拡声器

 

 

 これは昔の話、といっても一年も経っていない、半年とちょっとくらい前の話なんですけれど、タイムラインに偶然流れてきた人格診断テストみたいなものをやったことがありまして。なんていうんですかね。いわゆる右翼左翼保守革新みたいな、そんな感じのアレを測る数値が縦軸と横軸とに割り振られていて、質問に対する返答の如何によってその平面上での座標が返されるという、つまりそこら中にありふれているよくある診断なんですが、ほう、どんなものか、と思いつつモノは試しだと少しやってみたんですよね。質問が馬鹿みたいに多かったことだけ覚えてるんですが、そしたら原点からちょっと左だか右だかにズレたくらいの、要するにほとんど中立という結果が返ってきて、まあそうだよな、と思わず笑ってしまいました。なんでしたっけ、三つのS? みたいな。スポーツ、政治、それから宗教。この三つについては公の場であまり話さないほうがいいみたいな、スポーツはちょっとジョークっぽいですけれど、ありますよね、そういった話が。つい最近、自分はこれで少し痛い目を見たのでこのことについて猛省をしていたのですが、だから何かって、政治の話なんて普段しないわけですよ。自分の周りでそういった主張を頻繁に行っている人は、まあ少なからずいますけれど、ほとんどいなくて、誰がどうとか何がこうとか、あるいはどの政党がどうであの政策はこうとか、そんなことに思いを巡らせる機会は、つまりほぼ皆無というわけです。自分みたいな奴からすれば、逆に一体どんな人生を歩んできたら、単なる一国の行方とその結末とにそれほどまでの関心を持てるのだろうかと純粋に気になるわけですけれど、でもそれは多分、たとえば煙草やピアスのような嗜好品だとか、絵画や音楽のような芸術だとか、あるいはそれこそ野球やサッカーといったスポーツだとか、そういったあれこれと多分同じ類なんだろうなあと思うわけです。実際どうなのかは知りませんが、あくまで自分にとっては、という話です。

 

 政治主張の類には本当に興味がなくて、興味がないからって無意味だとか無価値だとかは露ほども思っていませんが、それはそれとして、だからこう、辟易するんですよね。何か、最近のTwitterってそういうの多くないですか? ああ、ここでTwitterと書いてあるのは、僕が恒常的に観測しているインターネットコンテンツがTwitterだけだからです。それはもしかしたら自分の周囲という局所的な領域でだけ発生している事象なのかもしれませんし、はたまたTwitterのみならずインターネットという空間全域で起きていることなのかもしれないし、あるいはバーチャルすら越えてリアルでも同様なのかもしれないし、その辺りが実際どうなのかは分かりませんけれど、要するに、自分の観測範囲ではそういったことが本当に多くてですね、かなり参っているというわけです。というか、政治主張と一緒くたにするのもあまりよくありませんね。自分が嫌っているのは一部の過激な政治主張を行う人々であって、別に政治的な主張を持っていること自体はいたって正常というか、むしろ自分みたいに、何の興味もないよ、だなんて開き直ったことをいけしゃあしゃあと平気で吐かす厚顔無恥な人間のほうが思いきりしょっぴかれるべきなんですよ。だからまあ、何の主張も持っていない奴よりもマシだろう、とでも言われたら何の反論もできないわけですが、それでも恥を忍んで言うのであれば、いい加減鬱陶しいんですよ、いい加減に。苛立ってるとかではなく、ああいや、多少は苛立っていますけれど、なんていうか、苛立ちというよりは悲しい気持ちのほうが強くて。悲しい? 切ない、が正しいかもしれません。そこら辺の区別は自分にはつきませんが、こう、過激な人たちに絞って話を展開しますけれど、ああいう人たちって、なんか、世界に呑み込まれている感じがするじゃないですか。この話はここで何回もしているというような気がしますけれど、あれです、『まどマギ』という作品を知ってますか? 知らない人のために詳しくは記述しませんけれど、知っている人に対して説明するなら、あれの終盤で主人公組の一部が陥る窮地みたいな、そんな感じのイメージです。僕らは胸の奥のほうに一振りのナイフをひた隠しにしていて、それは誰の目にも触れないほうがきっと誰もが幸せで、でもどうしてもそれを振りかざさなきゃいけないときが誰の下にでも必然的にやってくるわけで、だから、僕らはやがて訪れるその瞬間まで、そのちっぽけなナイフを必死に守り続けるわけじゃないですか。それを、こう、なんていうか、ああいう人たちは目が眩んでいるというか、ボロボロのナイフを闇雲に振り回している感じがするというか、あくまで僕の勝手な主観ですけれど、なんか、救いようがないなと思うんです。救いようがないってのは、その、馬鹿にしているとかそういう意味ではなくて、どうしたところでバッドエンドになるんだろうな、っていう、幸せな末路が想像できないという意味で使っています。同じですかね? 自分は一応明確な区別を以て使っているつもりですが。

