誰だって、何だっていい。

 

 何度でも同じ話をします。

 

 困っている人がいたら手を差し伸べるべきなんだろうと思います。正しさとか優しさとか善やら偽善やら云々を考えるよりも前に、立ち止まって声をかけるべきなんだろうと思います。嘘だらけの社会に生きている僕らは、自分の心に嘘をつくことさえ無意識のうちにこなせる作りになっていて、そのせいで周りの誰からも気づいてもらえなくて、自分でも気づけなくて、もうたった一歩も歩けそうにないのにそれでも声を出せなくて、心臓に爪を立てること以外に何もできなくなって、だから、そうやって塞ぎ込んでいる人がやっとの思いで零した涙を視界の隅にでも見つけられたのなら、すぐにでも駆け寄って手を差し伸べるべきなんだろうと思います。きっとそれくらいのことはできるはずです。

 

 駆け寄って、手を差し伸べて、じゃあそれから先は?

 

 安易な同調を与えればいいのか。ああ、分かるよ、辛いよな。大変だよな。何もかもやめたくなるよな。俺だって同じだ。自分のことが嫌で嫌で仕方がなくなる時がある。きっと誰も彼もそんなもんだよ。みんな、人に言えないような苦しみや悲しみを抱えながら、それでも必死に生きてるんだ。君だっていつかは一人で立ち上がることができるよ。だから、いまはゆっくりと休むといい。そうやって当たり障りのない言葉で傷を洗ってやればいいのか? そんなわけがない。そんなもの、きっと誰も求めていない。俺だって、そんなものは要らない。じゃあ何だ。何が答えなんだ? どうすればいい。考えろよ。考えろ。でも、いくら考えたって何もわからない。何も見つからない。これまでに一度だって誰かを助けたことなんてないんだ、分かるわけがないだろ。どの選択肢を選んだところで、絶対に失敗するとしか思えない。手を差し伸べる以上のことなんて何もできない。そもそもの話、たかが一学生にできることなんて何もない。莫大な資金があるわけでもないし、底抜けの優しさがあるわけでもない。他人の悲しみまでは、いくら何でも抱えていられない。自分は特別じゃない。何の力もない。何もできない。じゃあ何もしない? 見捨てるか? ああ、でも、それが他の何よりも正解に近いような気がするな。何かを選んで失敗するよりも、何も選ばずに失敗するほうがいいに決まっている。余計な責任なんて背負いたくない。だけど、それは他の何よりも正解にほど遠い選択肢だって、心の奥のもっと奥では解ってるはずなんだ。泣いている人を無視するなんてことが正しいはずがない。正しくあっていいはずがない。そんな正しさを認めちゃいけない。だから、じゃあ、どうしろっていうんだ。何もできないくせに誰かを助けたいなんて、それはあまりにも無責任だろう。それはお前が一番嫌いな無責任な希望じゃないのか。いや、解ってるんだって、だから、そんなことは。無責任なのは解ってる。でも、じゃあ、誰が彼を、彼女を助けるんだ? あの人はあんなにも泣いていたのに、全員が全員、それを他人事だと無視するなら、あの涙は、勇気は、いったい何のために生まれてきたんだ? 知らないよ、そんなの。答えを見つけられないなら考えるな。考えるのが嫌なら、ずっと目を閉じていろよ。何も見なきゃいい。涙だろうがナイフだろうが、自分に見えないのならそれはそもそも存在していないのと同義だ。泣いている人を見たくないのなら、そうやって目を閉じて生きていけばいい。その方が楽になるぜ。それくらい解ってるだろ。ああ、だから、違うんだ。そんな話をしたいわけじゃない。目を閉じて生きていくなんて不可能だ。涙を拭うことだって、もしかしたら同じくらいに不可能なのかもしれない。どっちも不可能なことなのだとしたら、より多くの人が幸福になれるほうを目指したほうがいい。それだけの話だ。それだけの話なんだ。

 

 何の接点もない、何年かフォローフォロワーの関係にあっただけの人が、それでも涙を零しているのを見ました。何かをしたいと思って、だけど何もできないと思って、結局、何もしませんでした。無責任な希望が何よりも残酷で、何よりもその人を傷つける。シャワーを浴びながら、そんなことを考えました。でも、こんなのは言い訳です。怖かっただけです、踏み込むことが、関わってしまうことが、無関係ではいられなくなることが。自分が関わったことで、何かが決定的に、取り返しのつかないくらいに変化してしまうことが怖かっただけです。ほとんど他人の自分にできることなんて何もない。言葉すら、きっと三つも掛けられない。そうと解っていても踏み込める人はきっとどこかにいるのでしょう。あるいは、何も考えずに踏み込んでしまう人も。そんな人たちはとても勇敢だと思います。でも、僕には無理です。ごめんなさい。

 高校時代に何度か会ったことのある人が結構なうつ病を患っているということも、ついさっき、同じようなタイミングで知りました。その傾向があることはTwitter上での本人の発言から、何となく察してはいました。でも、そこまで酷い状態になっているとは考えませんでした。これも言い訳で、考えようとしなかった、が正しいです。察していたどころか、本当は解っていたことなので。彼女のブログでは現状へ至るまでの経緯が少しだけ書かれていて、そのうちのいくつが事実なのかは僕には判断できませんが、読んでいるだけでも嫌になるようなことだらけでした。そのどれもが自分と知り合って以降のことで、それが何だか悔しくて、少しくらい自分にだって何かができたんじゃないかな、と考えながらこの記事を書き始めました。いや、でも、どうせ何もできないんですよ。僕がそこにいようがいまいが、結果は多分いまと何も変わらなくて、だからこんなのは全くの無意味で、だけど、どうせ意味のないことなら少しでも自分が正しいと思うものを選んだほうが、きっといい。これはただの自己満足です、ちゃんと解ってます。それでも、そう願ってしまうんですよね。大した勇気もないくせに。こんな文章を長々と書くくらいなら、その人にたった一言でもメッセージを送ればいいのに、それをしない。できないじゃなくて、しない。勇気がない。他人の世界に踏み込むのは、やっぱり怖い。誰にも理解されないことの冷たさを知っているのに、それなのに最後は他人よりも自分ばかりを優先する。そんな自分のことが嫌いです。いつまで経っても口ばかりで、何一つもしようとしない自分のことが本当に大嫌いです。

 

 解ってるんですよ。誰からも無視されるくらいなら、たとえ真っ赤な嘘でも救われたほうがいい。それが本当の希望でなくとも、他の誰から見ても安っぽく映る言葉でも、ないよりはあったほうが絶対に良い。根本的な解決なんて何もできなくても、それは涙から目を背けることの言い訳にはならない。解ってるんです。でも、それでも、怖い。怖いんです。

 

 音楽でも芸術でも宗教でもなんでもいいから、彼らを救ってあげてほしい。自分にはできないことだから、代わりの誰かが、何かがその役目を果たしてほしい。

 何だっていい。本当に、何だっていいからさ。涙を拭うだけのことなんて、そんなに難しいことじゃないだろ。なあ。