公園、空、少女の影。

 

 彼女とはもう何度となく顔を合わせているのだけれど、しかし、僕は彼女のことを何も知らない。人間は誰しも他人のことを理解することなどできないのだという一般論めいた話がしたいわけではなくて、そうではなくて、文字通りの意味で僕は彼女のことを何も知らないのだ。何一つとして、だ。彼女は普段どんな生活をしていて、どんな本を読んでいて、どんな景色を見ていて、どんなことを考えているのか――それらはもちろんのこと、たとえば僕は彼女の名前を知らないし、そもそも声だって聞いたことがない。彼女は一切の話をしてくれない。話したがらない、とかではなく、喋らない。僕が彼女について知っていることを強いて挙げるのなら、彼女の顔と、着ている服と、あとは、彼女はいつだってとある場所にいるという情報くらいのものだけれど、この程度では到底知っているうちになんて入らないだろう。だから、僕は何も知らないのだ。彼女のことを、何も知らない。

 彼女はいつも公園にいる。それは徒歩で向かうにしてはかなり遠く、自転車で向かえば丁度いいくらいの距離にある公園だ――彼女はいつだってその隅にある石造りの階段の上で座っている。いくら謎めいた彼女にしたって、常にその場所にいるということはないのかもしれないけれど、少なくとも、そこで僕が彼女に会えなかったことは未だ一度もない。ちなみにだけれど、僕が彼女と顔を合わせているのはそのすべてが公園内での出来事だ。僕と彼女の関係は、あの空間内だけで完結している。

 僕が初めて彼女を彼女だと認識したとき、何とも名状し難い感覚に襲われたのをはっきりと覚えている。虚無感というか、喪失感というか――何といえばいいのだろう、遊び疲れた子どもが忘れて帰ったのであろうサッカーボールを目にしたときのような感覚とでも表現すればいいのだろうか――まるで世界そのものから見捨てられたかのような、切り離されているような少女だと、僕はそういう風に感じた。特定の誰か、一個人が置き忘れた何かではなくて、もっと漠然と、この世の誰もが棄ておいてしまうような存在、概念、あるいは影像――ひとたびこの眼を閉じてしまうと、次の瞬間に始まる世界のどこからも彼女は消え去ってしまうのではないか、なんてことも考えた。しかし、そんなよく分からない理由でつい声を掛けてしまったというわけではなく、僕が彼女を接触するに至った最大の要因は、雨が降っているにも関わらず彼女が傘も差さずにいつもみたく石段の上にちょこんと座っていたからだ。その公園は人通りがそれなりに多い道に面してはいるけれど、彼女はいつも公園の隅っこにいたし、生憎の空模様も相まって、その傍を通る誰もが彼女の存在に気がついていない風だった。一方の僕はといえば、その以前から彼女がいつも其処にいることを知っていたので、だから、そういう次第で僕は彼女の頭上に傘を差しだすこととなったのだった。

 彼女は何も話さない。僕は彼女の声を聞いたことがない。どこに住んでいるのかも知らないし、どうしていつもそこにいるのかも知らない。歳は恐らく十六くらいだろうと勝手に想像しているけれど、しかしそれは彼女がいつも身につけている衣服のせいであり、実際どうなのかは全く知らない――まあ実を言うと一度だけ尋ねたことがあるのだけれど、しかし、彼女は答えてくれなかった。彼女があの公園でしていることといえば、空を見上げていることだけなのだ。晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、彼女はずっと空の向こう側を見ている。いったい其処に何を見出そうとしているのか――彼女のことを何も知らない僕は、勿論そのことだって露ほども知りはしない。

 彼女の世界には僕がいないのではないかと思うことがある――僕以外の誰にとっても彼女がまるであの公園に存在していないように、彼女の世界には彼女以外の誰もが存在していないのではないかと、そんな馬鹿げた疑いでさえも起こしてしまいたくなるような衝動に駆られることがある。彼女は僕のことを認識しているのだろうか? 僕は彼女の世界に存在しているのだろうか? そう思う。思ってしまう。こんなのは別にどうだっていいといえばどうだっていいことなのだけれど、しかし、自分でも驚いたことに、あの儚げな少女の孤独を埋められたらいいという気持ちがどうやらないわけでもないようで、だから、ここ最近の僕はずっとこんなことばかりに頭を悩ませていたのだった。

