月、曲がり角、同じ空。

 

 つい数時間前の話です。JK*1から出てすぐに、それまで一緒に晩御飯を食べていた相手に促されるままに空を見上げました。大きな月が綺麗に見える――たしか彼はそんなことを言ったように思います。でも、僕の立っている場所からは月明かりの一欠片さえも見つけることができませんでした。月は何処へ? 辺りをくるくると見回す僕に向かって彼は、多分、そこからじゃ見えないよ、と言いました。どういうことだろうと思いつつ歩をわずかに北へ進めると、店の正面にあった三階建てほどのビルの向こう側に綺麗な球体が見えました。なるほど、建物の陰に隠れていたのか。そんなことを考えました。

 それからしばらくは月について話しました。山の頂上に差しかかっている頃は大きく見えるのに空へ昇ってしまうと案外小さく見えるとか、それでもやっぱり今夜の月は特段大きいだとか、大きいと言ってもビー玉くらいのサイズだとか、それはそうと月面の模様は兎の餅つきに到底見えないだとか、そんな感じのことをだらだらと話していました。

 ところで、竹取物語という作品があるでしょう。僕は所謂名作だとか有名作品だとか、そういった類のものに全く触れずに育ってきた人間ですが、しかし竹取物語くらいは流石の僕でも知っています。流石にね。適当に要約すると、その辺に生えてた竹の中にいた小さな女の子が、成長して故郷である月へ帰るという作品です。最近、思うんですよね。この話は色んな人にしたことがあるような気がしますけれど、昔の人って月をいったい何物だと捉えていたのでしょう? いや、星も、雲も、太陽も、空でさえ、自分たちの頭上に漠然と漂う謎の存在を、彼らはどういう風に見ていたんでしょうね? 僕らは月の正体を理解しているじゃないですか。写真を見たことがあって、球体であることを知っていて、人類が着陸したという事実を習う。それはもはや未知の概念ではないわけですよ。月面がどんな物質で構成されているかとか、重力加速度は地球の何倍かとか、形成されてから何億年が経過したかとか、平均温度は如何ほどかとか、海の名前とか、そんなことは何一つとして知らなかったとしても、僕らは月を既知の対象として捉えてしまうわけです。こんなに面白くないことはありません。

 たまに想像することがあります。想像というよりは夢想に近いことですけれど、昔の人はきっと今以上に楽しい世界に生きていたんじゃないかなあ、と思うのです。そりゃまあ年貢だとか階級制度だとか戦争だとか、そういうことはありますけれど、それはさておきです。空を見上げれば太陽があって、月があって、雲があって、星がある。太陽は酷く眩しい。月は明るい。雲は雨粒を落とし、稀に雷を落とす。星はずっと輝いていて、一向に降ってはこない。それが何なのかは何も解らない。だけど、自分の両目にはたしかにそれが映っていて、つまりはそこに存在している。空が赤くなるにつれて太陽が昇り、真上を過ぎる頃には上空を嘘みたいな青が覆う。やがて空は再び朱に染まり、黒へと沈む。すると今度は薄黄色の球体と無数の星々が天を埋め尽くす。あれは一体何なのだ? 何も解らない。何も解らないけれど、でも、きっと何よりも綺麗だ。その憧憬だけが確かなものとして胸の中にある。そんな感じだったんでしょうか。羨ましいです、正直。その炎こそが何よりも綺麗です。

 魔法はない。魔女はいない。錬金術はない。龍はいない。ペガサスはいない。幽霊はいない。永久機関は存在しない。不老不死はあり得ない。神話も伝説もただの創作。林檎が落ちるのは重力のせいだ。風が吹く理由は、たとえば気圧の差があるから。雷の正体は雲の内部にある氷の微粒子の衝突によって蓄えられた静電気。地球には果てがなく、その実、ただの球体だ。空の色が変わるのは太陽の位置によって太陽光の散乱具合が変化するからであって、実際に空という物体があるわけじゃない。真夜中の空は宇宙の色だ。そこにいつでも輝く星の光は、しかし何億年も前に生まれたものだ。それに、どんな惑星もいずれは滅ぶ。永遠なんてやっぱりどこにもない。

