"Without love, nothing can be seen"

 

愛とは幻想、勘違い。

相思相愛とは、互いに愛されているという相互の勘違い。

そして婚約とは、その勘違いから生涯目覚めないことの誓いである。

(出典:うみねこのなく頃に

 

 僕は所謂名言というやつが滅法苦手で、というか偏に大嫌いで、それはかような言葉たちを無暗に振りかざして悦に浸る人間を見るたびに、何とも言えない不快感を空っぽの中空から押し付けられるせいだ。尽く濁った声を棄てる宛だなんて都合のいい場所は往々にして何処にもなくて、まるっきり不明で、そうしてやり場のない感情を、不服ながらも結局は持ち歩く羽目になる。僕は昔からずっとこうで、この不便な性質が今更治るとは全くこれっぽっちも期待していないし、きっと死ぬまでこのままなのだろうなと諦めてはいるけれど、それにしたって、たまには吐き捨てなければいつかは真っ黒な澱に潰されてしまうに違いないという恐怖も少なからずあり、それ故に僕は文字を書こうとする。これはつまり呪いだ。

 彼らは言葉を軽んじている――というよりは言葉に踊らされているのだろうと思う。言葉の魔力というものを知らないのか、あるいは知っているものの常に意識できるほどには身についていないのか、まあ多くは前者なのだろうけれど、とにもかくにも、他のあらゆる概念が束になったところで足元にすら及ばないほどに凶悪な幻覚作用を、言葉というやつは持っているわけで、人類はそのことにもっと自覚的になるべきなのだと僕は思う。飲酒という行為が人を酔わせるように、文字を読むという行為もまた人を惑わせるのだ。

 微塵ほども楽しくなかった過去であってもひとたび「楽しかった」と書いたが最後、何だかその通りだったような気がしてくる。

 それほど気にならなかったことでもひとたび「腹立たしい」と書いてしまえば、直後には真っ赤な怒りが腹の底から沸々と湧き上がってくる。

 そんなものだろう。

 たとえば、小説という娯楽がどうして存在しているのかと考えたことはないだろうか? 漫画や映画の方が情報量は圧倒的に多いはずだし、小説なんかに比べればまだ時間を食わない。見渡す限り暇人だらけだった平安時代ならまだしも、忙殺だなんて殺伐とした言葉さえすっかり耳に馴染んでしまったような現代で、それでも新たな小説が、物語が絶え間なく刊行され続けている理由とはいったい何なのだろうかと、疑問に思ったことはないだろうか? 僕の考えを簡潔に述べると、それは言葉が他の何物よりも強い毒性を持っているからだ。言葉はあまり多くの情報を与えないかもしれないかもしれないが、むしろその性質によって、自身を目にしたすべての人間を永遠の錯覚に幽閉する。曖昧に感じるかもしれないけれど、しかしそうとしか言えない。言葉を言葉で定義することはどうしたところで不可能だ。

 酒がどのようなメカニズムで人を酔わせるのか、僕は寡聞にして知らないけれど、言葉が人を惑わせるプロセスならばなんとなく分かる。身に染みている。一言で言えば、言葉は消えないのだ。アルコールは体内の酵素によって最後は分解されてしまうけれど、一方で言葉というやつは他の何物によっても上書きされることがない。ずっと其処に留まり続ける。記憶の不可逆性のようなものだ。だから、楽しくなかったことを「楽しい」と書いた瞬間に「楽しいと感じた自分」が、あるいは腹立たしいことを「腹立たしい」と書いた瞬間に「腹立たしく感じた自分」が、まるで昇華することなしに自身を潮流する血液と同化してしまう。そうなったら終わりだ。手の施しようがない。現代医学は言葉の毒性に対する治療法を獲得していない。

 だから、疑え。未知の言葉を目の当たりにしたとき、それを無抵抗に受け入れようだなんて、そんな馬鹿なことはするな。そこに在るのはただの毒だ。人を悩ませ、苦しめ、人格の構造すらも作り変えてしまう、魔女の呪いにも似た猛毒なんだ。たとえば道端に一匹の蛇がいたとして、君はそれに触ってみようなんて風に考えるか? 考えないだろ。言葉に対しても同じ姿勢であれといま僕は言っている。現代はインターネット、特にSNSというやつのせいで、自他問わず、言葉に触れる機会が圧倒的に多くなっている。そんな時代だからこそ、言葉の本質は赤色でも黒色でも桃色でもなく、純粋な紫色をしているのだということを僕たちは知っておかなくてはならない。自分の吐き出した言葉は何色だ? 相手の吐き出した言葉は何色だ? そういうことをしっかり考えないと、以前たしかに持っていたはずの本当の感情を、いずれは見失うことになる。愛と依存の区別さえできなくなる。自分が誰なのかも分からなくなる。そんな身体に、果たして君はなりたいのか? もはや取り返しのつかない人間に、たとえば僕のような人間に、果たして君はなりたいのか?