携帯端末

 

 たった数ミリしかない薄い氷の、その上をずっと歩いているのだという事実にはっとさせられる瞬間がある。赤の循環が始まったあの日から今日に至るまで、僕は幾度となくそれを踏み抜いて、その度に冷たい世界に曝されて、寒さに震えながらいつかの自分を呪って、それでも立ち止まることなんて出来なくて、次は失敗しないようにと仕方なく歩き始めて、そんなことを繰り返している。どうやら僕の頭はそれほど良くないらしく、つまり僕自身は相当に救いようのない人間で、愚鈍な僕は歩き続けているうちに水の冷たさをすっかりと忘れてしまう。そして、また同じように氷を踏み抜いて、自分の歩いていた場所が如何に脆いかということを再び思い出すのだった。

 午前二時の公園まで歩いてみた。そこに誰かが座っていればいいと思った。でも誰もいなかった。ベンチの傍の樹の幹に描かれた影模様が、少しだけ人の形に見えた。それ以外は何もなかった。滑り台も、ブランコも、ただそこにあるだけで、それだけでしかなかった。人の気配がない真夜中の公園は、真冬の水なんかよりもずっと冷たくて、ひどく寂しかった。こんな夜遅くに誰もいるはずなんてない。当たり前だ。そう思いはしたけれど、それでも歩いた。其処に誰かがいてほしかった。それだけでよかったんだ。

 携帯端末というのは便利なもので、たとえ道に迷っていたとしても一瞬のうちに正解を教えてくれる。誰かに会いたければ電話をかければいい。話がしたいだけならメッセージアプリでもSNSでも適当に起動すればいい。一人で退屈を潰すためのアプリだっていくらでもある。分からない問題でも数分調べれば大体の答えが分かる。現代を生きている人間のほとんどがコイツに頼り切っている。そんな僕らはきっとコイツだけに生かされていて、だからこれまでよりもずっと死んでいる。

 あの日の僕のポケットにだって、当然アイツはいた。文明を司っている奴は、僕が泣きながら助けを乞う瞬間を、両の眼をギラギラとさせながらいまかいまかと待っているに違いなかった。だから、絶対に頼りたくはなかった。でも、だけど、僕は弱かった。無人の公園の温度が触れた瞬間に、自分の無力さをこれでもかというほどに痛感した。何も知らない。何も出来ない。何も分からない。最も確実な手段を棄てて自分から探しに出かけたのは、つまりそういう驕りが心のどこかにあったからで、それなのに、結局僕は其処で立ち尽くす以外に何も為す術がなかった。まあそんなもんだよな、なんて言葉を呟いた。

 ポケットの中にはアイツがいる。歩き出した瞬間からずっと右手で握っていたそれを、ゆっくりと取り出して起動させる。真冬の空気の中で、ソイツは温かくも何ともない無機的な光を恩着せがましく放っていた。たったの十文字。それだけで答えが分かる。それだけでコイツは答えを教えてくれる。何もかもを正しい方向へと導いてくれる。それが堪らなく嫌で、情けなくて、だけど無力な僕はそうするしかなかった。

 数分もしないうちに望んでいた回答が映し出された。真っ白な液晶に浮かんだ黒の文字列を目で追った。読み終えて、そして笑った。最初から最後まで一部始終、何もかもがどうしようもないほどにすれ違っていた。そんなことまでも教えてくれる、携帯端末ってやつは便利で、有用で、簡便で、途轍もなく不愉快だ。

 きっと今もすれ違ったままで、だけど、僕は夜の公園から出られないままでいる。

 

 

 

私たちは同じ空を見ているわけじゃない

 

「生き急いでいる、と言われたことなら何度もありますね」

 そう言ってから彼女は、ちょうどいま買ったばかりのジュースを口元に近づけて、そのままぐいと大きく傾けた。結構な速さで消費されてゆく薄緑色の液体をペットボトルの容器越しに観察していると、不意に彼女の身体がくるりと回った。そうして僕は彼女の背をしばらく眺めることになったわけなのだけれど、彼女の服装といえばその大部分が固定されてしまっていて、何だか新鮮味がない。黒のキャップをいつも被っていて、ちょうどいいサイズの黒のトレーナーを着ていて、そこら辺の店で売られていそうなジーンズにバーゲンセールで安売りされていそうなスニーカーを履いていて、女性用にしては少し大きめのカバンを右肩に引っ掛けている。年相応のお洒落よりも実用性をこそ重視するというのが彼女のポリシーのようで、たとえばそれが彼女、神海隣空無という人間が持っている側面の一つだった。

「そんなにジロジロと見られたら、流石の私でもちょっと恥ずかしいです」

 彼女はすっかり空になった容器を、自動販売機の横に設置されている青いゴミ箱にぽいと棄てた。その中身は昨日にでも回収されたばかりなのか、彼女の手を離れたペットボトルはからんと乾いた音を鳴らして落ちた。

