手紙

 

 生まれてこの方、手紙なんてろくに書いたことがないんじゃないかな、と思います。そもそも書く動機がありませんし、たとえば正月の年賀状なんかも、貰ったところで困るだけなので誰に欲しいとも言っていませんし、自分がそういう考え方なので出しもしませんし、要するに機会があったところで書かないことに変わりはないということです。これは昔、まだ小学生とかそれくらいの頃の話なんですけれど、年賀状を書くのが嫌で嫌で仕方がなかったんです。言いたいことも伝えたいことも何もないのに、今年一年よろしくお願いしますとさえ微塵も思っていないのに、それでも何かしらを自分の言葉を添えなくてはならなくて、しかもそれが少なくとも数十人分はあるというのがもう既に地獄で、だから、たしか小学四年生の頃には年賀状を書かなくなっていたように思います。以降は来たら返すという姿勢を一応とってはいたのですけれど、まあ当たり前のように誰からも来なくなりましたね、年賀状。面倒の種が一つなくなったので、僕はそれで全く構わないんですが。

 

 文通という行為に若干の憧れがあります。このご時世だからこそということもありますけれど、純然たる好奇心として一度はやってみたいなあと思うんですよね。言葉は自分の想いを何一つも伝えてくれませんけれど、でも言葉でないと伝わらないような何かもきっとあるはずで、というか実際あって、同じように感じている人がもしいるのなら、たとえばそういった誰かと文字のやり取りをしてみるというのは面白そうだなあ、と思うんです。あるじゃないですか、電子書籍でも構わない派と紙の書籍じゃないと認めない派、みたいななのが。僕はどちらかといえば後者の人間なのですけれど、文通ということにも同じような何かを見出していて、いやまあそんなのSNSでいいじゃんと言われればそれまでなのですけれど、それじゃやっぱりだめで、なにがダメって推敲の過程が往々にして存在しないことなんですが、こう、もっとなんか、あるじゃないですか。解ってください、この辺の違い。手書きの文字が読みたいし、手書きの文字を読んでほしいという思いがあるんですよね。就活をしている方とかには鼻で笑われそうですけれど、でも、一対一ならそれくらいいいじゃないですか。

 

 大学に入ってから、自分の言葉を表現する機会がやたらと増えました。レポートもそうだし、一回生のときに参加していたゼミ的なところで毎週書いていた感想文とか、それに二回前期の頃に作ったこのブログとか、もっといえば自分で書き進めている作品だとか、本当に色々。このブログの記事はいつも大体原稿用紙六枚から八枚分ほど書いているんですが、昔からどうでもいいことをだらだらと書くのは割と得意で、読書感想文で苦労したことは多分ありませんし、修学旅行の感想文(うちの高校ではそういう文化があった)を出発前夜の回想だけでギリギリまで埋めて提出したこともあります。大学に入ってからもずっとそんな感じで、提出点の代わりにB5サイズの紙に感想文を書く講義とかでは、馬鹿みたいにペンを走らせたりもして、いやまあ実際馬鹿なんですが、どうせ返事なんて帰ってこないのに、でも思いついたことは全部書き切らないと満足できなくて、結局、全部書いてしまうんですよね。なんか、そういうことだけは無駄に得意です。このブログを読んでくれている方には分かっていただけることかとは思いますけれど。

 

 何かを表現する機会が増えてきて思うことといえば、これも何度か言っていることですけれど、言葉は無力だということです。無力で、そして手に負えない。僕は、それがたとえばTwitterなんかでも、何かしらの発言をするときにはなるべく誤解が生まれないように配慮する、というかちょっとした推敲をするように心がけているのですけれど、それでも多分僕の知らないところで知らない誰かを傷つけているのだろうなあ、という思いがどこかにあります。それとは別に、感情が高揚しているとき、その多くは有体に言えばイラついているときなんですが、そういったときは自分が用意しているフィルターをすっかり忘れてしまうことがあって、しかも高確率で誰かを殴りつけるんですよね、その言葉が、あるいは自分が。冷静になってから後悔するんですが、まあ時すでに遅しって感じで、そうなったら誠心誠意謝罪するしかないわけですけれど、そんなことを本当に何度も何度も繰り返していて、手に負えないというのはそういうことです。

