椎茸殲滅

  

 日常の何気ない瞬間に癒されることがある。青空のキャンバス上を真っすぐに走る鮮やかな飛行機雲を見つけたとき、誰にも気づかれないようにひっそりと佇んでいる小道を抜けると見知った場所へ出たとき、あるいはもっと単純に、心を動かされる風景を前にしたとき。非日常とまでは言わないけれど、それでも滅多に姿を見せてくれない彼らの影に触れられる瞬間が大好きだ。あの瞬間、内に湧き上がる名状し難い感動を、それでもあえて言葉で表すのだとすれば、『安心』の一語が最も近いのだろう。この腐りきった世界が未だ綺麗な一面を残してくれていることに、ある種の秩序を今もなお貫いていることに、僕はとても安心する。きっと誰にも理解されないのだろうけれど、それでいい。これは僕だけの感情だ。

 僕は人間のことが大嫌いだ。心底嫌いだ。何なら滅んでしまえばいいと思う。仮に人類を破滅へ導くような重大な事件が起きたとして、たとえそのせいで自分自身も死ぬことになったとしても、僕は笑いながら死んでいくのだろうと思う。ざまぁみろ。これが世界を傲慢に扱いすぎた末路だ。潔く死ね。そんなことを言うに違いない。そのくらい嫌いなんだ。テレビでは芸能人のどうでもいいスキャンダルが日夜放送され、程度の低い連中はそうやって有名人の悪行が暴かれ堕ちてゆく様を見て矮小な心の器を満たし、政治家気取りの馬鹿どもは小学校の学級会よりもひどく醜い討論を何の恥ずかしげもなく繰り広げ、ツイッターでは自分の居場所を主張したいだけの有象無象が何ら理性的でない思考を大っぴらにして自己満足に浸っている。どこもかしこも見渡す限り馬鹿しかいない。人類が進化の末に得た知能がこの程度のものだというのだからお笑い草だ。僕はそういう人間気取りの人間が一番嫌いなんだ。そんな奴らが堂々とのさばっているこの世界のことも大嫌いだ。だから、この世界は腐りきっていると、僕はそう言ったんだ。

 そんな腐りきった世界で、それでも生きていけるのは先に挙げたような彼らがいてくれるからだ。傲慢で嘘つきの存在が支配する秩序も何もない世界で、それでもなお自分らしさを貫いて気高く在る彼らがいてくれるからだ。彼らはあまり人前に現れたがらないけれど、でも、それでいいんだ。いまもこの世界のどこかに彼らのような存在がいることを感じさせてくれさえすれば、きっと明日も前を向いて生きていける。ひょっとすると彼らがその姿を見せてくれるんじゃないかなんて期待を胸に生きていける。だから、それは、言うなれば希望だ。すっかり真っ黒に染まってしまった世界を、それでも美しく彩らんとする彼らの高尚な理想を希望にして僕は生きている。これは何も誇張した表現じゃない。事実であり真実だ。水分や栄養素が生きていくのに不可欠であるように、彼らの理想もまた僕が生きていく上では欠かせないものなんだ。

 だから、彼らの理想が奪われる瞬間に立ち会ってしまうととても悲しくなる。それと同時に腹立たしい。それを奪っていくのは他ならぬ人間だ。僕の大嫌いな連中が僕の大好きな存在を奪っていくんだ。それがどれだけ不快なことかなんて、たとえ僕の心が微塵も理解できなくたってそのくらいは分かってくれるだろ? でも、だからって歯向かおうだなんてことは思わない。僕のような人間の方がマイノリティであることくらい自覚している。奴らの常識に照らし合わせれば、きっと僕の方が異常なんだろう。奴らの方が正常なんだろう。多勢に無勢というやつだ。勝ち目がない。だから、僕はこうして文章を書いているわけだ。せめてもの抵抗として。あるいは、社会という名の人間に殺された彼らへの手向けとして。

 あぁ、僕は君のことが本当に好きだったんだ。あんなに大きくて運びづらいものをわざわざ作ってまで何の中身もない馬鹿げた内容を大々的に主張しようと思う馬鹿がこの世界にはいるのだと実感できる瞬間が、本当に愛おしくて仕方なかった。景観なんて言葉で綺麗に着飾って自分たちの都合を覆い隠そうとする連中を前にしてもなお自分らしさを貫いて在り続けようとした君の理想が、本当に眩しかった。今となってはもう遅すぎる告白だけれど、僕は君のことをきっと愛していた。でも、そんな君とも今日でお別れだ。それが人間の選んだ答えだ。この世界を彩る理想がまた一つ真っ黒に塗りつぶされて、それだけですべてが終わりだ。僕は無力だ。何もできない。こうやってこの世界を呪うことしかできないんだ。

 もしも、いつの日かにまた会うことがあれば、そのときにはぜひ教えてほしいことがあるんだよ。君は一体何のために生まれてきたんだろう? みんなに笑われて、雨風に曝されて、無言のままに殺された君は、一体何のために其処にいたんだろう? 僕はそれが知りたい。でも、実を言うと、君が何て答えるのかはもう分かっているんだ。だから、これは何の意味もない、何の中身もないやりとりさ。それでも、また会えた日にはそういう話がしたいんだ。だって僕らにはそれがお似合いだろ? 君の返事を聞いてきっと大笑いしてやるから、だから、そういう話をしよう。

 

 それじゃあ、また会える日まで。

 さようなら。