「生き急いでいるなんて、そんなつもりはこれっぽっちもないんですけれどね」

 どうやら周りのみんなにはそう見えているようで、と彼女は小さく笑う。

 実際のところ、僕の目からでも彼女はいつだって何かを急いでいるように見えていた。

 いや。

 何かを急いでいるというよりは。

 何かに急かされているという風に。

「たまに不思議に思うんです。みんなはどうしてそんなにゆっくりとしていられるんだろう。どうして走り出さずにいられるんだろう。そんなことをふと考えるのです」

 青空を背にした彼女の表情は、いつになく真剣で、それでも遠くて、だからうまく感情が読み取れない。それはこの瞬間だけのことではなくて、自分自身を隠してしまうことが彼女はきっと誰よりも得意だった。彼女以外の誰も、もちろん僕だって、彼女の奥底にじっと沈んでいる誰かの顔をまるで知らない。

「私からすれば、私のことを指さして生き急いでいると言う彼らの方がよっぽど生き急いでいますよ。私たちに与えられた時間はどうしようもなく有限のものなのに、代わり映えのない日常の連続に埋もれて過ごすことは、果たして生きていることになるのでしょうか? それは迫りくる死を無抵抗に受け入れることでは? 避けようのないデッドエンドがやがて訪れるというのなら、だから、限りある今を最大限有効に活用することがつまり生きるということなんじゃないかなと、私はそう信じているのですよ」

 彼女は左手を空に翳しながら言った。微かに細めたその両目で、彼女は今いったいどんな世界を見ているのだろう。

 その世界に僕の姿はあるのだろうか。

 彼女以外の影はあるのだろうか。

 そんなことを考えた。

 あるいは、と彼女は続ける。

「彼らの言うことの方が正しいのかもしれません。空っぽでなにも無い。私はそういうつまらない人間で、きっと自分以外の何かを吸収していないと生きていけない。私にとってそれは食生活と同じくらいに必要不可欠な行為で、それ以上に大切なことで、だけど、その貪欲さが生き急いでいるということなのかもしれませんね」

 その言葉に僕は頷けない。

 何も言えない。

「私は私なりにこれでも頑張って生きているつもりなのですけれど。どちらがより正しいのでしょうね」

 彼女の呟いた言葉は、突き抜けるような青空に吸い込まれ消えてゆく。彼女を真似て、僕もまた右側の手を高く伸ばしてみた。そうすれば、彼女に寄り添うための言葉が掴めるんじゃないかと思った。

 でも、何にも触れなかった。何も見えなかった。

 そんなのは最初から分かりきっていたことだ。

 僕と彼女は決して分かり合えない。生きている世界が違う。

 僕は手を下ろした。

 やっぱり、僕は何も言えなかった。

 僕らの隙を埋めるように、彼女は言った。

「私たちは同じ空を見ているわけじゃないんです。一つの空を見ているとしても、喜ぶ人がいれば悲しむ人もいて、もしかしたら怒る人もいて、何とも思わない人だって勿論いる。たかが一色だけのそれを、それでも私たちは様々に捉えようとする。私はそれだけが知りたい。だって、こんなにも色に溢れた世界を、こんなにも感情に溢れた世界を、私というたった一人の意識でしか認識できないだなんて、何だかとても悔しいから。それがたとえ死を急ぐことだったとしても、そんなことはどうだっていいんです。だから――だから、いつか貴方の話も聞かせてください」

 

 

 

 

イツハの冒険

 

・前日談

kazuha1221.hatenablog.com

ところで、前日談という言葉は元々あった後日談に対応して作られた造語だという話を聞いたことがある。本当なのかどうかは全く知らないのだけれど、もしそれが事実なら不思議なことだなあと思う。というのも、プロローグというやつはエピローグと同等以上に大切なものじゃないかと僕は思うからだ。まあ恐らくは他にそれを指す言葉があったというだけの話なのだろうから、この指摘は全くの的外れに違いないのだけれど。

上のリンク先で「高校生の頃~」から始まる段落に書いた話が今回の前日談にあたる。前日談というよりは、伏線というか、あるいは因果律のような何かだ。ざっと要約すると、高二のある日、僕は道に迷った。そして山奥の駅に辿りついた。たったそれだけ。たったそれだけのことで、でもたったそれだけじゃないことらしかった。

ちなみに、これが当時のツイート。

馬鹿がよ。

今日、ふと思い立って四年前の自分がやったことをなぞりたくなった僕は、しかし自転車は京都の下宿に置いてあるので、徒歩でそれを実行することにしたのだった。目的地も其処までの経路も、あえて調べずに行くことにした。いま思えば馬鹿だと思う。馬鹿は死ななきゃ治らない。

写真をいくつか撮ったので、説明を添えつつ時系列順に貼っていく。今回の記事はそのためだけのものなので、いつもみたく気取った文章は書かないつもり。

 

 

・初めから終わりまで

14時50分頃、家を出た。出たはいいものの何処へ行けばいいかが全く分からない。僕の目指すべき場所は一体どこなんだ? 強いて言うとしたら、記憶の中のそれは南東に建っているという情報たったそれだけが手元にある。そこから考えるしかない。数秒ほどそうしていると、四年前の自分はたしか母校である中学校の東側を通って行ったような気がしてきた。だから、とりあえずは中学校を目指すことにした。

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中学校を出てすぐ東に見える風景。田舎。

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そのときの空。太陽がちょうど雲に隠れていて綺麗だった。

 

中学からさらに南へ歩くと、こんな景色に出くわす。

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山の斜面に並んだ家屋がめちゃくちゃ良いんだよね。実はこのすぐ右側には古墳がある。そのときの空がこれ。

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めっちゃ綺麗。

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せっかくなので古墳に立ち寄ってみた。埴輪みたいな土器みたいな何かが写っているけれど、これがずらっと並べられている。

 

古墳を出てさらに南へ進んでいった。しかし、途中で平坦な道に飽きてしまって山の方へと爪先の向きを変えた。しばらく登っていると、めちゃくちゃ綺麗な空に遭遇した。

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ヤバくね?

