とある数学の問題について

 

 

 ほとんど二日を費やしたくせに大した進捗もなくてあれなんですが、とりあえず一区切りついたのでブログに張り付けておきます。

 問題の出典は上のツイートです。

 最後の予想だけまだ示せていないので、多分もうしばらくは考えると思います。そんなに難しくないとは思うんですけど……、どうなんでしょう。

 

・pdf:Dropbox - シャッフル問題について.pdf

 

 

 

コード進行について色々1

 

 

 これらはあくまでも自分用のまとめであって、そのついでにブログへも貼っとくか程度のアレでしかないので、かなり適当なことを書いてます。誤りも多々あると思います。というか、なんでそうなるねん、と思いつつ書いてるところもいくつかあります。何かしら気づいた人は、よければTwitter(ID:@1TSU8)か何かで僕に教えてください。喜びます。

 

 

VIm – IV – I - V

 6415。最強。

 

VIm – IV – V - I

 6451。小室進行。

 

VIm -IV- V – [I – III/VII]

 上の派生。循環させるとベースラインが1→7→6で下降する。ボカロ、多いがち(偏見)。

 

・VIm7 – IVadd9 – Vsus4 - I

 『変わらないもの / 奥華子』のサビで使われてる進行。綺麗。

 

VIm – IIm – V - I

 『残酷な天使のテーゼ / 高橋洋子』のサビ。ツーファイブと強進行の鬼。

 

・VIm7 – II7 – IVadd9 – V

 『君の知らない物語 / supercell』の一番Aメロ「明かりもない道を」の部分。IImからIVへ飛ぶと違和感が半端ないけれど、II7からだとめちゃくちゃ自然に飛べる。V→bV→IVの下降構造が入っているせいか?

 

・VIm7 – VIm7 – IVadd9 – [I – IIm] – I/III – II/bV -Vsus4 – V

 IImではなくIIを使っている曲といえば、身近なものだと『サザンクロス / BUMP OF CHICKEN』のイントロがある。これは別にIImでもいいのかもしれないけれど、実際に置いてみると「IIだな~」ってなる。なんでだ?

 IIm→I/IIIとかいうコードが紛れている。IImのあとってVが来るもんだと思ってたけど、転回形にしたらIへも繋げられるのか。

 

・IIm7 - IIm7 – I/III - I/III – IVadd9 - IVadd9 – V - V

 『サザンクロス / BUMP OF CHICKEN』のBメロ。VのあとはIが来てサビへ入る。Bメロだからサビで盛り上げるために上昇形にしてるのだろうけど、綺麗だなあ、と思う。

 

・VIm7 – IIIm7 – IIm7 – V - I

 『粉雪 / レミオロメン』のサビ終わり。これは教わったやつ。IIm7はIVと構成音が三つ同じだから終始(IV – V - I)のところで代わりに使える。

 

・IIm7 – IIIm7 – IV – IVm - I

 終止でいえばこれも。『全力少年 / スキマスイッチ』の一番サビ。IV – V – Iの終止に比べると少し不安感が出る。

 

・I – I – V/I – V/I – IV/I – IV/I – IVm /I- IVm/I

 IVmといえば、身近な曲だと『firefly / BUMP OF CHICKEN』がある。これも似たような感じで、不安そうな雰囲気が曲中に出てる。

 

・IV△7 – IVm – Vsus4 - VIm

 偽終止。IV△7→IVmが楽しい。

 

・IIm7 – IIIm7 - IV – V – VIsus4 - VI

 『God knows… / 神前暁』のサビ終わり。綺麗な上昇進行。VIsus4、何? 

 

・IIm – VIm – [bVII - IV] – V

 『真っ赤な空を見ただろうか / BUMP OF CHICKEN』の一番5-8小節。一瞬で過ぎてしまうのだけれど、だからこそ聴いてると「あれ、何だいまの」ってなる。bVIIはIVmの代理らしいけれど、どうなんだろう。同主調からの借用と言われればそれはそう。

 

・bVI – bVII - I

 めっちゃ見る。下で何個か挙げる。

 

・IV – V – bVIdim - VIm – bVI – bVII - I

 『ピースサイン / 米津玄師』のサビ後半。ベースがずっと上がっていくので、まあ盛り上がる。bVIdimはIII7の構成音からIIIを払ったやつで、だから要するに王道進行にbVI - bVII – Iをくっつけた形。

 

・I – IIm7 – IIIm7 – IVadd9 – [V – bVI – bVII] - I

 Iから順に上昇して最後にIへ戻る馬鹿進行。『君の知らない物語 / supercell』のサビ後半。聴けば一瞬でわかる。まあ盛り上がる。

 

