分岐点

 

 孤独とかいうありきたりでつまらない枠組みに自分自身をあてがいたくないというのが正直なところですけれど、分かりやすい言葉を探そうとなれば、結局のところ、孤独という単語それ一つに尽きてしまうよなあという感じがします。孤独。孤独って何ですか? 自分のことを、あるいは誰かのことを、その人を指して孤独だと言えるほどに孤独という概念に馴染みがあるかといえば、別にそうでもないなという気がする一方で、昔からずっと知っていたんじゃないかという気もします。どうなんでしょう、分かりません。皆さんはどうですか?

 

 孤独って、要するに閉塞感だと思うんです。どこへも行けないと唄うのが米津玄師で、どこへでも行けると唄うのが藤原基央ですけれど、それはさておき、どこへでも行けるとか行けないとか、そういったことを僕らに考えさせるのが閉塞感というやつで、つまりは孤独というやつの正体なんじゃないか、みたいな。壁があるとかないとか、鍵がかかっているとかいないとか、この世界を生きている人間のおおよそはそういったことを気にも留めていないなんて百も承知で、それでもその透明に呪われてしまった人間はどうすればいいのでしょう? 『気にする程見られてもいないよ』なんて言葉を言えるのは、それこそそんな孤独を抱えて生きてきた人だけなのでしょうけれど、何というか、それはさておき、そこまでの強さは持ち合わせていないという感じですよね。ままならないものです。

 

惡の華 / 押見修造』という作品を読みました。漫画です。全十一巻。吉田音楽製作所のほうの一個下の子から先日借りました。タイトル自体は以前から知っていたんですが、言ってしまえばまあそれだけでしかなくて、特に印象強く残っていたというわけでもありませんでした。今日は起きてからずっと文字を書いたり何だったりをしていて、その休憩がてらに軽く読んでみようと手を伸ばしたが最後でした。気がつけば食堂は閉まっているし、というか二二時だし、いや何? って感じです。魔法? 自分は本当に一度スイッチが入ると抜け出せなくなるタイプなので(そのスイッチがうまく入らないことがあまりに多くて、それで苦労してるんですが)、こういうことが割と頻繁に起こります。晩御飯どうしよう。これを書き終える頃には最悪日が回っているという可能性すらあるのですが……。

 ギブアンドテイクというか、今回のアレはなんか割とそんな感じでして、惡の華を貸してくれた子には以前「BUMPの『ハンマーソングと痛みの塔』って曲がめっちゃ良いから聴いてほしい」といった旨のことを言って、しかもその子はどうやらちゃんと聴いてくれたらしく、だからまあ次は僕の番という感じでして、そんな彼が好きらしい惡の華を借りて読んでみたという次第でした。好きなものを押し付けるのって本当に注意深くやらなきゃいけなくて、そういうわけでまあ普段はやらないし、やるとしてもブログとかTwitterとかで適当に発信する程度なんですけれど、その、なんていうんですか? だから、そういった何かを共有できる相手って割と珍しくて、割とっつうかかなり珍しくて、大切にしていかなきゃなあと思ったり思わなかったり。僕が彼の価値観に勝手に共鳴しているだけという説もあります。いや、ほとんど何も知りませんけどね。ほとんど何もというか、実際何も知りませんけど。でも、それこそほんの少しの言葉を交わしただけでそう感じる程度には、僕の意識は彼のことを好意的な対象として処理しているらしく、そういう相手が好きになったものなら多分自分も好きになるだろう、というおよそ浅はかな思考のもと、「持って来てくれたら読むよ、惡の華」などと軽率にも発言してしまったのでした。

 

 結論から言えば、よかったです。よかった? これは『今週読んだ本の話』を更新しなくなった原因の一つでもあるんですが、どれほど良い作品に触れたところで、自分の言語野がそいつらを上手く表現してくれなくてですね。『サクラダリセット』とかも、既に三周ほどしているくらいには好みの作品だったんですが、それを伝えようとwordを立ち上げて、何もうまく言えねえ、と画面をたたき割るまでがテンプレになってしまい、このままいくとパソコンの修理費だけで破産してしまうと思い至り、そんなこんなで泣く泣く更新を中断しています。嘘です。半分くらい。上手く言えないのは本当で、もう一つの理由は、何かを読み終えた後に文字を打ち込む気力があったりなかったりするからです。本自体はあれからもちょくちょく読んでいて、以前から書店で気になっていた『天久鷹央の推理カルテ』をいまは読み進めています。まだ途中ですけど。

 

惡の華 / 押見修造』を一通り読んでみて、思ったところをバーッと書いてみます。ほとんど自分の話ですけどね。

 

 周りにいる奴らって本当に救いようのない馬鹿ばかりだな、なんてことを本心から思って生きていた時期が僕にもありました。主に高校生の頃です。そういえばつい最近、大学以前のことがあまり想像できない、といった旨のことを言われたのですけれど、その真意はこのことと全く関係ないのであろうことはさておいたとして、高校生の頃の自分はかなり尖っていたなあ、といまにして振り返ってみるとそう思います。尖っていたというか、いや、尖ってはいませんね。僕は大阪桐蔭高校出身なんですが(中学は普通に公立)、大阪桐蔭は課題の設定量がいちいち頭おかしくて、学校も夜遅くまで自習室として開放していたり、というか休日も普通に教師の方がいたりして、いや、どんだけ勉強させたいねん、と一学生ながらに思っていました。

 仲のいいクラスメイトはそれなりにいました。本当にそれなりでしたけれど。だからまあ高校へ通うのが嫌になったということは、本当に不思議なことに一度もなくて、ズル休みは何度かしましたけれど、それにしても、いまにすれば何がそこまで自分を駆り立てていたのだろうかと思わず首を傾げてしまいます。自転車で三、四十分ほどかかる距離にあったんですが、いや、本当にどうして馬鹿真面目に通ってたんでしょう? 不思議です。

惡の華』での彼らが正しくそうだったように、読んだ本に影響を受けるという話はとても他人事だと思えないんですよね。誰しもそんなもんなんでしょうか? そもそも本なんて読みませんか? 僕も大して読みませんし、これまでに読んだのなんて九割ラノベですけれど、いまの自分に繋がっている作品はかなりの数あると思います。いちいち挙げているとキリがありませんけれど、『ひぐらし』『うみねこ』『物語シリーズ』辺りはまあ間違いないなという感じです。以下のツイートは六年も前の、つまり僕が高校一年生のときのものなんですが、

とかね(何が?)。高校生の頃が本当に一番ひねくれていたので、その当時に触れた作品、なかでも『終物語(上)』はかなりの影響を受けているなあと他人事のように思います(この時期に触れた作品といえば『DEATH NOTE』にも結構影響を受けているような気がします)。なまじ自分も似たような経験があっただけに尚更、というより、これまでの自分が通ってきた道にあったあれこれについて考えたのが高校生の頃でした。懐かしいな。その結論として、人類全員馬鹿(意訳)、という最悪の答えに至ったことを思えば、何というかって感じですけれど……。

 

 一方で、そういったあれこれの話を周りの奴らにしたことは一度もありませんでした。まあ、しませんよね普通。僕が何をどう思っていたかとかそんなことは関係なく、世間一般の高校生って普通はそんなことを話さないんですよね。このソシャゲが楽しいとかあの芸能人が可愛いとか、まあ何かそんな感じのことを話してたんですかね? いや、知りませんけど。何も思い出せないってことは、実際どうでもいいことばかりを話してたんでしょうね。教室で交わした言葉なんて思い出せます? 本当に何も覚えてないな。

 馬鹿しかいねえなあ、と思っていたのは本当のことで、しかしそれにしても今は違って捉えられるというか、逆にいまの自分がどうしてそういったことを考えなくなったのかという方へ目を向けてみると、それが結局閉塞感だよなあ、という気がするんですよね。高校生の頃といえば物理的にどこへも行けなくて、日常は特にかわり映えもせずに同じ場面を流すばかりで、授業中は寝て、適当に課題をこなして、サボって、そして帰る。終わり。何もない。何かあればいいのになあと退屈してみても、クラスメイトは相も変わらずどうでもいいことできゃっきゃと盛り上がっていたりして、それが馬鹿みたいだなあって。要するに羨ましかったんですかね。違うかもしれませんけど。そうやって閉塞感をまるで覚えていなさそうな奴らの姿を見て、許せなかったのかもしれません。分かりませんけど。『惡の華』を読んでいるとそんな気持ちになりました。似てるとか似てないとかじゃなく、「いつかの自分にもあったなあ、こんなことが」という気持ち。追体験? まあ、いまも似たり寄ったりな感じではありますけどね。

 

惡の華』で春日と仲村がそうだったように、あの二人はどこかしらで繋がりあっていて、どこかしらで食い違ってもいて、もしもあの二人が出会わなかったらどうなっていたんだろうなあと思います。春日はともかく、仲村のほう。エンディングを見るに、何がどうなったところで最後は案外落ち着いていたのかもしれませんけれど、いや、でもどうなんでしょうね。あの結末がハッピーエンドかといえばそうでもないなという気持ちがいまの自分にはあって、あと何周かするつもりなのでその過程で評価が変わるかもしれませんけれど、仲村に関してはハッピーではなかったよな、という。毎日毎日太陽がグルグル同じように回ってそれが綺麗だとか、嫌ですよね、なんか。手放しでは喜べないというか……、読んでる途中は一人称の春日視点でばかり作中世界を捉えていたのであまり気になりませんでしたけれど、仲村に感情移入して読んでみるとまた違った風に見えてくるような気がします(最後のシーンはそういう役割も持っていると思っている)。ハッピーエンドではないにせよ、仲村は多少救われていたんですかね? それだといいんですけれど、そこまでの判断はいまの僕にはまだできません。そりゃ真っ当に生きていくことは一般的に良いことなんでしょうけれど。でもまあ、どうあれ仲村が消えないでいてくれてよかったという春日の言葉は本当にその通りで、その点においてはやはりハッピーエンドと言ってもいいのかもしれません。うーん。仲村はどんな世界を見ていたんでしょうね。彼女は彼女で、とても綺麗な空を見ていたんだろうなあ、という気持ちです。いまのところ。

