歌詞の話

 

 自分が書いた歌詞の裏話をします。こういうの、あまり好きじゃないんですけど、まあでももう書いちゃったし、ブログなら上げてもいいかなと思ったので公開することにしました。以前にも文章のネタばらしみたいなことをやりましたが、それの歌詞バージョンだと思えば、別にそんなに抵抗ないですね(嘘です)。

 

 多分間違いだらけだと思うので、話半分で読んでください。

 

 

スカイブルーナイトメア

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【歌詞】

数年前の夏影 一緒に飛び込んだ星空

見えないふりをした傷 見えなかった涙

 

誰にも触れられたくなくて だけどそれでも知ってほしかった

青に塗れた落書きを 夜明け色の空に 唄う

 

数年ぶりの夏空 通り過ぎていく飛行機が

蝉時雨をかき乱す あの夏のように

 

ずっと其処に在ったはずの 暖かな思い出だって

陽炎のように消えるんだ 解っていたよ

 

いつか触れた君の声は いまじゃとても遠いけれど

僕はそれがただ怖くてさ 空を見上げられなかったんだ

 

そう 僕らは今日も迷いながら いつか見えた星を目指す

指先にそっと触れた白も掴めないよ 僕なんかじゃ

 

ああ あの日の僕らが描いた青空の夢に いつまでも溺れていようよ

 

数年前の夏空 通り過ぎていく飛行機を

不思議そうに眺めていた あの夏の日のこと

 

空っぽだったはずの 二人掛けのベンチにさ

君が座っていたんだ 気付けばずっと

 

いつか触れた君の言葉は いまも此処に置き去りのまま

僕はそれを手放せなくて 空に背を向けていたんだ

 

そう 僕らは今日も迷いながら いつか見えた星を目指す

指先にそっと触れた白は 君と暮れた夏の色さ

 

そう 僕らはいま目を覚ました いつか見えた夏はもう来ない

だって知っていたんだよ 解っていたんだよ 君はきっと消えてしまうんだって

 

ああ あの日の僕らが描いた青空の夢に いつまでも溺れていたかった

ああ あの日の僕らが描いた青空の夢に さよならを

 

スカイブルーナイトメア

 

 

 

【コメント】

 最初に書いたのは一番サビの「そう僕らは…僕なんかじゃ」の件です。

 ここだけはマジで何も考えずに書いていて、何も考えずに書いたというよりは思考のステップを何段かすっ飛ばして出てきたフレーズで、「迷いながら」とか「星」とか「白」とか、自分の好きな言葉がこれでもかと詰まっている辺りにその雑さを感じます。だから「指先に触れた白」って何、みたいなことを訊かれても困るんですよね。知らんがな。

 修飾技法についてはあまり詳しくないのですけれど、ここでの「白」はおそらく換喩と呼ばれる部類のもので、前文の「星」に対応しています。換喩というのは、たとえば「白バイに捕まった」みたいな文章が正しくそれで、こいつは白バイに捕まったんじゃなくて白バイに乗った警察官に捕まったんですよね。でも、いちいち言わなくても伝わるから省く。こういうやつです。歌詞に限らず、何か文章を書くときに僕はこれをよく使います、主に色の描写で。便利だからというよりは、そっちの方が幾分か正しく相手まで届くと思っているので。

 ちなみに「星」は比喩なので、「白」が何なのかは「星」の意味を正しく汲み取れないと多分何も分かりません。というかこの一フレーズ全部が比喩なんですけれど、だからこの曲で言いたかったことの全部がここに詰まっているなあと、個人的には思っています。あとは全部、この部分の補足というかヒントです。

 

 次に決めたのは、たしか曲名でした。

 朝起きて、カーテンを開けて、そしたら空があまりにも綺麗に澄んでいたもので、それで青空にまつわる詞を書きたいと思って、でも先に出ていた歌詞があれだからあまり前向きにもなれなくて、というか別に前向きなことを書きたいわけでもなかったし。青空ってどうしたってポジティブなイメージがあるじゃないですか。だから、どうにかしたかったんですよね。ナイトメアが後ろにくっついているのは、そういう理由です。

 この直後に一番サビの後ろにくっついている「ああ…溺れていようよ」の件を思いつきました。あと、二番サビで繰り返せたら面白いよなあ、みたいなことも考えてはいました、薄々。

 

 次が多分一番Aメロ(「数年ぶり…解っていたよ」)だったと思います。

 この曲で語られているような情景を実体験として持っているわけではないのですけれど、青空から連想されるものとして思いついたのが、夏、公園、公共の時計、一本の樹、ベンチ、飛行機、蝉の鳴き声、その辺りだったので、その辺りの言葉を景色がイメージしやすい順に並べました。まずは季節を書いておいて、最初は空を見ているから次に来るのは飛行機、飛行機の次は音繋がりで蝉、最後にそいつらを全部まとめて思い出で括っています。