・I – [IV – V] – [bVI – bVII – V] – V - I

 『GO MY WAY!! / 神前暁』のイントロ。三回目のVで「3,2,1 GO!」の掛け声が入る。bVI – bVII – Iがテンプレかと思ってたら、Vへも行ける。

 

・[IV – V] – [IIIm7 – VI7] – IIm7 – [IV/V - IV/V – bVI – bVII] - I

 神前暁が使っているので、当然田中秀和も使っている。というわけで『Star!! / 田中秀和』のイントロの進行。最後のIで「そっと…」のAメロが始まる。前半は王道進行(VIm7じゃなくてVI7になってるのが気になるけど、bII→IIを作りたかったのかな)。後半は、最近のJ-POPに多いがち(知人談)なIV – IV/V – Iの終止と似たようなあれなのかなと思う。間にbVI – bVIIを噛ませることでベースが綺麗につながる。

 『GO MY WAY!!』のそれと使い方が何となく似てるんだよな。Aメロの直前でさりげなく入れてくるあたりとか。

 ついでに他の類似点を挙げておくと、『Star!!』9-12小節目は(多分)IV/Vのコードを使って短三度転調を上に繰り返していると思うんだけど、『HELLO!! / 神前暁』でも全く同じことをやっていたりする。しかもどっちもサビを頭に持ってくるパターンで、その頭サビ終わりにこの連続転調が始まる。似てる……。

 

・IV – V – IIIm – VI/bII – IIm – IIIm – #IVdim

 『フラジール / ぬゆり』の進行。前半が『Star!!』と同じ(VI終わりの王道進行)。後半はベースがbII→II→III→bVでめちゃくちゃ綺麗に上昇してる。知人曰く#IVdimはVImの代理にできるようで(VImに#IVを足すと#IVm7-5で、そこからIIIを引くと#IVdimになる)、だからベースにはIIm→IIIm→VImの動きがあるっぽい?

 

・I – Iaug – I6 – I7

 オーギュメントコード(aug)は多幸感が出るって解説を見たことがあるのだれけど、いや、言われてみりゃ確かに、と思った。これは『ラムネ色青春 / 田中秀和』のサビ1-4小節目の進行。構成音が半音で上がっていく。綺麗。

 

・I – I – Iaug – Iaug – IIm – V – bVII - I

 『運命ジレンマ / 田所あずさ』のサビ1-8小節の進行。聴けばわかるんだけど、盛り上がりがすごい、この部分。メロディラインがVを5回(「YES or NO 運命」)、bVI(「乗っかっちゃって転」)を5回、それぞれ同じようなリズムで踏んでから、5小節目のIImでVIのロングトーン(「ああ」)を一つだけ持ってきてて、そりゃ盛り上がるよなあ、って感じの作りになってる。半音移動するメロディ、マジで良い。最高。

 ここにもbVIIがいる。

 

・IIm – IIIm – bIV - V

 上に挙げた『運命ジレンマ / 田所あずさ』における進行の直後にある進行。bVIは「そんなはずはない」のところなんですけど、まあたしかに、言われてみればちょっと変な感じがする。普通ならVImを持ってくるのかな?

 

・[VIm – bVIdim] – [I/V – bVm7-5] – [IV - I] – [IV – IV/V]

 『ray / BUMP OF CHICKEN』のAメロ5-8小節目の進行。クリシェ。最後はIV – V – Iの終止でVの代わりにIV/Vを持ってくるやつ。

 

・[VIm – bVIdim] – [I/V – bVm7-5] – [IIm7 – IIIm7] – [IV – V7 – I - I]

 『ray / BUMP OF CHICKEN』のAメロ13-16小節目の進行。クリシェで落ちてから、今度はII→III→IV→Vの上昇を始める構造。IIm7はIVの代わりになるってやつ。前半と少し違う雰囲気を演出できるから、結構使い道はありそう。

 

・IIIm – IIIm – IV – IV - IIm – I/III – IV – III/bVI – IVadd9 – Vsus4

 『firefly / BUMP OF CHICKEN』のBメロの進行。『サザンクロス』にもあったIIm→I/IIIの進行からIVへ上昇。そこから大人しくVへ進めばいいのにIII/bVIへ進み、次にIVadd9。そしてVsus4。多分、尺を伸ばしたかったんだろうなと思う(実際、普通よりも二小節多い)。IVへ上昇して、何か二つ挟んでからVsus4へ進むとなって、III/bVI – IVadd9を持ってくるのは何なんだよ。

