麻薬の幸福

 

 昔からそうだった。僕がありもしない何かを心に思い描くのは、直接は見えない何かを妄想するのは、なにも曲がり角の先に限った話じゃない。目に映ったそれが何であろうとも、僕は勝手にその中間を補おうとする。過程を妄想する。無関心であることが人一倍苦手なんだ。そして、自分勝手に傷ついて、世界を呪う。昔から、ずっとこれの繰り返しだ。あの帰り道も、あの事件の後も、あの事故の日も、昨日の夜も。いつの頃からか、僕は誰かを呪ってばかりだ。

 

  

 それはたとえば、街中で配られている広告紙だ。

 多くの人はあんなものを必要としてはいない。だから受け取らない。いちいち断るのも面倒だから受け取ってやろうという人でも、帰ったらすぐにゴミ箱へ捨てるだろう。それならいい。それはいたって正常なことだ。僕だってそうする。でも、中には受け取ったものを街中へ棄てていく人がいる。路上だったり、公園だったり、こんなものは要らないと笑いながら棄てていく。僕はそうやって棄てられたモノを見るたびに、とても悲しい気持ちになる。これを作った人はこの様を見てどう感じるだろうかなんてことを考えてしまって、ひどく暗澹たる思いをする。

 目のつかないところで棄てられるのなら、まだいいんだ。ひっそりと、誰にも気づかれないままに消えていけるのなら、それは比較的幸せな最期だ。でも、街中へ棄てられた彼らはそうじゃない。心無い人間によって道端に棄てられて、道行く人には邪魔臭いゴミとして疎まれ、決して誰に拾われることもなく、長い時間をかけて朽ちてゆく。

 そうやって、まるで存在しない方が世の為だと突き放すような扱いを受けるために彼らは作られたわけではない。そんなことを平然とできる人間の思考が、僕には理解できない。そんなことを、つい叫びたくなる。まぁ、でも、本当は分かっているんだ。棄てられた彼らを見て、この世界の多くの人は――あるいは、作った本人でさえも――何とも思わないことくらい、中学生の頃から知っていた。

 思えば、それが世界に対する最初の絶望だった。中学校での話だ。公立中学へ進学すると、我が子が学校での勉強に後れを取らないようにと塾へ通わせたがる親が多い。もちろん塾側もそれは分かりきっているから、定期試験の前後になると塾の広告紙を配ろうとする。そして、その場所に最も適しているのが、中学校からの帰り道だ。それはそうだ。だって、一番効率がいい。僕からすれば、たまったものではなかったが。

 あの日、何があったかは覚えていないけれど、僕は少し遅れて学校を出たのだと思う。校門を出て百メートルほど進んだところに彼らはいた。どうせいるだろうなと思ってはいたし拒む理由もなかったので、僕はそれを受け取った。家に帰ったらすぐに捨てようなんて、呑気にそんなことを考えていた。そこからしばらくだけ歩いて、僕は絶望した。何に、と問われると答えに窮するけれど、きっとこの世界そのものに絶望したんだ。何があったかなんて、もう大体の想像はついているだろう? そして、それは正しい。その想像通りの場面に僕は遭遇して、何もかもが嫌になった。

 

 

 それはたとえば、社会的に問題視される出来事の中心人物として世間を騒がせる誰かだ。

 この狭い日本という国一つを切り出しても、今日も誰かが誰かを殺し、誰かが誰かに殺されている。世間で取り沙汰される殺人事件なんてほんの一部で、実際にはもっと多くの人が死んでいる。そうはいっても、日本警察の検挙率は非常に高いなんて話を聞いたことがある。その話の通り、この国で起こる大体の事件は犯人が捕らえられ、その素性や事件の経緯が大々的に報道される。それを見た誰かは「怖い事件だ」と言い、「頭のおかしい奴もいるもんだ」と言い、「早くそいつを死刑にしろ」と言う。そして、殺人犯のことも、事件のことも、自分の投げた石も、五分もすればすっかり忘れ去る。

 たしかに、殺人に結びつくような行為は到底許されるものではない。それを引き起こした人物は正当な機関で裁かれるべきだ。その主張は全くもって正しい。それに、事件を受けて恐怖心を覚えるのも全く正常だ。それらを否定するつもりはない。僕の話したいことは少し違うところにある。

 僕が気にしているのは、事件に至る過程だ。この世には愉快犯というものが存在し、どうしようもなく理解できない動機で犯行に及ぶ人間というのが少なからずいる。でも、それは大多数ではない。多くの場合、常軌を逸した行動へまである個人を追いやった何かが存在するはずだ。それは、ミステリーでいうところのハウダニットに近い。それなのに、暴走した個人へ石を投げるだけ投げて、その背景を顧みることもせず、この世にありふれた消耗品の一つだとでもいうかのように忘れ去る人間の思考が、僕には理解できない。何も生産的じゃない。彼らはきっと自分が正義側の存在だと思っているのだろう。自分は正しいのだと、あいつらは間違っていると、自分を肯定するためだけに石を投げているのだろう。そうでもしないと承認が得られないのであろう人間は見ていて哀れだ。

