どうでもいいこと

 

 昨日、バイトが終わって家に帰り着くとすぐに眠った。帰り道、どこかで晩御飯を食べようかと考えてはいたけれど、でも結局行かなかった。僕一人で入ることのできる飲食店なんてごく一部に限られているし、中でも気の向いていた処は一見で解る程度にはあからさまに混んでいて、わざわざ並ぶのも何だか億劫だった。いまにして思えば昨日の自分の行動はめちゃくちゃで、正しくは一昨日から昨日にかけてなのだけれど、朝の五時までゲームをやっていて、流石にまずいと二時間ほどの仮眠を取り、そして朝から晩までの約九時間を働いていたわけで、しかし不思議なことに、二時間の睡眠から目覚めてから再び家のベッドで眠りにつくまでの間、眠さみたいなものをほとんど感じなかった。バイト先までの電車だったり、あるいはバイトの休憩時間だったりでは一貫して眠っていたわけで、それは要するに眠たかったということだろうと言われればたしかにそうなのだけれど、当事者的な感覚としては何というか気がついたら意識が飛んでいたという風で、眠いから寝ようといった普段通りのそれとは全く異なるものだった。そういえば食欲も大してなかった。食事を抜いて得をすることなど何一つもないのだと、誰だって知っているような当然のことを頭の悪い僕は、しかし経験則的に理解していたので、だから何かを食べようという意識はあったのだけれど、だからといって空腹に苛まれていたわけではなく、結局晩御飯を食べなかったのだって別に食べなくても気分的には問題ないと結論づけたからだった。他の感覚器官がそういった具合に鈍っていたからか、冬の寒さだけはやたらにはっきりと感じられた。そのせいで家までを歩きながら色んなことを考えた。考えさせられた。気にしなくていいようなことまで、色々と。

 

 朝、ベッドの上で目が覚めたその瞬間に、夢から覚めちゃったな、だなんてアニメに出てくる冴えない男性が呟いていそうな台詞のテンプレートみたいな言葉が不意に脳裏を掠めていった。僕は眠ることが好きで、それは長い眠りから覚めると同時に穏やかな痺れを伴って徐々に全身が覚醒してゆく一連の過程、その感覚が心地よいからだ。つまり、僕は眠ることが好きであると同じくして、あるいはそれ以上に目覚めることが好きなのだけれど、だから、夢から覚めたくなかったなんてことを、しかも覚醒した正しくその瞬間に考えたのは、記憶の限りでは初めてのことだった。夢の内容は全く覚えていない。楽しい夢だったのか、怖い夢だったのか、それすらも解らない。ただ、夢から覚めてしまったという茫洋とした虚無感だけが自分の中に満ちていた。ずっと眠ったままでいられたらよかったのに、とは思わなかったけれど、今日も一日生きていかなくちゃ駄目なんだなあ、とは思った。

 

 僕は鬱病なんて病は存在しないと考えている立場の人間だ。こんなことを言うとあらゆる方面から非難の声を浴びせられそうなものだけれど、ちゃんと細部を補って言うと、俗に鬱病と称される症状は全人類が多かれ少なかれ有している一状態でしかなくて、だから好ましくない現象ではあったとしても病というのは適切でないというのが僕の主張だ。良くないものだから薬で抑圧しようというのは正しい発想だし、無理をせずに休養しなくてはならないということにも全くの賛成なのだけれど、病という表現からは「特異的」だとか「異常性」だとかそういった排他的なニュアンスが感じられて、僕個人としてはあまり面白くない。それと同様の理由で、こちらは「障害」だけれど、ADHDという言葉も大嫌いだ。現象の名前として医学的に用いられる分には勝手にすればいいと思っているが、こういった便利で都合のいい言葉で他人を攻撃したがる人間が増えてからは本当に嫌になった。多かれ少なかれ誰もが持っているはずの感覚、あるいは僕が勝手にそう思っているだけかもしれないけれど、一人は寂しいだとか、変化は苦手だとか、好きな事だけやっていたいだとか、対人関係が苦手だとか、何かを衝動的にやりたくなるだとか、そういったごく自然的な感情を否定していったい何になるんだろうと思う。こういった人間は社会に上手く馴染めないというのが世論になっているようだけれど、すると、では社会に馴染むことが果たして良いことなのかという話になってくる。この手の人間は想像力が無ければ考える頭も知能も無いので、世界にある常識を常識としてしか認識できず、異常な人間の存在を、あるいは自分自身も大なり小なり異常性を有しているという可能性を肯定できず、社会に馴染むことは当然良いことでそれが人として当たり前なんだとか何だとか、自分の頭で考えたわけでもない無意識のうちに刷り込まれただけの薄っぺらな主張を、さも自分で辿りついた結論であるかのように自慢げに語ってくる。馬鹿だな、と思う。病は病として、障害は障害として医学的な研究が十分になされるべきだろうとは考えている。本人にとって良くないものならば少しでも良くなった方がいいのだろうから。しかし、「当たり前」なんてことは違っていて当たり前だということにさえ気づけない盲目な連中が、自分にとっての当たり前とは異なった人間を「病」や「障害」といった解り易い言葉で攻撃し、結果、そういった一部の不感極まった人種以外が酷く生きづらい世界となっている現状が気に入らない。たとえば「高校レベルの勉強すら満足に出来ない人間は、いくら人格的に完成されていようが社会には不要。その程度もままならない頭で生き続けても邪魔になるだけ。分かったら家で大人しく自分の無能さを嘆いていろ」みたく高圧的かつ一方的なことを京都大学の一学生である僕が言うと、そういう人間は顔を真っ赤にしてひたすらに怒り狂うのか、あるいは発言者である僕の人間的な粗を必死に探し出して反撃してきたりするのだろうけれど、しかし自分が全く同じことを普段から繰り返しているという事実には思い至らないのだろうな。まあ、僕はかなり不真面目に振り切った学生なので、そんなことは口が裂けても言えないわけだけれど。

