ペトリコール

 

 

 ここ最近、彼の話をめっきりしなくなった。特に理由があったわけではないし、思い当たる節なんて何もないのだけれど、しかし、どちらかといえば、何もなかったから何も話さなかっただけなのだろうと思う。

 何もない。

 本当に、何も。

 彼と僕との交流はつい先日にいよいよ終わりを迎えたわけで、だからといって関係が完全に途絶えたというわけではないにせよ、話をする機会がめっきりと減ったのは揺るぎようのない事実だ。彼は遠くの方に住んでいて、それ故に顔を合わせる機会も年に数回くらいのものなので、話す機会がないということは、つまり、彼と関わる機会がないということだ。

 彼について話していないことなんていくらでもあるし、それらすべてを詳らかに話そうというつもりは全くない。彼と関わった毎日は、言うなれば大事に仕舞っておきたい宝物であり、一人だけで抱えていたい体温のようなものだ。そんなことを言う割には再三再四と彼のことを話してしまっているけれど、それも多分、想い出の欠片を大切にしすぎるが故のものなのだと思う。僕は結構な頻度で、ひた隠しにしている感情を、綺麗なままのそれを、それでも誰かと共有してみたいと思ってしまう。自慢したいというわけではなくて、何というか、誰かに知っていてほしいと思うのだ。

 彼が僕の人格形成に大きく寄与していることは既に何度も話したことだけれど、つまり、彼との出来事を話すというのは、そのまま即ち僕自身のことを話すということになるわけだ。逆に、僕、山上一葉という一個人について話そうと思えば、彼のことを話さざるを得ない。だから、僕は彼という存在をおぼろげながら語ってきたのだ。でも、だからといって、誰彼構わずに話す気なんて全くない。僕は彼についての詳細、あるいは正体の一切を語らない。それは僕個人のことをあまり知られたくないというのもあるし、彼とのことを話したくないというのもあるし、そもそも彼とのあれこれを軽く扱いたくはないのだ。幸せアピールをしたがる人のことを、自分は幸せそうであると周囲が承認してくれるから、だから自分は本当に幸せなのだと、そうやって幻想に溺れたいだけなのだと僕は考えているから、そういう人たちとは決して同一視されたくないという感情がどこかにある。そうでなくても、僕は、彼との思い出を軽んじようとは思わないし、そうするくらいなら舌を噛み切って、あるいは腕を断ち切って、死んだほうがマシだ。

 そういうわけで、今後も真に迫るようなことは何も書かないつもりだけれど、しかし、僕がこれからそうするように、彼と話したことについて、つらつらと書くことは何度もあると思う。先ほども言ったけれど、それが僕にとっての自己紹介なのだ。僕という個人はあまりにもつまらなくて、ちっぽけで、だから本当は話すことなんて何もないわけだけれど。

 

 以前、彼とこんな話をしたことがある。たしか僕が大学に入る前のことだった。浪人中だったか、あるいは合格後だったかは忘れてしまったけれど、入学以前であったことは間違いない。

 京大という場所に、革新的な出会いを期待していたのは確かだ。変な連中が集まる場所だというのは幾度となく聞いていたから、自分の目から見える世界を尽く塗り替えてくれるような、そんな存在に会えたらいいと思っていた。それでも、何だか信じきれない部分があって、つまり僕は疑っていた。京大だなんてハイレベルな大学へまで行って、それでも見つからなかったらどうしようかと、そんなことを彼に零した。いまにして思えば、浪人中はかなり精神を病んでいたので、ただ単に勉強したくないだけだろお前、と言ってしまいたくなるけれど、彼はそれでも真摯に答えてくれた。その返答が、いかにも彼らしいというか、それを聞いた当時の僕はひどく笑ってしまったものだけれど、彼曰く、僕は出会えた、とのことだった。だからきっと君にも見つけられるだろう、と、そんなことを言っていた。

 これは少し前にも書いたことだけれど、大学に入ってからというもの、僕はそういう相手のことをずっと探していたのだ。決して分かり合えはしなくとも、それでも世界を擦りあわせられるような相手を探していた。それが、感情墓地の存在意義だった。

 僕はこれからも色々なことを色々な風に書くだろうし、以前言っていたことと真逆のことを平気で言ったりもするだろうし、適当なことをそれっぽく書いたりもするのだろうけれど、それは間違いなくその時の僕自身が思っていたことであり、嘘でも偽りでもない。

 嘘じゃない。

 そういう文章が書きたかったんだ、いまは。

 

 今度、彼に会えるかもしれないという話がある。そのときには、是非とも彼に知らせてやりたいことが一つあるのだ。そんな話の事、彼はきっと覚えていないのだろうけれど、それでも、話してやりたいと思う。

 僕も、出会えた。そんな気がする。

 みたいな話を。