 IIIはノンダイアトニックだから意外性がある(実際、ここを聴いていると「おっ、始まったな」という気になる)し、構成音でVI→bVI→Vの下降構造があるからハマってるのかなあ、と思う。それとも他に理由があるのかな?(IIIはミディアントらしいけど、ミディアントの役割をいまひとつ解っていない)

 

 

 

いまここにいる

 

 だからつまり結局のところ、僕らの日常ってどこまでいっても椅子取りゲームなわけじゃないですか。誰もが報われるわけじゃないし、誰もが救われるわけじゃない。誰かが幸せな笑顔を浮かべているときに地球の裏側では、涙すら零れないほどの悲しみに暮れている誰かがもしかしたらいるかもしれない。大学入試に受かった人がいれば落ちた人もいて、ホームに身を投げ出した人がいればそれを誹る人もいて、生まれてくる誰かがいれば死んでいく誰かがいるわけです。当たり前なんですよね、そんなことは。呼吸と同じくらいに当たり前のことで、だから普段はあまり意識しないんですが、時々息が苦しくなって鼓動の残響を思い出すように、ふとした瞬間にそんな当たり前を思い起こして、酷く恐ろしく感じることがあります。

 

 思うことがあって、それはたとえば、何かしらの気まぐれで第二外国語としてドイツ語を選択していたらどうなってたんだろうか、みたいな。あるいは、分岐点なんてもっと他にもあったと思うんですよね。自分以外の誰かのものまで考え始めたらそれこそ無数のそれがあったはずで、そのうちの一つでも違えていたら、いまはいったいどんな風になっていたんだろう、とか。いま自分は平然とした顔であいつの隣に座っているけれど、いまあいつはそれが当然という風に自分の隣に座っているけれど、もしかしたら自分じゃない誰かがここにいたかもしれないんだよなあ、とか。もしもあいつの隣にいられなかったとしたのなら、自分の居場所はどこになっていたのだろう、とか。誰かと一緒にいるときにはあまり考えないんですが、一人きりで何となく過ごしている時間に、たとえば電車に乗っているときとか、そんなときにはこんな感じのことをよく考えます。椅子取りゲームなんですよね、だから。自分は誰かの居場所を奪った結果ここにいて、誰かに居場所を奪われた結果ここにいるんだろうな、ということです。

 

 当たり前じゃないんですよね、何も。当たり前のことなんて何一つもない。昨日の昼、近くの大きな交差点で交通マナーの啓蒙活動に励む方々を目にしました。どうなんでしょうね。自転車であの交差点を突っ切る人たちは彼らのことを、何だこいつら、邪魔だなあ、とか考えるんでしょうか。悲しくなってくるんですよね、そう考えただけで。実際にそんな風の言動をする人を見ただけで。あんなにも報われない仕事があるかと思います。ビラ配りの人にもコンビニの店員にも、同じようなことを考えます。きっと誰も感謝しないんですよね。誰からも相手にされない。自分の身に置き換えてみてくださいよ、それを。死にたくなってきませんか。だから、というわけでもないですけれど、会計のときなんかには相手へ礼を伝えるよう心がけたりしています。その苦労を誰かが肯定しなきゃいけない。自分じゃなくてもいいけれど、自分でもいい。昨日の昼、あの人たちにも一言でも声をかけられたらよかったのにな、とずっと考えています。今更遅えよ。

 

 躊躇う自分がいて、馬鹿にする自分がいて、諦めたがる自分がいて、恥ずかしがる自分がいて、考えていた言葉のほとんどは言えないままで意味を失くして、もうずっとそんなことの繰り返しです。自分で決めたことをすぐに後悔して、でも今更引き返せなくて、とりあえずいまは実家から突発的に帰ってきたことを少し悔やんでいます。実家、嫌なんですよね。諸事情あって、いまは特にいたくない時期です。それでも、一日くらい泊っていけばよかったかなあ、と帰りの電車からぼーっと外の空を眺めながら思いました。両親だって僕だって、明日には死ぬかもしれないのに、少しくらい話せることがあったんじゃないのか、みたいなことを考えていました。結局、来週、地元で何の予定もないのに実家へ帰ることに決めて、それで手打ちにしたのですが。

 

 なんていうんですかね。大学で仲良くしてくれている人たちだって、あと一年もしたら就職したり院進したりで現状とはすっかり変わってしまうわけで、だから、いまじゃないと話せないようなことがもっとたくさんあるんじゃないかな、という気持ちで最近を過ごしています。絶対に後悔することになると思うんですよ、自分が、このままだと。まあだからって、無理に誰かを巻き込んだりはしませんけど。