 

まだまだ登る。後になってこの上昇は全くの無意味だったことが判明するのだけれど、このときの僕はそれを知らず、とりあえず上に行けばええやろという安直な思考に基づきただ上を目指した。馬鹿と煙は何とやらというやつに違いなかった。もちろん僕は煙じゃない。

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途中でいくつか見かけたので写真を撮った。どうやら史跡の道という名前がついているらしい。

 

かなり登った。これ以上上へ行くと民家が消失し、流石にやべえなと今更のように思い至った僕は、そこで再び南へと歩を進めることにした。そのとき西側に見えた空。

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稲荷大社へ行った時もそうだったけれど、高所からは地上を照らす太陽光がはっきりと見て取れる。

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これは南へ進む途中で出くわした風景。やばい。語彙を失った。ヤバくないか、これ? 「上り坂」、「下り坂」、「フェンス」、「青空」、「雲」、「橙」、「電線」、「無人」。僕の好きな要素がこれでもかと詰まっている。本日最大のエモ。

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そこからさらにもう少し進んだところ。異世界にでも来てしまった気分だった。どこだよここ。本当に俺の地元か?

 

しかし、今日の目的は「いつかに出会った山奥の駅」へ辿りつくことだ。どこだよここと思いながらも、頑なに文明の利器には頼ろうとせず、ふらふらと歩き続けるとしばらくして分かれ道に直面した。その傍にはこんな看板が設置されていた。

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服部川駅」と書かれている。これが僕の探している駅なのかは定かでないけれど、しかし、たった一つでも駅に出られればあとは線路沿いに進めばいいだけだし、この案内に沿って次の進路を決めた。

 

登ったり下りたりしつつさらに南へ歩いて行くと、いよいよそれ以上は進めなくなってしまった。具体的には「山を登る」か「山を下りる」の二択、つまり東と西にしか道が伸びておらず、南へはどうやら行けそうにないという場所に出た。

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これは真南を向いて撮った写真だ。いや。マジで異世界への入り口かと思ったわ。やべえだろこれ。ここだけ空気が違う。東の方を見ると明らかに行き止まりっぽかった(電柱がなく道が細かった)ので、素直に下へ降りればよかったのだけれど、とりあえず中へ入ってみた。もしかしたら通り抜けられるかなと期待しての行動だったのだけれど、侵入するや否や現れた謎の中年男性に「この先は危ないから入れないよ」と、RPGでテンプレ的に用いられる忠告を受けた僕は、結局すごすごと立ち去るしかなかった。ちらと見ると「イノブタ注意!」と書かれた何かが貼りつけられていた。なるほど。それはたしかに危険だ。

 

位置エネルギーが下がっていくなあなんてことを考えながら、足を痛めつつ坂道を下っていくと、南へ進むことのできる道に出られた。そこを直進していくとまたも分かれ道があって、その片方の先にはこんな場所があった。

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これまた異世界感があってふと写真を撮ってしまったのだけれど、何だかこの風景には気味が悪いほどの既視感があった。帰りの電車で調べてみると、やっぱり四年前にも来ていたらしかった。

当時のツイート。その直後に、こいつはこんなことを吐かしている 。

馬鹿がよ。

 

もう片方の道は下りだった。それをずっと進んでゆくと、いよいよあいつが見えるポイントに差し掛かった。

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踏切だ。この瞬間の僕が如何ほどのテンションだったか、想像がつくだろうか。そりゃもうヤバかった。小さかった頃の自分はキラキラしたものが大好きで、そういうものを見つけるとよく拾って帰ったりしていたのだけれど、まさしくそんな感じの気持ちだった。飛び跳ねたよね。やべえ。

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テンション上がり過ぎて、近づいてからもう一枚撮った。こんなところに踏切があるの、意味不明過ぎて面白いんだよな。山奥だぜ?