 

 あの山の向こうまで走って、という仲村の言葉が結局あの作品の全部だったんだなあ、と思います(ちょうどこのタイミングで一巻を読み直し始めました)。高校生当時の自分を矯正(?)してくれたのがこのブログにたびたび登場する彼だという事実は、まあ今更取り立てて話すようなことでもありませんけれど、そういえば僕も彼と同じような話をしたことが結構な数あったなあと、読みながら考えていました。遠くの話をしがちですよね、ああいう頃って。それはいまもですけど。そんな彼とよく言っていたのは「広島に行こう」ってことでした。これにしても、別に遠くならどこでもよかったというか、いや、どこでもよくはないですけれど、でもまあやっぱりどこでもよくて、どこかへ行きたいってだけだったんだろうなあと、いま思えば。

 

 始まりは勝手にやってくるけれど、終わりは自分で探さなきゃいけない。それが『惡の華』の筆者が言いたかったことの一つのようです。僕の主観で言えば、終わりこそ勝手にやってくるものだと思いますけれど、しかし先の主張もある意味では正しく、これは要するに視点の問題で、勝手にやってきた終わりを受け入れる努力をしなきゃいけない、という意味なのかなあと思います。分かりやすいところで言えば死ですが、終わりは往々にして唐突にやってきて、そのことに対する区切りを見つけるのが僕らの役目なのかなあ、みたいな。いつまでも彼の後ろ姿ばかりを(引きずってるつもりはありませんけど)引きずっている自分としては、六巻か七巻辺りで春日が通りすがりの人を仲村と勘違いするシーンとか、結構胸が痛かったです。『終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる』。これは『HAPPY / BUMP OF CHICKEN』の歌詞ですけれど、終わらせる勇気さえ持てない自分は、これからどこへ向かえばいいんでしょうね。分かりません。いっそどこへも行かなくていいんじゃないかという気がしますけれど、そんなことばかりも言ってられませんし。『移動こそが幸せの本質』らしいので(これは『いなくなれ、群青 / 河野裕』の一節)。

 

 何はともあれ、『惡の華 / 押見修造』、良い作品でした。予想通りというか何というか、相当好みの部類だったように思います。これをもし高校時代に読んでたらどうなってたんだろうなあ、と考えるとちょっと面白いですね。ちょっとどころじゃなくかなり面白いですね。そうなると、彼とのかかわり方も多少変わっていたのかもなあ、なんて。まあそんなこんなの感じでした。仲村が一番好きだな、いまのとこ。

 

 ほら、やっぱり日跨いでるじゃんか。本当に何食べよう……。

 

 

 

創作最高だなって話をしてもいいですか。

 

 マジでめちゃくちゃ嬉しいことがあったので、ひとまずそのことについての報告をさせてください。

 ちょうどいまから一年前、僕と霧四面体さん*1とで作った楽曲『終末的存在仮説』にカッコイイMVがつきました。有志の方々が作ってくれたようです。本当にありがたいことです。

 

・楽曲『終末的存在仮説』

www.nicovideo.jp

 

・MV

www.youtube.com

 

(よかったら観てください。)

 

 今日のバイト帰りに偶然発見したんですが、見つけた瞬間マジで嬉しすぎて喜びの舞を思いのままに舞っていたら京阪電車が全線運転見合わせになりました。すみません、自分のせいです。

 以前に「この曲でムービーを作っても構いませんか」というお話は頂いていて、それだけでもう十分すぎるくらいに嬉しかったんですけれど、いや、こうして実物を見るとなんかもうあれですね、感情の針がねじれの位置へまで吹き飛んでます。不良品。

 前にも同じことを書いたように思うのですけれど、僕はこういう風にして作品と作品とが繋がっていく瞬間が本当に大好きで、遡れば高一か高二の頃に作った楽曲が音ゲーシュミレーターで遊べる譜面になったときとか、太鼓の達人の公募へ挑戦したこともあったのですが、そのときの曲にムービーを当ててくれた動画がYouTubeに公開されていたときとか、自分の作品を見てくれている人がいるんだなってのもそうなんですけれど、もっとこう、そういう承認めいた何もかもを振り切った先にある感情でこれは、音楽から映像が生まれたり、映像から文章が生まれたり、文章から音楽が生まれたり、そういったどこまでも正の循環を起こすだけの力が創作という営みには宿っていると僕は思っていて、だから、自分がそういう連鎖の一部分になれたんだということが純粋に嬉しかったりします。いやもうマジで嬉しい。心底嬉しい。これだけであと一年は生きていけますね。ここで言っても届かないでしょうけど、制作に携わっていただいた方々、本当にありがとうございました。とても良かったです。

 

 近況について話します。気がつけばブログを二週間ほど放置していました。いや、放置してたってわけじゃないんですけど、特に更新もないのに見てみたら毎日平均五、六人ほどがアクセスしていて、物好きもいるんだなあと思いつつ、更新したいなあとも思いつつ、でもなかなか時間が取れなくて結局何も書けないままでした。だから久々です。このキーボードをバチバチする感覚。

 この間に何をしてたかって話なんですけど、まあ曲を作っていて、その締め切りが今日だったんですよね。一月の中旬くらいから作り始めていた気がするので、まるまる四ヶ月くらいかかってしまったわけですけれど、だけどそれに見合うくらい良い曲になったな~とは思います(自画自賛の手前味噌)。そのうちニコニコへ公開します。歌モノです。

 命削って曲作ってました。というのも、今朝の三時頃、また気絶したんですよね。三月頃にあったのと同じ感じで、意識がホワイトアウトしていくような正しくあれでした。無茶はよくないなあと改めて認識するとともに、でもこの程度の無茶で何かを生み出せるんなら安いもんだな、とも思わなくはないです(反省しろ)。もっと命を削っていこうぜ、みんな。創作ってそういうもんだよ、きっと。

 

 もうじきに発表になるんで書いちゃうんですけど、今回制作していたのは上で紹介した霧四面体さんとの合作だったりします。これもまた後日詳しく書くと思いますけれど、一年を経て二曲目です。いや、本当に楽しい! 他の誰かと一緒に何か一つのものを作るって最高ですね、本当に。僕、音楽サークルの人に(余裕のある範囲で)片っ端から声をかけて合作してるんですけど、これも何かさっきの連鎖の話に繋がっていて、創作って別に一人だけで完結するものでもないと思います。いや、一人でも完結させられますけれど、二人いたっていいという話です。合作は本当に楽しいです。自分にできないことができるようになります。視界の次元が一つ増える感じ。それまでは見えていなかった軸が見えてくる。そんなに楽しいことって他にないなと僕は思うわけです。みんなやりましょう、合作。文章でも出来たらいいんですけど、文章だと構成と執筆とでわけるんですかね。音楽で言うところの作曲と編曲みたいな。ぜひやりたいですね。絶対楽しいよ。

 

 今日はとりあえず、『終末的存在仮説』のムービーを見れたことと、霧四面体さんとの合作が無事完成したことの二つが何よりも嬉しかったって話で終わりです。

 創作、いいですね、やっぱり。できることなら一生こんな風に生きていきたいです。

 

 

 

*1:吉田音楽製作所の先輩です。僕がとても尊敬(?)している方です。

同じ空を見ていなくとも

 

 

 青色は幸せの象徴だと思う、みたいなことを試しに言ってみたら秒で否定されたという経験があります。否定? 否定っつうか、何ですかね、もっと別の見方があるくない? みたいな。たとえば、真っ青と言うと具合が悪いという様を想像するし、青いという言葉は未熟という意味でも用いられるし、まあ言われてみればそれはその通りなんですけど、でもそれはそれとして、青という色を目前にしたときにそういった負の連想がそもそも湧き上がらないという話を僕はしたくて、それは青に限らず色全般に言えることですが、血の気が引いている様とか何だとかを比喩的に表す色として青へ向かって矢印が伸びているというイメージがあって、そしてその遷移は不可逆的というか一方通行というか、要するに、青とそれらとはたしかに結びついているけれど、ほとんど無関係という感じがするんですよね。だけどまあ、それを言えばこと幸せに関しても同様で、だから結局は主観の話になってしまうわけですけれど、僕にとってのそれが幸福です。チルチルとミチル、はその実なんの関係もないわけですけれど、でも似てはいますね。青とは幸福の象徴であり、ずっとそれだけを追いかけていて、一生かけても届かない。そういう色ですよね、青ってやつは。

 

 身近な誰かが何を信じて生きているかとか、そんなことを話す機会なんてものは今後一生ないんじゃないかな、という気がします。だって、知りませんし。というか、みんな案外何も信じずに生きてるんじゃないかな、という気さえします。僕が野球や政治に全く興味がないのと同じ感じで、だからどの組も支持していないのと同じ感じで、貴方は何を信じていますかという問いに対して、自分の中でそれなりの筋が通った思考の下で何か一つのものを挙げられる人。いるんですかね、そんな人。もしいるとすると、それは盲目ですよね、最早。この世には楽しいことなんて他にもいくらだってあるんですよ、多分。美しい風景も、耳を塞ぎたくなるような言葉と同じくらいにはありふれている。それなのにたった一つだけって、そんなことあるんですかね。でもまあ、あるんでしょうね、人によっては。だから、そういう話を聞いてみたいですよね、僕の身近にいてくれている人達から。無いんだったら無いで全く構わないんですけど、信仰なんて持っていて都合のいいものかといえばそうでもないし、だけどまあ、あるなら是非とも聞いてみたい。無理にとは言わないし、だからこちらから話を振ることもないわけだけれど、いつかそんな感じの話をできる誰かが現れてくれたら素敵だな、と思わなくはないです。一個下の彼らとかからは何というかそんな感じの雰囲気を感じていて、だからもっと仲良くなれたらいいなあと思ってるんですけど、思ってるだけです。

