最後に空を見たのはいつですか?

 

 今更になって考えることといえば、以前の僕はもしかしたらミサトを嫌っていたのかもしれない、ということだった。こんなのは本当に今更すぎる話で、とっくの昔に思い出になってしまった過去で、ともすればわざわざ拾い上げるほどのものでもないのかもしれないけれど、これまでミサトに向けてきた感情の一つひとつを、しかし僕はいずれも忘れたくなかった。それは、あるいはリストカットのような自傷行為と同義なのかもしれないと思う。だけど、ミサトがいまも生きている以上、ミサトがいまも僕の近くにいる以上、僕はこういったことを考えずには青空の下を歩くことが出来ない。彼女と青空の関係はたとえばアスファルトに落ちた影と太陽のようなもので、ミサトのいるところに青空が必ずあるわけではないにせよ、青空のあるところには彼女の面影が必ずどこかにある。少なくとも、僕にとってはそうだ。空の下を歩くとき、だから僕はほとんど無意識のうちに考えを巡らせてしまう。ミサトと僕の関係性、みたいなものに。

 僕がミサトと青空とを強く結びつけて認識しているという事実は、やはり彼女がよく口にする台詞に起因しているようにも思えるけれど、多分それだけじゃない。

 僕らが知り合ったあの夜。極大の流星群に攫われた夜の、その続き。以来、僕とミサトは校内で偶然すれ違ったときに挨拶を交わすほどの仲になった。逆に言えば、お互いに相手のことを深く知ろうとはしなかった。それはそうだ。僕らの間にはあの夜に同じ流れ星を見たという程度の事実しかなく、そのときに印象深いやりとりが幾つかあったものの、言ってしまえば、真夜中の話し相手のその正体なんてものには然程興味がなかったのだ。あの夜、訪れた公園に女の子がいて、彼女はラナという名前で、自分と同じように星が好きで、そう短くもない時間、天体にまつわる色んな話をした。当時の自分にとってはたったそれだけの存在だった。だから、僕とミサトとの関係を決定的にした出来事は、それと別のところにあった。

 あれは放課後だった。特別なことなんて何もない、三六五分の一でしかなかったはずの一日の、その放課後だった。僕はいわゆるクラブ活動みたいなものに全くの無縁で、だから大抵の場合、最後のホームルームが終わると同時に教室を後にしていたのだけれど、その日だけは少し事情が異なっていた。その日の朝、両親が酷い言い争いをしていたせいで家に帰りづらかったのだ。喧嘩の火は時間の経過に伴って収まっていき、最終的には母が泣き崩れ、父は逃げるようにして鞄片手に仕事へ出て行った。どうすればいいかも分からなくて、僕も結局何も言わずに学校へ向かった。このまま帰ると、家には母がいる。できることなら、いまは会いたくない。母の苦労なんて自分は何も知らないけれど、自分が家にいるせいで母に母親であることを押し付けるのが嫌だった。だから、帰りたくなかった。

 しかし、放課後の校内は思っていた以上に暇だった。放課後になるとほとんどの人が帰路に就くか、あるいはクラブ活動に精を出すかのどちらかになる。校内で暇を潰すなんて物好きはそうそういない。そうなることは事前に分かっていたから、今日も集まって遊んでいるのであろうクラスメイトの家に行ってもいいかと思ったけれど、罪悪感に似た何かで胸が痛くなって、それもやめた。結局しばらくの間を無人の教室で潰し、それも飽きてきた頃、グラウンドで活動している陸上部の様子でも観に行こうかと僕は廊下へ出た。そのときだった。窓の外、裏門へと続く傾斜の上、ガードレールに背を預ける後ろ姿がそこにあった。不思議なことに、僕はそれが誰なのかを疑いようのないほどに理解していた。ミサトだ。彼女がそこにいた。

 僕はグラウンドとは真逆のほうに廊下を進み、鉄製のドアを潜って外へ出た。履き慣れた靴で黄土色の砂を踏んで、それからアスファルトの傾斜を昇った。ミサトは、僕があと数歩というところまで近づいた辺りで僕の存在に気がついたようだった。こんにちは、と言ったのは彼女のほうが早かった。遅れて僕も、こんにちは、と返す。それから寒くないかと尋ねてみた。寒いですよ、とミサトは答えた。気持ち程度のあいさつを終えてしばらく経った頃、僕は訊いた。