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普段なら絶対にしないけれど、電車の気配が全くないので踏切の上から線路を写真に写してみた。これは北側に伸びた線路。

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で、これが南側。先の方に小さな橋が架かっているのが分かるかと思う。あの場所だけは家を出た瞬間にも、いやきっと四年前の日からずっと忘れないで覚えていた。四年前の自分は間違いなくここへ訪れた。真下を通り過ぎてゆく電車を、たしかにあの上から撮ったんだ。

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その橋まで歩いた。直線的には動けず少しだけ回り道をする必要があったけれど、何のことはなかった。あの場所にもう一度立ってみたいとしか考えていなかった。目的地へ近づくにつれて、茫洋とした記憶の海が縁どられていく感覚を覚えた。

 

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あの橋の向こうからその先へは進めないことを覚えていた。この先へ行くには線路沿いの細道を歩いていかなくてはならないのだ。

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着いたのは「信貴山口駅」だった。近鉄の路線だったのかと思った。四年前、たしかにここへやってきたけれど、でも僕の目的地はここじゃなかった。あの日の自分が対面したのはもっとちっぽけで古ぼけた駅だったはずだ。

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これはその駅で撮った料金案内が添えられた路線図。僕の最寄駅からたったの四百円足らずでここまで来られるのだという事実に、何だか笑ってしまった。当時高校生だった自分にとっては、地図もなしに徒歩でここまでやってきた自分にとっては、この駅は日常から途方もないほどに遠く離れた異質な空間なのだけれど、しかし、現実はどこまでも淡々としていて、どこまでもつまらなかった。

でも、悪いことだけでもなかった。この路線図で見るべき点はもう一つあって、それはこの駅からたった一駅だけ挟んだところに「河内山本駅」が記されていることだ。地元の人なら知っていることなのだけれど、河内山本駅はここ周辺の駅にしては規模が大きめなのだ。それはつまり多くの人が使うということで、要するにこの山をすっかり下りきったところに建っている駅ということなのだ。だから、この瞬間に、僕が目指すべき場所は一体どこなのかという冒頭の問に対する答えが与えられたということになる。僕の記憶に合致する目的地はたった一つしかない。それは「服部川駅」だ。

 

そうと知った僕は、来た道を戻り線路沿いに逆行していった。辺りは静かで、でも、あるとき、地響きにも似た轟音が周囲を埋め尽くした。

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飛行機だ。高地に立っているせいか、普段よりもかなり近くに感じた。その音が大きかったのは、山を覆った静寂のためだけではなかったらしい。

上の写真を撮った直後のことだった。

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服部川駅」があった。空は馬鹿の一つ覚えみたいに晴れていた。飛行機はまだ其処にいた。周囲の風景はなんだか記憶と違っていた。それは僕の記憶力の問題か、あるいは建て替えが進んだか、そのどちらかなのだけれど、しかし間違いなく前者なのだ。記憶というのは大体が自分にとって都合のいいように書き換えられていくからだ。

これが当時のツイート。四年前、偶然ここへやってきた自分は、四年も経った後になってここまでわざわざ歩いてやってくることになるとは思ってもいまい。どうしてこんなにもありふれた駅のことを、それでも僕はずっと覚えていたのだろう? 少し不思議だ。

これはどうでもいいことなのだけれど、ツイートを遡ってみた限りでは、四年前の自分は「服部川駅」→「信貴山口駅」という順で進んでいったらしい。彼がいったいどういう経路を辿って其処まで至ったのかは分からないけれど、多分、今日の自分みたく唐突に山へ登ったりはしなかったのだろう。四年前は自転車での挑戦だったのだし、冷静に考えてみればそれは至極当然のことに思える。自転車で山道を登ろうとする馬鹿はいない。

あと、帰りは流石に電車に乗った。足が疲れていたから。帰りの電車には、何故か僕の乗った車両にだけ誰もいなかった。いい気分だった。

 

 

・まとめ

以上が、今日の僕が過ごした午後だ。久しぶりにこういう時間の使い方をした。楽しかった。子どもじみた感想しか出てこないけれど、それもそのはずで、今日一日の僕は間違いなくただの子どもでしかなかった。二十歳にもなって、と思う自分は否定できないけれど、しかし、ニ十歳になった今にこそ、という気もする。前だけを向いて歩くのはどうしてもやっぱり疲れてしまうから、たまには後ろを振り返って、現在の自分へまで繋がっている何かを拾いなおしてみるのもいいと思う。それはきっと無駄なことなんかじゃないはずだ。

この記事の最後は彼の言葉で締めくくろうと思う。こんな記事をここまで読んでくれた人がもしいたのなら、ありがとうという気持ちでしかない。

では。

 

 

 

僕の話?

 