 どれも小学生の頃には知っていたことです。それらの事実を手に入れた瞬間に当時の自分が何を思ったのか、本当に何一つも覚えていません。だから、いまの自分からすれば、気がついたときには知識として持っていた、としか言えません。昔の僕はそれを望んだのでしょうけれど、覚えていないものは覚えていないのです。

 昔の人からしたら、夜空の遥か向こうにぽつんと浮かんだ完璧な円は、自分たちの世界とは切り離された、全く異質な何かに見えていたんじゃないかと思うのです。本当はそれが球体であることを知らない彼らにとっては、月面なんて概念さえもない。誰かによって刻まれた模様のように、ただ漠然と昇っては沈むことを繰り返す黄色の美しさに、神の世界との接続を見出しても何ら不思議ではないように思います。その世界は現代を生きる僕には決して届くことのない空想です。たったそれだけの事実が、ただ純粋に哀しいんですよね。そして羨ましい。僕なんかが見上げている空よりもずっと綺麗で透き通った色をした空が、数百年か数千年前の地球上には無数にあったに違いないんです。

 

 

 話は変わります。小さい頃から不思議に思っていることがあって、それは座右の銘ってやつなんですよね。あれ、よく分からなかったんですよ。他人の言葉にせよ自分の言葉にせよ、自分自身を端的に表す言葉なんてそうそう見つかるわけがないじゃないですか。いや、まあ、他人の言葉から探そうとしている時点で何かを履き違えているんですけど。多分、そういうのは自分を曲がりなりにも自己解釈することのできた人間だけが手に入れられる称号であって、だから、少なくとも中学生や高校生に求めるようなものでは到底ないだろう、と僕は思います。中高の頃ってそういう謎の風潮があったじゃないですか。それがよく分からなかったんですよね。何者かになりたいという心象の現れなんでしょうか。知りませんけれど。

 別に探していたわけじゃないんですよ。というか座右の銘って概念が割合好きではなくて、それは僕の名言嫌いを知っている方であれば納得してもらえる事実だろうと思いますけれど、ともかくそういうのに憧れていたということはなくて、だけど、あれなんですよね。僕が物語シリーズに心酔していることは周知の事実として、そこに出てくる羽川翼さんみたいなのにはちょっと憧れがありました。憧れというか、あれくらい端的に何かを表せる言葉をいつか見つけられたらいいな、という気持ちがありました。あれです、「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」という有名な台詞です*2。僕は現実世界を生きている人間なので、そんな小説の中のキャラクターみたいな台詞は言えませんけれど、でも、なんか、そんな感じのやつがあればいいなあ、とは思ってたんですよね。漠然と。

 結論から言えば、ちょくちょくブログで書いている話の中に出てくる彼女が、いつの間にか見つけてくれていました。

kazuha1221.hatenablog.com

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 このフレーズ、書いたときには本当に何も考えていなくて、でも後々考えてみると、これほど自分の考えを簡潔に表した言葉もないなと思いました。ところで、僕がこれまでに書いた文章のうち二つ目が「曲がり角のその先に」*3という記事だったのですけれど、いくつもの記事を書いてきて、でも結局考えていることは何一つも変わっていないんですよね。曲がり角の先には何があるか? これもまた大して思考せず思いのままに書いたわけですけれど、しかし余計なことを考えなかったからこそ自分の底にあるものをパッと取ってこられたのかもなあ、とも思います。考え過ぎは良くない(白紙の原稿を眺めながら)。

 そういうわけで、僕の掲げる旗は「同じ空を見ているわけじゃない」です。それを公言することになんて何の意味もないのですけれど、そういう言葉と知らずのうちに出会えていたのだという事実がちょっとだけ嬉しくて、それを発信するためだけにこの記事を書きました。疲れた。

 

 

 

*1:大学周辺にある飲食店

*2:第一巻である「化物語(上)」のp.13で既に登場している。

*3:

曲がり角のその先に - 910production アドベントカレンダー用ブログ