 二つ目の絶望は、三年前にあったとある事件だ。事件内容は、新幹線内で男が焼身自殺をしたというもの。結構衝撃的な出来事だったから覚えている人もいるかもしれない(Wikipediaによると『東海道新幹線火災事件』と呼ばれているらしい)。あれは本当に前代未聞のことで、新幹線初の火災事故だとか当時は言われていたような気がする。その辺りはよく覚えていない。たしか、男のほかにも一人死者がいた。

 新幹線の中で焼身自殺なんて明らかに常識から外れている。いくら自殺をするにしても、だ。そういうわけで、世間の反応はといえばそれはもう凄まじかった。最早ただの誹謗中傷のようなものまで見られた。「頭がおかしい」、「気が狂っている」、「何考えてるんだ」、「どうかしている」。そんなものばかりだった。正直、気が滅入った。いまとなっては死んでしまった個人にそんな言葉を宛てて何になるっていうんだ。死体蹴りがそんなに楽しいか。あぁ、楽しいだろうな。死人に口なしっていうもんな。不平を言わない悪者を殴るのは楽しいよな。でも、それで自分の器を満たせるお前らはその程度の人間だってことだよ。ずっとそう思っていた。

 どうして彼がそのような奇行に走った理由に誰も目を向けないのだろう? どうして自分は正常な側の人間でい続けられると信じていられるのだろう? 正常な個人を異常な何かへと変容させた“それ”が、自分の身には決して降りかからないと本気で思っているのか? 何故その過程に目を向けようとしない? 姿を見せない“それ”に独り追いつめられた彼が放った最後の悲鳴を、どうしてそうやって独善的に踏みつぶすことができるんだ? どうしてそんなに他人へ無関心でいられるんだ? どうしてそんなに自分のことだけを考えて生きていられるんだ?

 そんな風に、行く宛のない声が頭の中をぐるぐると廻っていた。異様な死を遂げた彼の最期に、僕は何かのメッセージを読み取ろうとしていたんだ。そんなもの分かるはずもない。しかし、考えないわけにはいかない。だから、考えた。でも、僕がそうしている間にも、世間は事件のことなんてすっかり忘れてしまう。まるで、そんな出来事は初めからなかったかのように、綺麗さっぱりと。そういう世界の在り方を前にして、こう思った。みんな、自分のことしか考えていない。誰も他の誰かのことなんて気にすらしていない。そうして僕は、有体に言えば、世界を諦めた。中学生だけじゃない。大人だってそうなんだ。つまり、それがこの世界の本質だ。そう思った。

 あの日以来、ニュース番組はまともに見ていない。

 

 

 それはたとえば、不運な事故だ。

 何も悪いことをしていない人間が自身の立場などの理由から謝罪させられる、あるいは非難される光景が、この国ではよく見られる。分かっている。あれは形式的なものだ。予測不可能な事態によるものであったとしても、こちら側が提供すべきサービスを提供できない事態に陥ったのであれば謝罪の念をとりあえずは示しておこうというものだろう。でも、同時に不思議に思う。たとえば人身事故で電車が動かなくなったとき、電車を管理する側に謝罪を求める人間が果たしているのだろうか、と。そういう愚かな奴らがいるからこそ、そういう仕様になっているのだろうし、まぁ実際のところ、そういう人間はいるのだけれど、彼らは本当に何を考えているのだろう。同じ人間だとは思いたくない。

 三つ目の絶望は、最早思い出したくもない事件だった。あれほど醜い人間の本性をまざまざと見せつけられた出来事はない。

 2016年9月21日、僕は予備校へ行くために最寄駅――まぁ今更伏せる必要もないけれど、一応伏せておく。事件の詳細が知りたいなら「線路 高架 逃走」とでも調べれば四番目くらいにヒットする――へ向かった。しかし、駅のホームへ入るよりも先に異変に気付く。というのも、駅の前でやたらと人がたむろしているのだ。それに少しだけ見えるホームにいる人の数も、その時間にしてはかなり多く見えた。それだけで何が起こっているのかは大体分かる。どうせ電車が止まっているんだ。そう思って僕はTwitterから路線名で検索をかけてみた。こういうときはTwitterを使うのが一番早い。すると、案の定、電車が止まっているらしく、それに関するツイートで溢れかえっていた。人身事故だったらしい。復旧の見込みもまだ立っていないようだったので、すぐに引き返して、その日は家で勉強することにした。ここまではよくある話だ。ここで終わっていればまだよかったんだ。でも、この事件はそうじゃなかった。まだ続きがある。