「僕のことなんてわざわざ取り立てて話さなくとも、先輩ならばよくご存知でしょう? いやいや、そんなご謙遜をなさらないでくださいよ。傷つくなあ。これはいつもの揶揄なんかではなく、本心からの言葉です。僕がいったいどういう存在で、どういう人間で、どういう後輩なのかは、他ならぬ先輩が誰よりも知っているはずです。熟知しているはずです――そうでしょう? 最早語り尽くしてしまいましたからねえ。だから、僕の身の上話なんて今更話すことではありません。それでも話してほしいと仰せになるのであれば、一後輩の僕としては何かしらを適当に話さざるを得なくなってしまうわけですけれど、しかし、可愛い後輩の頼みを聞いてくれるだけの良心が先輩に残っているのなら、僕はもっと別の、あるいはいつも通りの会話をしたいと提案させていただきます。こうして先輩と話すことのできる折角の機会を、僕みたいなつまらない人間の紹介だけで終わらせたくはありませんからね。そういうわけで、いつも通りに取りとめもない話をしましょう――先輩の話をしましょう。先輩は自尊心ってやつについて、何か思うところがありますか? ああ、自尊心という言葉から何も思いつかないのなら、こう言い換えましょうか――自分自身を周囲とは異なる特別な存在であると思い込む人間の心理に、何か思うところがありますか? その感情は程度の差こそあれども、誰しもが有するものだとは思いますけれど、しかし、いま述べた程度の差というやつこそが問題なのです。いますよねえ、過剰なまでに自分を特別視している人って。その向きは様々ですけれど、一例を挙げるのなら、さっき先輩とコンビニへ行ったときにいた中年男性の方が典型的ですかね。ああいう人です。何か思いませんでしたか? ええ、そうです、何とも思わないのが普通なのでしょうね。あの程度のことに頭を使っているような余裕は現代人にはありませんから――それは見慣れた光景で、自分には無関係で、だからどうでもいいのだと、そうして無意識のうちに切り捨てるのが普通でしょう。でも、本当にそれでいいのでしょうか? いえ、そんな一般的な返答がほしいわけではないのです。僕は先輩自身の答えが聞きたいのですよ――それでも同じ答え、ですか? いまの先輩はそれでもいいのでしょうけれど、かつての先輩ならきっと全く違った答えを返していたのではないでしょうかね。ああ、こんなのはただの憶測です。僕が先輩と出会ったのは、先輩が大学に入学してから二年経った時ですから、だから、僕はそれ以前の先輩がどうだったかなんてことはほとんど何も知りません。だから、当てずっぽうです。しかし、先輩と話をしているとよく思うのですよ。何かを隠しているような気がするなあ、と。どちらかと言えば、無理をしている、ですかね。大人ぶろうとしている、と言ってもいいです。思ってもいないようなことを、それでも自分は本当にそう思っているのだと信じ込もうとしてはいませんか? 声に出すことで、自ら引けない状況を作り出し、そうやって体裁の整った自己像を組み立ててはいませんか? そんな風に、先輩は自分を特別視するのではなく、むしろ自分は普通でなくてはならないと強く思い込んではいるのではないかと、僕はそんな気がしてならないのです。まあ適当なことを言っているだけなのですけれど、その反応を見るに図星って感じですかね。さっきだって、本当は間違っていると思っていたのではないですか? どうしようもなく間違っていて、なのにどうしようもないからといって、叫ぶ心を切り離したのではないですか? 誰も気にしないから、それが普通だからと、諦めたのではないですか? 悪いことだとは思いませんけれどね。たしかにそれも成長の一つではあるのでしょう。社会に馴染むためにはそういう能力も必要でしょうし、大人であることをそんな風にも定義できるのでしょう。しかし、それでいいのですか? 本当に? 悪いことではありませんけれど、正しいことでもないでしょう。間違っているのです。正しくないということは、先輩が最も嫌っていたものではありませんでしたか? 普通という概念を受け入れるために、あるいは周囲へ溶け込むために、それを強く拒む自分自身を殺して――そうまでしてようやく完成する自己がいわゆる大人というやつなのですか? それが果たして大人になるということなのですか? 本当にそう思っていますか? 思ってなんかいないでしょう。もし仮に本心からそう思っているのであれば、僕みたいなやつと友人になんてなりませんよ――僕みたいに、かつての先輩と同じことを言っているようなやつとは、話すどころか関わろうとすら思わないでしょう。しかしそうではないということは、つまり、先輩は未だ昔の自分を捨てきれていないというわけです。間違っていますか? まあ先輩がしたいようにすればいいと思いますけれど、僕から言わせてもらえるのであれば、特別な人間などどこにもいないのと同じように、普通の人間などという存在もまたどこにもいないのだと、先輩は知っておくべきです――もう知っているかもしれませんが、ならばいま一度思い出すべきです。先輩は普通でありたいと願っているようですけれど、しかし、そんなものはありませんしありえないのです。そもそも普通って何ですか? それこそ、先輩はかつて、普通という言葉を大層嫌っていたのではありませんでしたっけ? 駄目ですよ、そういう自分を蔑ろにしては。以前にも話しましたけれど、完璧な人間などいないのです。世の中に異を唱えるなんてガキっぽい? 正義の味方気取り? 社会のことを何も知らないお子様の言うこと? 言わせておけばいいじゃないですか、そんなことは。いったい何を気にしているのです? かつての先輩はそういう人間のことを一番嫌っていたはずですよ――間違いを間違いだと知ってなお受け入れる社会を憎んでいたはずでしょう。流石に大学を出てしまうと就職せざるを得ないわけで、いよいよ近づいてきた社会への扉を前にそういった気の迷いを起こすのも分からなくはないですけれどね――しかし、一度冷静になってみてください。拾い上げろとまでは言いませんけれど、完全に捨てきってしまうよりも前に、本当にそれでいいのかをちゃんと考えてみてください。もういい歳なんですから、そのくらいは一人でもできるでしょう? 僕がいなくとも、僕みたいなやつの助けは借りなくとも、自分自身のことくらいは自分の手で救ってやってくださいね」

 

 

 

完璧とは何か、ですか?