 

 人はよく何かを別の何かに喩えるじゃないですか。僕にとっての青空も、空の青さもきっとそんな感じで、繋がっているはずもない全く別の何かと結びついてしまっているような感覚があります。青空は、たとえば彼のことなんでしょうか。はっきりとは断ぜませんけれど、何となくそんな気がします。空の青さは、曰く恋の正体だとか。青空の理想って何なんでしょうね。僕はそんなこと知りもしませんけれど、それはどこまでも真っ直ぐだという感覚を勝手に覚えています。とはいえ空ほど立体的な概念もそうそうないという気がしますけれど、僕が空から真っ先に連想する図形といえば直線です。次点で球面。天球とか言いますし。青空の幸福って何なんでしょう。それが僕の幸福でないことだけは確かなんですが、でもまあ、それを一方的に定義しようとしている時点で、それはやっぱり僕の幸福なのかもしれません。遠くに在ればいいですよね。ずっと遠くに在ればいい。僕とよく話す人はすっかり聞き飽きていることかと思いますけれど、何にしても手なんて届かない方がいい。触れられない方がいい。空も、月も、星も。それがここからは遠く離れたどこかにあるから好きでいられるし、だからせめて自分が終わる瞬間まではそうであってほしいと思う。そんな感覚、ありません? 青空だなんて抽象化された対象でなくとも、僕は似たようなことをよく思います。二次元平面上のキャラクターとか。こいつがもしも現実にいたら絶対嫌いになる、というキャラクターを、だけど好きになったりすることがあるでしょう。それです。ちょっと違うけど、似たような感じです。それが青空の幸福であってほしいですね。別に、あいつはあいつの好きなように生きればいいと思うんですけど、いや本当に。

 

「そう 僕らは今日も迷いながら いつか見えた星を目指す 指先にそっと触れた白も掴めないよ 僕なんかじゃ」

 

 これは以前自分で書いた歌詞なんですけど、書いたというか、どちらかといえば零れ落ちてきたみたいな感覚が正しくて、それはこのフレーズを書こうと思って書いたわけじゃなく、ふと口ずさんだ言葉がこれだったという意味なんですが、ともかく、九ヶ月くらい前の自分が書いた歌詞です。これも結局何というか、多分そういう話で、触れた白が何かといえばそれがつまりは青空で、夏の温度で、届きたくなんてなかったのに、でも頑張って手を伸ばせば届いてしまうほど近くにそれはあって、だから思い切り手を伸ばしてみて、それでも掴めなくて、ああやっぱり駄目だったって、それだけのことだったんだろうなと思います。当時の自分が何を思っていたのかなんて知りませんけれど、まあ、そういうことなんでしょうね。自分の曲の歌詞について話すの、どうしてもやっちゃうなあ。

 

 青空なんてどうでもいいですよね。どうでもよくはないけれど、やっぱりどうでもいい。青空の理想なんて知りませんし、幸せかどうかも知りませんし、というか関係ありませんし、空の青さがないと生きていけないなんてことも全くないように思います。曇り空が続いたって、何だかんだへらへら笑いながら生きていくんだろうなという気がします。それでいいんじゃないかとも思います。何て言うんですかね。本当にそれはそれでいいことだと思ってるんです。思ってるんですけど、今更そうはなれないよなという思いもあります。曖昧になって生きてけたならいいのに、というのは某後輩の言葉ですけれど、僕個人の話で言えば、曖昧になんてなりたくないという気持ちもそれなりの強度を持っていて、何だかんだ彼もそうなんじゃないかなと思ったりしていますけど、何もかも曖昧になって、空の青さなんて忘れて、それで笑って死んでいけたとして、果たしてそれでいいのかなあという思いがあります。もし青空を知らずに今日までを生きてきたとすると、もしかしたらそんな一生もあり得たのかもしれませんけれど、出会ってしまった以上は仕方がないというか、出会えたことを忘れたくないというか、なんかそんな感じです。そういえば、そんな感じの歌詞も昔に書きましたね。一年前、僕が初めて書き切った歌詞がちょうどそういった話でした。

 

 私たちは同じ空を見ているわけじゃない。どうでもいいと笑いながら、なおも信じている青空の色を、他の誰かも同じように見ているとは限らない。それを直線だという人がいれば、平面だという人がいるし、空間だという人がいる。当たり前。その色を爽やかだという人がいれば、寒々しいという人がいるし、取るに足らないという人がいる。当たり前。だから、それでいいと思うんですよ。誰かと一緒に同じ空を見たいだなんて願ったことはない。頭上に張りついた空色を眺めながら、同じ空を見ていなくとも、だけどとても綺麗な色だって笑いあえたなら、もうそれだけで十分じゃないですか。解りあう必要なんてなくて、眼前に広がるのは全く普遍な空模様なんだと、そんな勘違いを抱えたままで歩いていけたら、もうそれだけで十分じゃないですか。そんな気がしますよね。透き通るような青も、深く滲んだような赤も、吸い込まれるような黒も、全部一緒くたに綺麗な色だと受け入れて、透明色のことを追いかけながら、透明色のことなんて忘れた風に、そうやって生きていけたらいいですよね。そんな感じで生きていきたいです。

 

 ここまでの何もかもが嘘で、何もかもが本当のことです。人はよく何かを別の何かに喩えるじゃないですか。だから全部が比喩で、でも全部が比喩じゃありません。これは、つまりそういう話です。

 

 

 

想い出の町

 

 ここ数日色んな事がありすぎたせいか、気持ちと身体とがうまく繋がっていないような感覚があります。うまく繋がっていないというか、配線をしっちゃかめっちゃかにされたという感じ。伝わりますか? 正直なところ、いまの自分が何を言いたいのかもよく分かっていないし、何ならどうしてwordを立ち上げているのかさえ分かりません。別に言いたいことなんてほとんどないはずなんですけど、でもあるんでしょうね、どっかしらには。

 

 先日実家に帰ったときのことです。実家の布団の寝心地といえば相変わらず笑えてくるくらいに最悪で、しかし目が覚めてしまったものは仕方ないし、明かりを点けて両親の眠りを妨げるわけにもいかないので、外を適当に散歩することにしました。たしか午前六時になる少し前くらいでした。家を出て、西へ下るか東へ上るか迷って、それから山のほうを目指しました。下の景色はあまりにも見慣れているし、それに何物にも遮られていない青空が見たかったという気持ちもありました。十五分くらい坂道を上がって、それ以上先へは進めなくなるくらいのときには最初の選択を後悔していましたが。

 そこからはしばらく北の方へ進んで、そうしたら綺麗に空が見える場所があることを知っていたので、そこでしばらくぼーっと時間を潰していました。家を出てすぐの頃はやけに肌寒かったんですが、それくらいになると不思議と寒さは感じませんでした。雲が晴れつつあったからかな?

 来た道を引き返して、途中で少しだけ寄り道をしました。上ってきた坂道は最後に左へ直角に折れるのですが、そのまま真っ直ぐに進むと階段があるのです。僕はその階段の存在自体はずっと昔から知っていましたが、その先へ進んだことは一度もありませんでした。というのも、その階段がまるで冥界への入り口みたいなそんな感じの風貌をしているというわけでは全くなくて、端的に言って寺院か墓地か、その類の何かっぽかったんですよね。自分が入る場所じゃないという空気がそこら中に満ちていて、だから一度として上ったことがなかったんですけど、その日は何故か先を見てみようという気持ちになりました。そうして階段を上って、その先を知って、十歩も歩かないうちに降りました。まあ、やっぱり自分が来る場所じゃなかったな、と思いました。

 そのまま上ってきた道通りに下るのも何だかつまらなかったので、途中で脇道に逸れることにしました。脇道というか、小中学生の頃にたまに通っていた道なんですけどね。その途中には懐かしいものがいくつもあって、知り合いと二人で踊りの練習をした高台とか、サッカーか何かを集まって遊んでいた広場とか、少し進むと知っているはずなのに知らない景色があって、でも抜けてみたらやっぱり知っている景色だったりして。中学の頃に仲が良かった奴の家が近くにあるはずだから記憶を頼りに探してみて、でも見つかりませんでした。引っ越したのかな。一方で苦手だった奴の家は覚えていましたし、それは記憶通りの場所にありました。そんなもんですよね。

 坂道がなくなるくらいの頃には小学校が見えてくるんですよね、本当はちょっと曲がるんですけど。自分が通っていた小学校です。それを柵越しに見て歩いたりもしました。音楽室の場所をいまでも覚えていたり、図書室の周りに何があったのかはまるで思い出せなかったり、中庭の雰囲気がどこか遺跡っぽくて好きだったなあと思いだしたり、運動場が思いのほか広くて驚いたり。運動場ってあんなに大きかったっけな。昔はもっと狭かった気がするんだよな。

 自分が小学生の頃を振り返って真っ先に思い出す場所といえば、黄色の落ち葉が綺麗な裏庭、三年生の時の教室、その教室と音楽室との間にある非常階段です。非常階段で話していたようなことをいまの自分は残念ながら全く覚えていませんけれど、でもそこで四人くらい集まっていつも何かを話していたなあという記憶だけは残っていて、願わくは残りの誰かも覚えていてくれたらいいな、と思いました。まあ僕だってほとんど忘れていますし、多分向こうも忘れてるでしょうけど。

 うちの小学校、今度名前が変わるらしいんですよね。それまで全く気が付かなかったんですけど、回り終えて小学校の正門前まで来てみると、どうやら何かしらの工事が行われているといった様子で、目を凝らしてみれば、それは小学校の名前を表す部分の改装工事でした。何だか不思議な気分でした。自分とはもう何の関係もない場所なんですが、物寂しいというか、いや、特段寂しいってわけでもなかったな。何なんでしょうね、あの胸の奥が詰まるような感覚。

