寂しい。

 

 めちゃくちゃエモーショナルな気分になっているので、思いのままに文章を書こうと思います。ちょっとした昔話をします。興味のない人はブラウザバックしてください。

 

 最近、僕の家へよく来てくれる人は薄々気付いている事かとは思われますが、僕は歌を唄うのがとても好きだったりします。いや、分かりません。好き、なんだと思います、多分、恐らく。まあ他の人が現実問題どんなもんなのかということをまるで知らないので、いや、知りたいとも思いませんけれど、だから何も言えないんですよね。僕なんかよりも音楽と真摯に向き合っている人間なんてこの世界にごまんといるに違いないわけで、身の回りにしたってきっとそうでしょう。実際、僕は合唱部だとかカラオケ同好会だとかに入ったことは一度としてありませんし、入ろうと思ったことも全くありませんし、歌手になりたいと願ったことも記憶の限りではありません。それでも、唄うことが好きなんですよね。好き、というか何というか、歌を唄っている様子が一番自分に合っているような気がするんです。気がするだけですし、歌が上手いわけでも何でもないんですけど。思い返せば、いつもなんか唄ってんなという感じがします。夜寝れない時とか、文字を書いている最中とか、街を歩いているときも声にこそ出しませんけれど頭の中で、これを書いているいまも。昔からそうですね。本当にすぐ手元にあったものだから、今の今まで気づきませんでした。

 

 昔、漫画を描いていました。本当に遠い昔の話です。小学三年生とか、ひょっとするとそれよりも昔の話。もうほとんど覚えてません。色んなことを描いていたように思います。いまとなってはとてもじゃないけれど吐き出せやしないような幼稚な理想ばかりを白紙の自由帳に書き殴って、そのくせ自分以外の誰にも見せずに、でも本当は誰かに見て欲しくて、ずっとそんな風に過ごしていました。懐かしい。同級生のやつらは昼休みになるとグラウンドへ出ていくんですよね。そして、休み時間の終了を告げるベルが鳴り終える頃に教室の扉を開けて席へ戻ってくる。別に引きこもっていたわけじゃないですよ。仲の良い奴だって今よりはずっと数が居ましたし、時々は一緒になってドッヂボールをやったりもしました。まあ、あれは身体が痛いんで心底嫌いでしたけど、キックベースとかは好きでした。でもやっぱり基本的にはインナー志向というか、同じような奴ら数人と教室で話しているのが日常でした。あの頃、何やってたんだろ。マジで思い出せないな。

 

 漫画を描いていたんですよ。俺より絵が上手い奴なんて、あの狭い小学校の中にもいくらだっていましたけれど、そんなことはほとんど関係が無くて、当時の僕は別に絵が上手くなりたかったわけではなかったので。それはきっと彼らも同じことでしょうけれど。なんかふと思い出したんですよね、ついさっき。漫画って言ったっていくらか種類があるでしょう。方向性というか、なんかそんな感じのアレが。俺ってどんな話を書いてたんだろう、と思い返してみました。本当にもうほとんど何も覚えてないんですよ。一つの作品を書き切るほどの胆力はもちろんなくて、書き始めては途中で投げて、書き始めては途中で投げて、そんなことを繰り返していたもんだから、流石に全部は思い出せません(よくそんなにも書きたいことがあったな、といまは思う)。それでも、いくつかは覚えてるんですよ。それは最後まで書き切ったとかそういうアレでは全くなくて、というか僕が本当に納得できるラインまで書き切った作品なんて中学時代の小説でも多分五作くらいしかなくて、漫画はその実一つもなくて、だから特別なことはなかったと思います。書き出しを覚えているんですよね。書き出し、一ページ目、プロローグ、言葉は何でもいいです。まあ先述の通り、書いては投げることを繰り返していたので、最初の方しか記憶にないのは当たり前なんですけど。記憶の中のそいつらは決まって、あるシーンから始まるんですよね。シーンというか、演出というか、それって何だと思います? 分かりますか?

 

 多分、相当に歌が好きだったんでしょうね。人前で唄うことはあまりなかった、というか小学生の頃にちょっとしたアレがあって、そのせいか誰かの前で唄うことが怖くなってたんですけど、だから最近になって誰かがいる空間でも普通に唄えるようになっている自分にちょっと驚いています。こっちが素の自分です。ボーカロイドというやつがあるじゃないですか。あれを知ったのは中学生のときで、まあ本当のことを言うと小学生の頃から名前自体は知っていたんですけれど、でも本格的に触れたのは中学の頃で、あのときに作曲という概念の存在を知ったんですよね。いや、まあ、考えれば当たり前なんですよ。誰かが絵を描くことで漫画やアニメが生まれるように、誰かが文字を綴ることで物語が生まれるように、曲だって誰かが作ってるわけです。本当に当たり前のこと。でも、それだけは自分の周りから遠く離れた場所にあるような気がしていて、実際にそうで、だから思いつきもしなくて、それがボーカロイドを知ったことで作曲という概念を物凄く身近に感じるようになったんですよね。人との出会いに恵まれたこともあって、高校へ入ってから作曲を始めるようになって、その頃からずっと歌モノを作りたいなあと考えていて、でも技術もお金もなくて、だからその時々の自分が出来る事だけをやっていました。それはそれで楽しくて、そんなことが続いていまの自分がいるんだなあと思いました。