 

 

「頭脳明晰博学多識、天上天下唯我独尊、才色兼備の八方美人として校内で名の通っている先輩でも、そういったいかにも凡人が頭を悩ませていそうなことをお考えになるのですね――ああ、なるほど、よくあるあれですか? 世間知らずのお嬢様が何らかの手違いで庶民の生活に興味を持ち、付き添いの黒服執事にこの世の有象無象について尋ねるような――そういう感じのやつですかね? ということはつまり、僕は凡人代表というわけですか。なるほどなるほど。そうなると流石の僕でも俄かに緊張してきました。一人でカラオケに行くときの一段階下ぐらいの緊張です――なんて、冗談ですよ、冗談。そんなに悲しそうな顔をしないでください。いえいえ、馬鹿になんてしてませんよ? 本当ですって。やだなあ、僕みたいに従順で忠実で模範的な後輩のことを疑うんですか? 僕はきちんと先輩のことをお慕い申し上げておりますよ。後輩らしく、です。それで――何でしたっけ? そうそう、完璧についてでしたっけ。藪から棒にそんなことを訊かれてもという感じですけれど、しかし他ならぬ先輩からのお言葉ですからね――努めて模範的後輩を演じている僕としては、答えないわけにはいきませんか。誠心誠意答えさせていただきましょう。その前に、そもそもの話ですけれど、先輩はこの『完璧』という言葉をどういう文脈で話しておられるのでしょう? これを確認しないことには、話を始めようにもどうしようもありません。たとえば、美しい包丁という名詞句における『美しい』の意味とは、恐らく機能美的なことなのでしょうけれど、一方で、美しい人という名詞句における『美しい』が表すのは、十中八九、機能美のことではないでしょう――読みも書きも文法的な用法も全く同じ言葉といえども、文脈次第によってその意味合いは様々に変化するわけです――当たり前のことですけれどね。ならば、その前提を共有せずして意見を交換しようとするのはあまりにも不毛――というよりはただただ愚かなだけです。先日の行間の件ではありませんけれど、しかし、そういう根本的なところはきちんとしておかなくては、無駄な論争を繰り広げる羽目になりかねませんからね――互いが互いに異なる定義に基づいて物事を語るせいで、議論はまるで平行線のままで一向に進展しないなんて光景、そんなものはこの世にありふれているでしょう? いえ、その場合は議論ですらありませんけれどね。ただの口喧嘩です。そういうわけで、まずは先輩の話を聞かせてくださいよ。どういう経緯でその質問を僕にするに至ったのか――までは流石に話さなくていいですけれど、せめてどういった意図で僕に訊いているのかくらいは教えてください。……ふむ……はあ、なるほど? そういうことでしたか。そういう意味合いでしたか――ああ、別に構いません。先輩が話してくださった前提に不満があるわけではないのです。そうではなくてですね――いやはや、かように思慮深い先輩のことですから、それはもうきっと高度に哲学的で形而上学的な思考を経た上での発言でしょうし、僕なんかじゃ話し相手どころか暇つぶしの役目すら果たせないのだろうな、面目ないな、と気を揉んでいたのですけれど、いざ蓋を開いてみると思っていた以上に普通のことで、如何ほどかと期待していた僕としては肩透かしを食らったような気分ですよ。やれやれ。いったいどんな高論卓説が飛び出てくるかと思えば――って、冗談ですよ、冗談。そそくさと会話を切り上げようとしないでください。器の小さい先輩ですねえ、まったく。まあ、先輩想いの後輩なりにそれらしいフォローを一応挟んでおくと、それが先輩の良いところだと僕は思いますよ。変に衒学的でないところのことです――偏に衒学的でない人間と言っても、自覚を以て慎んでいる人間と、単純に馬鹿で何も考えていない人間との区別は明確にしておかなくてはならないところですけれど。それはさておき。人間に求められるべき完璧さとは何か、ですか。あえて言い換えるとするなら、完璧な人間とはなにか、ってことになるんですかね? ここまでに相当な時間を割いてしまっていますし、いまさら勿体ぶるのもあれなので結論から先に言ってしまいますけれど、不完全な人間であることを認められる人間――それが僕の想定する、完璧な、つまり完全な人間であることの必要十分条件です。数学において求められる完璧さとは既存の定理に何一つ矛盾しないことですが、しかし、人間にそれを求めるのは不合理でしょう。不合理であり、そして不可能です。僕らはコンピューターなんかでは決してないのですから、完璧なんてことはありえないのです。それでも完璧でありたいと願うのなら、完璧な人間など存在し得ないのだと、自分は決して完璧などにはなれないのだと――そうして自分の中にこびりついている自惚れを排斥していこうとする努力からまずは始めるべきでしょう。おや、何です? お前がそんなことを言うなんて意外だ、とでも言いたげな顔をしていますね。そういえば先輩は自分のことをクールキャラか何かだと勘違いしているような節がありますけれど、これは先輩の将来を慮って進言しておくのですけれど、先輩って表情にすぐ出るのでかなり分かりやすいですよ? いえ、本当ですって。そういうわけで、その厨二チックなキャラクターだけは大学卒業までに矯正しておいた方がいいと、僕からは申し上げておきましょう。身の程なんてまるで弁えずに、知ったような口ぶりで申し上げておきましょう。それで――何の話でしたっけ? 先輩が変な顔するから忘れちゃったじゃないですか、もう。えーっと、ああ、そう。僕は別に完璧主義者というわけではないのですよ――それこそ先輩は僕のことをそのように捉えているかもしれませんが、だとすればそれはただの買い被りです。あるいは、見る目がないと言ってもいい。僕はずっと完璧を追いかけてはいますけれど、しかし、完璧な存在でありたいなどと願ったことは、生まれてこの方一度としてないのですよ。ほんのこれっぽっちもありません。むしろ、言わせてもらえるのであれば、僕は完璧主義者というやつが嫌いですね――心底嫌いです。ああいう人たちは完璧という概念が自分の手の届く範囲にあると考えているのですよ。だからこそ、他人にも完璧であることを平気で強要するのでしょう。自分ができているのに、どうしてお前らは出来ないんだ、とこんな風なこと言う。お年寄りを見たら席を譲れだとか、歩道はなるべく広がらずに歩けだとか、そういった文句を、他人に向かって、あるいは壁に向かって、ごちゃごちゃと言う――ええ、たしかに、僕も似たようなものかもしれません。やっていることは彼らと似たり寄ったりですからね。しかしそれでも反論するとすれば、僕が完璧を求めているのはあくまでも世界に対してだけ、ということです。彼らのように、無責任に、一方的に、独善的に、自分と同じであることを他人に無理強いし、つまらない自己陶酔で刹那的な優越感に浸って満足しているような人間とは、間違っても一緒にしていただきたくないですね」