 

 

 

 

 目が覚めてからずっと、泣きたくて泣きたくて仕方がない。

 

 日常的に何か言葉を書いていて何よりも感じることといえば、言葉はどこまでも無力だということです。文字を書くという習慣が僕についたのは、このブログを立ち上げてからのことですが、本当のことを言えば、もっと以前からあったのだろうとは思います。僕は何度でも彼のことを話題に上げますけれど、僕と彼との関係を繋いでいたのはいつだって電子世界の文字でした。それ以外には何も、僕らの間には約束や取り決めさえなかった。なんてことのない日の夜。嫌なことがあった日の夜。嬉しいことがあった日の夜。気が向いたときに二人で集まって、飽きるまで話し合って、疲れたら眠って、たったそれだけの関係でした。いま僕がこのブログで行っていることといえば、結局のところ、その数年間にわたる彼とのやり取りの延長線上でしかなくて、要するにずっと会話をしているつもりなんです、僕は。自分自身と。あるいは、この文章をいま読んでくれている誰かと。会話なんていいつつも、行われているのはどうしようもなく一方的で独善的な行為ですけれど、別に会話の相手は僕じゃなくていいんです。これを読んでくれた人がその人自身とゆっくり話し合ってくれればいい。自分の内側を覗いてみてくれたらいい。そう思いながら書いています。どこまでも自分勝手な考え方で、本当に申し訳ないという思いはありますけれど、ごめんなさい。それでも、少しでいいから、自分のことを考えてあげてほしいんです。

 言葉は無力です。どこまでも無意味だと思います。何も伝えられない。だって何も伝わってないでしょう、多分。僕がここでどれほどの言葉を使って何かを主張したところで、たとえば真夜中の信号機を守ることの是非について雄弁に語ったところで、それを読んだ人の九割九分は何とも思わないでしょうし、何も考えないに違いないと思っています。別に何かを変えたいというわけではないんですけれど、なんというか、結局そうなんだよな、という気持ちになります。自分が手に抱えている感情がいくつもあるでしょう。好意、愛情、劣情、嫉妬、羨望。大きなものも小さなものも、温かいものも冷たいものも、たくさんあると思います。それは他の誰かから与えられたものだと思いますか。まあ、言葉の定義にもよりますけれど、それは自分で拾い上げたものでしかないと僕は思います。拾うきっかけをくれたのは他の誰かかもしれません。でも、拾ったのは自分です。だから、僕が何を語ってもそれは全くの無意味なんです。信号を守れ、という主張を聞いた人に、ああたしかに、そうした方がいいな、なんてことを思ってほしいわけじゃないんです、僕は。何をしてほしいか、ちゃんと伝わっていますか? 考えてみてほしいんです。少しでもいいから、自分自身と会話をしてみてほしい。自分と話をする機会なんてそうそうないでしょう。だって面倒ですから。だから、ここにある言葉のいくつかを鏡にして、自分のことを見てやってほしい。納得できないならそれでもいいし、こいつは馬鹿だと感じたならそれでもいい。自分の考え方は少し軽率かもしれないと思ったなら正すように意識すればいいし、遠い世界の話だと思ったら忘れてくれたって構わない。自分の姿を見てほしい。それだけなんです。だって、自分の手で拾い上げなきゃ何の意味もないから。

 以前にも何度か書いたような覚えがありますけれど、他人は自分を映す鏡だと思います。他人に向けた矢は必ず自分に返ってくるんですよね。僕はそう思います。あいつはここがダメだなあ、と感じた刃は自分の心にも突き刺さっているはずなんです。気が付かないだけで。あるいは目を背けているだけで。だから、自分のことをちゃんと見てやってほしいと思います。ここにある言葉はそのための鏡です。また意味の解らないことを言ってるよ、と思うならそのままで構いません。それもまた鏡が映した一つの事実だと思います。本当に何も解らないなら、それは何よりも自分のことが解っていないということだと、僕はそのように考えるので。

 

 言葉は無力です。こんなにも泣きたくて仕方がないのに、自分でさえ一体何が悲しいのかも解りません。長ったらしい文章でもいいから言語化することができたのなら、自分の胸のどこが痛んでいるのか、それが解るだろうに。何も言えない。何も解らない。

 文字を書くということは、あるいはもっと一般に作曲なんかもそうで、自分の考えを誰かに伝えようとするということは、自分自身の中、奥深くへと潜っていく行為だと僕は思います。だから、書き起こせば少しは何かが解るかもしれないかもしれないと期待しましたけれど、でも、なかなか上手くいきませんね。