 これは本当にただの余談ですけれど、最近Twitterで『誰も傷つけない表現』ってワードが流行ってるじゃないですか。あれに関してはマジでどうでもいいなと思っていたりします。誰も傷つけずに何かを発信するのは不可能だし、それにたとえばそれが小説なんだとすれば、誰も傷つけない小説なんてものは凡そ無意味だと思うんですよね。泣きたくなる瞬間ってあるじゃないですか。本を読んでいて、たとえば物語のクライマックスとか、何もかもが終わりに向かって走り始める瞬間、あるいはすべてが終息を迎えた瞬間。アニメでもドラマでも映画でも音楽でも、何でもいいです。そういった、ありきたりな言葉でいえば感動らしい感動って、自分の心を傷つけられているのと全く変わらないと僕は思っていて、自分の内側が深く抉られているからこそ、悲しくもないのに泣きたくなるんじゃないかなあ、と考えている節があります。だから、そういった側面に限っていえば『誰も傷つかない表現』というのは、まるで無意味だなあ、と思います。あくまで、そういった側面に限っていえば、の話ですが。

 

 最近、手紙というほどの分量でもないのですけれど、ある人へ言葉を贈る機会がありました。というのは正しくなくて、僕はまだその人に贈る言葉を何も見つけられていなくて、いまも必死に探している途中で、もうじきにタイムリミットがやってきてしまうのですが、ともかくそういう機会がありました。白紙の紙を前に置いて、何時間も考えて、でもやっぱり何も見つからなくて、こうやって一年近くも文章を書き続けてきたのに、そのくせ肝心なことはずっと苦手なままで、何だかなあ、という気持ちです。僕とその人は言ってしまえばただの他人で、僕は彼のことを何も知らないし、彼は僕のことを何も知らないし、少しばかりを一緒に過ごしていただけの、本当にそれだけの関係なのですけれど、それを他人だと割り切ってしまえたのならこんなにも苦労するなんてことはなくて、他人だけど、やっぱり関係を持ってしまった以上は他人事だと思えなくて、だからずっと考えています。何を言うべきなんだろうか。そもそも何かを言うべきなのか。どうせ彼はこの手紙を読まないと思う。もし読んだとして、自分に何が伝えられるとも思わない。多分何も伝わらない。それでも何かが書きたくて、でも何も書けなくて、そんなこんなでここ二週間くらいはずっと右往左往って感じです。彼は夢を諦めたんです、きっと。諦めた、というのは正しくなくて、もしかしたらちょっと躓いただけなのかもしれない。何かに躓いて、転んで、起き上がれなくて、ずっとそのままで横になっているだけ。あるいは、僕の心配なんて素知らぬ顔で元気に生きているかもしれない。それならそれでいいけれど、でも、多分そうじゃないと思う、これは勝手な推測だけれど。そうやって何かを捨てて、諦めて、もしかしたら泣いているかもしれない誰かにかけるべき言葉って、いったい何があるんでしょう? そのことをずっと考えています。なまじ僕は一応夢が叶った側として立っている人間なので、そんな奴が何を言っても、という気さえしてくるんですよね。無責任な言葉ならいくつも思いつきます。他人事みたいな励ましも、嘘みたいな綺麗事も。恐らくこんなことで悩むのはおおよそ馬鹿のすることで、本当にただの他人なのだから当たり障りのない言葉を適当に並べて、それで終わりにすればいいんですよね。それで終わりにしてもいい。でも、嫌なんですよ。何というか、そんな風に見捨てるのが。それだったら、何も言わずにいたほうがずっといいとさえ思います。だけど、書かなきゃいけないんですよね、僕は、その空白に、自分の言葉を。到底見つけられる気がしません、正直。何を書いても彼を深く傷つけるんじゃないかと思います。本当の言葉を伝えたいという気持ちがあって、でもそれは自分のエゴじゃないのかという気持ちもあって、昨日も寝る前に布団の中で少し考えて、気づいたら朝になっていて、いまもこうして断続的に考えていて、でもそれもあと数日でどうしようもなく終わりが来て、そのとき自分はどんなことを書くんだろうな、と思います。できることなら、たったの一文でも納得のいく言葉を書きたいものですけれど、まあ無理だろうな。