 

 

 

延命治療について話しましょう

 

 

「――ああっと、すみません。挨拶を忘れていました、おはようございます。朝起きて通学路を歩き学校まで向かうという世界一つまらないルーチンを前にして気分が沈んでいましたが、まさか先輩に会えるなんて――あまりの嬉しさに思わずいきなり話し始めてしまいました。失敬、僕としたことが――朝一番に扱う話題にしては些か突飛過ぎるって? いえ、そんなに大した話じゃないんですよ。まあ適当に聞いてください。適当に聞いて、聞き流してください。どんなことにも終わりがあるって話です。たとえば人間関係――いくら友人の少ない先輩にだってまさか経験がないわけじゃないでしょう? 高校の頃に付き合っていた友人たちとは、大学へ進学すると同時に、あるいは就職すると同時に、どうしても疎遠になってしまうわけで、それは仕方のないこととはいえ、疑いようもなく人間関係の終わりなのです。こういう表現を使うと、互いに嫌い合って、憎み合って、存在すら認めたくないと思うにまで至る、それこそ破滅的で壊滅的な終焉を思い浮かべる人ばかりですけれど、しかし、より現実的にはこういう穏やかな終わりがほとんどでしょう。穏やかというよりは、空虚、ですかね? 空虚で、そして寒々しい終わりです。実際には終わったわけではなくとも、しかし、事実上は終わっている――終わりきっていて、断ち切れている。人が真っ先に思い浮かべる終わり、憎み合った末の決別なんて、これを思えばまだマシな方じゃないですか? 再起不能なまでに崩壊した関係性ではあっても、決して空虚な関係性ではないでしょう。負の感情でつながっているわけですからね。しかし、現実はそうじゃない。大体の場合、人間関係というやつは突然消失する――まるで其処には最初から何もなかったかのように忽然と消えて、そして、本当に最初から何もなかったのだということを知らされる日が来る。空っぽだったと思う日がやってくる。それは避けられないんです。ずっと続くもの、いわゆる永遠みたいなものはこの世界のどこにも存在しない。古くからの言葉を使うのなら諸行無常ってやつですか――まあ、僕はこの言葉が嫌いなんですけれど、でも、きっと真理の一つではあるのでしょう。大人気の連載漫画だって、ベストセラーのシリーズものだって、突き詰めれば個々人の一生だって、いつかは必ず終わってしまうわけで、ずっと続いていくものなんて何もないんです。何も。そう考えると、何だか不思議に思えてきませんか? 終わりを先送りにし続ける意味っていったい何なのだろう、って。人は何かと永遠を願いがちですけれど、実際そんなものはないわけで、ありえないわけで、それなのに、そうと分かってなおも永遠を願う。実現させようとする。歪めようとする。先送りにして、先延ばしにして、架空の永遠を作り出す。その動機はいったい何なんでしょうか。いやいや、この問いに正確な答えなんて――誰しもが納得できるような解決なんて存在しないんですよ。そんなものは在るはずがないんです。だから、本当は問いですらない。ただの疑問であり、そして疑念です。疑っているんですよ。疑いなく訪れる終焉をどうしようもなく拒む自分自身を、僕は疑っている。つまり、理解できない感情を何とか理解しようと努力している最中なんですよ。それにしても、不肖僕一人だけでは些かハードルが高すぎるようでして――だから、訊いておきたいのですけれど、先輩はどう思いますか? いわゆる延命治療ってやつについて、先輩はいったいどうお考えですか?」

