欠落

 

 事を表面的に捉えすぎるな。

 これは僕が愛読している某シリーズに登場する某キャラクターが言い放った言葉だ。覚えようと思って覚えたわけではないから細部が微妙に異なっているかもしれないけれど、だいたいこんな感じの言葉だったはずだ。どうしてかは分からないが、僕はこの言葉を胸に刻み付けている。いかにも良い言葉っぽいものなら他にもいくらでもあったろうに、何故だかこの言葉だけが忘れられない。でも、ついさっき、その理由が何となく分かったような気がした。それは、多分、他ならぬ僕自身が事を表面的にしか考えていないからだ。だから、深く突き刺さった破片の影を、いつまで経っても忘れられない。

 

 あの日、木屋町通で見た光景を今でも覚えている。あの日、視界に映り込んだそれに失望にも似た何かが沸き上がってきたことを、今でもはっきりと覚えている。でも、そんなことはどうでもいいはずだ。僕の大嫌いな奴らがどこで何をしていようが自分自身には全く関係が無いわけで、そもそもいま僕がこうしている間にも世界中でバカ騒ぎが行われているのだろうし、だから、覚えている必要はもとより傷つく必要さえない。無視していればよかった。無感情に、無関心に、ただ其処にいればよかった。それなのに忘れられないのは、やっぱりそれなりの理由があるのだろう。

 

 誰かを疑ったことが一度もない。だからといって信じたことがあるわけでもない。僕は人間の善性のようなものをずっと信じているつもりだったけれど、でも、実のところ、そんなものには何の興味もないのかもしれない。よく分からない。疑うにせよ、信じるにせよ、その立場を維持することにはエネルギーを要する。そして裏切られると傷つく。めんどくさい。できることなら考えたくない。だから、疑いもしないし信じもしない。これが自分の型に一番近い気がする。僕は事を表面的に捉えている。そうしようとしているわけではないけれど、結果的にそうなっている。考えるのが面倒だから。

 

 疑わないし、信じない。つまり、他人への興味が無い。他人に無関心になるといいと言われたことがあるけれど、自分ほど他人に無関心な人間はいないと思っている。僕は誰かと関わるときに、きっとその個人を全く見ていない。仕草だとか、癖だとか、服装だとか、そういったことにはまるで目を向けない。そもそも相手と目を合わせないし、なんなら何もない机の上をぼーっと眺めていたりする。そういう意味では、他人に対してほとんど無関心だ。木屋町通の件だって、あの場にいた有象無象には一片の興味もない。そうじゃない。僕が失望したのは、あんな奴らに対してでは決してない。もっと別のものを見ていた。そして、多分、それしか見ていない。

 

 いつからこうなってしまったのだろう、と思う。やっぱり彼のせいだろうか。ここ最近、文章を書こうとすると、なにかと彼の話題を出してしまいたくなるけれど、それだけ自分の人格形成に大きく関わっているということなのだろう。しかし、それらが彼から与えられたものばかりかといえばそうでもなくて、元から自分の内にあった何かが彼との接触をきっかけに発芽したという解釈が恐らくは正しい。

 

 幼少期のトラウマというか何というか――この世界はどうしようもなく終わっているという意識があって、というよりはそれを植え付けられて、自分はその病気を治療したいのかもしれない。奴らに奪われた世界と彼の見せてくれた世界とを重ね合わせて、それを取り返そうとしているのかもしれない。そして、それがどうやら叶いそうもないことにいちいち傷ついているのかもしれない。そう考えると、何だか滑稽に思えてくる。人は小さい頃に失くしたものに一生涯固執するという言説があるけれど、どうやら僕もその一人だったようだ。