アンビバレント

 

 

 小さい頃からどうにも苦手なものが一つある。それは悪意だ。わずかでもあいつに触れてしまったその瞬間に、中空から不意に生じた言い表しようのない感情が内側へ染み込んでくる。その毒は他の何物よりも強力で、数秒もしないうちにあらゆる感覚を麻痺させてしまう。僕はあいつが苦手だ。端的に言って、怖い。自分へ向けられた刃はもちろんのことだけれど、他人へ向けられたそれにしたって、僕にとっては同じくらい怖い。だけど、それ以上に立ち会いたくないのは、ごく身近にいる人間がナイフを振りかざしている瞬間なのだ。あれだけは本当に苦手で、幾度となく体験してもなお耐性なんてまるで身につかない。よく分からないというのなら、誰でもいいから、たとえば自分の親がリビングで笑いながら包丁を振り回している様でも想像しながら読んでくれればいい。これがオーバーなんてことは決してない。僕の目にはそれとほとんど同じように、あるいはそれ以上に酷く映っている。

 自分の中に住んでいるその人物像が鮮明に縁取られていればいるほど、彼ないしは彼女が嬉々として他人を切り刻もうとする光景は脳裏に色濃く焼き付けられる。そこから先は想像の世界だ。その場面からいくら目を逸らしても、意識を夢に押し込めて忘れてしまおうとしても、頭の中では継ぎ接ぎの仮面を棄てた誰かが隠していた理想を片っ端から切り捨てていく。そんな妄想を端末の向こうに幻視しては、勝手に傷ついて、いっそのこと死んでしまいたいなんてことをいつしか考えるようになる。忘れられないのなら消えてしまえればいいと考えるようになる。現実が振り回した刃は、架空によって僕へと向かってくるのだ。こんな風に、手に余る想像力はよく暴走する。その起爆剤は分かりきっているのに、どうやっても避けられない。悪意なんてものはさながら小石のごとく自然にそこら中を転がっていて、つまりは珍しくも何ともなくて、なのに僕は頻繁に躓いて転ぶ。転んで怪我をする。痛みにも全く慣れないままだ。

 悪意はそこら中に満ち満ちている。一時の感情に身を任せて架空の誰かを攻撃し、そうして溜飲を下げることは最も簡易なストレス発散法の一つだからだ。小学生も、中学生も、高校生も、大学生も、社会人も、老人も、多くの人がその麻薬に頼っている。自分の理解が及ばない言動に対し何ら建設的でない言葉を投げかけ、さも自分は全てを理解しているかのような顔をする。歳だけは一丁前に食って、それ故に肥大したプライドの重さから逃げられない。だから、自分自身へはまるで目を向けない。顧みない。他人を攻撃してばかりいる。それが楽だから。楽しいから。わずかなコストで自分の器をいっぱいに満たせるから。そのくせ、他者を貶めることで得られる優越感に満たされる程度のちっぽけな器しか自分は持っていないのだということには全く気がつかない。まったく愚か極まりない。

 昨日の夜、久しぶりにかなり大きな石に躓いた。その衝撃があまりにも耐え難くて、その勢いか、僕の中の誰かがこう囁いた。大学生にもなってそんな小学生みたいなことで気晴らししてんのかよ。馬鹿じゃねえの。何歳だよ、お前。ネットの玩具で遊ぶ暇があるんなら、その貧相な頭を補うための勉強でもしたらどうなんだよ。そう吐き捨てた。切り捨てた。直後、鈍く尖った銀色の塊が一直線に物凄い速さで飛んできた。架空の刃だ。それは胸の奥深くへ突き刺さった。痛い。痛い。痛かった。これでもかと危険信号を発する意識をそれでも振り払って、僕へナイフを投げつけてきた奴の方を思い切り睨みつけてやった。そこに立っていたのは僕だった。向こう側の僕もまた、僕のことを鋭く睨みつけていた。

 胸に仕舞っていたはずの理想に深く突き刺さった刃は、紛れもなく僕自身が振りかざしたものだった。誰かが誰かを殺す。その誰かを僕は殺す。そうして理想は傷を負う。これ以上はもう傷つかぬようにと、免疫作用の如く現れたもう一人の自分が僕を殺す。そういう図になっている。だから、石に躓いて転ぶたびに、多かれ少なかれ、死んでしまいたいという気持ちになる。痛くて、辛くて、苦しくて、虚しくて、一度転んでしまえばなかなか起き上がれなくて、だったらいっそこのままでいいんじゃないかという諦めが嫌でも意識を掠めてゆく。もう起き上がりたくない。だって、どうせまた転ぶ。どうしようもない。どうしようもないだろ。どうしようもないんだよ。どうしろってんだ。こんなにも窮屈で息苦しい場所であと何十年も生きていけだなんて、まさか本気で言ってるのかよ?