創作

 

 創作という営みを、僕はきっと他の何物よりも愛している。しかし、その理由はまるで分からないというのが正直なところだ。「君はどうして創作をやっているんだい?」なんて訊かれようものなら、「やりたいからだよ」と差し当たってはあたり障りのないような言葉を返すほかない。絵描きは小学生の頃に、文字書きは中学生の頃に、作曲は高校生の頃に、それぞれ始めたわけだけれど、そこには理由めいたものが色々とあるにせよ、しかし『創作』という行為に繋がったのは何故だろうと思うことがある。

 

 どうして僕は創作をやっているんだ?

 

 承認されたいからやっている、というわけではない。某サークルでの新歓でSSを書くメリットとして「承認が得られる」ということを掲げた人間が何を言うんだと思われるだろうが、少なくとも自分は本心からそう思っている。承認目的で創作活動をするくらいなら死んだほうがマシだとすら思っている――これはただの自戒(?)で、誰かを攻撃する意図は全くない――し、実際、自分の作品が誰かに受け入れられようが受け入れられまいが別にどうだっていいと考えているような節が少なからずある。そりゃまあ認められれば嬉しいし、否定されるとかなり落ち込むけれど、それは作り手が抱くものとしてはごく普通の感情であって、論点はそこじゃない。その感情は創作という行為によってどうしようもなく生じてしまう副産物であり、創作の目的では決してない。

 

 誰かに褒められたから、というわけでもない。褒められた記憶がないというわけではないけれど、でも、どちらかと言えば否定された記憶の方が多いような気がする。それは必ずしも僕の創作に対する否定ではなかったけれど、しかし、似たようなものだった。たとえば、僕は音大への進学を考えていた時期があったのだけれど――まあ、いまにして思えば「なにアホなこと考えてんねん、お前は」という感じではあるけれど、しかし、当時は三割くらい本気だった。当時の僕は勉強が好きなわけではなかった(むしろ大嫌いだった)し、高校時代に一番打ち込んだものといえば作曲であったし、自分にその才能がないことは嫌というほど分かりきっていたけれど、それでも、せっかくなら好きなことを学びたいと思っての考えだった。そのことを父親にそれとなく伝えたところ、自分がそれまでにやっていた音楽を思い切り否定されたという事件があり、でも、だからってどうということはなかった。何というか慣れきってしまっていて、絵描きにせよ、文章にせよ、作曲にせよ、自分がその行為に見出しているほどの価値をまるで共有できない存在が、この世界に腐るほどいるのだということを僕は知っていた――しかし、よくよく考えてみるとそれは至極当たり前のことというか、そもそも僕だってそうで、父親がやたらとCDを集めている洋楽のカッコよさを、僕はあまり分からない。同年代の子たちが熱心に取り組んでいたクラブ活動の価値も分かっていないし、世界中の金持ちが躍起になって身につけている宝石類の価値もまるで理解できない。要するに、自分がある対象に見出している価値なんてものは、結局、自分のものでしかないわけで、それを全人類に普遍の概念であると捉えるのは些か傲慢が過ぎるというもので、きっと僕はそのことを、何となくだけれど、それでも十分すぎるほどに知っていた。

 

 承認を得るためでもないし、褒められたいわけでもない。じゃあ何のためにやってるんだという話だ――まあ、こうしてだらだらと書いてきたわけだけれど、実を言うと自分が何のために創作をやっているのかという問いの答えはおおよそ分かっている。そうであっても、冒頭で書いたように「何で創作やってんだろ?」と思う瞬間があるということもまた事実であり、それは言うなれば燃料が切れそうになった瞬間だ。自分を創作へと駆り立てる原動力が尽きてしまいそうなとき、僕の意識全体をその疑念が支配し始める。だからといって、創作をやめてしまおうと考えたことはほんの一度もなくて、それはただ単純に燃料が尽きたことがないからだろう。まあ、尽きるはずがないというか、半永久機関というか、僕の創作を支えているのはそんな何かしらだ。

 

 絵を描き始めた理由のようなものは、たとえば『Nightmare City』というFlash作品だ。何歳の時かは覚えてないが、小学校一年かそれ以前かに観たものだ。当時は何の意味も理解していなかっただろうと推察するが、しかし、あのとき僕ははっきりとした熱をたしかに受け取った。高校生になって再会できたときには、それはもう発狂するかのごとく喜んだ。