「どうしてこんなところにいるの?」

 言ってから、些か不親切な質問だったかもしれないと思った。これでは何を訊いているのか分からない。ミサトが学校にいること自体は何ら不思議なことじゃない。知りたいのは、どうして放課後の校内に残っているのか、だった。

 彼女は笑って答える。

「家に帰りたくないんですよ」

 どうやら彼女はこちらの意図を汲んでくれたようだった。

 これはミサトの存在を知ってからすぐに分かったことだが、彼女は頭がいい。総合的な意味ではなく学力的な意味での話だ。全五回の定期試験のランキングなんてものはその実存在しないけれど、しかし、そんなものをわざわざ作るまでもなく誰が一位なのかということをおおよそのクラスメイトは把握していたようで、それが彼女、ミサトだった。それに、ミサトは運動神経も申し分ないらしく、その方面での話題も幾つか耳にしていた。ミサトという名前を知らなかっただけで、知ってからは彼女の話題を聞かないことのほうが珍しいという感覚さえあった。

 それでいて、ミサトは誰とも深くかかわろうとはしないらしかった。たしかに言われてみれば、たとえば廊下なんかですれ違ったとき、彼女が他の誰かと一緒に歩いているという場面にはあまり遭遇しないような気がした。錯覚かもしれないけれど、だけどそういった印象が彼女にはつきまとっている。しかし、人付き合いが悪いといった様子でもないらしく、むしろ交友関係はかなり広いようで、後に聞いたミサト自身の言葉を使うとすれば、彼女は誰とも例外なくクラスメイトであろうとしていた。

 頭を整理してから、僕は答える。

「そっか。僕も同じだ。家に帰りたくない」

 するとミサトは不思議そうに首を傾げた。

「ユイ君はいつもすぐに帰っていませんか?」

「うん、帰っている。だけど今日はだめなんだ。両親が喧嘩していて」

「それは大変ですね」

「本当に。こういうとき、僕ら子どもはどう動くべきなんだろうね?」

 何気ない言葉のつもりだったけれど、ミサトは依然としてガードレールに腰かけたままの姿勢で黙っていた。

 途端に自分の口調がまるで憂さ晴らしをしているかのように感じられてきて、ごめん、と思わず僕は謝った。

「どうして謝るんですか」

 ミサトはやはり不思議そうに尋ねる。

「君にこんなことを言っても仕方がなかった」

 僕の言葉に、しかしミサトは首を振った。

「仕方がない、ってことはないと思います。言葉にして何かが解決する問題でもないでしょうけれど、それでも言葉に直そうとするのは決して無駄なことじゃない」

「仮にそうだったとして、その矛先を君に向けるのは間違っているだろ。それは、たとえば僕の両親なんかに向けられるべきだ」

「本来ならそれが正しいのかもしれませんけれど、だけど正しいことが相応しくない場面というのもあります。どう考えても間違った選択が正解になることだって」

 そう言い切ってから、それに、とミサトは続けた。その視線の先には空があった。

「そもそもユイ君だって勝手に巻き込まれたんでしょう。だったら、気にすることなんてないですよ。一方的に押し付けられた感情の行き先なんて、やっぱり何かに押し付けるしかないんですから」

 それはたとえば空みたいな空っぽにでも、とミサトはそう言った。

 そう言われて僕は、なんだか許されたような気になったのだった。何を、といわれても具体的には言い表せない感覚だったけれど、それでもあえて言葉にするのなら、こうして彼女と話をすることを、だ。