 帰ってすぐの昼過ぎのことだ。いや、もしかしたら夕方だったかもしれないけれど、そんなことはどうでもいい。とにかく家に帰ってからの話だ。その人身事故を受けてホームにいた客たちへの対応に追われていた駅員の一人が、制服などを脱ぎ捨てて線路へ逃走したという話を聞いた。地元つながりの人間がそれなりにいる僕のタイムライン上ではそれなりに話題になっていたから、嫌でも目についた。それを聞いた時、とても驚いた。だって、そんなのは異常だ。どう考えても普通じゃない。だから、僕はすぐにその経緯について調べた――といっても、大した労力を払ったわけでもない。Twitterを使えばその原因はすぐに分かる話だ。そして、それは僕に絶望を与えるに足るだけのものだった。

 簡単な話だ。遅延対応をしていた駅員を数人(あるいは数十人)の人間が寄って集って文句を言いまくっていた。罵声を浴びせていた。そして、それは次第にエスカレートしていった。駅員が制服を脱ぎ捨て逃走を始めたときには笑い声すら起きた。それだけの話だ。たったそれだけの、ただただ気分が悪くなるだけの話だった。彼らはこうも言っていた。駅員が逆ギレして線路に逃走した、と。

 知らなければよかったと思った。見なければよかったと思った。地元で起きた事件でさえなければ知らないままでいられたんだ。でも、だめだった。知ってしまった。それは地元で起きたからこそ、僕にとっての絶望になり得た。許せなかったんだ。自分の住んでいるところで、そんな奴らがのうのうと生きているという事実が受け入れられなかった。自分の都合だけで何の非もない他人を攻撃し、虐げて、笑いものにして、挙句の果てには逆ギレ扱いをする。そんな連中が自分のすぐ近くにいるという現実がどうしようもなく嫌になった。耐えられなくなって逃げ出した人の心の痛みを思いやる程度の想像力もないのに、まるで自分たちが高位の存在であるかのように下品に笑う馬鹿どもに腹が立った。どこか遠くの、テレビの向こう側の存在じゃない。これまでにすれ違っていたかもしれない誰かがその場にいたかもしれないという可能性だけでもう限界だった。

 誰も彼も自分のことしか考えていない。他人に無関心だ。自分が無関心であることに無自覚的だ。誰だって誰かに承認されたくて仕方がないのに、誰もが他人に無関心なんだ。だから、石を投げる。仮初の快楽に酔いしれる。架空の承認に縋ろうとする。まるで地獄だ。こんな世界、呪わずにいられるはずがない。

 

 

 どうして今更こんな話を書く気になったのだろうと思う。なんだか、自分らしくない。だって、こんなものは文章とすら呼べない。詩的な表現も、哲学的なテーマも、メタファーも、何もない。自分の感情をどこまでも感情的に書き殴っただけの文字の羅列でしかない。全く無価値だ。それでも、無性に書きたくなった。叫びたくなった。だから書いた。そんな日もあるだろうと流してしまってもいいけれど、でも、実は、何となくだけれど理由は分かっているんだ。

 

 

 昨日の夜、僕はまた世界を呪った。自分勝手に、一方的に、独善的に、世界と自分を切り離した。もう何度目だ。いい加減学習しろよと思うけれど、仕方ないんだ。自覚的に他人へ無関心でいられるほど、僕は大人じゃない。

 といっても、昨日はこれまでとは少し違った。

 隣に人がいたんだ。話を聞いてくれる人が。

 こんなバカみたいな話を、未熟で幼稚な話を、それでも聞いてくれる人がいたんだ。

 それはもう麻薬のようなものだ。どれだけ言葉を尽くしても形容できない感情だ。承認なんて言葉じゃ片付けられない、きっとその立場になった人にしか分からない何かだ。それを踏まえた上で何とか言葉にするのなら、何というか、救われた気がしたんだ。これだけ呪いに呪った世界で、それでも自分の声に耳を傾けてくれる人がいるという事実に、胸が嘘みたく軽くなった。たったそれだけのことかと思うだろ。あるいは、嘘っぽいなんて思うかな。でもきっと、たったそれだけのことに突き動かされて、僕はいまこれを書いている。だから、あれは麻薬なんだよ。触れた瞬間に全身を支配してしまう。この感情からは決して逃げられない。

 

 

 結局、この記事はある種の勝利宣言みたいなものだ。自分の呪った世界に対する一方通行の宣告だ。このたった一行だけの言葉の為に、僕はここまで文字を綴ったんだ。

 

 お前たちよりも僕の方がずっと幸せだ。ざまぁみろ。