 文章を書き始めた理由のようなものは、たとえば『歌に乗せて』という二次創作作品だ。これはたしか小三ぐらいの頃で、ネット上のとある小説掲示板(懐かしい響きだ……)でその作品は公開されていた。当時の自分に『二次創作』なんて概念はなかったわけだが、それに触発されてちまちまと文章を書き始めた。途中で一度離れた(絵の方に移った)のだけれど、中一の時に『ひぐらしのなく頃に』を読んだことで再発し、中学の間はそればかりだった。

 作曲を始めた理由のようなものは、たとえば『Evans』という楽曲だ。これは中二の時に、知り合いを経由して聴いた楽曲だった。その旋律が生み出す世界観にやたらと感動を覚えた自分は、それからしばらく音ゲーにのめりこむわけだけれど、いつからかそんな音楽を自分も作ってみたいと強く思うようになっていた。作曲をしている知り合いがいたので、その人から色々教わりながら、結局、高校生の間は作曲ばかりをやっていた。

 

 僕の創作を支えているのは、あるいは最初に僕を創作という世界へ誘ったのは、そういう作品に触れた瞬間に伝わってくる感動の類だったりするのだろうと思う。彼らから伝播する暴力的なまでの体温を、僕は創作へと注ぐエネルギーに変換している。だから半永久機関みたいなもので、振り返ればいつだって彼らはそこにいるのだから、尽きるはずがない――尽きてしまいそうだと感じるのは、彼らの与えてくれる感動が薄れているというわけでは決してなくて、救いようのないほど馬鹿な僕が彼らの存在を忘れているだけのことだ。

 

 どうしようもなく創作をやりたいと思う瞬間がある。そしてそれは、正であれ負であれ、何かしらの熱を自分が受け取ったとき――より正確には、それを拾ったときだ。たとえば霧四面体さんの『アオルタ』を聴いたときとか、広瀬さんの『なおしほ』を読んだときとか、『椎茸殲滅』の看板が撤去されたときとか、アイマスの現地ライブへ行ったときとか、たった一つであれ同じような考えを持つ人間に出会ったときとか、逆にまるで理解できない人間に出会ったときとか、最近だとymdさんのSSを読んだときとか、そんな瞬間は大学へ入ってからの一年とちょっとの間だけでもいくらだってある。それらを自分の中に眠っている何かしらと結び付けて、加工して、そうやって僕は創作を成し遂げる。つまり、僕にとっての創作という営みは、言うなれば、僕の世界に綺麗な風景を与えてくれたことに対する感謝みたいなもので、そんな一方的なメッセージに返事が来ないことは分かりきっていて、だから承認を得たいわけでも褒められたいわけでもなくて、『具体的な何かとして作り出すこと』そのものに意味がある。

 価値がある。

 そういうわけで、「君はどうして創作をやっているんだい?」と訊かれたら、僕はやっぱり「やりたいからだよ」と返す。ともすれば答えに窮した際に零れさせる言い訳のような言葉を、それでもはっきりと答える。疑いようもなく、それが最上位に据えられている目的だからだ。

 

 最近は何かを作っているときに「この作品が誰かにとっての始まりになったらいいなあ」なんてことを考えることがある――烏滸がましいことだけれど、でも、そう思う。拾った宝石を心のプリズムに翳すことで手に入れた百の色で、あり余っている白紙のキャンバスを出来るだけ綺麗に彩って、ヒトツ、またヒトツと、どこかへ適当に飾り付ける――僕はそんなことをしてばかりだったから、たまには拾われる側に立ってみたいという思いがないわけでもないのだ。でも、それは僕の知り得ないところで起きていたり、あるいは起きていなかったりするのだろうな、とも思う。僕の作品を拾ってくれたのがどこの誰なのか全く知らないが、でも、僕がそれを知る必要は全くない。そうやって始まりの鎖をどこまでも繋げていけたのなら、それってとても素敵なことじゃないか、なんて絵空事を今日もまた一つ空に描いて終わりだ。

 

 だから、僕は創作という営みを他の何物よりも愛しているのだと思う。始まりの灯をずっとずっと遠くへまで繋げることで彩られてゆく世界は、きっとこの現実に存在する何物よりも鮮やかな色をしているに違いないと――そんな夢物語を、僕は未だに子どものように強く信じている。

 僕はその一部になりたくて、だから『創作』を始め、そして、今も『創作』を続けている。