アンチテーゼ

 

 忍野扇

 彼女は『物語シリーズ』に登場するキャラクターである。主人公、阿良々木暦と同じ高校に通う15歳の女子高生という設定であり、その初出は『傾物語』のプロローグである。その場面において、主人公である阿良々木暦に向かって、彼女は次のような問いを投げかける――信号機がすべて赤になる瞬間が存在するのを知っているか、と。そして、それに続けて彼女はこんな風なことを言うのだ。

 

「全ての信号機が危険を表す赤を示した時こそが最も安全であり、一方で全ての信号機が安全を表す青を示した時こそが最も危険であるという矛盾――青信号を渡るとき、まるで神様に守られているような気になっている人間ばかりだけれど、実際には全部青よりはマシという程度でしかない。そんなことなら、横断歩道なんて渡らなければいい。こういう当たり前のことを、誰かが、たとえば私が言い出さなくてはならない。世界は愛で満たされているだとか、人間は愛し合うために生まれてくるだとか、子どもには幸せになる義務があるだとか、そういったことをぺちゃくちゃと陶酔しながら言っているようだから簡単に足元を掬われる。世界はどれほど危険な場所かということを自覚しなくてはならない」

 

 僕は彼女のこういうところがどうしようもないほどに好きであり、またどうしようもないほどに嫌いである。ただ、こういうことを平然と言ってのける知り合いがもし現実にいたのなら、きっと毎日が楽しいだろうと思う。不思議と。

 

 どちらかといえば僕は、まさしく彼女が否定したようなことを、声高にとは言わずともそれでも口ずさむ程度には唱えていたいと思う人間なのだと思う。愛は金じゃ買えないだとか、真実は常に追求されるべきだとか、全員が理想に向かってかく在るべきだとか、そういった綺麗事を唱えていたい人間なのだと思う。別に陶酔しているわけじゃなくて(多分)、そういう何かを信じていたいのだと思う。分からないけれど。

 一方で、忍野扇みたく、堂々と真っ向から自分を否定してくれる存在に、つまり自分自身に対するアンチテーゼを体現したかのような存在に、ある種の期待をしているのもまた事実だと思う。僕は彼女のような存在に、あるいはその到来に、焦がれているから、だから、そんな彼女のことがたまらなく好きであり、たまらなく嫌いでもあるのだ。

 

 否定されたい。いや、されたくないけれど。

 でも、彼女がそうしたように、真正面から正々堂々と思い切り殴られたい。

 そう思うことがある。