忘れたって消えやしない

 

『ray / BUMP OF CHICKEN』の歌詞に以下のような一節があります。

「大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない」

 つい先日、この歌詞について思いを馳せる機会がありまして、そもそもの話、この言い回しについては以前から思うところがあったのですが、折角の機会だしそれら諸々をアウトプットしてみようかと思った次第です。何も知らない人が読めば断片的な文章の羅列に見えるかと思いますが、読む人が読めば僕が何の話をしているのか解るだろうとも思います。

 あ、本題は歌詞の話じゃありません。

 

 痛みってそもそもそんなにマイナスなものじゃないと思うんですよね、個人的には。ちょっと前にも似たようなことを書きましたけれど、悲しい出来事じゃなくたって心が痛むことはあるし、悲しい出来事だってすぐに忘れてしまうこともあるし、自分の内側でずっと鈍く響いている痛みが必ずしも悪いものかといえば、まあそうでもないんじゃないかな、と思うことがあります。勿論、そう思えない瞬間もあって、割合的には二ヶ月に一回くらいの頻度でそれはやってきますし、というかその痛みの渦中にいるときには、そんな風にある種達観した思考を巡らせる余裕なんて毛頭ないわけで、だから完全に肯定しきることは出来ませんけれど、でも否定することもないんじゃないかな。

 歌詞の解釈なんて人それぞれでいいんですよね。正解なんてあるわけがなくて、それは書いた本人の想いでさえもそうだと僕は思っていて、要するに、すべてを決定するのは受け手でしかないと僕は考えています。別に歌詞に限った話じゃなくて、会話でも、SNSでも、小説でも、なんでも。これは以前僕が目にしたたとえ話ですけれど、この文章をいま読んでくれている誰かは、きっと僕の言葉の意味をそれなりに理解してくれていることだろうと思います。「歌詞」とか「解釈」とか「言葉」とか、そこら辺の認識において僕とそちらとで大した差異はきっとないでしょう。では、それがすべて偶然だとしたら? 僕らは偶然同じような言語を使っていて、だから偶然意思疎通ができているように見えていて、だけど実際のところは全く別の言語を使っていて、だからお互いに分かり合えているようで何も分かり合えていなかったとしたら? そういった思考実験があります*1。見えている世界なんて人それぞれ主観によって異なっているというのは僕が繰り返し何度も言っていることですけれど、今回の話は言ってしまえばそれを言語に置き換えたもので、だから僕は最初これを読んだとき、それは本当にその通りだな、と思いました。自分の言葉すべてが相手に正しく伝わっていると考えることも、あるいは相手の言葉すべてを自分が正しく理解していると考えることも、どちらにせよそれは純然たる驕りというかまるっきり勘違いというか、そんなわけないんですよね、実際。僕らは常に間違えているし、だから自分で決めなきゃいけないんですよ、正解を。書いた本人の言葉じゃなくて、その先に落ちている何かを自分自身の手で拾い上げなきゃいけない。そう思います。自分一人で拾い上げられたのなら、それが何よりも正解に近いとも思います。

 だから歌詞の話をするとなると、どうしても僕個人の主観が混じるわけですよね、当然の結果として。でも、それはあくまで僕の話でしかないので、だからまあこういう話はあまりしないんですけど、たまにはしてもいいかなと思わなくはありません。

 何を以て痛みを定義するかですけれど、僕は忘れられない出来事をそう呼ぶような気がしています。何となくですけれど。そんなもの、思い起こせばいくらだって見つかります。ここに書いた話だと、あの日交通整備をしていた人たちの背中を僕は多分二度と忘れないでしょうし、いつかのコンビニで働いていた人のことも。あるいは自殺したゲーム作者のことや、新幹線車両内で焼身自殺を図った人のこととか。何というか、自分の内側がたしかに揺れた感覚、みたいな。いまにして思えば何が悲しかったわけでもないような気がするのに、だけど忘れられないような何か。それ以外にも、単にめちゃくちゃ悲しかった出来事だっていくつもあります。その中でも何よりも今の自分に直結していることといえば、やっぱり彼と離れたことだと自分では思うんですが、でもそれにしたって、その瞬間の悲しみを思えばあり得ないくらいには平気な顔をしてへらへらと生きてますし、この先もきっとそうなんだろうな、と思います。とまあこんな風に、あの歌詞は多分そういうことを言っているのだろうな、と自分の中では一応結論が出ていて、要するに、たとえどんなに心を動かされたとしても、その感動は時間が経つにつれて自ずから薄れていって、だからついつい忘れてしまうけれど、でもよく見渡せば手が触れるほど近くに転がっていたりもして、僕らはそれを忘れてしまうことは決してない、みたいな、そんな感じの。なぜ、どうして、何のため、と思う瞬間はこれまでに何度もあって、きっとこれからも何度もあって、実際、いまだってそう思う夜があります。なんでこうなったんだろうな、とか。今の自分があの頃に立っていたとしたら、何かが変わっていたのかな、とか。後悔とかじゃなく、いや、もしかしたら後悔と同じ類の感情なのかもしれませんけれど、もっと別の何かが込み上げてくる瞬間が、いまだってあるんですよね。たとえば、今日の帰り道とか。でも、そういうのも寝て起きたら忘れていたりして、でもきっとまたすぐに思い出して、そんなことをずっと繰り返していくんだろうな、という話です。

 

 いや、冒頭でも書きましたけれど、別に歌詞の話がしたかったわけじゃないんですよね、今日は。ついでに書こうと思ったらめちゃくちゃ長くなってしまった。本題は次の話です。

 

 僕の好きな色は青、白、黒の三色です。青はできれば透明な方が好みです。触れてみようとしてもするりと抜け落ちていくような、それくらいに透き通った青らしい青が好きです。白はできれば純粋でない方が好みです。それこそ、今日の昼間に京都の空を埋め尽くしていたような、雨を降らせるほどではないけれどどこか黒ずんだ曇り空みたいな白色が好きです。黒はできればどこまでも黒くあってほしいなと思います。青と白と黒とを並べたとして、この三色が決して混じりあうことのないくらいには純粋な黒がいい。それこそ、深夜二時の澄んだ夜空みたいな、そんな感じの。

 

 僕が好きな季節は冬です。切なさ、という点とは若干の共通部分があるのかなと思わなくはないですが、冬の冷たさは世界そのものが眠りについているみたいで、その雰囲気がなんだか好きなんですよね。真冬の深夜とか、何かほんとに嘘みたいな寒さなんですけど、だからこそ何よりも本物っぽいというか、誰かと二人で歩くなら真冬の夜の川沿いだな、と僕は思います。夜の沈黙は詩的ですけれど、冬は特にそれが顕著という気がします。あとは、冬の匂いも好きです。いや冬の匂いって何だよ、と訊かれれば答えに窮してしまうわけですけれど、でも、何かあるじゃないですか、そんな感じのあれが。だから、早朝や昼間に冬の街を歩くことも、割と好きです。冬は最高。

 

 まあ、以前にも書いたんですけどね、この話。

 でも、好きな色と好きな季節の話は何度でもしたいなあ、と思ったり思わなかったりする今日この頃です。

 

 

 

*1:出典は『サクラダリセット / 河野裕』です。何巻での話かは忘れてしまいましたが。