 そこまで来て、その朝の夢に小中学時代の友人が出てきたことを思い出しました。これは失礼な話ですけれど、僕は友人とそれ以外とを結構区別していて、いや別に失礼ってわけでもない気がしますけれど、自分と他の誰かとが友達かどうかなんてこっちが一方的に決めていいことでもないじゃないですか。それを勝手に決めてしまうのは何だか押しつけがましいというか、むしろそっちのほうが失礼じゃないかみたいな感覚があって、だからといって他の人にとやかく言いたいわけでは全くなくてこれはあくまで僕個人の問題なんですが、だからまあ要するに、他の人を友人呼ばわりすることにそれなりの抵抗があるんです。呼べと言われれば呼びますけれど、そうでもない相手を友人と称することは多分ほとんどないだろうと思います。僕が友人と呼んでいるのは、つまりそれくらいの迷惑を押し付けてもいいだろうと思えるくらいには気の知れた相手だけです。小中学生の頃でいえば、恐らくそいつ一人だけがそうでした。

 そいつとはもう三年以上会っていませんし、いまも生きているのかさえ知りません。だから、地元に帰ってくると自然と思い出すんですよね。あいつ生きてんのかなあ、ちゃんとやってんのかな、みたいな。会わなくなって一年くらい経った頃に一度会いに行ったんですけど、そのときには拒絶されてしまったみたいで、だからそれっきりなんですよね。以来、思い出しはするのだけれど、でも押しかけてもきっと迷惑だろうなと考えるようになってしまって、結局、気が付けば三年も経っていました。

 だからその日もそいつの家の前まで行ったんですよね。運よく会えたりしねえかな、と思って。友人の部屋の窓にはカーテンがかかっていました。一方でリビングには明かりがついていたりもして、これはどうなんだろうな、あいつもそこにいるんだろうかと思ったりして。自転車が明らかに人数分くらい置いてあるから多分生きてはいるんだろうなと思って、じゃああいつ今はちゃんと外に出てるのかなとか、いやでも別に自転車の数があいつの無事を保証してくれるわけではないよなとか、いろんなことを考えました。結局インターホンは鳴らさないままで、まあ朝の八時前だしなあと見え透いた言い訳を思いつつ、家まで帰りました。その日の青空がやけに綺麗で、それが鬱陶しかったことは覚えています。山の上で見たときはあんなにも真っ直ぐだったのに。

 

 成人式の日のことです。成人式なんていうイベントは本当に心底行きたくなかったんですが、会いたい奴がいないわけではなかったので、まあどうせ来ないんだろうなとは思いつつも結局は行きました。まあ大方の予想通り自分が会いたかった相手はいなかったわけですけれど、何というか懐かしい顔がいくつかあって、僕も僕なりに感傷的な気持ちになっていたりしたわけですよね。こいつらと同じ年齢なんだとは到底信じられないなあ、とも思いましたけれど。

 その日、中学時代にそれなりの交流があった相手がその会場にいました。一人は職業体験のときに同じグループになっていた三人のうちの一人で、何度も家に行って遊んだりした奴で、もう一人は中三の移動教室で席が前後だったからよく話していた奴です。何ていうんですかね。こう、もう少し綺麗な何かを想像していたんですよ、自分は。想像していたというか、期待していたというか。前者のほうは僕のことを忘れていたようで、顔を見ても「誰だコイツ」みたいな反応でした。もう一人は、何て言うんですかね、クラス全体を構成する部品の一つ的なそんな感じのことを面と向かって言ってくれました。いや、もう最悪でしたね、本当に。悲しいとか苦しいとか、そういった一切を優に越えてくる感じの、虚無感っていうんですか。まあ自分なんて所詮その程度の存在だよな、みたいな。期待しててごめんな、本当に。誰も覚えていてくれないんだな、いつかの事とかさ。じゃあいいよ、もうそれで。

 

 色んな事を忘れているつもりだったけれど、同じくらいに色んな事を覚えているんだなあ、と思いました。なんだか、それが悲しくて仕方ないんですよね、数日前からずっと。自分はまだあの日のことを覚えているのに、でももしかしたら他のみんなは忘れてしまっているのだろうかと考えただけで、具体的に何がどうとかじゃなくてただ漠然と途轍もなく嫌で、それが悲しいってことなんですけど、東に面した非常階段を柵越しに眺めながら成人式のことを思い出しつつ、そんなことをぼんやりと考えていました。

 たとえば、三年会ってないあいつのことも。地元の奴らと会ってもあいつのことが話題に上がらなくなって、それも何だか悲しくなるんですよね。だからって強いて話題にしようとも思いませんけれど、何というか、みんなもう心の片隅に追いやってんのかなあとか考えてしまって。自分は本当に地元へ帰るたびにいつも思い出すんですけど、あいつらはどうなんだろう。

 

 ここ数日、色々と辛いことが多くて、系登録試験の少し前くらいに数日間続いた不眠症に端を発して、先輩の追いコンも兼ねたイベントの二日目は家で倒れてましたし、そのせいで先輩をちゃんと送り出せなかったこともずっと心苦しくて、それに続いて身の回りで起こった、というか自分の内側で具体化し始めた問題をどうするかということもあって、だから数日くらい前には孤独感が半端なくて、孤独感というかそれこそ虚無感がすごくて、何のために生きてるんだろうなと思いながら、それでもまあちゃんとそれなりに生きていたんですけどね。

 昨日の夜、もう一昨日のことなんですけど、サークルの人たちとご飯を食べに行った先で気が付けばぶっ倒れていて、そのまま病院へ運ばれて検査を受けてきました。曰く突発的な貧血症状だったらしいんですけど、自分でも知らないうちに地面に寝転がされていたという感じで、何が起きたのかさっぱり分かんなくて、目が覚めた時は夢を見ている気分だったんですが、耳元で呼びかける先輩の声や両腕全体を走る痺れなんかが嫌に現実味を帯びていて、ああ夢じゃないのかと頭の隅で考えたのを覚えています。意識を失う直前、だから倒れこむよりも前の事なんですが、その瞬間の感覚だけやけに記憶に残っていて、頭の中が瞬間的に白へ染まる感覚。それもただ単なる白じゃなくて、ノイズ混じりの、僅かな痺れを伴った空白。死ぬときってこんな感じなんですかね。あとはそう、不運な交通事故に遭遇して、これは助からないだろみたいな重傷を負いつつも搬送用ベッドで運ばれているときに見える景色とか、こんな感じなのかなあと考えていました。そう想像してみると、死にたくはないですね。死にたいなんて言葉は気軽に言わないように心がけていますけれど、それでも願ってしまう夜があって、だけどやっぱり死にたくなんてないな。いまは本当にその思いだけが一番強く残っています。色んな人に迷惑と心配をかけてしまって、何なら僕のことを知らない通行人の方も巻き込んでしまったらしく、それに同じサークルの一個下の子を三時間近くも僕の付き添いに拘束してしまって、いやもう何から何まで本当にごめんなさいという気持ちなんですけれど、僕なんかのことをこうやって助けてくれる人がいるんだなってことが嬉しくもあって、それが正直なところです。

 

 

 具体的にいつからなのかと訊かれれば、もしかすると最初からずっとそうだったのかもしれませんけれど、それまでは好きだった人達のことを嫌いそうになっている自分を直視したのが、ちょうど二週間ほど前のことでした。自覚症状そのものは何か月も前からあって、それこそ半年前くらいから薄々気づいてはいて、それでも何とか誤魔化しながらやってきてたんですが、これはダメだなってタイミングがこれまでにも何度かあって、この前ついにその最終防衛ラインがぶっ壊れたという危機感があって、それは何というか、ただ巡り合わせただけの偶然が全てよくない方向へばかり作用しただけのことだったのでしょうけれど、遅かれ早かれこうなってたんだろうなという気はします。

 自分なんか別にいなくてもいいんだよな、という気持ちが何か月も前からずっと、胸の奥の底のほうで沈殿しているような感じがします。昨日の夜を経てもなお変わりません。別に、誰かに認められたいわけじゃないんです。承認なんて、それこそこの冬休みの間に色んな人から貰ってきました。でも、だからこそ、その程度のものでこの空っぽが満たされてたまるかという気持ちでさえあります。

 じゃあ、いったい何を欲しがってるんでしょうね、僕は。

 自分でもよく分かりません。

 

 

 

他人の歌詞を勝手に読むやつ1

  

 前々から吉音(僕が所属しているサークル)の人たちが書いた歌詞を自分がどう読んだか話すやつをやりたいなと考えていて、それは自分が歌詞を書くようになったからということもあるんですが、そんなわけでついに勝手にやることに決めました。その曲を聴いて自分が得たことをアウトプットするという側面も含めて、決して無意味ではないんじゃないかなあと思ったので。

 

 

冬の空に祈りを / コサメガ

www.nicovideo.jp

 

【歌詞】

いつもの道

色づく息

予感に騒ぐ街並み

 

かじかむ手で

ハンドル握りしめ

もうそこまで来てる

 

上り坂グッとペダル踏みしめ

静かに迫り来る向こう側に

雲居に映る明日に祈りを

遙か風が見える

 

青すぎる青空に

巡る世界の冷たさに

立ちすくみ 凍えてしまわぬように

真っ白な 感覚を

やがて溶けゆく輝きを

この胸に刻み付けて確かめたい

 

ビルの窓に

きらめく月

ミラーに映る裏路地

 

ぼやける目で

街灯見下ろして

もう先は見えてる

 

下り坂フッと投げ出す足を

さらっていく風の止む前に

散る残り香に昨日を探すも

夜の闇に消える

 

遠ざかる星空に

眠る世界の静けさに

意味も無く 見とれてしまう度に

繰り返す選択も

やけに見慣れたこの道も

あの星に見る夢に忘れたくなる

 

最高速度で受ける風を

冷めるほどに感じるの熱を

染み込んだ匂いを吐く息を

あきびんに閉じ込めて

「これが私の全て」なんて

こぼした あの冬の夜

 