 

 

 

誰だって、何だっていい。

 

 何度でも同じ話をします。

 

 困っている人がいたら手を差し伸べるべきなんだろうと思います。正しさとか優しさとか善やら偽善やら云々を考えるよりも前に、立ち止まって声をかけるべきなんだろうと思います。嘘だらけの社会に生きている僕らは、自分の心に嘘をつくことさえ無意識のうちにこなせる作りになっていて、そのせいで周りの誰からも気づいてもらえなくて、自分でも気づけなくて、もうたった一歩も歩けそうにないのにそれでも声を出せなくて、心臓に爪を立てること以外に何もできなくなって、だから、そうやって塞ぎ込んでいる人がやっとの思いで零した涙を視界の隅にでも見つけられたのなら、すぐにでも駆け寄って手を差し伸べるべきなんだろうと思います。きっとそれくらいのことはできるはずです。

 

 駆け寄って、手を差し伸べて、じゃあそれから先は?

 

 安易な同調を与えればいいのか。ああ、分かるよ、辛いよな。大変だよな。何もかもやめたくなるよな。俺だって同じだ。自分のことが嫌で嫌で仕方がなくなる時がある。きっと誰も彼もそんなもんだよ。みんな、人に言えないような苦しみや悲しみを抱えながら、それでも必死に生きてるんだ。君だっていつかは一人で立ち上がることができるよ。だから、いまはゆっくりと休むといい。そうやって当たり障りのない言葉で傷を洗ってやればいいのか? そんなわけがない。そんなもの、きっと誰も求めていない。俺だって、そんなものは要らない。じゃあ何だ。何が答えなんだ? どうすればいい。考えろよ。考えろ。でも、いくら考えたって何もわからない。何も見つからない。これまでに一度だって誰かを助けたことなんてないんだ、分かるわけがないだろ。どの選択肢を選んだところで、絶対に失敗するとしか思えない。手を差し伸べる以上のことなんて何もできない。そもそもの話、たかが一学生にできることなんて何もない。莫大な資金があるわけでもないし、底抜けの優しさがあるわけでもない。他人の悲しみまでは、いくら何でも抱えていられない。自分は特別じゃない。何の力もない。何もできない。じゃあ何もしない? 見捨てるか? ああ、でも、それが他の何よりも正解に近いような気がするな。何かを選んで失敗するよりも、何も選ばずに失敗するほうがいいに決まっている。余計な責任なんて背負いたくない。だけど、それは他の何よりも正解にほど遠い選択肢だって、心の奥のもっと奥では解ってるはずなんだ。泣いている人を無視するなんてことが正しいはずがない。正しくあっていいはずがない。そんな正しさを認めちゃいけない。だから、じゃあ、どうしろっていうんだ。何もできないくせに誰かを助けたいなんて、それはあまりにも無責任だろう。それはお前が一番嫌いな無責任な希望じゃないのか。いや、解ってるんだって、だから、そんなことは。無責任なのは解ってる。でも、じゃあ、誰が彼を、彼女を助けるんだ? あの人はあんなにも泣いていたのに、全員が全員、それを他人事だと無視するなら、あの涙は、勇気は、いったい何のために生まれてきたんだ? 知らないよ、そんなの。答えを見つけられないなら考えるな。考えるのが嫌なら、ずっと目を閉じていろよ。何も見なきゃいい。涙だろうがナイフだろうが、自分に見えないのならそれはそもそも存在していないのと同義だ。泣いている人を見たくないのなら、そうやって目を閉じて生きていけばいい。その方が楽になるぜ。それくらい解ってるだろ。ああ、だから、違うんだ。そんな話をしたいわけじゃない。目を閉じて生きていくなんて不可能だ。涙を拭うことだって、もしかしたら同じくらいに不可能なのかもしれない。どっちも不可能なことなのだとしたら、より多くの人が幸福になれるほうを目指したほうがいい。それだけの話だ。それだけの話なんだ。

 

 何の接点もない、何年かフォローフォロワーの関係にあっただけの人が、それでも涙を零しているのを見ました。何かをしたいと思って、だけど何もできないと思って、結局、何もしませんでした。無責任な希望が何よりも残酷で、何よりもその人を傷つける。シャワーを浴びながら、そんなことを考えました。でも、こんなのは言い訳です。怖かっただけです、踏み込むことが、関わってしまうことが、無関係ではいられなくなることが。自分が関わったことで、何かが決定的に、取り返しのつかないくらいに変化してしまうことが怖かっただけです。ほとんど他人の自分にできることなんて何もない。言葉すら、きっと三つも掛けられない。そうと解っていても踏み込める人はきっとどこかにいるのでしょう。あるいは、何も考えずに踏み込んでしまう人も。そんな人たちはとても勇敢だと思います。でも、僕には無理です。ごめんなさい。