 僕は意識して笑う。

「君はいい人だね」

 すると今度は彼女が笑った。

「貴方も十分いい人ですよ」

 どういう意味、とは訊かなかった。何と答えられるかは、何となくだけれど想像がついたから。

 代わりの言葉を探す。それから口にするかどうか少し迷って、結局、僕は尋ねる。

「どうして家に帰りたくないの?」

 そもそも僕がミサトに訊きたかったのはそれだった。彼女がこうして放課後の裏庭に残っている理由は何なのだろう。

 ミサトは遠くを見たまま答えた。

「家にいづらいんですよ、何となく。ユイ君と同じです」

「君はいつもここにいるんでしょう?」

「どうして?」

「さっき、僕が帰りたくないと言ったときに、『いつもすぐに帰っているじゃないですか』と答えたから」

 ミサトは少し驚いたような表情でこちらをみた。彼女と初めて目が合った。

 それから、こう言った。

「頭がいいですね」

 その言葉に、僕は思わず笑ってしまった。彼女からそんな言葉を聞くことになるとは思っていなかったから。君ほどじゃない、と僕は適当に誤魔化した。

 まあ、とミサトはため息みたいな声で言う。

「家が特別、というわけでもないんですよ。自分の部屋も、教室も、学校も。どれも同じです。自分の居場所なんてどこにもないような気がして」

「それが、ここにいた理由?」

「ですね。ユイ君は知らないでしょうけれど、私、放課後はほとんどいつもここにいますよ。昨日も、一昨日も、その前もいました」

「ここは君の居場所というわけだ」

「そうなりますね。ここは結構お気に入りです」

「なら次に気になってくるのは、この場所がどうして君の居場所になり得たのか、ということだね。ここはほとんど何もない、名前もない、空き地みたいなものなのに」

「だからこそ、ですよ。この空間には固有の名称がないから、だから私はここを気に入っているんだと思います」

「なるほどね」

 僕は頷いた。ミサトの内側に通っている論理をわずかでも理解できたとは思えない。しかし、彼女にも彼女なりの行動原理のようなものがあるらしいということに、ひとまず僕は安心したのだった。

 一度こちらを振り向いたきりで、以来ミサトはずっと空を見ていた。思えば廊下の窓から傾斜の上に彼女の姿を見つけたときも、ミサトは多分空を見ていたのだろう。何か面白いものでも見えるのだろうかと思い、ぐいと首を逸らしてみた。だけど、そこにあるのはいつもと同じ、もうかなり日の傾いてしまった茜色の空だった。

 僕もまた同じように空を見上げていることに気がついたらしいミサトが、どこか楽しそうな声で尋ねてきた。

「何が見えましたか?」

 僕は答える。

「何って、空だろ」

「他には?」

「雲、鳥、青白い月。もう少し視線を落とせば、校舎、山、屋根、電線。太陽は西の果てだ。ここからじゃ校舎が邪魔で見えない」

「なるほど。ありがとうございました」

「どういたしまして」

 次第に首が疲れてきて、耐えられなくなった僕は視線を普段の高さまで落とした。その一方で、ミサトはずっと上ばかりを見ている。彼女は首以外に身体も逸らせているから、身体への負担が幾分か分散されているのだろう。まあ、それにしても、長時間その姿勢のままだと結構堪えそうなものだけれど。

 それから思いついて、僕は思い切って尋ねてみることにした。

「君には何が見えるの?」

 なんだか彼女はずっとその言葉を待っていたように思えたのだ。そんなのは気のせいかもしれないけれど、僕の自惚れかもしれないけれど、それでもあの瞬間の僕にはそういう風に見えた。だから、僕は彼女に訊いた。――君には何が見えるの?

 空の下でミサトはゆっくりと目を閉じて、それから俯きがちに、あるいは深く頷くようにして言った。

「水」

「水?」

 僕は思わず訊き返す。

「それから火花」

 ミサトは何も答えずに続けた。

 僕は彼女の次の言葉を黙って待った。

「なんでしょう。決して消えることのない線香花火を水の張ったバケツに入れて、その様子を水面の内側から眺めているような、そんな感覚です」

 わかりますか? とミサトは言った。

 わからない、と僕は答えた。

 それで構いません、とミサトは笑った。

「ユイ君」

 唐突にミサトが僕の名前を呼ぶ。

「何?」

 僕は校舎のほうを眺めながら答えた。時計の針はもうじき一七時半を回りそうだ。空の明かりが心許なくなっていくにつれて、肌を刺す寒さもなんだか強度を増していくように感じられた。