消えかけの白線に

残るはずもない轍に

気を取られ迷ってしまわぬように

方角のない地図を

どこへも行けないとしても

いつまでも抱きしめていられますように

 

青すぎる青空に

巡る世界の冷たさに

立ちすくみ 凍えてしまわぬように

真っ白な感覚を

やがて溶けゆく輝きを

この胸に刻み付けて確かめたい

 

 

【コメント】

 この曲はTwitterでも一度触れたんですけど、やっぱりちゃんと書いておきたいなと思ったので、まず最初にまとめることにしました。

 

・一番Aメロ(「いつもの道~もうそこまで来てる」)

 この導入部分は、僕が吉音へ所属してからこれまでに見た吉音曲の歌詞の中だと、一二を争うくらいには好きです。こういうの、本人は何も考えずに書いてたりするんだろうなあ、と思うとそれだけで鬱になりますよね、本当に。

「いつもの道」と断ってから「色づく息」、「予感に騒ぐ街並み」と続くので、その「いつも」が徐々に、それも比較的良い方向に変わり始めているんだな、という予想がまず立ちます。よく見かけるやつです。個人的に好きなのは「色づく息」という言い回しです。これ、まあ冬の唄なので多分吐息が白くなることを言っているのだろうとは思うんですけど、「色づく」という言葉には(個人的に)肯定的な変化のニュアンス(有体に言えば期待感)があるような気がするので、それが後に続く「予感」が少なくとも悪いものではないことを裏付けているような感じがあります。この辺は言語センスの問題だなあ、という感じですね。いい。

「かじかむ手で ハンドル握りしめ」の部分までで、大体の情景を頭の中に思い浮かべられるのがすごいですよね、本当に。通い慣れた道があって、白い息を吐く自分がいて、周りには変化の到来に浮かれる街があって、もしかしたらクリスマスの時期みたいなイルミネーションとかあったりもするんですかね、冬ですし。そこで自分は自転車(この時点ではもしかしたらバイクかもしれない)に乗っていて、別に手を添えておけばいいハンドルをわざわざ握りしめている、そんな状況。これがたったの三一文字なんですよね。意味わからなさすぎ、短歌か? 歌詞は最初のうちにどれだけ世界観を固定させられるかが勝負だと個人的には思っていて、それは状況を説明することであったり比喩を用いることであったり、あるいは言葉選びを少し尖ったものにしたり、方法は様々ですけれど、しかしその点で言えば、この曲の冒頭五行は最適解だなあ、と思いました。

「もうそこまで来てる」がトドメの一文です。これ、読んだ人によって何がそこまで来てるのかというのが変わるんじゃないかなあと思うんですけど、どうなんでしょう。まあ何にせよ、この一文は本当にどこから出てきたんだろう、という気持ちでした、最初は。他に何か文章を入れてみようとしても、代案が全く思いつかないんですよね、この部分。自分の中にある指標として、それはつまりbest possibleを意味するので、コサメガ君すごいなあ、って感じです。いや、ホントに。

 

・一番Bメロ(「上り坂~遥か風が見える」)

 一番Aメロの「ハンドル握りしめ」からちゃんと繋がっているのがいいですよね。

 続く「静かに迫り来る向こう側に」が現実世界から内面世界への橋渡しになっているような気がします。気がするだけです。ここら辺、まだふわっとしか呑み込めていなくて、なかなか説明するのが難しいというか、何というか。自転車に乗って、上り坂を上って、その先を目指しているわけですよね。そうすれば当然いつかは上り終えてしまうわけですけれど、そのことを「静かに迫り来る」と表現しているのがなんだか不思議ですよね。多分、何も考えずに書いたんだろうなと思う(これで意図的に書かれた文章だったらマジで最悪すぎる)のですけれど、本人にとってはそんな風に見えていたんだとしたら、それは本当に面白いなと思ったり思わなかったり。

「雲居に映る明日に祈りを」is 何? なんもわからん。まあ、でも、何なんだろ。多分、この曲の根幹部分に青空とか星みたいなファクターがあるんだろうな、と思います。後述のサビでも出てきますし、何なら片方は曲名にも書いてあるし、雲の隙間から見えるものって、青空とか星くらいしかなくないですか(あとは飛行機とか)。それらを「明日」と同一視している感じ、なのかなあ?(適当) それと、ここでの「祈り」って一体何なんでしょうね。分からないことだらけです。

「遥か風が見える」は本当に何も解っていない。後のほうにも「風」が何度か出てくるので、そこと見比べてみたら何か掴めるかなあ、と現時点ではぼんやり考えています。ここら辺は書いた本人がその言葉にどんな印象を抱いているかという話になってくる気がしますね。

 

・一番サビ(「青すぎる青空に~確かめたい」)

「青すぎる青空に」、いいですよね。大好きです、この表現。Twitterにも全く同じことを書きましたけれど、「~すぎる」という表現には過多というか過剰というか、一般的なそれから逸脱しているという印象を受けます、僕は。勿論、程度の大小はありますけれど。それを踏まえて「青すぎる青空」ですけれど、いや、青空が青いのは当たり前やんけ、という話です。それをわざわざ「青すぎる」と言っているということは、語り手はこの「青空」をある種特別視しているのだろうな、という推測が生じます。修飾技法的には誇張法? これは別に批判とかじゃなく単なる比較として持ち出すのですけれど、「青すぎるこの空」と「青すぎる青空」だとやっぱり言っていることが少しずれているという感じがします(ずれているというよりは、離れている?)。前者はただ単に空が青いという事実を言っているのか、あるいは主観的にモノを語っているのか、どっちつかずという感じがありますけれど、後者だと、青空が青いのは当たり前、という前提条件があるので、主観がバリバリに混じってるなあ、という気がします。まあでも、これも個人的な感覚の問題なので、どっちが正解とか、そういう話では全くないです。いやー、良いフレーズ。

「巡る世界の冷たさに」は並列チックな感じですかね。「青すぎる青空」と「巡る世界の冷たさ」が並列になっているということは、語り手にとってはこいつらが同じような類だということなんでしょうね。いまはまだどういうことなのかはっきりしませんけれど。

「立ちすくみ 凍えてしまわぬように」と続くということは、上に並べた二つが語り手にとっては然程肯定的なものではないらしいということを、否応なく感じさせられますね。「立ちすくみ」が「青空」、「凍えてしまわぬように」が「世界の冷たさ」を受けているのかな。あと、最初の三行が全部「に」で終わってるのが割と好きです。

「真っ白な感覚を やがて溶けゆく輝きを この胸に刻み付けて確かめたい」。めちゃくちゃいい。何なんだ、この文章。「真っ白な感覚」というのが何を言っているのかは正直分かりません。単に感動とかそういう何かなのかなと思わなくはないですし、もっとより内側に潜んだ熱みたいな、そういうやつなのかもしれません。でも「真っ白」という言葉には純粋な印象を僕は抱くので、前節の「巡る世界の冷たさ」とかと比べてみると、子供みたいな夢とか、何かそんな感じの話をしてるのかなと思ったりもします。どうなんでしょうね、分かりません。「やがて溶けゆく輝き」って何なんでしょうね。夢とか何だとか、一度でもそういう解釈に陥ってしまうとそうとしか思えなくなってくるんですけど、これは単に雪のことを言っているような気もします。というよりは「真っ白な感覚」を「やがて溶けゆく輝き」という言葉を通じて雪へ投影しているイメージ? これも並列といえば並列なんですけど。でも、それを「胸に刻み付けて確かめたい」と言っているので、雪はあくまで連想されるものの一つであって、一番は「真っ白な感覚」なんでしょうね(?)。

 ところで、ここに至るまで語り手のいる時間帯が確定していないんですよね。動画のサムネに引っ張られてましたけど、だから、もしかしたら朝の話なのかもしれません(わからん)。

 

・二番Aメロ(「ビルの窓に~もう先は見えてる」)

 一番とは少し違った風の情景描写をやってます。

「街」と書いていたので都会みたいなのをぼんやりと想像してましたけど(これは動画のサムネの影響もある)、「ビル」が出てきたのでやっぱり都会だったんだな、という感じ。でも「ミラーに映る裏路地」とも書かれているので、語り手はいま都会から少し離れた場所にいるのかな、という感じもします。「月」があるので、まあ多分夜なんでしょうね(昼にも見えるけど、きらめいてはいないと思う)。

「ぼやける目」というさりげない言葉が、またいいですよね。ただ単に景色を書き出すだけじゃなくて、何て言うんですか、その一枚絵にテクスチャを塗り重ねる感じといいますか、なんだかアニメーションを見ているような、どこまでも語り手の視点から言い表すということが徹底されているなあ、という感想を持ちました。

「街灯見下ろして」とあるので、多分一番で上った坂の向こうにあるのは、どうやら街らしいですね。ここの「見下ろして」もめちゃくちゃいい。細かいところで言葉を選ぶセンスが本当に段違いだなあと、この記事をまとめ始めて今更ながらに思っています。

「もう先は見えてる」。いいですよね、どこか示唆的で。

 

・二番Bメロ(「下り坂~夜の闇に消える」)

 全体的に一番Aメロとの対比になってますね。頭の「上り坂」と「下り坂」なんかは分かりやすい(これは余談ですけれど、BUMP OF CHICKENの『車輪の唄』でも全く同じ対応があります。他はあまりパッと思いつきませんけれど、でもそれは僕が知らないだけで、よく使われるペアなんでしょうね、多分)。「グッと~踏みしめ」と「フッと投げ出す」、「明日」と「昨日」、「見える」と「消える」。何なら「迫り来る」と「さらっていく」もちょっとしたあれですよね(これを指摘するのは些かやりすぎ感がありますけれど)。

「さらっていく風の止む前に」というのは、坂を下りきるよりも前に、ということを言っていると思うんですけど、こんな風にも書けるんだなあ、と思いました、いま。風って何なんですかね。