 高校時代に何度か会ったことのある人が結構なうつ病を患っているということも、ついさっき、同じようなタイミングで知りました。その傾向があることはTwitter上での本人の発言から、何となく察してはいました。でも、そこまで酷い状態になっているとは考えませんでした。これも言い訳で、考えようとしなかった、が正しいです。察していたどころか、本当は解っていたことなので。彼女のブログでは現状へ至るまでの経緯が少しだけ書かれていて、そのうちのいくつが事実なのかは僕には判断できませんが、読んでいるだけでも嫌になるようなことだらけでした。そのどれもが自分と知り合って以降のことで、それが何だか悔しくて、少しくらい自分にだって何かができたんじゃないかな、と考えながらこの記事を書き始めました。いや、でも、どうせ何もできないんですよ。僕がそこにいようがいまいが、結果は多分いまと何も変わらなくて、だからこんなのは全くの無意味で、だけど、どうせ意味のないことなら少しでも自分が正しいと思うものを選んだほうが、きっといい。これはただの自己満足です、ちゃんと解ってます。それでも、そう願ってしまうんですよね。大した勇気もないくせに。こんな文章を長々と書くくらいなら、その人にたった一言でもメッセージを送ればいいのに、それをしない。できないじゃなくて、しない。勇気がない。他人の世界に踏み込むのは、やっぱり怖い。誰にも理解されないことの冷たさを知っているのに、それなのに最後は他人よりも自分ばかりを優先する。そんな自分のことが嫌いです。いつまで経っても口ばかりで、何一つもしようとしない自分のことが本当に大嫌いです。

 

 解ってるんですよ。誰からも無視されるくらいなら、たとえ真っ赤な嘘でも救われたほうがいい。それが本当の希望でなくとも、他の誰から見ても安っぽく映る言葉でも、ないよりはあったほうが絶対に良い。根本的な解決なんて何もできなくても、それは涙から目を背けることの言い訳にはならない。解ってるんです。でも、それでも、怖い。怖いんです。

 

 音楽でも芸術でも宗教でもなんでもいいから、彼らを救ってあげてほしい。自分にはできないことだから、代わりの誰かが、何かがその役目を果たしてほしい。

 何だっていい。本当に、何だっていいからさ。涙を拭うだけのことなんて、そんなに難しいことじゃないだろ。なあ。

 

 

 

死にたいと願うから、いまも生きている。

 

 感情の針って結構振れ幅が大きくて、一分前まではポジティブだったのに突然ネガティブになったり、その逆も当然あったりするわけですけれど、何となく思うことがあってそれは、その状態がきっと何よりも正常なんだよなってことです。正常というか、本来あるべき形というか、少なくとも自分にとってはという話ですけれど、自分の内側からありとあらゆるネガティブを綺麗に取っ払ってしまえたとして、そこに残っているのは多分セミの抜け殻みたいな、あるいは哲学的ゾンビみたいな、中身が何もないがらんどうなんじゃないかと思うんですよね。光があるから影があるのは当たり前であって、逆も然りであって、つまりそれらはどうしても対になっている感情であって、片一方だけを消してしまうことにはほとんど何の意味もないように思えます。そもそも、そんなことが可能だとも思いませんが。

 

 お金がなくて心底困っているという人に向かって、お金がなくても楽しめることはいくらだってあるよ、なんて励ましの声を掛ける人はいないでしょう。楽しめるとか楽しめないとか、その人が求めている答えはそんなところにはなくて、だから要するにまるっきり的外れで、それに気づけない人間は救いようのない馬鹿だと思いますけれど、まあそんな人は多分いません。でも、これが他のフィールドになると結構目にするんですよね。「前だけ向いて生きていればいいことあるよ」とか「悲しみに浸ってても仕方ないじゃん。いまだけを見ろよ」とか「考え方を変えたらこんなにも生きやすくなるよ」とか、そういった文言はディスプレイの向こう側で常套句のように使いまわされ、書店へ行けば本棚一つを優に埋め尽くすほどに溢れかえっていて、Twitter上でさえも判を押したように何千何万とリツイートされて、この世界のほとんど至る所で飽和しきっているように思えます。まあ、分かりやすい希望ですよね。そりゃ未来には良いことの何か一つくらいは転がっているでしょう。だからって、それがいったい何の救いになるんだろう、と思うんですよね。それはあまりにも無責任な希望で、それなのにそれが広く受け入れられている現状を、何だかなあ、という気持ちで眺めることがあります。飢えてるんですよね、世界が、希望に。

