同じ空を見ていなくとも

 

 

 青色は幸せの象徴だと思う、みたいなことを試しに言ってみたら秒で否定されたという経験があります。否定? 否定っつうか、何ですかね、もっと別の見方があるくない? みたいな。たとえば、真っ青と言うと具合が悪いという様を想像するし、青いという言葉は未熟という意味でも用いられるし、まあ言われてみればそれはその通りなんですけど、でもそれはそれとして、青という色を目前にしたときにそういった負の連想がそもそも湧き上がらないという話を僕はしたくて、それは青に限らず色全般に言えることですが、血の気が引いている様とか何だとかを比喩的に表す色として青へ向かって矢印が伸びているというイメージがあって、そしてその遷移は不可逆的というか一方通行というか、要するに、青とそれらとはたしかに結びついているけれど、ほとんど無関係という感じがするんですよね。だけどまあ、それを言えばこと幸せに関しても同様で、だから結局は主観の話になってしまうわけですけれど、僕にとってのそれが幸福です。チルチルとミチル、はその実なんの関係もないわけですけれど、でも似てはいますね。青とは幸福の象徴であり、ずっとそれだけを追いかけていて、一生かけても届かない。そういう色ですよね、青ってやつは。

 

 身近な誰かが何を信じて生きているかとか、そんなことを話す機会なんてものは今後一生ないんじゃないかな、という気がします。だって、知りませんし。というか、みんな案外何も信じずに生きてるんじゃないかな、という気さえします。僕が野球や政治に全く興味がないのと同じ感じで、だからどの組も支持していないのと同じ感じで、貴方は何を信じていますかという問いに対して、自分の中でそれなりの筋が通った思考の下で何か一つのものを挙げられる人。いるんですかね、そんな人。もしいるとすると、それは盲目ですよね、最早。この世には楽しいことなんて他にもいくらだってあるんですよ、多分。美しい風景も、耳を塞ぎたくなるような言葉と同じくらいにはありふれている。それなのにたった一つだけって、そんなことあるんですかね。でもまあ、あるんでしょうね、人によっては。だから、そういう話を聞いてみたいですよね、僕の身近にいてくれている人達から。無いんだったら無いで全く構わないんですけど、信仰なんて持っていて都合のいいものかといえばそうでもないし、だけどまあ、あるなら是非とも聞いてみたい。無理にとは言わないし、だからこちらから話を振ることもないわけだけれど、いつかそんな感じの話をできる誰かが現れてくれたら素敵だな、と思わなくはないです。一個下の彼らとかからは何というかそんな感じの雰囲気を感じていて、だからもっと仲良くなれたらいいなあと思ってるんですけど、思ってるだけです。

 

 人はよく何かを別の何かに喩えるじゃないですか。僕にとっての青空も、空の青さもきっとそんな感じで、繋がっているはずもない全く別の何かと結びついてしまっているような感覚があります。青空は、たとえば彼のことなんでしょうか。はっきりとは断ぜませんけれど、何となくそんな気がします。空の青さは、曰く恋の正体だとか。青空の理想って何なんでしょうね。僕はそんなこと知りもしませんけれど、それはどこまでも真っ直ぐだという感覚を勝手に覚えています。とはいえ空ほど立体的な概念もそうそうないという気がしますけれど、僕が空から真っ先に連想する図形といえば直線です。次点で球面。天球とか言いますし。青空の幸福って何なんでしょう。それが僕の幸福でないことだけは確かなんですが、でもまあ、それを一方的に定義しようとしている時点で、それはやっぱり僕の幸福なのかもしれません。遠くに在ればいいですよね。ずっと遠くに在ればいい。僕とよく話す人はすっかり聞き飽きていることかと思いますけれど、何にしても手なんて届かない方がいい。触れられない方がいい。空も、月も、星も。それがここからは遠く離れたどこかにあるから好きでいられるし、だからせめて自分が終わる瞬間まではそうであってほしいと思う。そんな感覚、ありません? 青空だなんて抽象化された対象でなくとも、僕は似たようなことをよく思います。二次元平面上のキャラクターとか。こいつがもしも現実にいたら絶対嫌いになる、というキャラクターを、だけど好きになったりすることがあるでしょう。それです。ちょっと違うけど、似たような感じです。それが青空の幸福であってほしいですね。別に、あいつはあいつの好きなように生きればいいと思うんですけど、いや本当に。

