ナイフ

 

 

 鋭く尖ったナイフを一本だけ、ずっと心の内に忍ばせている。それは誰だって変わらない。僕だって、君だって、小学校へ通う子供だって、毎朝電車に揺られるサラリーマンだって、他の誰にも触れさせないための刃を一心に隠し持っている。見え透いた仮面を被って、体裁のいい衣服を纏って、当たり障りのない声を見繕って、流動的かつ受動的に社会を生きていく僕らは、それでもたった一つの何かだけはひたむきに守り通している。

 それはナイフだ。愚かな僕らは些細な争いを頻繁に起こし、そのたびに、視界を覆い尽くす無数の影に向かってそれを振りかざそうとする。何度だって切っ先を重ね合い、勢いのままに相手を傷つけて、飛び散った破片が自分自身をも傷つける。多くの赤を吸いこんだナイフの刃は次第に毀れてゆき、かつて鋭く輝いていた銀色の上には、しかし何も映し出さなくなる。そのときになって、それがずっと大切にしていたはずのものだったことに今更のように気がつくんだ。強く握りしめたナイフで世界に巣食う影を殺し続けた人は、いつしか使い物にならなくなったそれから不意に手を離して、小さくこう呟く。――ああ、なるほど。こいつらはこうして生まれるのか。

 それはナイフだ。先の見えない道をそれでも歩かなくてはならない僕らは、ずっとそれだけを守っている。理不尽な世界に怒り、嘆き、悲しみながらも、この世界のいたるところで潜んでいる影に自分だけは呑まれないようにと、一振りのナイフをひっそりと研ぎ続けている。望んでもいないのに始まってしまった心臓をたしかに繋ぎ止めておくためのナイフを、誰だって必死に隠している。誰かを傷つけるために生み出したわけじゃない。ちっぽけで臆病な自分を守るための、そんな自分がなおも自分で在り続けるための、きっとそのためだけの刃だった。

 それは言葉だ。僕らは今日も無数の感情に溺れながら、たった一つの言葉だけは手放さない。いつかの憧憬が象った言葉を、たったそれだけを、失くさないように小さく握っている。