いや、ごめん、マジで。

 

 お前のここが嫌いだ、と真正面から言ってくれる人がいるのなら、それはきっととても幸せなことなんだと思うんですよね。だって、普通はいちいち言わないでしょ、そんなこと。なあなあで済ませてればいいんですよね。黙ってりゃいい。時は何も解決してはくれないけれど、でもどんなに嫌なことでもある程度なら忘れさせてくれるんです。それを待てばいいだけの話で、だって、そもそも別に関係なくないですか、そいつがどんな奴かなんて。もしもの話、そいつが救いようのない人間だったとして、たとえば道行く人々に平気な顔で罵詈雑言を投げかけるような人間だったとして、それが一体何だっていうんですかね。嫌ならさっさと離れればいいじゃないですか。離れることが難しいのなら目を閉じればいい。耳を塞げばいい。何も見ない。何も聞かない。それでいいんじゃないですかね。好きな部分は最大限受け入れて、嫌いな部分は最大限許して、許しあって、許しあったフリをして、そうしていつしか忘れて、そうやってだらだらと何となく生きていけばいいと思います。いや、悪くないと思うんですよ、そういうのも。というか、これまでのほとんどすべてがそんな付き合いばかりですもんね。思い出してもみてくださいよ、高校生の頃とか、そりゃもう空虚な人間関係ばかりを、人間関係と形容することすら憚られる何かばかりを築いてきたでしょう。たとえば自分が好きなものなんて、きっと校内の誰一人も知らない。一方の自分も、クラスメイト誰か一人の好きなもの一つさえ満足に挙げられない。そういう関係だったじゃないですか、たしか。それで満足する人もそれなりの数いるんでしょうし、そのことを否定するつもりは毛頭ないんですけれども、でも自分はどうやらそうじゃないらしいということには、もうとっくの昔に気がついていたわけで、目を閉じたまま、耳を塞いだまま、そのままで歩いて行けるほど器用じゃないんですよね、残念ながら。そもそも、関係なくなんかないんです。そこにそいつがいて自分がいるんだったら、それだけでもう少なからず関係があると思いませんか。自分の世界でそいつが呼吸をしてるんですよ。それを無視しろと言われましても、そんな、授業参観のキャベツじゃあるまいし、土台無理な話でしょう。そういうことです、アーユーオーケー?

 

 はい。

 

 お前のここが嫌い、というか、何ていうんですかね、いま思うとこいつめちゃくちゃヤベえこと言ってんな、と思うことが少なからずあるでしょう、自分に対して。え、ない? ないんですか。なるほど、なるほど。それはまあなんというか、幸せそうですね、それはそれで。おめでとうございます。

 あるでしょう、あってくれ、頼むから。

 僕らは馬鹿なんです。そんなに頭の良い存在ではない。一日の間にそれはもうほとんど無数といえるほどに膨大な数の選択肢を無意識のうちに選んでいて、きっとそのうちの九割以上は間違えてるんですよ。あるいは、全部間違えているかもしれない。少なくとも、間違えているもののほうが圧倒的に多いことには違いない。間違えまくってるんですよ、常日頃から。自分が犯した失敗なんてそんなに覚えてないかもしれませんけれど、それは覚えていないだけです。人体には忘却という優秀な機能が備わっていますからね。

 平気で間違えるんですよ。後から冷静になって考え直してみたら、いやそれはねえよ、という言動をしていたなんてこと、よくあるでしょう。読んでくれている人に向かって言ってばかりだとあまりにも申し訳がないので、少しくらいは自分の話をしましょうか。そうですね、最近の出来事で言えば、大学の知人が二十歳の誕生日を迎えたときに、それはもう一人でお通夜みたいなムードを醸し出していたということがありました。お通夜というよりはむしろ、自分の葬式を遠巻きに眺める幽霊みたいな、そんな感じのテンションでしたね、たしか。葬式に呼ばれて行ってみたら自分の葬式をやっていたみたいな。とんねるずかよ。何なんだあいつ、いやマジで。まあその理由はたった一つで、僕らの隣に居座っていたグループがあまりにも耳障りだったからなんですけど、ホントあれさ、飲み会会場の設計として終わってると思う、某貴族。飲み会なんて騒がしくなるに決まってんだから、部屋を分けろとまでは言わないけれど、せめて壁くらい作ってほしいよな、ほんとにな。あの手の店にそれを求めるのは無茶だってわかってるから冗談だけどさ、内部の構造を知ってたらさすがに行かなかったと思う。いや、だからって、それがお通夜ムードでいていい理由にはならないんですよね、わかりますか。誕生日だぜ、しかも二十歳の。一年に一回しかない日なんだぜ。お前にとっては何でもない一日でも、あいつにとっては特別な日かもしれないだろうが。いや、だからさ、祝えよ。なあ、お前さ、なに一人で葬式やってんだよ。逆だろうが。まるっきりあべこべだろうが。お前が向かうべきは産婦人科であって、葬式会場じゃねえだろ、わかってんのか。とまあ、布団の中へ潜り込んだ頃にようやっとそんな感じで思い直して、本人へ誕生日祝いと謝罪の連絡を入れましたけれど、いやもうホントに、取り返しがつかなくなってからじゃ遅いんだぜ、マジで、反省しろよ。反省してる。ほんとにごめん、ぴかつーりょー。

