空っぽでなにも無い。

 

 こと想像力という能力一つを取り出してみたときに、神海隣空無よりもそれが抜きん出ているように思われる人間と僕は未だかつて出会ったことがないし、また今後出会うことも決してないだろう。そうはっきりと断言できてしまうほどに彼女は異常で、異様で、異質で、千差万別多種多様の人間を許容しうる大学という空間であっても、あるいはこの広大な世界そのものでさえ、彼女の特殊性を覆い隠すにはまるで遠く及ばない。一見すると普通の大学生でしかない彼女は、しかし僕らが認識しているそれとは完全に隔てられた次元に生きているのだと、一度でも彼女と話した経験のある人ならばきっと誰もがそう思うに違いなかった。そして、それ故に彼女は他の何物とも交わることがない。どうしようもないほどに超越的な彼女は、だから、他の誰からも理解されることがない。神海隣空無という人物について、僕が知った風に話せることといえばその程度のものだった。

「空っぽでなにも無い。私はそういうつまらない人間なんですよ」

 記憶の中にしんと響く彼女の声はどれを取っても形容しがたい色味を帯びていて、それでいて、しかし耳にはよく馴染んでいた。空っぽでなにも無い――彼女が口癖のように唱えるその言葉は、彼女に与えられた名前に引っ掛けたものであるということはさておき、果たして彼女がどこまで本気でそう言っているのか、僕はどうにも測りかねる。たしかに知る限りにおいて、彼女は運動神経がずば抜けているというわけでも、並外れた頭脳を兼ね備えているというわけでもない。それでも、彼女には想像力という他の何物をも寄せつけない唯一無二の武器がある。先天的か否かはさておき、それほど強大な道具を与えられておきながら、なにも無い、だなんて言い草はないだろうと僕は思う――けれど、彼女は自分が何も持っていない人間なのだという、ともすれば聞こえの悪い冗談を、恐らくは本心から信じているのだろうとも思う。たとえば、彼女は僕の話を、どんなに些細なことでもいいから、とやたらに聞きたがる。その理由を以前彼女に訊いたことがある。曰く、

「この世界がどんな表情を他に隠しているのかとか、ふと興味が湧いたりはしませんか?」

 たしか、僕はそのとき首を横に振った。あるいは曖昧な笑みを返しただけかもしれない。あまりよく覚えていないけれど、何にせよ、肯定しなかったことだけは間違いない。というのも、彼女が何を言っているのか、正直全く分からなかったから、だから僕は頷くことができなかった。

 一方の彼女はといえば、そんな僕に対してもまるで無邪気な笑顔を向けていた。

「他の誰かが見ている世界を一瞬だけでも覗いてみたいんです。だってそこはきっと私なんかが見ている世界とは全く違うだろうから。電線がない世界、公園がない世界、信号がない世界。あるいは年中ずっと青空の世界に、幸せばかりが転がっている世界や、いつだって星の見える世界だって。可能性は無限にあります。でも、私は現時点でこの世界にしか生きていないし、これからもこの世界でしか生きられない。そんなの、つまらないじゃないですか。だから、その世界に生きている人へ是非とも話を伺ってみたいと強く思うのですよ」

 彼女は、だからこそ、空っぽでなにも無い、という言葉をそんな自分への呪いのように幾度となく口にするのだろう。彼女の眼にはきっと、見えなくてもいいはずの暗い影や誰も気がつかないほどに些細な光まで、正負善悪様々な概念が犇めきながらもはっきりと映り込んでいるに違いない。それらすべてに触れてみたいなんてことを彼女は本気で考えているから、だから、いまの自分はまだ何も手に入れていないのだと、あの言葉には多分そういう意味があるのだろうと、彼女とよく行動を共にさせられる僕にはそう思えて仕方がない。まあ、彼女のそういう厄介な性質が災いして、彼女が呼吸をしている様はどうしようもなく生き急いでいる風に、あるいは生き急がされている風に、誰の目からもそう映ってしまうのだろうから、彼女が不満げに話すその点について僕が思うことは特にない。

 ああ、でも――。

 すぐ隣に座っているようで、いつもどこか遠くを眺めている彼女の横顔を認めるたびに、少なくとも僕の全てが終わる一瞬まではそのままの彼女であってほしい、なんてことを僕はよく考える。消えてしまわないでほしい。彼女の生きている世界は何物よりも輝いていて、何物よりも汚れていて、きっと何物よりも真実らしい――そんな彼女がいつまでも彼女のままでいられるというのなら、それだけでいい。それがいい。その他には何も望まない。僕の隣に彼女がいる必要はもとより、彼女の隣に僕がいる必要さえない。彼女の空を少しでも埋められたならいいけれど、でもそれは僕じゃなくたっていい。僕と彼女がいまは二人でいることに、それでも意味なんてものはない――なくていい。

 彼女と出会ってからというもの、僕はずっとそんなことばかりを考えている。ずっと、ずっと、ぐるぐるぐるぐると、絶え間なく頭から爪先までの全身をゆっくりと通っている。熱くもなければ、冷たくもない。どこまでも無温の透き通った赤。

 この感情の色を、しかし僕は未だ知らない。