読みでさえあって。『未完成の春』で書いてたことに近いのかな。こっちは勝手にやるから、そっちも勝手にやればいいよ、みたいな。相手を突き放しているわけでも、逆に孤立しようとしているわけでもなく、自分が思っていることに彼は無関係だし、彼の思っていることに自分は無関係だし、自分はそういう関係に納得してるからそれでいいやって。唄にして歌うこと自体に意味があるんだから、それで全部おしまいという。

  一昨日、ライブが終わって帰宅即就寝し、二二時頃に起きると彼からメッセージが届いていて。その日にライブがあったことは彼の知るところでもあったはずなので、このタイミングに何の連絡だろう? と思いつつ開いてみると一つのURLと数行の文章があり、それを読んでめちゃくちゃ驚いたというか、感動したというわけでもなく、なんか、とにかく変な気分になって。彼は、それこそライブの夜なんかの空いた時間でよく『「じゃあね、また明日」』を弾いてくれていて、自分はその演奏をとても気に入っていて、それは別に自分の曲だからというわけでは全くなく、本当に全くなく、単純に彼の演奏が頗る上手いからで。いつだったか、Twitterで「(彼の弾いてくれるそれが)音源化しないかな」みたいな発言をし、それを目にしたらしい彼とご飯を食べたときに「いつでもいいから、気長に待ってる」みたいなことを言い、言うだけ言ってすっかり忘れていたので救いようがないんですが、彼から送られてきていたのが件のそれで。いや、だから本当に予想外の想定外で。いま!? っていう。iPhoneだとうまく再生できないっぽかったのですぐにデスクのPCを立ち上げて、メッセージを読んだ段階で相当終わっていたのに、PCの安っぽいスピーカーから「ああ、これだ」って音が流れてきたところで本当に終わってしまい。何より嬉しかったのは、彼が自分へ音源を送るタイミングとしてこの日を選んでくれたことで、ファイル名をみるに去年の、それこそ自分がワンコーラスできたと言っていた次の日には録音されていたはずなのに、わざわざこのときまで待ってたんだろうか? と思い。流石に泣きはしませんでしたけど、もう成人なので……。でも、泣いてしまうかもってくらい嬉しくて。これを書いているいまもずっと流してるんですが。それでなんていうか、全部おしまいになり、結局、その日に唄った曲を自分も送り返して。先述の通り、そういうことをするつもりはなかったんですけど。

 

 歌詞でよく『きっと』って言葉を使うんですが、一応理由みたいなものはあり、それはなんていうかある種の揺らぎで。『きっと届く』と書いた場合、自分の中では真逆のことを考えていて、つまり『届かないことは解っている』が自分の中では正しくて、でもなんか、そうと解った上で『きっと届く』と唄うことに意味があるんじゃないかっていう。背中を押してくれる、ではないですけれど、何となくそんな気がしてくるっていうか。気休めではなくて、純粋な希望? 届かなくたっていいと思うのは本当のことだし、届いてほしいと思うのも本当のことだし、そういう自己矛盾的な揺らぎを曖昧に表現してくれるのが『きっと』という言葉のいいところだと思っていて、だから自分はよく使うのだろうと思うんですが。『「じゃあね、また明日」』も、『また明日』なんてこの数年で言ったことは多分ほとんどなくて。だって明日会えることが分かっている相手にはわざわざ言う言葉じゃないですし、そう滅多に会えない相手なら尚更不適切ですし。昔、それこそ小学生の頃は言ってたのかなあ、とか考えたりもするんですが。でもなんかあの曲は『また明日』と言って手を振ることや、そうして繋げていく明日について歌いたかったのではなく、明日にでも会えるような相手といま会うことの意味を自分なりに考えた曲のはずで、それがいまは一年前と今とを繋ぐ曲になっているのはちょっと面白いっていうか、意味は、自分も、こうして変わっていくのだなあという気持ちです、いまは。

  自分の人生が劇的ではないことくらい自分なら分かってるんですけど、劇的ではないなりに様々な様々があり、なんか、誰を助けたこともないはずなのに誰かに助けられてばっかりで、こうして死ねない理由は勝手に増えていくのだなあという。いや、死ぬつもりなんてもとよりないですけれど、でも、それにしたってどんどん死にたくなくなってくるっていうか。幸せになりたいわけではなく、かといって不幸になりたいわけでは勿論ないんですが、単純に勿体なくて。ハッピーエンドかはさておき、こんなに助けられたんだから、という。

 

 与えられた幸福を測る絶対的な尺度なんてあるはずがないんですが、それでも、これまでに最も幸福を感じた瞬間の一つだったと思います。本当に嬉しかった。ありがとね。