僕は電線の絵を描けない

 

 昔からずっと疑問に思っていたことがある。昔から? いや、三、四年前くらいからかもしれないから、別に昔と言うほど昔ではないけれど、とにかく以前から不思議に感じていたことが僕にはある。そんなもん誰にだってあるやろ、というツッコミは無しでお願いしたい。これはあくまで一記事の導入に過ぎないわけで、だから、この事象、あるいは疑念が自分に特別なアレだとか言いたいわけでは決してない。

 しかし、だ。

 高校時代の僕は、そこそこ関わりのある人とはどこかしらでこの話題に触れるようにしていて、その度に「いや、それは分からんわ」というようなことを言われていたので、まあ、やっぱりどこかおかしいのかもしれない。特殊というか、独特というか。僕にとってはごく自然に存在する感情なので、これが特段変わった何かであるという認識はないのだけれど、でも、毎日を普通に生活しているだけでも、やっぱり変わった考えなんだろうなあ、と思わされる。

 

 変に誤魔化してもなんだし、そもそもこんなブログ誰も読んでいないだろうし、感情墓地らしくそのまま吐き出そう。とりあえずこれを書かないことには始まらない。

 

 

 

 オシャレって何???????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????

 

 

 

 あまりにも未知の概念過ぎてクエスチョンマークを439個も使ってしまった。いや、でもマジで何なんだろう。染髪とかピアスとか、あるいは別にオシャレに限らず、たとえばちょっとお高めの(その分めちゃくちゃ美味い)料理とか、たとえば性能の良いらしいシャーペンとか、たとえば書きやすいと噂のルーズリーフとか、べっっっっっっっっっっっっっっつにそんなのどうでもよくないか? 服なんて着られれば何でもいいし、料理なんて食べられれば何でもいいし、シャーペンなんて書ければ何でもいいし、ルーズリーフに至っては最早どうでもいい。コピー用紙でええわ。たとえばコンピュータとかさ、性能の如何によって快適度に大きく差が生じるものならまだしも、そこにこだわる必要ある?

 

 とか、そんなことを考えてる。実はね。

 

 誤解されたくないので断っておくけれど、僕はそのことを否定しているわけではない。「その人にとっては価値があるんだろうなあ。でも、僕には全くないよ」というだけの話だ。オシャレの楽しさについて嬉々と語る人の前で「オシャレとか何の意味もなくない?」なんてことは言わない。ここはどこまでも私的なブログでしかないから、だから上のようなことを書いたのだと弁明(弁解?)しておく。

 で、この話をすると大抵言われるのが、「お前面白くない奴やな」とか「いや、それ(オシャレをすること等)って普通じゃない?」とか「陰キャ乙w」とか、こんな感じの言葉だ。ざっけんなよ。そんな下らないことで他者の人間性を値踏みしようとするお前らの方がよっぽどだろ。なにより、そういう人間から見え透く、『常識』とやらが世界普遍のものであるという傲慢な思想が気に食わない。腹が立つ。ムカつく。死ねばいいと思う。そんなに自分の価値観だけに縋って生きていきたいのなら一生自分の世界に引きこもったまま出てくんな。

 

 おおよそ中学生の頃からいわゆるオシャレとかいう謎概念が自分の辺りを漂い始め、僕はそれをずっと煩わしく思っていたわけだけれど、だから、ずっと疑問だったわけだ。その疑問というのは先ほどの「オシャレって何?×439」ではなく「どうして自分はそれに価値が見いだせないのか?」だ。これがまるで分らなかった。だからこそ、上のようなことを言われたときに僕は反論できなかった――まあ、答えを掴んでいたとしても反論はしなかっただろうが。面倒だし、相手も面倒だろうし。

 食についてもそうで、親がたまに高級そうな肉を買ってくるたびに、別にスーパーの安いのでええやん、と思っていた(いま思えばめっちゃ失礼だ。ちゃんと感謝して食べろバカ)。高い肉はもちろんその分美味しいわけだが、いや、でもたったそれだけじゃん、と思ってしまう。そこに大した差があると僕は思わないし、だから安い方を買えばいいという結論が出てくる。シャーペンもルーズリーフも同じだ。どうでもいいんだ、全部。

 

 というようなことを、まあ僕は、誰彼構わずというわけではないにせよ色々な人間と話してきた。「僕って料理なんて食べられれば何でもいいと思ってるんですよね。なんでかは分かりませんけど」とか、こんな風に。

 この問いについてまともなアンサーを返してくれた人間がこれまでに(覚えている限りで)二人いて、それは共通して「お前は食に関心がないだけ」だった。言われてみれば、なるほどたしかに、という感じではあった。ある対象に対しての興味がそもそもないのなら、その中でいくら差があったところで「何でもいい」という答え以外に出てくるはずがない。興味がないから。

 

 そういうわけで「何でもいい」の理由は「関心がない」で解決した。オシャレもまあ同じだ。関心がない。一度与えられてみれば、どうして思いつかなかったんだというくらいにしっくりくる言葉だ。何でもいいし、どうでもいい。勝手にやってろという感じしかない。大体の人間がそれに関心を持つようになるというのは不思議なことだけれど、残念ながら僕はそれに関心を持たなかった。それだけの話だったらしい。

 これで万事解決かというとそうでもない。「関心がない」にも何かしらの理由があるはずだ。こうやって次々に理由を求めることは多くの場合キリがないけれど、しかし、納得できるラインまで落とし込むことはできるはずだ。それはどこにある? どうして僕はそれに関心がないんだ? こうして、古くからの疑問は少しだけ姿を変えて、再び僕の頭の中に住まうこととなった。

 

 さて。

 こんな記事を書いているということは、そのことに自分なりの答えを見つけられたからなのだけれど、それは前記事『欠落』を書いた四日後くらいのことだった。そういう風に結びつけてしまうと不思議と腑に落ちるというか、そうだったら納得できるという結論だ。少し都合のよすぎるような気はするけれど、でも、これが正しいような気もする。

 

 『何も見えない』からだ。

 何も見えない。その一言に尽きる。だから、僕はそれに関心を持てない。

 

 僕は電線が好きだけれど、電線の絵は描けない。僕は青空が好きだけれど、その魅力は語れない。僕は日光を零す木々が好きだけれど、別に樹そのものが好きなわけじゃない。彼らを眺めるために自転車を止めることすらある。だけど、そのときの僕は彼らを見ているわけではなくて、多分彼らが見せてくれる世界の方だけを見ている。だから、僕は電線の絵を描けない。知らないから。

 『欠落』を書いてからというもの、ずっとこんなことばかりを考えている。自分としてはかなり納得できそうな結論だけれど、でも、だからこそ、これでいいのかという気持ちもある。なんだか言葉に踊らされている感というか、些か拡大解釈が過ぎる感というか。まあ、夏休みはまだまだ長いので、もう少し考えてみようと思う。また何か新しいことに気づけたら……そのときもどうせこんな風に長々と記事を書くんだろうなあ。