 

 そういった主張を見かけたら、その根っこを逐一排除すればいい。そういうアドバイスをもらったことがあります。そしてその忠告を受け取るよりも以前からそれは実行していたのですけれど、なんかそれにも疲れちゃって。自分、何やってるんだろう? みたいな気持ちになって。というのも、次から次へと湧いてくるんですよ、あれ。Twitter公式アプリの広告かよってくらいに、本当に無尽蔵に。ああいう人たちって事あるごとに何かと政治的主張とを結び付けたがるじゃないですか。いや、気持ちは分かりますよ。いや、やっぱり全然分かりませんけど、でも、空の青さと色んなこととをしっちゃかめっちゃかにくっ付けて考える癖がどうやら自分にはあるらしいので、多分それと同じような感じなんだろうなとは思うんです。自分は自分がそれを行うことで誰かが傷つく可能性なんてものを想定しないし、自分の行為が決して許されないことなのかと問われればはっきりと首を横に振りますし、だから彼らもきっと同じような感じなんだろうなって、そう思うんですよ。その上で、それにしてもなあ、と思うんですよね。弊所属大学の話ですけれど、自由の校風がなんだとか学祭がなんだとか、あと最近であった話は、これは弊学に限りませんが大学院進学者に対する奨学金制度の話(でもこれはたしか勝手に騒いでいた連中の誤解だったはず)とかですか。もう、本当に心の底から疲れ切っていてですね、本垢のほうは繋がっている人の数がそれなりにいるので過激な主張を目にする機会もそれなりに多く、そういった場合には別のアカウントに逃げるかTwitterを閉じるかの二択を取っていたんですが、大学垢のタイムラインもそういった事情で近頃定期的に荒れているということで、八方塞がりの袋小路なんですよ。いや、もう本当に。誤解されるのも癪なので断っておくと、大いに話し合えばいいとは思っていますよ。話し合いで解決することなんてこの世にたったの一つもありませんが、話し合いなくして得られる解決もまた決して存在しないというのが僕の立場なので。だから、話し合いをすればいいのにな、とよく考えるんです。観測範囲でしかモノを語ることが出来ないので私怨ゆえ大分強い物言いになりますけれど、あの手の人たちがやっているのは結局憂さ晴らしの延長線上というか、チラシ裏の架空戦記というか、独り善がりの勧善懲悪というか、歪んだ自己顕示という風にしか自分の目には見えなくて、まあTwitter自体がチラシ裏みたいなものだと言われればその通りですけれど、そこは公共の場でもあるわけですから、闇雲に刃を振りかざす行為を許容できるかと言われたら微妙です(しかし自分もよくやるので説得力がまるでない)。別に、関係なんてないですよ。やめろとも言いませんし、嫌だとも言いませんし、目の前でそれをやられても適当な愛想笑いで聞き流します。だって関係ないので。救いようがないのは自分じゃないし、他人の末路なんて知らぬ存ぜぬで構わないし、というかむしろ関係をもったら面倒なことになるのが目に見えているし。でも、なんかそれはそれで嫌じゃないですか。嫌っていうか、虚しいっていうか、そうした無関心が結局は「死ぬなら一人で死ね」という、あの人類史上最低最悪のステートメントへと繋がっていくわけじゃないですか。それが嫌だから無関心が嫌だというわけではなく、その二つの嫌悪はそれぞれ独立して存在しているわけですが、そうは言っても無限遠のどこかしらで繋がっているわけで、いや、もう、だから八方塞がりなんですよ。目にすると不快な思いをするし、かといって知らぬ存ぜぬを貫けるわけでもない。本当にどうしたらいいんですかね。Twitterをやめればいい? でも、それは不可能です。自分も孤独は大嫌いなので。

 

 なにか一つだけを選ぶってのが本当に苦手で、なにか一つのことをやり通すというのも苦手で、あれもやりたいしこれもやりたい、あれは捨てたくないしこれも捨てたくない、そうやって全部を中途半端にして生きてきた結果がいまの自分だという感覚があるようなないような気がしていて、自分のことなんてまあ何も知りませんが、しかし一つを選ぶのが得意でないことは本当で、上とか下とか、あるいは右とか左とか、どっちも選びたいし、どっちも進みたい。でも、そんなのは少なくとも凡人にはできっこないことなので、結局何処へも行けずに一人で立ち止まってるという、そんな感じがするんですよね、何となく。

 

 なーんか、苦しいっすよね。息。生。どっちも。

 こんなことでしか何かを書こうとしない自分のことも、おかげでちょっとずつ嫌いになってきました。