 

「前だけを向いて生きろ」という言葉を目にするたびに、ああ、思わず後ろを振り返ってしまいたくなるほどに大切な痛みを、この人は一つも持っていないんだな、と思います。可哀想だ、とも思います。思うだけで言いませんけれど、ほとんど無意識にそう思ってしまいます。自分を責めるような痛みがどこにもないのなら、生き続ける意味って何なんでしょう。楽しい事だけを享受して、悲しいことは遠ざけて、そうやってだらだらと死へ向かって歩くことが、つまり生きるということなんですか。いいですね、そういう享楽的な人生って。憧れます。無理だと思うんですよね、そんな生き方。ああいう無責任な希望に飛びついてしまうような人も、心のどこかでは解っていることだとは思いますけれど。死へと歩き続ける僕らはどうしようもなく踵をすり減らしていて、たまには立ち止まって新しい靴に履き替えて、そしてまたすぐせっつかれたように歩き始める。ずっとそれの繰り返しだと思うんです。それを彼らは「前だけ見てれば踵がすり減ってることになんて気がつかないよ」とか「踵がすり減らない靴を履けばいいじゃん」とか、そういったどうしようもないことを言っているわけで、だからまったくの的外れだなあと思います。誰もがそんな風に生きていけるのなら、この世界に宗教なんてものは生まれなかったでしょう。

 

 痛いなら痛いままでいいと思う。悲しいなら悲しいままでいい。いっそ死にたいと願うことだって何度あってもいい。そのままでいいから、起き上がれそうになったらまた顔を上げてくれればいい。実際、自分自身がその立場にいるときにはそんな風に考えることなんて出来やしなくて、なんでこんなに痛むんだろう、なんでこんなに悲しいんだろう、いっそ死んでしまえたらいいのに、と大なり小なり本気で考えるわけですけれど、いまはそうじゃないから、だから、これはいずれまたネガティブの底に落ちる自分に宛てたメッセージです。ついでに、自分と同じような人へも。

 

 過去を忘れることに意味なんてないと思う。未来ばかりを眺めることにも意味はないと思う。治らない傷がどこかにあってそれが痛むのなら、気が済むまで膝を抱えて泣きじゃくればいいと思う。狭い部屋の中が大洪水になるくらいに、大声で泣き続ければいいと思う。そうしたら、少しくらいは晴れやかな気持ちで扉に向き合うことができると思う。扉を叩いてくれる人はいつまでもやって来ないけれど、その代わりに精一杯溜めた涙の水圧が、扉を開こうとする自分の両手に力をくれるのだと思う。部屋の外には色んなものがある。嘘みたいな青空があって、綿菓子みたいな雲があって、平等に残酷な太陽があって、肌を刺すような冷たさがあって、寄り添うような温もりがあって、ビー玉みたいなドキドキがあって、真夜中みたいな臆病があって、時々は雨も降って、お気に入りの傘を差して、雨が止んだら傘を畳んで、どんな言葉を尽くしても表現しきれないこの世界は、きっとそれくらいの仕掛けでしか回っていない。僕らを乗せて廻る世界はあまりにも強くて、あまりにも頑丈で、あまりにも綺麗で、どうしても心が疲れてしまうから、時々は自分の部屋に閉じこもって、気が済むまで自分だけの世界を作って、それにも飽きたら、空の突き抜けるような青にまた心を打たれたらいい。いつもは嫌なはずの雨空だって、もしかしたら笑うことができるかもしれない。僕らもまた、きっとそれくらいの仕掛けでしか回っていない。

 

 

 

今週読んだ本についての話5

 

 まあ主に試験期間のせいなんですけれど、ここ最近あまり本を読めていなかったという自覚があって、自覚というか現に読んでいなくて、それでも少しずつは読んでいたのですがほとんど皆無と言ってもいいくらいで、そういうわけでこの記事を書くのも何だか随分久しぶりのことのように思います。今日からはまた一週間ごとに何かを読んでいこうとは思っています。以上、言い訳です。