 ミサトの声が耳元を揺らす。透明に澄んだ冬の空気は、まるで彼女の声だけを切り取るみたく綺麗に伝える。

「最後に空を見たのはいつですか?」

 そして、その言葉こそが、つまり、僕がミサトと青空を強く結び付けている理由の一つだった。

 夕焼け色に染まった放課後で、だけど彼女の言葉はどこまでも青空の色だった。

 透き通っていて、突き抜けていて、透明で、孤高で。

 有体に言えば、僕はそんな彼女の言葉に、彼女自身に強く惹きつけられたのだった。

 僕は、今度は本心から笑って、答えた。

「いつだろう、分からないな。そもそも覚えてないよ、そんなの」

「なるほど。じゃあ、今度からはなるべく覚えておくようにしてくださいね」

「覚えて、それからどうするの?」

「ユイ君の暇なときにでも、またこうやって私に教えてください」

「それだけ?」

「それだけです」

 そう言い切って、ミサトはガードレールに預けていた背をひょいと持ち上げた。

「帰るの?」

「そうですね。ちょっと冷え込んできましたし」

「そっか」

 僕は頷いた。

「ユイ君はまだ帰らないんですか?」

「どうかな。気分的にはもう帰ってもいいかなと思っている」

「気分的には」

「でも、君と話していたら、もう少しだけ空を見ていたくなった」

 だから、ここに残るよ、と僕は言った。

 それを聞いたミサトは、どういうわけか嬉しそうに笑う。

「それじゃあ、またの機会があれば、これから見える空の話を聞かせてください」

「うん。またの機会に、きっと」

 そのやり取りを最後にして、ミサトは裏庭を去っていった。その日、僕は何時頃までそこから空を見ていたのか、正直なところ全く覚えていない。多分だけれど、僕はその日、生まれて初めて正面から空に向かい合ったのだろうと思う。自分が普段過ごしている町の夜空には、こんなにもたくさんの星が浮かんでいるのだということを、だって僕はそこで初めて知ったのだから。プラネタリウムみたいに分かりやすい星空では決してなかったけれど、少し目を凝らすだけで遠く微かな光点が幾つもあることがすぐに見て取れる空だった。

 あの日以来、僕はよく空を見上げるようになった。そして、そのたびに、ミサトもいま同じ空を見ているのだろうかと思う。彼女がよく口にする言葉の一つに、私たちは同じ空を見ているわけじゃない、というものがある。それはきっと正しいのだろう。僕らは一度だって、初めて空について話した放課後でさえ、同じ空を見てはいなかった。だけど、それでも、僕の個人的な願いを言うのであれば、僕は彼女と同じ一つの空を見ていたいと思うのだ。それは決して間違った感情ではないと僕自身は信じている。僕が未だにミサトと行動を共にしている理由があるとしたら、多分それだけで全部だ。

 すっかり息を潜めた夜の街を歩く。目指すは河川敷。ミサトはきっと今日もそこにいる。空を見上げた。薄い雲に隠れた月の周りが微妙に赤みを帯びている。あれも月暈の一種なのだろうか。分からない。ミサトに訊けば教えてくれそうだ。天体関係のことなら、彼女は大体何でも知っている。彼女は空が大好きだから。

 信号機だけの交差点を西へ下る。もうじきに河が見えるはずだ。まずは挨拶をするとして、その次はいったい何から会話を始めようかと考える。今夜の月の話題以外にも、彼女に話してみたいことが幾つかあった。そうして色々と考えを巡らせてみて、だけど最後にはいつもと同じ答えに至る。まずは空の話をしよう。いつも通りに。ミサトと話すのなら、最初はやっぱりそれだ。彼女は今頃、ベンチに腰掛けながら夜空を眺めているはずだ。彼女にとって、あの赤色はいったい何に見えているのだろう。返ってくる答えを一通り想像してみる。だけど、彼女が本当に言いそうなことは何一つとして思いつけなくて、そんな当たり前に僕は小さく笑った。

 

 

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