「散る残り香に昨日を探すも 夜の闇に消える」は、何なんでしょう……。この曲、Bメロが全体的に難易度高め。

 

・二番サビ(「遠ざかる星空に~忘れたくなる」)

 この部分、本当に何言ってるか分からないんですよね(理解力ゼロ)。前半三行はそのままかなあと思うんですが、後半の「繰り返す選択も やけに見慣れたこの道も あの星に見る夢に忘れたくなる」がもう何って感じで。

「繰り返す選択」と言っていますけれど、語り手が何かを選ぶことに迷っているのか、それともただ単に繰り返される選択肢のことを言っているのか、そこは分かりませんけど、歌詞の後半を読む限りでは前者なのかなあ。一番サビの「真っ白な感覚」と合わせて、そこら辺が絡んできてるのかなあ、という漠然とした予想だけがある感じです。

「やけに見慣れたこの道」というのは多分「いつもの道」の延長にある何かだろうと思うんですけど、それにしても、ここの「やけに」って何なんでしょうね、いや本当に。隠し味どころの話じゃないと思うんですけど。さっきも同じことを書いたような気がしますけれど、ここら辺の細かい言葉を添えるセンスがすごいなあ、と心底思います。

「あの星に見る夢に忘れたくなる」。めちゃくちゃ心躍るフレーズですね。「星」とか「夢」とか、僕が好きな言葉が入っているからというだけなんですけど、それ抜きにしても良い言い回しだなと思います。というか、一番サビの「この胸に刻み付けて確かめたい」と対比になっているのがいいですよね。僕の中では「真っ白な感覚」=「あの星に見る夢」で(勝手に)通っているので、一番サビの否定ではないとは思いますけれど。

 

・Cメロ(「最高速度で受ける風を~あの冬の夜」)

 ここ、めちゃくちゃいい。

「最高速度で受ける風を」の部分、というかこれまでの情景描写にCメロの展開が合わさって、ここの加速感が半端ない感があるんですよね。ああ最高速度だなあ、って感じの、そんなあれです。「風」って何なんでしょうね、本当に。

「冷めるほどに感じるの熱を」は撞着法っぽいですけど、まあ実際そういう感覚はあるよなあ、と読みながら思いました。冷たいものがあるから温かいものの在処が分かるんですよね。いいなあ、ここ。

「染み込んだ匂いを吐く息を」も含めて、文末全部が「を」なんですよね。日本語って韻を踏むとダサくなりがち(主観)ですけれど、こんな感じで文末だけ揃えるのはお洒落だなあと思いました。助詞ならではですよね、こう、後に続ける感じで上手く整えられているのは。

 ところで、後半三行があまりにも未知の概念すぎて、どういうことを言っているのかさっぱり解らないんですよね。これまでは分からない分からないと言いつつも、自分なりの解釈が通ってたりしたんですけど、ここだけは本当に解らなくて、どういうことなんだろうなあ、と今も考えていたり考えていなかったりします。

 

・ラスサビ(「消えかけの白線に~確かめたい」)

 最後の最後でド直球なんですよね、この曲。伏線回収って感じ。

「真っ白な感覚」とか「繰り返す選択」とか、もしかしたら「いつもの道」や「やけに見慣れた」の意味なんかも、これまでに出てきたよく分からない奴ら全部の答え合わせって感じがありますよね、ここの六行は、何となくですけれど。書き手の思惑通りの解釈ができている気はあまりしませんが、いやあ、良い歌だなあ。

 僕はめちゃくちゃにめんどくさいオタクなので、「消えかけの白線に~いつまでも抱きしめていられますように」を経た後の「青すぎる青空」が一番サビよりも若干肯定的になったように感じられて仕方がないんですよね。何一つとして変わっていない、全く同じメロディに全く同じフレーズなんですけどね。でも、そんな感じがしませんか?

 

 

【まとめ】

 こんなはずじゃなかった。(CV:藤原基夫)

 本当はもっとサクッとまとめて、あと二曲くらい一緒に書こうと思っていたんですが、思いのほか長くなってしまいました。どうして?

 コサメガ君、本当に良い歌詞書くんですよね。良いというよりは、単に自分好みというだけなのですけれど。いやあ、何を食べたらこうなるんだろうな、本当にな。

 

 

 

忘れたって消えやしない

 

『ray / BUMP OF CHICKEN』の歌詞に以下のような一節があります。

「大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない」

 つい先日、この歌詞について思いを馳せる機会がありまして、そもそもの話、この言い回しについては以前から思うところがあったのですが、折角の機会だしそれら諸々をアウトプットしてみようかと思った次第です。何も知らない人が読めば断片的な文章の羅列に見えるかと思いますが、読む人が読めば僕が何の話をしているのか解るだろうとも思います。

 あ、本題は歌詞の話じゃありません。

 

 痛みってそもそもそんなにマイナスなものじゃないと思うんですよね、個人的には。ちょっと前にも似たようなことを書きましたけれど、悲しい出来事じゃなくたって心が痛むことはあるし、悲しい出来事だってすぐに忘れてしまうこともあるし、自分の内側でずっと鈍く響いている痛みが必ずしも悪いものかといえば、まあそうでもないんじゃないかな、と思うことがあります。勿論、そう思えない瞬間もあって、割合的には二ヶ月に一回くらいの頻度でそれはやってきますし、というかその痛みの渦中にいるときには、そんな風にある種達観した思考を巡らせる余裕なんて毛頭ないわけで、だから完全に肯定しきることは出来ませんけれど、でも否定することもないんじゃないかな。

 歌詞の解釈なんて人それぞれでいいんですよね。正解なんてあるわけがなくて、それは書いた本人の想いでさえもそうだと僕は思っていて、要するに、すべてを決定するのは受け手でしかないと僕は考えています。別に歌詞に限った話じゃなくて、会話でも、SNSでも、小説でも、なんでも。これは以前僕が目にしたたとえ話ですけれど、この文章をいま読んでくれている誰かは、きっと僕の言葉の意味をそれなりに理解してくれていることだろうと思います。「歌詞」とか「解釈」とか「言葉」とか、そこら辺の認識において僕とそちらとで大した差異はきっとないでしょう。では、それがすべて偶然だとしたら? 僕らは偶然同じような言語を使っていて、だから偶然意思疎通ができているように見えていて、だけど実際のところは全く別の言語を使っていて、だからお互いに分かり合えているようで何も分かり合えていなかったとしたら? そういった思考実験があります*1。見えている世界なんて人それぞれ主観によって異なっているというのは僕が繰り返し何度も言っていることですけれど、今回の話は言ってしまえばそれを言語に置き換えたもので、だから僕は最初これを読んだとき、それは本当にその通りだな、と思いました。自分の言葉すべてが相手に正しく伝わっていると考えることも、あるいは相手の言葉すべてを自分が正しく理解していると考えることも、どちらにせよそれは純然たる驕りというかまるっきり勘違いというか、そんなわけないんですよね、実際。僕らは常に間違えているし、だから自分で決めなきゃいけないんですよ、正解を。書いた本人の言葉じゃなくて、その先に落ちている何かを自分自身の手で拾い上げなきゃいけない。そう思います。自分一人で拾い上げられたのなら、それが何よりも正解に近いとも思います。

 だから歌詞の話をするとなると、どうしても僕個人の主観が混じるわけですよね、当然の結果として。でも、それはあくまで僕の話でしかないので、だからまあこういう話はあまりしないんですけど、たまにはしてもいいかなと思わなくはありません。

 何を以て痛みを定義するかですけれど、僕は忘れられない出来事をそう呼ぶような気がしています。何となくですけれど。そんなもの、思い起こせばいくらだって見つかります。ここに書いた話だと、あの日交通整備をしていた人たちの背中を僕は多分二度と忘れないでしょうし、いつかのコンビニで働いていた人のことも。あるいは自殺したゲーム作者のことや、新幹線車両内で焼身自殺を図った人のこととか。何というか、自分の内側がたしかに揺れた感覚、みたいな。いまにして思えば何が悲しかったわけでもないような気がするのに、だけど忘れられないような何か。それ以外にも、単にめちゃくちゃ悲しかった出来事だっていくつもあります。その中でも何よりも今の自分に直結していることといえば、やっぱり彼と離れたことだと自分では思うんですが、でもそれにしたって、その瞬間の悲しみを思えばあり得ないくらいには平気な顔をしてへらへらと生きてますし、この先もきっとそうなんだろうな、と思います。とまあこんな風に、あの歌詞は多分そういうことを言っているのだろうな、と自分の中では一応結論が出ていて、要するに、たとえどんなに心を動かされたとしても、その感動は時間が経つにつれて自ずから薄れていって、だからついつい忘れてしまうけれど、でもよく見渡せば手が触れるほど近くに転がっていたりもして、僕らはそれを忘れてしまうことは決してない、みたいな、そんな感じの。なぜ、どうして、何のため、と思う瞬間はこれまでに何度もあって、きっとこれからも何度もあって、実際、いまだってそう思う夜があります。なんでこうなったんだろうな、とか。今の自分があの頃に立っていたとしたら、何かが変わっていたのかな、とか。後悔とかじゃなく、いや、もしかしたら後悔と同じ類の感情なのかもしれませんけれど、もっと別の何かが込み上げてくる瞬間が、いまだってあるんですよね。たとえば、今日の帰り道とか。でも、そういうのも寝て起きたら忘れていたりして、でもきっとまたすぐに思い出して、そんなことをずっと繰り返していくんだろうな、という話です。

 

 いや、冒頭でも書きましたけれど、別に歌詞の話がしたかったわけじゃないんですよね、今日は。ついでに書こうと思ったらめちゃくちゃ長くなってしまった。本題は次の話です。

 