 彼女のためにできることはないだろうかなんて――彼女のことは何も知らないくせに。

「ああ、そういえば、そのことについて先輩にお聞きしたいことがあったのですよ。その少女について――先輩がいつも物憂げな表情を浮かべながらも進んで話題に挙げるその少女についての話です。いえ、別に大したことではないのですけれど、まあ馬鹿な後輩の馬鹿げた話だと思って、話半分にでも聞いておいてください。といっても、僕としては話半分なんかでは全くありませんし、ならば半信半疑と言った方がより正確でしょうかね――ああ、これは僕の話を聞いて先輩が受けると思われる印象についての話です。割合的には五分五分ではなく一信九疑くらいでしょうけれど、それはさておき、一先ずは僕の話に耳を傾けておいてください。聞き捨てならないこともあるかもしれませんが、僕が話し終えるまでは言わず語らずでお願いします。さて、実を言えばなのですけれど、僕は先輩の話を――つまりいつも公園にいるという少女の存在をかなり疑っていました。零信十疑――語感や字面的には零信京疑の方がかっこいいですかね。れいしんけいぎ。まあ十だろうが京だろうが、そんなものは単位の違いでしかなく、本質的には同じことです。いずれにせよ二進的であり、疑が全てです。まったく信じていませんでしたし、無礼を承知で言えば、話半分ではなく面白半分で聞いていました――いや、だって冷静に考えてみてくださいよ。先輩が行くといつも公園にいるというだけなら偶然で説明できるかもしれませんが、雨の中で傘も差さずに空を見上げている少女だなんていかにもな存在、いまどきライトノベルの世界にだっていやしませんよ。況や現実をや。疑ってかかる方が自然です。それにしても、しかし、先輩が全くの嘘を語っているという様子でもなかったことが、だから、僕としてはかなり奇妙だったのです。先輩は表情に出やすい人ですから、それがもし真っ赤な嘘ならばすぐに見抜けるはずなのですがね――全く真面目な表情でばかり話すものですから、信じようとまでは思わないものの、話半分くらいには聞いてさしあげようかと、つまり信じる方向へ少しくらいは向いてもいいかと、模範的後輩である僕は心を改めたわけなのです。そういうわけで、僕は事実検証に向かいました。先輩がその少女とはいつもそこで顔を合わせていると言っていた公園へまで、わざわざ出向いたというわけですよ。僕の取り得なんて行動力くらいのものですからね――嘘ですけど。ああ、僕の取り得は行動力であるというのが嘘なのであって、その場へ向かったことは事実です。本当の出来事です。もう結論を言ってしまいますけれど、僕はその少女らしい人影を見つけることが出来ませんでした。大して広くない公園ですから見渡す限りでの判断でも問題なかったのでしょうけれど、それでも念のため迷子の子猫を探す探偵よろしく隅から隅まで探し、それを、日を改めて計四回行いました。それでも会えませんでしたね、一度も。もちろんしばらくの間――具体的には毎回三時間くらいは、それらしい人物がやってこないかを公園外から観察していたのですけれど、それでもだめでした。ねえ、先輩、これってどういうことだと思いますか? 先輩が言うその少女に、先輩はいつだって出会うことができて、一方の僕はといえば一度たりとも出会えなかった――これはただの偶然なのでしょうか? ええ、たしかに、偶然である可能性は決して否定できるものではありませんね。しかし、誰だって偶然なんかではないと言いたくもなりますよ。だって、ありえないでしょう、そんなことは。いくら数学信者の僕でもそう思います。そもそもの話、先輩が行くといつも彼女が其処にいるという状況自体が甚だ奇妙であり、不思議であり、奇跡めいているのに、これ以上の偶然を認めようというのは最早ただの思考放棄です。だから、先輩、ここまで話してしまえば、僕が先輩にいったい何を問いただしたかったのかが分かってきたでしょう? 分からないとは言わせませんよ。その少女について語る際に、誰もが彼女の存在に気がついていない風だった、と先輩は言いましたけれど、それって実際には真逆ではないのですか? 誰も彼女の存在に気がついていないのではなく、先輩だけが彼女の存在に気がついているという可能性はありませんか? これは先輩の話がすべて正しくて、僕の話もすべて正しいと仮定した上での議論です。僕の話が正しいことは、とりあえずこの場は僕が保証しましょう。だから、もし先輩の話が真っ白な真実だというのなら、僕からの質問に是非とも答えてほしいのです。その少女は――素性も、声も、名前も、まるで何の実存性も有していないその少女は、本当にこの世に存在しているのですか?」