 

「そう 僕らは今日も迷いながら いつか見えた星を目指す 指先にそっと触れた白も掴めないよ 僕なんかじゃ」

 

 これは以前自分で書いた歌詞なんですけど、書いたというか、どちらかといえば零れ落ちてきたみたいな感覚が正しくて、それはこのフレーズを書こうと思って書いたわけじゃなく、ふと口ずさんだ言葉がこれだったという意味なんですが、ともかく、九ヶ月くらい前の自分が書いた歌詞です。これも結局何というか、多分そういう話で、触れた白が何かといえばそれがつまりは青空で、夏の温度で、届きたくなんてなかったのに、でも頑張って手を伸ばせば届いてしまうほど近くにそれはあって、だから思い切り手を伸ばしてみて、それでも掴めなくて、ああやっぱり駄目だったって、それだけのことだったんだろうなと思います。当時の自分が何を思っていたのかなんて知りませんけれど、まあ、そういうことなんでしょうね。自分の曲の歌詞について話すの、どうしてもやっちゃうなあ。

 

 青空なんてどうでもいいですよね。どうでもよくはないけれど、やっぱりどうでもいい。青空の理想なんて知りませんし、幸せかどうかも知りませんし、というか関係ありませんし、空の青さがないと生きていけないなんてことも全くないように思います。曇り空が続いたって、何だかんだへらへら笑いながら生きていくんだろうなという気がします。それでいいんじゃないかとも思います。何て言うんですかね。本当にそれはそれでいいことだと思ってるんです。思ってるんですけど、今更そうはなれないよなという思いもあります。曖昧になって生きてけたならいいのに、というのは某後輩の言葉ですけれど、僕個人の話で言えば、曖昧になんてなりたくないという気持ちもそれなりの強度を持っていて、何だかんだ彼もそうなんじゃないかなと思ったりしていますけど、何もかも曖昧になって、空の青さなんて忘れて、それで笑って死んでいけたとして、果たしてそれでいいのかなあという思いがあります。もし青空を知らずに今日までを生きてきたとすると、もしかしたらそんな一生もあり得たのかもしれませんけれど、出会ってしまった以上は仕方がないというか、出会えたことを忘れたくないというか、なんかそんな感じです。そういえば、そんな感じの歌詞も昔に書きましたね。一年前、僕が初めて書き切った歌詞がちょうどそういった話でした。

 

 私たちは同じ空を見ているわけじゃない。どうでもいいと笑いながら、なおも信じている青空の色を、他の誰かも同じように見ているとは限らない。それを直線だという人がいれば、平面だという人がいるし、空間だという人がいる。当たり前。その色を爽やかだという人がいれば、寒々しいという人がいるし、取るに足らないという人がいる。当たり前。だから、それでいいと思うんですよ。誰かと一緒に同じ空を見たいだなんて願ったことはない。頭上に張りついた空色を眺めながら、同じ空を見ていなくとも、だけどとても綺麗な色だって笑いあえたなら、もうそれだけで十分じゃないですか。解りあう必要なんてなくて、眼前に広がるのは全く普遍な空模様なんだと、そんな勘違いを抱えたままで歩いていけたら、もうそれだけで十分じゃないですか。そんな気がしますよね。透き通るような青も、深く滲んだような赤も、吸い込まれるような黒も、全部一緒くたに綺麗な色だと受け入れて、透明色のことを追いかけながら、透明色のことなんて忘れた風に、そうやって生きていけたらいいですよね。そんな感じで生きていきたいです。

 

 ここまでの何もかもが嘘で、何もかもが本当のことです。人はよく何かを別の何かに喩えるじゃないですか。だから全部が比喩で、でも全部が比喩じゃありません。これは、つまりそういう話です。