 僕の好きな色は青、白、黒の三色です。青はできれば透明な方が好みです。触れてみようとしてもするりと抜け落ちていくような、それくらいに透き通った青らしい青が好きです。白はできれば純粋でない方が好みです。それこそ、今日の昼間に京都の空を埋め尽くしていたような、雨を降らせるほどではないけれどどこか黒ずんだ曇り空みたいな白色が好きです。黒はできればどこまでも黒くあってほしいなと思います。青と白と黒とを並べたとして、この三色が決して混じりあうことのないくらいには純粋な黒がいい。それこそ、深夜二時の澄んだ夜空みたいな、そんな感じの。

 

 僕が好きな季節は冬です。切なさ、という点とは若干の共通部分があるのかなと思わなくはないですが、冬の冷たさは世界そのものが眠りについているみたいで、その雰囲気がなんだか好きなんですよね。真冬の深夜とか、何かほんとに嘘みたいな寒さなんですけど、だからこそ何よりも本物っぽいというか、誰かと二人で歩くなら真冬の夜の川沿いだな、と僕は思います。夜の沈黙は詩的ですけれど、冬は特にそれが顕著という気がします。あとは、冬の匂いも好きです。いや冬の匂いって何だよ、と訊かれれば答えに窮してしまうわけですけれど、でも、何かあるじゃないですか、そんな感じのあれが。だから、早朝や昼間に冬の街を歩くことも、割と好きです。冬は最高。

 

 まあ、以前にも書いたんですけどね、この話。

 でも、好きな色と好きな季節の話は何度でもしたいなあ、と思ったり思わなかったりする今日この頃です。

 

 

 

*1:出典は『サクラダリセット / 河野裕』です。何巻での話かは忘れてしまいましたが。

歌詞の話

 

 自分が書いた歌詞の裏話をします。こういうの、あまり好きじゃないんですけど、まあでももう書いちゃったし、ブログなら上げてもいいかなと思ったので公開することにしました。以前にも文章のネタばらしみたいなことをやりましたが、それの歌詞バージョンだと思えば、別にそんなに抵抗ないですね(嘘です)。

 

 多分間違いだらけだと思うので、話半分で読んでください。

 

 

スカイブルーナイトメア

soundcloud.com

【歌詞】

数年前の夏影 一緒に飛び込んだ星空

見えないふりをした傷 見えなかった涙

 

誰にも触れられたくなくて だけどそれでも知ってほしかった

青に塗れた落書きを 夜明け色の空に 唄う

 

数年ぶりの夏空 通り過ぎていく飛行機が

蝉時雨をかき乱す あの夏のように

 

ずっと其処に在ったはずの 暖かな思い出だって

陽炎のように消えるんだ 解っていたよ

 

いつか触れた君の声は いまじゃとても遠いけれど

僕はそれがただ怖くてさ 空を見上げられなかったんだ

 

そう 僕らは今日も迷いながら いつか見えた星を目指す

指先にそっと触れた白も掴めないよ 僕なんかじゃ

 

ああ あの日の僕らが描いた青空の夢に いつまでも溺れていようよ

 

数年前の夏空 通り過ぎていく飛行機を

不思議そうに眺めていた あの夏の日のこと

 

空っぽだったはずの 二人掛けのベンチにさ

君が座っていたんだ 気付けばずっと

 

いつか触れた君の言葉は いまも此処に置き去りのまま

僕はそれを手放せなくて 空に背を向けていたんだ

 

そう 僕らは今日も迷いながら いつか見えた星を目指す

指先にそっと触れた白は 君と暮れた夏の色さ

 

そう 僕らはいま目を覚ました いつか見えた夏はもう来ない

だって知っていたんだよ 解っていたんだよ 君はきっと消えてしまうんだって

 

ああ あの日の僕らが描いた青空の夢に いつまでも溺れていたかった

ああ あの日の僕らが描いた青空の夢に さよならを

 

スカイブルーナイトメア

 

 

 

【コメント】

 最初に書いたのは一番サビの「そう僕らは…僕なんかじゃ」の件です。

 ここだけはマジで何も考えずに書いていて、何も考えずに書いたというよりは思考のステップを何段かすっ飛ばして出てきたフレーズで、「迷いながら」とか「星」とか「白」とか、自分の好きな言葉がこれでもかと詰まっている辺りにその雑さを感じます。だから「指先に触れた白」って何、みたいなことを訊かれても困るんですよね。知らんがな。

 修飾技法についてはあまり詳しくないのですけれど、ここでの「白」はおそらく換喩と呼ばれる部類のもので、前文の「星」に対応しています。換喩というのは、たとえば「白バイに捕まった」みたいな文章が正しくそれで、こいつは白バイに捕まったんじゃなくて白バイに乗った警察官に捕まったんですよね。でも、いちいち言わなくても伝わるから省く。こういうやつです。歌詞に限らず、何か文章を書くときに僕はこれをよく使います、主に色の描写で。便利だからというよりは、そっちの方が幾分か正しく相手まで届くと思っているので。

 ちなみに「星」は比喩なので、「白」が何なのかは「星」の意味を正しく汲み取れないと多分何も分かりません。というかこの一フレーズ全部が比喩なんですけれど、だからこの曲で言いたかったことの全部がここに詰まっているなあと、個人的には思っています。あとは全部、この部分の補足というかヒントです。

 

 次に決めたのは、たしか曲名でした。

 朝起きて、カーテンを開けて、そしたら空があまりにも綺麗に澄んでいたもので、それで青空にまつわる詞を書きたいと思って、でも先に出ていた歌詞があれだからあまり前向きにもなれなくて、というか別に前向きなことを書きたいわけでもなかったし。青空ってどうしたってポジティブなイメージがあるじゃないですか。だから、どうにかしたかったんですよね。ナイトメアが後ろにくっついているのは、そういう理由です。

 この直後に一番サビの後ろにくっついている「ああ…溺れていようよ」の件を思いつきました。あと、二番サビで繰り返せたら面白いよなあ、みたいなことも考えてはいました、薄々。

 

 次が多分一番Aメロ(「数年ぶり…解っていたよ」)だったと思います。

 この曲で語られているような情景を実体験として持っているわけではないのですけれど、青空から連想されるものとして思いついたのが、夏、公園、公共の時計、一本の樹、ベンチ、飛行機、蝉の鳴き声、その辺りだったので、その辺りの言葉を景色がイメージしやすい順に並べました。まずは季節を書いておいて、最初は空を見ているから次に来るのは飛行機、飛行機の次は音繋がりで蝉、最後にそいつらを全部まとめて思い出で括っています。

「数年ぶりの夏空」はちょっとだけ撞着法っぽい表現になってはいるのかな、と思います。撞着法というのは、たとえば「慇懃無礼」みたいに、真逆の意味の言葉をくっつけて文意を成立させる表現法です。一見すると矛盾しているので読み手の注意を引き付ける効果が期待できます。夏は毎年来るはずなのに、にも関わらずそれを数年ぶりと表現していることにはそれなりの意味があって、という話です。

 

 もうここからはずっと上から順に書いていっています。次は一番Bメロ(「いつか触れた…見上げられなかったんだ」)です。

「いつか触れた君の声」は共感覚法です、多分。共感覚法というのは五感同士での入れ替えを行う修飾技法で、たとえば「うるさい味」とかがこれに当たります、多分。声に触れるってなんだよって感じですけれど、ここでは聴覚を触覚に置き換えています。共感覚法のメリットは、別の感覚器官の言葉を使うことによって、自分のイメージを簡潔に言い表すことができる(ことがある)ということにあると個人的には思っています。ここの「触れた」にしたって、言ってしまえば「聞いた」でも十分に文意は通るのですけれど、「触れる」という言葉には、こう、優しくて柔らかいという風のイメージがあるじゃないですか。あとはなんだ、自発的な感じとか? 共感覚法を使うことで、わざわざ説明しなくとも「君の声」にそういった印象を添加させることができます、多分。まあ実際に書くときには、そんなことは全く考えていないわけですけれど。ドントシンクフィール。

 

二番Aメロ(「数年前の…気づけばずっと」)。

 ここから過去編です。

 歌詞を書くにあたって自分が大事にしていることがいくつかあって、同じような言葉を若干変えながら繰り返していくことがその一つです。歌詞はあまり多くを語れないので、これまでに挙げたような修飾技法だったり何だったりを使って、なるべく効率的に伝えようとするわけですけれど、繰り返しも有効な手法だと思います。聴き手に印象付けることができるので。まあ、狙いすぎはよくありませんが。だから、ところどころ一番Aメロと同じようなフレーズになっているのは、そういう理由です。

 

二番Bメロ(「いつか触れた…背を向けていたんだ」)。

 一番Bメロとの対比をやったりしています。「声」は「遠い」けど、「言葉」は「置き去り」になっている、という構造です。なんか、そういう感覚がありますよね、実際として。昔のことを思い返してみると、誰に何を言われたかは割と思い出せるのに、じゃあその誰かがどんな声色で話していたかということはまるで分からなくて、というか記憶の海を潜ってみたら聴覚的な要素だけが完全に抜け落ちていて、数ヶ月単位で会っていない相手の声なんて簡単には思い出せなかったり、でも言葉は覚えているからそれだけを大事に抱えてていたり、ありませんか? そんな感じのこと。

 

二番サビ前(「そう僕らは今日も…夏の色さ」)。

 ここで「白」の答え合わせみたいなことをやっているつもりです。文字の表面をなぞるだけじゃ到底読み取れないとは思いますけれど、ちゃんと歌詞を読むタイプの人はここで大体解ってくれるんじゃないかなあ、と思ってはいます。

 

二番サビ(「そう僕らはいま…消えてしまうんだって」)。

 ここで曲全体の答え合わせみたいなことをやっているつもりです。伏線回収というかなんというか、「数年ぶりの夏空」とか「青空の夢」とか、もっと言えば「星」も「白」も、じゃあそれは結局何だったんだよってことをここで洗いざらいぶちまけている感じです。

 その答えは言葉にすればたったの一言で片付いてしまうわけですけれど、だけどたった一言では片づけたくなかったから、だからわざわざここまで詞を書いたという、そういう話です。