「数年ぶりの夏空」はちょっとだけ撞着法っぽい表現になってはいるのかな、と思います。撞着法というのは、たとえば「慇懃無礼」みたいに、真逆の意味の言葉をくっつけて文意を成立させる表現法です。一見すると矛盾しているので読み手の注意を引き付ける効果が期待できます。夏は毎年来るはずなのに、にも関わらずそれを数年ぶりと表現していることにはそれなりの意味があって、という話です。

 

 もうここからはずっと上から順に書いていっています。次は一番Bメロ(「いつか触れた…見上げられなかったんだ」)です。

「いつか触れた君の声」は共感覚法です、多分。共感覚法というのは五感同士での入れ替えを行う修飾技法で、たとえば「うるさい味」とかがこれに当たります、多分。声に触れるってなんだよって感じですけれど、ここでは聴覚を触覚に置き換えています。共感覚法のメリットは、別の感覚器官の言葉を使うことによって、自分のイメージを簡潔に言い表すことができる(ことがある)ということにあると個人的には思っています。ここの「触れた」にしたって、言ってしまえば「聞いた」でも十分に文意は通るのですけれど、「触れる」という言葉には、こう、優しくて柔らかいという風のイメージがあるじゃないですか。あとはなんだ、自発的な感じとか? 共感覚法を使うことで、わざわざ説明しなくとも「君の声」にそういった印象を添加させることができます、多分。まあ実際に書くときには、そんなことは全く考えていないわけですけれど。ドントシンクフィール。

 

二番Aメロ(「数年前の…気づけばずっと」)。

 ここから過去編です。

 歌詞を書くにあたって自分が大事にしていることがいくつかあって、同じような言葉を若干変えながら繰り返していくことがその一つです。歌詞はあまり多くを語れないので、これまでに挙げたような修飾技法だったり何だったりを使って、なるべく効率的に伝えようとするわけですけれど、繰り返しも有効な手法だと思います。聴き手に印象付けることができるので。まあ、狙いすぎはよくありませんが。だから、ところどころ一番Aメロと同じようなフレーズになっているのは、そういう理由です。

 

二番Bメロ(「いつか触れた…背を向けていたんだ」)。

 一番Bメロとの対比をやったりしています。「声」は「遠い」けど、「言葉」は「置き去り」になっている、という構造です。なんか、そういう感覚がありますよね、実際として。昔のことを思い返してみると、誰に何を言われたかは割と思い出せるのに、じゃあその誰かがどんな声色で話していたかということはまるで分からなくて、というか記憶の海を潜ってみたら聴覚的な要素だけが完全に抜け落ちていて、数ヶ月単位で会っていない相手の声なんて簡単には思い出せなかったり、でも言葉は覚えているからそれだけを大事に抱えてていたり、ありませんか? そんな感じのこと。

 

二番サビ前(「そう僕らは今日も…夏の色さ」)。

 ここで「白」の答え合わせみたいなことをやっているつもりです。文字の表面をなぞるだけじゃ到底読み取れないとは思いますけれど、ちゃんと歌詞を読むタイプの人はここで大体解ってくれるんじゃないかなあ、と思ってはいます。

 

二番サビ(「そう僕らはいま…消えてしまうんだって」)。

 ここで曲全体の答え合わせみたいなことをやっているつもりです。伏線回収というかなんというか、「数年ぶりの夏空」とか「青空の夢」とか、もっと言えば「星」も「白」も、じゃあそれは結局何だったんだよってことをここで洗いざらいぶちまけている感じです。

 その答えは言葉にすればたったの一言で片付いてしまうわけですけれど、だけどたった一言では片づけたくなかったから、だからわざわざここまで詞を書いたという、そういう話です。

 

二番サビ後半(「ああ…スカイブルーナイトメア」)

 二番サビの補足をしています。答え合わせの答え合わせみたいな。

 ここまで読んでくれた方には薄らと解ってもらえると思いますけれど、中心にある主張を隠すつもりなんて全くなくて、だからって探してほしいわけでもなくて、でも出来ることなら知ってほしくて、そんなどうにもならないジレンマをそのまま曲にしたという、これはそんな感じのやつでした。まあ、イントロの詞にもそう書いてますしね。

 