 

 最近はずっと死ぬことについて考えている。こんなことを言うと、またいつもの死にたがりが始まったよ、と思われそうだけれど、これはそういった意味合いの発言ではなくて、「そもそも死ぬって何だ?」ということを考えている。たとえば地元の交番では昨日とその月とに交通事故によって亡くなった府全体の人数が掲示板に記されていたのだが、中学生の頃にそれを見るたび巡らせていたようなどうでもいい思考に似た何かだと思う。他人の死というものをより分かりやすく言い表すならば、自分の観測できる現実意識から完全に欠落するということになるのだろうと僕は考えているし、それでいうと僕の中学の同級生なんてそのほとんどがとっくの昔に死んでしまっている。生きていようが死んでいようが別に変わらない。自分が本心からそう捉えられる存在は、自分にとって等しく死んでいるに違いがないのだと思う。昔、掲示板上の死亡者数を見ながら考えていたのはそういったことだった。

 

 十三時頃、とても目を開けていたくはなかったから昼寝をしようとして、そしてまた夢を見た。こちらはちゃんと覚えている。よく分からない地球外生命体みたいなものに包囲され、隔絶された空間から命からがらに脱出する夢だった。部屋に幾つかあった窓から下方に見えていたのは三線ほどの線路で、その周辺には何の影も認められなかった。あの場所まで逃げ切ればなんとかなるだろうということで、窓から線路まで脱出することになった。僕は救助隊的なものの一員だったらしく、そういうわけで先陣を切っていた。全員を誘導しつつ、僕は何とか線路へ降り立った。目の前には小さな駅があって、僕は建物から少しでも距離を取るために其処に向かって思い切り走りつつ、しかし不意に振り返った。急に怖くなった。背後に誰もいないんじゃないかなんて恐れを抱いた。そして振り向いた視線の先では、一人の長い黒髪の少女が僕に銃口を向けて微笑んでいた。他の人はみな彼女に殺されて、そして自分も殺されるのだろうなと直感的に理解した。そこで目が覚めた。

 

 いてもいなくてもいい人間は死んでいるのと同じだと思っている。それは代わりがいるという意味ではなくて、誰にも必要とされていないという意味でもなくて、そもそも誰にも認識されていないという意味だ。僕は僕自身のことを多くの人間にとっては死人に等しい存在なのだと考えている一方で、僕以外の人間は僕にとっての死人にはなってくれないのだなと考えてもいる。周囲の現象を受け流すことができないというのはつまりそういうことで、そう思わされるたびに心底死にたくなる。僕はずっと誰の世界でも死んだままだというのに、僕の世界ではどうでもいい人間ばかりが息衝いてゆく。こんな不快感、そうそうない。

 

 やりたいこともやらなきゃいけないことも幾つかあるけれど、今日はもう寝る。どうせ夢を見るんだったら、少しでも楽しい夢が見たいなあ。