 

 お前のここが嫌い、と言ってくれる人なんて、まあそんなにいないんですよね。そりゃ当たり前で、面倒だからです。正しくは、面倒になることが目に見えているからです。それに多分、そんなに親しい間柄でもないんだと思います。二年ちょっと一緒にいるからって、それがだから何なんだよという話で、好きな色の一つも知らない相手の嫌いな部分をわざわざ指摘しようなんて、まあ普通思わないでしょう。よほど無神経な人間か、あるいは僧侶的なサムシングではない限り。だからこそ、逆に言えば、お前のここが嫌い、という風のことを言われたという記憶は強く残るわけですよね。言われた瞬間は、割とカチンときますよ。それか、めちゃくちゃ落ち込む。そのどっちかで、ここしばらくは後者のほうが多い気はする、昔はイラっとすることも結構ありました。お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな、と有名なコラ画像ばりの冷ややかな態度で大体はやり過ごしてきたのですが、大体の場合、しばらくするとめちゃくちゃ後悔し始めて、まあ謝ったり謝らなかったりをするわけなんですが、自分の中で明確になっている指針の一つとして、そういった言葉たちがあるように思うんですよね。冷たい言葉の刃で抉られた傷って、まあ人類の忘却機能によってある程度は治癒されるんですが、完治とまではいかないんですよね、感覚として。痛まなくなるというだけで、傷痕そのものはずっと残っている。その傷跡が目印になるんですよね、なんというか、今後の行動の。先ほどの飲み会の件ですけれど、あれ実は同じような過ちを以前にも犯していて、それはあいつにだけ伝わればいいので敢えてぼかして書くと充電器の件なんですが、あのときはたしか謝るまでに結構な時間を要してしまって、というか謝るという発想に至ること自体に時間をかけてしまって、まあなんというか、人はかくも愚かという感じですけれど、だからって、お~成長してる~すげ~やるじゃん! という話では全く皆目露ほどもなくて、同じ失敗を何度もするなよ、という話なんですけれども、いや、ごめんって、マジで反省してる、本当に。

 

 僕は他人のことを鏡だと思っていますけれど、これもまあ理由があって、言われたことがあるんですよね。僕の言動を指して「でも、それってお前の嫌いな奴がやってることと何も変わらんくない?」みたいなことを、まあそれを言ってきたのは彼なんですが。言われた直後は「いや、そんなことなくね?」つって反論したんですが、今にして思い返せばまあその通りで、まったくのド正論でしたね、悲しいことに。この考え方が確立したのは一回生のときに心理学めいた何かしらを齧っていた頃なんですが、根元にあるのは恐らく彼に言われたこの言葉で、それがいまの自分が持っている数少ない羅針盤のうちの一つになっていたりします。学部一回生の頃はこれが本当に辛かったんですけどね、いまは周りに良い人ばかりなのでそうでもないです。

 

 自分のダメな部分を指摘してくれる人がいるなら、そういう人のことは大切にしたほうがいいと思います、個人的には。自分が間違っていることなんてそりゃ認めたくないだろうし、というか俺だって嫌だよ、嫌に決まってるじゃんか、それは流石にさ。ここで、いや、俺はどんなに尖った批判批評とも真摯に正面から向き合うよ、なんてことを平然と言うやつがいたら、いくら温厚な僕でも殴りますよ。グーで、思い切り。冗談です。温厚ってのも冗談です。それはさておき、でも、それでも、そういう言葉ともし出会うことができたのなら、どれだけの時間をかけてでもきちんと向き合ったほうがいいのだろうな、と思います。自分の過ちを正してくれる誰かが近くにいる。それは本当に幸せなことなんですよね。全然当たり前じゃない。大切にしたほうがいい。これは自戒でもあります。

 

 なんでこんな記事を書こうと思ったかって、遠い昔の知り合いにそういう奴がいるからなんですよね。先生に叱ってもらいたくて悪行を繰り返す小学生みたいな、そんな感じの奴が。別に注意する気なんて全くないし、する義理もないし、やったところで無意味なのが目に見えているし、変にキレられるのも嫌だし、そもそもそこまで関わりたい相手でもないし、だからまあ放置するんですけど、なんかいい加減関係を保っている必要性も感じられなくなってきて、どうでもいいんじゃねえかなあ、と思い始めた辺りです。嫌なら目を塞げばいいのにね、ホントに。

 こう、自分がそう思う立場になって初めて、これまでに自分の過ちを指摘してくれた人たちの勇気がいかに偉大かということを思い知りました。何だかんだ言って、単に怖いだけなんですよね、相手の領域へ踏み込むことが。好きを伝えることも十分に怖いけれど、嫌いを伝えるのはもっと怖い。自分みたいなやつにその勇気を向けてくれた人たちのことを、目を塞がずにいてくれた人たちのことを、恩返しというわけでもないけれど、だけど、何よりも大切にしていかなきゃいけないんだよなという、たったそれだけの話です。まあ、当の本人達は案外何も考えてなかったりするのかもしれませんけれど、僕から見ればそれは紛うことなく勇気なので、だからどうだっていいんですよね。