 早く読むことが正しいとは全く思っていなくて、沢山の数を読むことも、あるいは同じ本を繰り返し読むことも、それと同じくらいに正しいことだとは考えていません。これはそもそも何を以て正しさを定義するかという話なんですが、正当性なんてものはきっと結果からしか生まれなくて、要するに嘘で、ハウツー本なんてものはその典型例なんじゃないかと思いますけれど、逆に言えば、結局のところやってみないと何も解らないということでもあって、そんなのは誰もが縦に頷く全く当たり前のことではあるわけですけれど、だからってそれを実践できる人間はそうそういなくて、正しさを語る権利があるのはそういった人たちだけなんだろうなと思います。少なくとも自分にその資格はありません。

 

 

 今週は『サクラダリセット5 片手の楽園 / 河野裕』、『サクラダリセット6 少年と少女と、 / 河野裕』、『サクラダリセット7 少年と少女と正しさを巡る物語 / 河野裕』の三冊を読みました。

 それと試験期間中のどこかのタイミングで『サクラダリセット4 さよならがまだ喉につかえていた / 河野裕』も読んでいました。

www.kadokawa.co.jp

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 サクラダリセットは全七巻なので、これで一先ず終了です。あまりにも限定されすぎた範囲から好きなものを挙げるという行為は、見方によっては差別と同義だと考えるのでなるべくしたくないのですが、あえて選ぶなら、自分は二巻と、それに六巻が好きでした。六巻は特にそうで、言葉にすると嘘っぽいので何も言いませんけれど、こんなに心を殴られるのは久しぶりの感覚だなあ、と思いながら読み進めていました。泣き出したくなるような、でも何も哀しくなんかない、純粋な感動だった気がします。やっぱり嘘っぽいですね。言葉なんてその程度です。

 四月二六日には階段島シリーズの完結版が出版されるとのことなので、とりあえずはそれを待つことになるのかなと思います。一巻と二巻は、特に一巻は結構な頻度で読み返しているんですが、三巻以降は二回くらいしか読んでいないので、まあストーリーを忘れていて、いや覚えてますけど、できることなら折角の最終巻を最高の状態で楽しみたいので、きっとどこかのタイミングで読み返すことになるんだろうなと思います。春休み中でしょうね、多分。そんな余裕あるかなあ。なくても作りますけど。

 

 

 自分が正しさという概念について自分なりに考えてみたのは、記憶する限りにおいては『終物語(上) / 西尾維新』を読んだときが最初でした(以前、ブログに書いた気がする)。では、それまでは一度も考えてこなかったのかといえばそんなわけもなくて、ずっと自分の中にあった不満とか疑念とか、そんな何かと初めて真正面から向き合ったのがそのときだった、という話です。

 僕はどこか高校生より前の自分とそれ以降の自分とを分けて考える癖があって、連続したものだとは解っていつつも意識的にそうすることがあって、それは高校生という肩書を持っていたあの三年間こそが自分の中の色んなものを定義しているのだという思いがあるからで、まあ実際のところ、それ以前の十何年のほうが自分を形成していることは疑いようもない事実なのですけれど、その全部がちゃんと綺麗に縁取られたのはきっとあの三年間で、だから僕はその期間だけをどうしようもなく特別視してしまいます。

 自分とそれ以外とがあって、誰かには見えるものがあって、誰かには見えないものがあって、自分にも見えるものがあって、自分にも見えないものがあって、そんなことは小学校の道徳の時間にでも習うような当たり前の事で、そんな当たり前に気がつくのに僕は二十年近くを費やしてしまったわけですけれど、だから、無駄ではなかったなと思うことがあります。嬉しかったことも悲しかったことも、楽しい思い出も嫌な記憶も、何もかもを背負ったままでここまで来て、そして彼と出会えて、その先のいまがあって、やっぱり無駄じゃなかったなと思います。

 誰にだって自分なりの正義があって、僕にだって僕なりの正義があって、色んな感情と、記憶と、事実と、嘘と、解釈と、自己憐憫と、軽蔑と、憧れとを全部まとめてミキサーにかけたような、ぐちゃぐちゃで混ざり合っているようで何も混じっていない、自分自身それが何色なのか全く解らないような、でもそれを通して空を見上げてみると案外悪くなかったりもする、どうしようもなくすべての光を捻じ曲げてしまうから、使いようによっては拭いきれないバイアスにもなる、だけど正しく使えばきっと何よりも美しくクリスタルみたいに煌めく、それほどに綺麗な何かがどこかに、胸の奥でも頭の中でも手の内でも瞼の裏でも、どこかにあるわけです。それを語る資格はなくとも、持ち合わせることなら誰にだって許されていると思います。

 誰にだって、綺麗なものが一つくらいあればいい。

 心の底からそう思います。本当に。