 

二番サビ後半(「ああ…スカイブルーナイトメア」)

 二番サビの補足をしています。答え合わせの答え合わせみたいな。

 ここまで読んでくれた方には薄らと解ってもらえると思いますけれど、中心にある主張を隠すつもりなんて全くなくて、だからって探してほしいわけでもなくて、でも出来ることなら知ってほしくて、そんなどうにもならないジレンマをそのまま曲にしたという、これはそんな感じのやつでした。まあ、イントロの詞にもそう書いてますしね。

 

イントロ(「数年前の夏空…唄う」)。

 センター現代文でも言われるじゃないですか。筆者の主張って大体の場合は最初と最後にあって、そりゃまあ、普通は書きたいことから書き始めるし、最後はそのことをざっと要約して筆を置くし、なに当たり前のこと言ってんだって感じですが、この曲、実はイントロの詞が最後です。出来上がってみればたったの四行なんですけど、それでも三、四時間くらいかけて書いたのを覚えています。それくらい、この曲で言いたかったことを詰め込んでいます、ここは。

 夏空じゃなくて夏影とか、青空じゃなくて星空とか、そこへ一緒に飛び込んだとか、青に塗れた落書きって何なんだとか、どうして空は夜明け色なのかとか。まあ、いろいろあるんですけど、全体を通して読めばちゃんとわかるような作りにはなっているとは思います、一応。

 

 

 

 

「じゃあね、また明日」

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【歌詞】

青はやがて赤になり 月は夜空を忘れて

誰も消えた気がして 街を不意に見渡した

耳障りな静寂に 微か混じる呼吸の音

見慣れたはずの横顔にも 迷い 戸惑った

 

いつだって 何も見えない でも前を向いて

泣いていたって 仕方ないって 歩いてきたけど

何度 夜を凌げば 楽になれるのかなあ

なんて

 

いくつ交わした 言葉の奥の

本当のことはずっと 言えないままで

「じゃあね、また明日」 いつもの合図に

潜めた息をそっと 手放したんだ

 

君が消えた最初の日 午前二時を彷徨った

信号機は青ばかりで 全部 嘘みたいな

 

いまだって 何も見えない 見ようともしない

解ったふり 知ったふりで どこへも行けずに

何度 夜を重ねた 君にも会えないままでさ

 

いくつ交わした 言葉の奥の

本当のことは何も 知らないままで

「じゃあね、また明日」 いつもの合図に

呑まれた声がいまも そこに在るんだ

 

言葉なら何千何万と憶えたのに

たった一つの扉さえ開けないまま

「僕らは他人同士」なんて解っている

でも 一緒にいたっていい そうだろう?

 

いくつ交わした 言葉の奥の

本当の言葉なんて どうでもいいんだ

じゃあね また明日 いつもの合図で

明日も会える今日を 君がくれたから

 

明日も会える今日に 君と逢えたんだ

 

 

 

【コメント】

 この曲はサビのメロディーだけが最初にあって、次にとりあえず曲全体を二番くらいまでバーッと組み立てて、それから歌詞を考えたという順だったと思います、多分。

 その曲を組み立てている途中で、一番サビの「「じゃあね、また明日」」という部分のメロディーがやたらと頭に引っかかって、ここに詞を当てるなら「じゃあね、またいつか」とかかなあ、とメモを取ったことを覚えています。

 歌詞は思うことを思うままに書けばいいと考えているので、だから詞の方向性なんかを僕はいちいち考えたりしないんですが、この曲もそんな感じで、制作時期に考えていたことがそのまま全部並べられています。こっちはさっきに比べるとかなり素直に書いていると思います、多分。

 

一番Aメロ(「青はやがて…戸惑った」)から順に書きました。

「青はやがて赤になり」はスカイブルーナイトメアのほうでも書いていた換喩です。「青」とか「赤」とか、この時点だと何を言ってるのかさっぱり分からないだろうと思いますけれど、後のほうでわかります。一番の歌詞だけでも、想像力のある人なら分かるのかな。

「月は夜空を忘れて」は月が見えないってことを擬人法チックに言っただけなんですが、それとは別に、いまの時間が夜だということを夜という言葉を使わずに表現したかったという意図があります。「夜」という言葉はもう少し別の意味で使いたかったので。

「誰も不意に…見渡した」はそのままです。真夜中の大通りを歩いていたら、世界そのものが滅んだんじゃないかみたいな錯覚を起こす瞬間があるじゃないですか。あるんです。

「耳障りな静寂」は撞着法です、多分。

「微か混じる…戸惑った」はそのままです。あるよね、こういうこと。こいついま何考えてるんだろ、みたいな。

 

一番Bメロ(「いつだって…なんて」)。

 少し場面が変わりますが、言っていることはそのままです。あるじゃないですか、そんな感じの夜。何で生きてんだ、みたいに感じる夜。こういうときって「夜を越える」と書きそうなもんですけど、いやでも全然越えてませんし。なあなあでやり過ごしてるだけです。

 

一番サビ(「いくつ交わした…手放したんだ」)。

 ここもそのままです。文字通りの意味です。実際にこう、知り合いとかと会ってみたら、まあ話のタネはいくつもあって、それなりに笑ってそれなりに楽しんで、でも肝心なことは何も言えなかったみたいな、そんな感じのことがあるじゃないですか。この時期、正確にはそのちょっと前ですけれど、そういったことを経験する機会が多くて、なんかもやもやしてたのがここに出てきた感じです。

 ここでの「「じゃあね、また明日」」は相手側(君)の言葉ですね。一人称側は「潜めた息を手放した」と言っているので。

 

二番Aメロ(「君が消えた…嘘みたいな」)。

 そのままです。比喩とかじゃなく。人が何かの価値に気づくのはそれを失ったとき、みたいな文言がありますけれど、これは実際その通りで、いなくなって初めて必死で探し回ったんですよ、午前二時。どこにいるんだろうかって色々考えて、そんなの解るわけがないのに。どれだけ歩いても迎える信号機だけは何故か青ばかりで、だからどこへだって行けるのに、でもどこへ行っても見つからない。青ばかりが続くことも含めて、君がいなくなったこと自体が嘘みたいだって、そういう詞です。

 一番Aメロとの対比構造を若干入れています。一番では君が隣にいたけれど、二番ではいなくなって探し回っていることとか。一番では信号機が赤だけど、二番では信号機が青だとか。赤はどこへも行けないのイメージで、青はどこへでも行けるのイメージですね。まあ、それが本当は逆だったんだってことを、二番のサビ辺りで言うんですけど。

 

二番Bメロ(「いまだって…会えないままでさ」)。

 一番Bメロからの繰り返しをところどころでやってます。繰り返し、好きなんですよね、使いやすくて。

「いまだって」は一番Bメロの「いつだって」に対応してるんですけど、いつもそうだしいまもそう、ということが言いたくてこのように書いています。

「何も…ともしない」は一番Bメロとの対比、というか軽い否定になっています。何も見えていないんじゃなくて、自分が見ようとしていなかっただけだったという、ある種の心情の変化を書きたかったんです。

「解ったふり…行けずに」もそのままです。信号機は青だけど、でも、どこへも行けない。

「何度…会えないままでさ」も凡そ文面通りの意味ですけれど、ここでの「会えない」は二番Aメロでの具体的な事態を引き受けて、さらに抽象的な話へと持っていっているつもりです。だって、実際会ってますしね、一番のAメロやサビとかで。

 

 

二番サビ(「いくつ交わした…そこに在るんだ」)。

 ここも一番サビからの繰り返しが多めです。

 一番サビとの対比をやっていて、一番サビでは自分側の話ばかりをしているんですが、ここでは相手側の話をしています。たとえば「いくつ交わした言葉の奥の本当のこと」という言葉は、一番では自分の中にあるものを、二番では相手(君)の中にあるものをそれぞれ指しています。

 一番サビの「手放したんだ」に対して、二番サビで「いまもそこに在るんだ」と唄っていることには意味があります。そのヒントはもうこれまでに書いています。

 

Cメロ(「言葉なら…そうだろう?」)

 こう、あるんですよね、感覚として。小さかった頃に比べるといまの自分は本当に数多くの言葉を知っていて、そのくせ内側に留まった感情を言葉にしようとすると上手くいかなくて、涙を流さずに泣いている人に語り掛ける言葉の一つも見つけられない。言葉ってどこまでも無力だよなあ、という、そういう詞です。

「「僕らは他人同士」」に鍵括弧がついているのは、これが君の言葉だからです。

 

ラスサビ(「いくつ交わした…逢えたんだ」)

「どうでもいいんだ」という詞で心情の変化、というかこれまでのサビの否定を演出しているつもりです。それと、なるべく普段遣いに近い言葉を持ってくるように意識しました。変に気取った表現を使うのは違うな、と思って。扉を開くべきか否かとか、自分の言葉を伝えるべきか否かとか、自分なりに色々と考えてみて、そうして辿りついた結論がこれでした。それ以外、特にありません。

「じゃあね、また明日」に鍵括弧がついていないのは、これが一人称側の台詞だからです。

 最後の二行はもちろん自分がこの曲で伝えたかったことを書いているわけですけれど、簡単に解られても癪なので、「明日も会える今日」という言葉で色んなことを隠しています。別にそんなに難しいことでもありませんけれど。それと、助詞を変えて繰り返すやつをやったりしています。こういう繰り返しの使い方も好きです。

 

 

 

 こんな感じでした。こんな感じでした、という文章を書いている僕と、上の話を書いている僕とではおよそ一週間のズレがあるのでアレなんですが。

 修飾技法の話とか文章構成の話とか色々と書きましたけれど、歌詞を書く上でこんなのは別に必要なくて、というか後からついてくるので、誰かに何かを伝えたいと思うのなら、是非とも自分の深層心理へダイブしてみてください。そこで見つけた言葉こそがなによりも正しくて、たったそれだけが必要なものだと僕は思うので。