 

 まとまんねえな。思いついたままに書いてるんで、要点が掴めない文章になっている気がひしひしとします。申し訳ない。誤字とかも大量にありそう。

 

 漫画を描くときのお決まりの話です。もう大体の人は分かってるんじゃないかなあと思います。書き始め、一ページ目、プロローグ。そこに何が来るか。決まってるんですよね、そんなことは。当時の僕からすればそこにそれが描かれるのは当たり前で、ごく自然で、むしろ逆で、きっとそれこそが本当に描きたくて、そりゃ勿論描きたい話は他にもあっただろうけれど、でもそれが大本命で、ピークで、絶頂で、自分の認識世界を彩るそれを自分の色で表現したかっただけなんだろうと思います。だから、書いては投げて、書いては投げて、それでもよかったんでしょうね。一ページ目を描いた時点で完結しているので。逆に、最後まで書き切った小説たちは、それだけ書きたいことがあったということなんでしょうけれど。それはともかく一ページ目の話です。物語の始まりを告げる最初の一ページに何を持ってくるか。いや、決まっているじゃないですか、そんなことは。オープニングムービーですよ。それからの展開を示唆するような映像を背景に一分半ほどの主題歌が流れて、それはアニメーションではお決まりでしょう? 僕らはその音の運びに、映像の動きに、歌詞の並びに、心を躍らせて次の瞬間を待ち望むわけじゃないですか。だから、僕の描いた漫画はいつもそのシーンから始まっていました。何でもいいから歌詞を書いて、それに合う絵を描いて、架空でも実在でも、そこに並べられた詞が想起させる世界を紙の上に描き出すことが好きだったんです、多分。

 

 忘れていくんですよね。色んな事を忘れていっている。そんなことを先日の講義中にずっと考えていました。楽しかったことはもちろん、嫌だったことも悔しかったこともどうでもいいことも、何でもかんでも手当たり次第に忘れている。思い出せないわけじゃなくて、何というか、鈍くなっていっているんです。その記憶の光、みたいなのが。初めて一人で歩いた夜中の温かさとか、無理を言って連れて行ってもらったプラネタリウムの鮮やかさとか、理不尽に与えられた傷の数と同じくらいの優しさをもらっていたこととか、それ以上に誰かを傷つけていたこととか、心の底から嫌いだった相手がいまはもういないこととか、心の底から好きになった人がいまもどこかで生きていることとか。探せば見つかるんですよね。ちゃんと心の中にある。忘れてはいない。温かさも冷たさも感じられる。でも、やっぱり忘れている。曖昧になっている。そんな気がします。それがいい事なのか、あるいはよくない事なのか、僕には判断がつきません。ただ何となく、寂しいなあ、と思います。誰が、あるいは何が寂しいと思うのかさえも分かりません。漠然とそう思うんです。

 

 忘れちゃダメな気がするんです。好きだったものも、嫌いだったものも、何でもなかったものも、何一つとして失くしてはいけないような気がする。気がしたんです。さっき、昨日、一昨日、これまでもずっと。でも、忘れていくんですよね。意識から抜け落ちていく。まあ、多分それが自然なんだと思うんです。これまでの何もかもをずっと抱え続けているようでいて、でも気が付けば少しずつ減っていって、失くしていって、失くしていることにも気がつかないままで、そうしていつかは歳を取って、身体は悲鳴をあげ始めて、いよいよ一歩も動けないような状態になって、ふと頭を巡らせてみても、本当に好きだった誰かの声はおろか、表情さえもとうの昔に忘れてしまっていて、自分の名前だってどこにも見つけられずに、そうやって無音の中へ死んでいくんでしょうね、僕らは。別に、それが何だって話じゃないですよ。死ぬのは怖いとか、だからいまを頑張ろうとか、そういう話じゃなくて、ただ何となく、寂しいなあ、ってだけです。寂しい。最近は、というか十一月頃からずっと、こういうことばかりを考えています。

 

 これのいったいどこがエモーショナルな気分なんだよ。

 バイト行ってきます。