 

 

 

実家

 

 

 実家という空間が齎すエトセトラを、しかしながら、僕は何一つとして穏やかな気持ちで享受することが出来ない。気が立つというか、あるいは気が気でないというか、落ち着かないというか、そわそわするというか。だから、実家に帰ろうとは露ほども思わない。思わないし、思えないし、思いもしない。帰ったところで何かまたよからぬ感情を植え付けられるのが目に見えているからというのもあるし、より簡潔には居場所がないからというのもある。

 居場所がない。物理的な話じゃない。いや、物理的にも僕の居場所は実家には最早ないのだけれど、でも、これはそういうことじゃなく、もっと精神的な面での話だ。僕はこの感情を、つまり何だか家にいたくないと思ってしまう感情を、全人類に普遍のものだと思っているけれど、どうなのだろう。まあ言われてみればそう思うこともあるという人ならそれなりにいると思う。だが、僕の場合はそれが常だ。家にいたくない。自分の居場所がない。そんな気がしている。ずっと昔から。

 思えば、姉が家を出ていった頃から、具体的には僕が中学一年生くらいの頃から、実家というさほど広くない空間において僕が根城としていたのは自室だけだった。気を落ち着けていられるのが自室だけだったという意味だ。居間に自分の居場所はないと思っていた。これは精神的な話ではなく物理的な話だ。というのも、僕の実家はかなり散らかっている。腰を落ち着けられる場所なんて、そう多くはないのだ。だから、自室に籠るようになった。学校から帰ってくると自室へ直行し、漫画を読んだりして時間をつぶし、風呂の時間になれば風呂へ入り、晩御飯は部屋で食べ、寝る時間になったら自室の布団へ潜り込み、朝起きたら学校へ行く。そんな感じ。

 中学の頃はまだ居間に居座ることもあったような気がするけれど、高校に入ってからは完全にそれだけになった。そういうわけで、実家において僕の居場所と言えるのは凡そ自室だけであったのだ。

 それが受験生時代になると変わってきた。いや、僕が受験生になったということは全く関係がなくて、それはどうでもよくて、単に年月が経過したというのが重要だ。人は歳を取ると耳が遠くなるせいか、やたらと大きな声で会話をしようとするようになる。それがうちの親にも起こり始めたのだ。うるさい。騒がしい。僕の実家はマンションの一室であるので、ドア一枚隔てた向こう側が居間なのだ。そこで大声を出されるものだから、それはもう鬱陶しい。鬱陶しいと思うのが筋違いだと分かってはいてもそう思う。受験期にはCDプレイヤーにかなりお世話になったけれど、それはつまりそういう意味なのだ。煩わしい声を意識の外へ追いやりたかったのだ。

 だから、受験生の頃、特に浪人中には家を出たくて仕方がなかった。浪人時代に足しげく自習室や図書館へ通っていたのだって、別に僕が勉学に真剣だったというわけでは決してない。単純に家にいたくなかったのだ。平日だろうと休日だろうと、そんなことは関係なしに、あの家にいたいとは思えなくなった。受験が終わり、大学生活が始まってもなお、その感情は残留したままだった。というか、実家から大学まで片道約二時間もかかるということもあって、家を出たいという感情はますます大きくなっていった。

 そして、今年の三月、ついに僕は下宿を始めたわけだけれど、それはもう予想以上に快適過ぎたというのが本音だ。自炊やら洗濯やら、面倒なことは増えたけれど、しかし、一人で落ち着くことのできる時間が保証されているということ以上に大事なことなんてものは、少なくとも僕にとっては存在しなかった。

 こんなことを言うと親不孝だろうと思うけれど、でも、やっぱり実家へは帰りたくない。切実に帰りたくない。こんなことを書いている僕が、では現在どこにいるのかと訊かれれば、まあ実家にいるわけなのだけれど。実家の、以前は僕の部屋だった空き部屋の中にぽつんと置かれた椅子に座っているわけだけれど。しかし、下宿へ戻りたくて仕方がない。早くあの部屋のベッドに転がりたい。はんなり豆腐を抱きしめたい。何なら洗わずに放置しているペットボトルを洗うことですら進んでやりたい。そう思ってしまう。だって、ここには、つまり実家には、僕の居場所がないのだ。それは精神的にもそうであり、そしてついには物理的にもなくなった。僕の部屋が最早存在しないのだ、この家には。だから、帰ってきてもなお帰る場所がないという感じがする。ここは本当に僕の家なのか、と思う。そわそわする。ちぐはぐ。ふわふわ。

 十九年ほど住んだ家よりも、住み始めてまだ半年足らずの下宿の方にいたいと強く願っているという現状には、僕が他ならぬ自分自身の名前を忌み嫌っている現象とどこかしら似たような何かを感じる。微かに、だけれど。何だかんだと理由をつけはしたものの、やっぱり結局のところ、ただ単に僕は昔の自分という存在を否定したいだけなのかもしれない。そう思った。

 明日の昼には京都へ帰る。