イントロ(「数年前の夏空…唄う」)。

 センター現代文でも言われるじゃないですか。筆者の主張って大体の場合は最初と最後にあって、そりゃまあ、普通は書きたいことから書き始めるし、最後はそのことをざっと要約して筆を置くし、なに当たり前のこと言ってんだって感じですが、この曲、実はイントロの詞が最後です。出来上がってみればたったの四行なんですけど、それでも三、四時間くらいかけて書いたのを覚えています。それくらい、この曲で言いたかったことを詰め込んでいます、ここは。

 夏空じゃなくて夏影とか、青空じゃなくて星空とか、そこへ一緒に飛び込んだとか、青に塗れた落書きって何なんだとか、どうして空は夜明け色なのかとか。まあ、いろいろあるんですけど、全体を通して読めばちゃんとわかるような作りにはなっているとは思います、一応。

 

 

 

 

「じゃあね、また明日」

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【歌詞】

青はやがて赤になり 月は夜空を忘れて

誰も消えた気がして 街を不意に見渡した

耳障りな静寂に 微か混じる呼吸の音

見慣れたはずの横顔にも 迷い 戸惑った

 

いつだって 何も見えない でも前を向いて

泣いていたって 仕方ないって 歩いてきたけど

何度 夜を凌げば 楽になれるのかなあ

なんて

 

いくつ交わした 言葉の奥の

本当のことはずっと 言えないままで

「じゃあね、また明日」 いつもの合図に

潜めた息をそっと 手放したんだ

 

君が消えた最初の日 午前二時を彷徨った

信号機は青ばかりで 全部 嘘みたいな

 

いまだって 何も見えない 見ようともしない

解ったふり 知ったふりで どこへも行けずに

何度 夜を重ねた 君にも会えないままでさ

 

いくつ交わした 言葉の奥の

本当のことは何も 知らないままで

「じゃあね、また明日」 いつもの合図に

呑まれた声がいまも そこに在るんだ

 

言葉なら何千何万と憶えたのに

たった一つの扉さえ開けないまま

「僕らは他人同士」なんて解っている

でも 一緒にいたっていい そうだろう?

 

いくつ交わした 言葉の奥の

本当の言葉なんて どうでもいいんだ

じゃあね また明日 いつもの合図で

明日も会える今日を 君がくれたから

 

明日も会える今日に 君と逢えたんだ

 

 

 

【コメント】

 この曲はサビのメロディーだけが最初にあって、次にとりあえず曲全体を二番くらいまでバーッと組み立てて、それから歌詞を考えたという順だったと思います、多分。

 その曲を組み立てている途中で、一番サビの「「じゃあね、また明日」」という部分のメロディーがやたらと頭に引っかかって、ここに詞を当てるなら「じゃあね、またいつか」とかかなあ、とメモを取ったことを覚えています。

 歌詞は思うことを思うままに書けばいいと考えているので、だから詞の方向性なんかを僕はいちいち考えたりしないんですが、この曲もそんな感じで、制作時期に考えていたことがそのまま全部並べられています。こっちはさっきに比べるとかなり素直に書いていると思います、多分。

 

一番Aメロ(「青はやがて…戸惑った」)から順に書きました。

「青はやがて赤になり」はスカイブルーナイトメアのほうでも書いていた換喩です。「青」とか「赤」とか、この時点だと何を言ってるのかさっぱり分からないだろうと思いますけれど、後のほうでわかります。一番の歌詞だけでも、想像力のある人なら分かるのかな。

「月は夜空を忘れて」は月が見えないってことを擬人法チックに言っただけなんですが、それとは別に、いまの時間が夜だということを夜という言葉を使わずに表現したかったという意図があります。「夜」という言葉はもう少し別の意味で使いたかったので。

「誰も不意に…見渡した」はそのままです。真夜中の大通りを歩いていたら、世界そのものが滅んだんじゃないかみたいな錯覚を起こす瞬間があるじゃないですか。あるんです。

「耳障りな静寂」は撞着法です、多分。

「微か混じる…戸惑った」はそのままです。あるよね、こういうこと。こいついま何考えてるんだろ、みたいな。

 

一番Bメロ(「いつだって…なんて」)。

 少し場面が変わりますが、言っていることはそのままです。あるじゃないですか、そんな感じの夜。何で生きてんだ、みたいに感じる夜。こういうときって「夜を越える」と書きそうなもんですけど、いやでも全然越えてませんし。なあなあでやり過ごしてるだけです。

 

一番サビ(「いくつ交わした…手放したんだ」)。

 ここもそのままです。文字通りの意味です。実際にこう、知り合いとかと会ってみたら、まあ話のタネはいくつもあって、それなりに笑ってそれなりに楽しんで、でも肝心なことは何も言えなかったみたいな、そんな感じのことがあるじゃないですか。この時期、正確にはそのちょっと前ですけれど、そういったことを経験する機会が多くて、なんかもやもやしてたのがここに出てきた感じです。

