ルールはいつだって絶対的に正しい。

 

「たとえば先輩は、指定最高速度が何のために存在するのかということを考えたことがありますか? ん……、ああ、ほら。あれですよ、あれ。赤い円の中に青色の数字が書かれている標識で指定されている速度のことです――常日頃から見ているでしょう? そこら中にありますし、何ならすぐそこの大通りにも設置されていますからね。あの標識はその区間内での最高速度を指定することを目的にされていて、だから一般にその制限速度のことを指定最高速度と呼ぶわけですが――まあ、そんなことはどうだってよくて、いま僕が先輩に問うているのは、その目的の裏にあるのであろう何かしらの意味についてなのですよ。きっと先輩ならば僕と同じ考えを答えてくれるはずなので、先輩の返事を待たずに僕の考えをざっと述べてしまいますけれど、結局のところ、あれがないと困るからなんですよね――いやいや、そこに捻くれた理由なんてあるわけないじゃないですか。流石の僕でも、こんなところで変な理念を持ち出したりはしませんって。指定最高速度や法定最高速度という概念が存在しないと、僕ら人間は非常に困るわけです。だって、それを排した先に待っているのは純然たる無秩序ですから――当然ながら誰もそんな混沌とした日常を望んではいないわけで、だからこそ人間は法律という制限を、あるいはルールという境界線を作り上げたわけです。この世に数多とある決まり事は束縛のためのものなのだと、愚かな勘違いをしている人がこの国には結構いらっしゃいますけれど、全然そんなことはなくて、あれは僕らの快適な生活を保障するために存在しているのです。そういうわけで、何のためにかと問われれば、返すべき言葉は、快適に生きていくため、となるのでしょうね。だからこそ、ルールはいつだって絶対的に正しいのです。法によって保たれる秩序を享受することの代償として法の絶対性は生じてしまうわけで、それ故に僕らはその事実を受け入れなくてはならない。認めなくてはならない。法は常に正当で、真っ当で、その前提を疑ってはならないのです。一応断っておきますけれど、僕は法の柔軟性を否定しているわけではありませんよ。時代の遷移に伴って、法は作り替えられていくべきですし、古の掟を守り続けることが正解だとは全く思っていません。しかし、それはそれとして、法というやつは基本的には一定であるべきだと、僕はそう言っているのです。例外があってはならないし、例外を認めてはならない。それこそが、法の下に生きる僕らが最低限理解しておくべきことなのです」

「ところで、ここまでの話を踏まえてですが――先輩はこんな思考実験を聞いたことがありますか? 線路を走っていたトロッコが突如として制御不能となり、このままいけば前方の線路で作業をしている五人は間違いなく死ぬという状況で、しかし先輩は日頃の行いがよかったのか、偶然にもトロッコの進路を変更することができる分岐器の近くに立っていたのです。もしそれで線路を切り替えるとその先で作業中の一人が代わりに死ぬんですけどね。さて、ではその場面で先輩が取るべき行動はいったい何でしょう? ただし、先輩がどのような行動を起こそうと法的な責任は問われません、という但し書きを最後に添えて、これがこの思考実験の全設定です。実際問題、そんな状況はあり得ませんけれどね――ああ、これは、法的な責任が問われない状況はあり得ない、という意味です。先輩がどのようなアクションを起こそうが、その場に立ち会ってしまった以上はもう既に巻き込まれているわけですから、何かしらの社会的非難が向けられることは避け得ないでしょうね。それを踏まえた上で、先輩ならどうしますか? 五人を助ける? 何もしない? 僕みたいなやつからすれば、この問題は最も正しいとされるべき答えが一意に決まっているのですけれど、それって何だと思いますか? まあ、あんまり長引かせてもなんですのでさっさと答え合わせを済ませてしまいますが、最も正しい答えは、何もしない、です。何もしないことが、何よりも正しい選択であるべきなのです。それは、五人を救うために一人を犠牲にすることは許されない、だとかそういった正義感に基づいた主張では決してありません。何もしないことが正当であるのは、ルールこそが絶対的に正しいから――たったそれだけの根拠からですよ。人を殺してはならない――小学生でさえ知っている、最も基本的な法の一つですね。この思考実験の状況において分岐器にはたらきかけてしまったが最後、先輩はその五人と一人の生死に関与してしまったことになります。そこに殺意があろうがなかろうが、あるいは正義感や葛藤があろうがなかろうが、先輩が分岐器を動かしてしまった瞬間に、本来死ぬ必要のなかった一人が死んでしまうのです。だったらそれは、先輩がその一人を殺したのと何ら変わりがないでしょう? 過程なんて関係ありません。だから、触れるべきではないのです。何もせずにいるべきなのですよ。こういうことを言うと、それは見殺しにしているだけだ、などと非難したがる人がいますけれど、しかしそれは全くの的外れでしょう。法よりも優先されるべき人命なんてものはどこにもないし、あってはならない。だから、これは見殺しなどではなく、ある種の不可抗力ですよ。運命と言ってもいい。その五人は其処で死ぬ。そういうことになっていた。先輩は偶然居合わせただけで、それ以上でもそれ以下でもない。ただの舞台装置ですよ。たったそれだけのことなのに、それなのに、やれ義務感だの倫理観だのと、考える頭もないくせに小難しい要素まで拾おうとするから、こんなにも分かりやすい答えの一つすら掴めないのです」