 ここでの「「じゃあね、また明日」」は相手側(君)の言葉ですね。一人称側は「潜めた息を手放した」と言っているので。

 

二番Aメロ(「君が消えた…嘘みたいな」)。

 そのままです。比喩とかじゃなく。人が何かの価値に気づくのはそれを失ったとき、みたいな文言がありますけれど、これは実際その通りで、いなくなって初めて必死で探し回ったんですよ、午前二時。どこにいるんだろうかって色々考えて、そんなの解るわけがないのに。どれだけ歩いても迎える信号機だけは何故か青ばかりで、だからどこへだって行けるのに、でもどこへ行っても見つからない。青ばかりが続くことも含めて、君がいなくなったこと自体が嘘みたいだって、そういう詞です。

 一番Aメロとの対比構造を若干入れています。一番では君が隣にいたけれど、二番ではいなくなって探し回っていることとか。一番では信号機が赤だけど、二番では信号機が青だとか。赤はどこへも行けないのイメージで、青はどこへでも行けるのイメージですね。まあ、それが本当は逆だったんだってことを、二番のサビ辺りで言うんですけど。

 

二番Bメロ(「いまだって…会えないままでさ」)。

 一番Bメロからの繰り返しをところどころでやってます。繰り返し、好きなんですよね、使いやすくて。

「いまだって」は一番Bメロの「いつだって」に対応してるんですけど、いつもそうだしいまもそう、ということが言いたくてこのように書いています。

「何も…ともしない」は一番Bメロとの対比、というか軽い否定になっています。何も見えていないんじゃなくて、自分が見ようとしていなかっただけだったという、ある種の心情の変化を書きたかったんです。

「解ったふり…行けずに」もそのままです。信号機は青だけど、でも、どこへも行けない。

「何度…会えないままでさ」も凡そ文面通りの意味ですけれど、ここでの「会えない」は二番Aメロでの具体的な事態を引き受けて、さらに抽象的な話へと持っていっているつもりです。だって、実際会ってますしね、一番のAメロやサビとかで。

 

 

二番サビ(「いくつ交わした…そこに在るんだ」)。

 ここも一番サビからの繰り返しが多めです。

 一番サビとの対比をやっていて、一番サビでは自分側の話ばかりをしているんですが、ここでは相手側の話をしています。たとえば「いくつ交わした言葉の奥の本当のこと」という言葉は、一番では自分の中にあるものを、二番では相手(君)の中にあるものをそれぞれ指しています。

 一番サビの「手放したんだ」に対して、二番サビで「いまもそこに在るんだ」と唄っていることには意味があります。そのヒントはもうこれまでに書いています。

 

Cメロ(「言葉なら…そうだろう?」)

 こう、あるんですよね、感覚として。小さかった頃に比べるといまの自分は本当に数多くの言葉を知っていて、そのくせ内側に留まった感情を言葉にしようとすると上手くいかなくて、涙を流さずに泣いている人に語り掛ける言葉の一つも見つけられない。言葉ってどこまでも無力だよなあ、という、そういう詞です。

「「僕らは他人同士」」に鍵括弧がついているのは、これが君の言葉だからです。

 

ラスサビ(「いくつ交わした…逢えたんだ」)

「どうでもいいんだ」という詞で心情の変化、というかこれまでのサビの否定を演出しているつもりです。それと、なるべく普段遣いに近い言葉を持ってくるように意識しました。変に気取った表現を使うのは違うな、と思って。扉を開くべきか否かとか、自分の言葉を伝えるべきか否かとか、自分なりに色々と考えてみて、そうして辿りついた結論がこれでした。それ以外、特にありません。

「じゃあね、また明日」に鍵括弧がついていないのは、これが一人称側の台詞だからです。

 最後の二行はもちろん自分がこの曲で伝えたかったことを書いているわけですけれど、簡単に解られても癪なので、「明日も会える今日」という言葉で色んなことを隠しています。別にそんなに難しいことでもありませんけれど。それと、助詞を変えて繰り返すやつをやったりしています。こういう繰り返しの使い方も好きです。

 

 

 

 こんな感じでした。こんな感じでした、という文章を書いている僕と、上の話を書いている僕とではおよそ一週間のズレがあるのでアレなんですが。

 修飾技法の話とか文章構成の話とか色々と書きましたけれど、歌詞を書く上でこんなのは別に必要なくて、というか後からついてくるので、誰かに何かを伝えたいと思うのなら、是非とも自分の深層心理へダイブしてみてください。そこで見つけた言葉こそがなによりも正しくて、たったそれだけが必要なものだと僕は思うので。