「それで、何の話でしたっけ? ああ、そう、飲酒運転ですね。条件を一度整理しますけれど、ええっと――物凄く腕の立つ名医が一人いて、近場だとその医者にしか到底扱えないような病に侵されている患者が一人いて、さらにはその患者の病状が突然悪化したとして、しかし医者は六時間ほど前に飲酒をしており、意識は明瞭そのもので運転にも支障は全くなかったが、運悪くも道中の検問で引っかかってしまい、その場で逮捕されたとする――このとき、医者の行動は果たして正しかったのか、という先輩が受けたのはそういう問でしたっけ? 結論から言えば、正しくないでしょう。それを正しいと認めてはなりません。いくら意識がはっきりしていたといっても、それは飲酒運転をすることの免罪符にはなり得ませんし、当人にはそのつもりがなくともそんなことは関係ありませんからね。結果として、彼は法を犯した。犯してしまった。ならば、彼は正しくない。法によって裁かれるべきで、社会から非難されても文句は言えない。ルールはいつだって絶対的に正しいのですから。それに、代案ならいくらでもあるでしょう。近くにいた人に代行運転を頼むとか、タクシーを呼ぶとか、何なら救急車でもいいですよ――人命にかかわるほど急を要するというのであれば、本来の用途とは異なりますが、それでも救急隊員の方々が不平を零すことはないでしょう。飲酒をしてしまったという事情を説明すれば納得してくれるはずです。要するに、医者側のミスなんですよ、結局は。自覚があろうがなかろうが、いま自分が車を運転することで罪を犯してしまうかもしれない、そういう可能性を考慮できなかった医者の落ち度です。だから、彼は正しくない。先輩だって、そう答えたのでしょう? ほら、やっぱり、ちゃんと分かってるんじゃないですか。だったら――先輩が僕に尋ねたいのはその先なのでしょうね。ふふ、図星ですか? いえ、まあ、そんな大したことじゃないんですけれど――っていうか、その問に対して先輩がどう返すかなんてことは今更分かりきっていますし、その答えに先輩なりに筋の通った信念を宿していることも僕は熟知しています。だから、それだけならば、僕なんかにわざわざ訊く必要はない。なのに、わざわざ僕に訊いたということは、つまり、それだけではなかったということです。ごく簡単な想像ですよ、推理ですらない。先輩が尋ねられたのは、たとえばこういうことでしょう? 『では、自分がその立場に置かれた場合、いまと全く同じ思考に基づいて、全く正しい行動を起こせるか』。想像するに、先輩はその問には即答できなかった。だから、僕の意見を窺ってみようと考えた。あるいは、もう既に自分なりの解答を用意していて、しかしその答えの正当性を自分では認められないから、それを僕に任せようとお考えになったのでしょうか。まあ、どっちでもいいです。僕がその問を向けられたとしたら、僕はたった一言だけでこう答えるでしょうね。『無理だ』。どうです? 同じ答えでしたか? はは、そうでしょうね。先輩なら僕とまったく同じことを考えると思っていました。だって無理ですよ、そんなことは。考えるまでもありません。ここで、自分ならばそれができる、などと平気で吐かす人間は想像力が欠落しているどころではなく、ただの馬鹿ですね。できるわけがない。家族、友人、恋人、誰でも構いません。自分にとって大事な人へ強大な障害が降りかかっているとして、その状況下でルールなんてものを重んじる人間が、一体この世界のどこにいるというのです? まあ世界は広いですから、隈なく探せば小学校の一学年分くらいはいるかもしれませんけれど、そんなものはマイノリティです。大体の人間はルールを破ります。だから、僕らは決して正しくない。そして、だけれど、決して間違ってもいない。そうではないですか? こればっかりは幾度となく言っていることですけれど、完璧な人間などどこにもいないのです。僕らは正しくない。正しくはあれない。どう足掻いたところで正しい存在では決していられない瞬間がいつかは訪れる。僕の挙げた思考実験や、あるいは先輩が受けたような思考実験が正しくそれです。何を選んでも手が汚れてしまいそうな、どの道を進んでも足を踏み外してしまいそうな、そういう一瞬が誰のもとへも平等にやってくる。その瞬間に自分が選び取るべきは、分岐器を操作するための正義感でも、暴走するトロッコを無視するための諦観でも、どちらでもありません。どちらを選んだところで、それは間違いです。では、その瞬間に手にするべき何かとはいったい何なのでしょうね? って、先輩のことだからもうとっくに分かってるか――それが答えです。仮定の話ですが、飲酒運転をしてしまったという件の医者が、もしそれを手にした末にその行動を起こしていたのであれば、彼は正しくないにせよ間違ってもいなかった、ということになりますね。それは第三者である僕たちが知り得る情報では決してありませんが、でも、それでいいのです。だって、それを手にできるのは、そういう強い人だけですから、だから、それでいいのですよ」